限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第66回目)『毛沢東の策略 ― 文化大革命・大躍進・鄧小平』

2023-06-25 08:38:33 | 日記
『本当に残酷な中国史』は中国の歴史書『資治通鑑』のダイジェスト版ともいうべき私の処女作である。出版したのは2014年なので、早くも10年にもなろうとしているが、Amazonで見る限り、今だにコンスタントに売れ続けている。とりわけKindle版は unlimited に指定されているので、紙版より売れ行きがいいことが多い。

さて、その冒頭にも書いたが、私が資治通鑑を通読して痛切に感じたのが
「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
であるが、これは必ずしも私の資治通鑑に対するひいき目のせいではない、と言える。というのは、昨年『中国四千年の策略大全』を出版したが、これは明代の文人・馮夢龍が編纂した『智嚢』が種本であり、これを読むと中国人の策略は日本人には、到底真似どころか思いつきすらしない類のものが数多くあることに驚倒するだろう。最近、一般の人々の間でも有名となった将棋の藤井聡太・竜王・名人の繰り出す奇手、鬼手はとても並みいるプロ棋士でさえ想像もつかないが、まさにそのような類ともいえよう。

中国社会はしばしば混乱に陥るが、その都度、識者やジャーナリスト連が得たり賢しとばかり事件の経緯やその理由を懇切丁寧に解説してくれるが、多くの場合、私にはどうもピントはずれのような気がする。つまり、日本人の常識、あるいは近代西洋文明的な論理で中国を理解しようとして失敗している。これは何も日本だけにかぎらず、戦略的思考に長けたはずの欧米の辣腕国際ジャーナリストや外交官ですらそうだから、致し方ないのかもしれないが。。。

後知恵を承知で言えば、文化大革命などに関する当時の識者たちの見解はほとんどの場合、文化大革命を高く評価していた。曰く、「旧体制を破壊し、新たな中国を創造する非常に革新的な運動だ」と。ところが、いろいろな情報をまとめると、今ではすでに定説ともなっているように、文化大革命とは政権の主導者であった劉少奇に嫉妬した毛沢東の陰湿な劉少奇失脚作戦であったということだ。毛沢東には中国社会の改革など全く眼中になかった、といっていい。これに代表されるように、中国社会の変遷の本当の理由・原因は外部からは想像もつかないものであることが多い。

そもそも論でいえば、毛沢東が共産党革命を起こしたのは、何も虐げられ続けていた農民の逆境を救おうという純な人道的見地からではなく、なんとしてでも最高権力者になるという毛沢東のがりがり権力盲者のうすぎたない欲望であった、と考えるのが自然であろう。その時、彼が使える唯一の武器が農民であったのだ。人命など塵芥にも等しい中国において、共産主義は農民を味方につける「方便」にすぎなかった、というのが私の見立てである。それというのも、『狡兎死して走狗烹らる』の故事にあるように、共産党革命が成功してから共産党は農民を全く見捨てた。国民党を倒すまで、さんざん農民を利用しておきながら、いざ新政権が誕生すると、農民を強制的に農民戸籍に縛りつけ、都市戸籍と区別することで、農民を絶対に這い上がることのできない底辺層に押しこめただけでなく、農民の生活向上に力をいれなかった。その傍証となるのが、文化大革命中、習近平も味わされた「下放」という、都市の住民が農村に送られるシステムを、人々がどれほど嫌悪したかという一事からでも分かる。


文化大革命だけでなく、毛沢東が主導した大躍進政策に秘められた意図も、またすさまじい限りだ。一般には大躍進政策は毛沢東の経済的な失策と見られているが、私には大大成功の策略だと思える。というのは、語るだに身の毛がよだつ思いがするのだが、大躍進政策のために結果的に数多くの餓死者(一説には2000万人とも3600万人ともいう)が出たが、これはまさしく毛沢東の狙いどうりの結果だったはずだ。というのは、国民党との戦争に勝利し、平和な新中国になって、日本の同様、戦後のベビーブームによる人口増大に見合う食糧生産ができないことが明らかになった時、人減らしのためにいわば「禁じ手」を駆使したのだ。しかし、このことはなにも毛沢東独自の発想ではなく、長引いた戦争が終了した時にはしばしば見られる、至ってありふれた手段であり、以前のブログにも述べたように秀吉の朝鮮出兵といわば同じ発想だ。
 惑鴻醸危:(第28回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図』

「大躍進政策を意図的な殺人とはあまりにも穿った見方ではないか!」とのご意見もあろうが、一歩譲っても、大躍進政策の隠されたもう一つの意図には賛同せざるを得ないであろう。それは大躍進政策を現場で進めるにあたって、毛沢東の「鉄鋼生産に励め」との号令に従うか逆らうかあぶり出すための踏絵であるということだ。これも毛沢東独自の発案ではなく、中国伝来の策略の一つで、『韓非子』の《内儲説上》には次のような話がある。

韓の昭侯が爪を切り、切った爪が無くなったとわざと騒いで、臣下に床に落ちた爪を探させた。気の利いた臣下は自分の爪を切って、見つかりました、と差し出した。昭侯はこれによって、臣下の誠実さを測った。
(韓昭侯握爪而佯亡一爪、求之甚急、左右因割其爪而効之、昭侯以此察左右之誠不)

よく知られるように毛沢東は中国の歴史書を暗記する位によく読んでいる。資治通鑑は17回読んでいるし、浩瀚な二十四史も何度か読み返している。過去の古典的策略は全て頭に入っている。大躍進政策も韓の昭侯の策略と同工異曲で、数千万人の死の犠牲など歯牙にもかけず、だれが自分に忠実な部下で、だれが反抗的な部下かを見分ける踏絵であったわけだ。

このような毛沢東の悪辣な策略のせいで数千万人もの人命が失われたのは近代中国の悲劇だといえるが、唯一の救いは、自分の死後を託せる指導者として鄧小平を温存したことである。毛沢東はなぜか分からないが鄧小平にだけは敵視しなかった。そもそも鄧小平は劉少奇の一の子分である上に、フランス留学などの経験があり、国内派の毛沢東とはまったく毛色が合わない。その上、毛沢東は鄧小平の器が、自分より大きいと内心では兜をぬいでいたにも拘わらず嫉妬することがなかった、と私は推測する。諺に「英雄、英雄を知る」とあるが、鄧小平を生き残らせたことが、数多くの災厄で近代中国に与えた膨大なマイナスを一挙に帳消しにした、大博徒・毛沢東の輝ける一擲であったといえよう。
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智嚢聚銘:(第32回目)『中国四千年の策略大全(その 32)』

2023-06-18 06:07:08 | 日記
前回

漢字を使ったなぞかけの文章が続く。なぞかけを解くには意味的に理解しないといけない場合と、漢字の部品を組み合わせて意味を考えなければいけない場合、の2種類がある。ひらがなのような表音文字に馴染みがなかった伝統的な中国人は、いわばレゴのように、組み立て図形として漢字を認識していたように感じる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 695 / 丁謂】(私訳・原文)

広州の押衙、崔慶成が皇華駅に着いた時、夜に美人に出会ったがどうも鬼のようだった。謎のような文字を書いた書を投げてよこした。そこには「川中狗、百姓眼、馬撲児、御廚飯」と書いてあった。崔慶成はさっぱり意味が分からなかったので丁謂に聞くと次のように説明してくれた。「川中の犬とは蜀犬のことだ。百姓の眼とは民の目のことだ。馬撲児とは瓜子のことだ。御廚飯とは官食(役所のごはん)のことだ。合わせると『独眠孤館』(さみしい官舎で一人寝)という四文字となる」。

広州押衙崔慶成抵皇華駅、夜見美人、蓋鬼也。擲書云:「川中狗、百姓眼、馬撲児、御廚飯。」慶成不解、述於丁晋公、丁解云:「川中狗、蜀犬也;百姓眼、民目也;馬撲児、瓜子也;御廚飯、官食也。乃『独眠孤館』四字。」
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ここに登場する丁謂とは、北宋時代の大臣クラスの政治家である。流石に科挙合格者だけあって、文字に関する知識は豊富だ。会食の席で、首相で、丁謂の上司である寇準の機嫌取りに、スープを食べた時に寇準の髭についた汚れをわざわざ拭いてあげたが、却って寇準に叱られた。そこから「髭の塵を払う」という故事成句が生れた。満席の中、恥をかかされた丁謂はその後、陰険な策を弄して寇準を陥れた。


大宋宮詞・第12話】劉娥と寇準

次も同じく北宋代の話。蘇軾という名前は聞いたことがない人でも、中国料理の定番である、豚肉を煮込んだ東坡肉(とんぽーろう)は知っているであろう。これは、文人・蘇軾(字は東坡)が好んだと言われている。

蘇軾は若くして難関の科挙にトップクラスで合格した才能あふれる政治家であり、同時に文才あふれる文人でもあった。詩文だけでなく、書でも蘇軾は現在に至るまで愛好されている。

宋代といえば、かなり理知的な性格の時代精神が溢れているはずだが、中国古来の迷信が依然として人々の心を根深くとらえていた。蘇軾もその一人で、政争に敗れて配流され、最終的には流刑地で死亡するのだが、それを予見していた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 701 / 蘇黄遷謫】(私訳・原文)

蘇子瞻(蘇軾)が儋州に配流された。字(あざな)である「子瞻」の中の「儋」の字と「瞻」の字は似ている。蘇子由(蘇轍)が雷州に配流された。「雷」の字の下には「田」という字があるが、これは字(あざな)である「子由」の字と近い。黄魯直(黄庭堅)は宜州に配流された。「宜」の字は字(あざな)の「魯直」の「直」の字に似ている。これは、章惇が三人の配流をからかって言ったものだ。

当時、八卦見がいていうには「蘇子瞻(蘇軾)の場合、『儋』の字には人偏がついている、つまり人が立つということだ。蘇子瞻(蘇軾)は必ず北に帰るのではないか?蘇子由(蘇轍)の場合、『雷』の字には『雨』が『田』の上にある。これは天の恩沢を受けるということだ。蘇子由(蘇轍)は最終的には無事に済むのではないだろうか?黄魯直(黄庭堅)の場合、『宜』の字には「蓋棺」(棺桶を蓋(おお)う)という意味がある。黄魯直(黄庭堅)は、配流からは戻ることができずそこで死んでしまうのではないだろうか?」

後に、蘇子瞻(蘇軾)は都に呼びもどされたが、途中、毘陵に来て死んでしまった。蘇子由(蘇轍)は潁州で暮らしていたが、 10年すると都に呼び戻された。黄魯直(黄庭堅)はついに配流先の宜州で死んだ。

蘇子瞻謫儋州、以「儋」字与「瞻」相近也;子由謫雷州、以「雷」字下有「田」字也;黄魯直謫宜州、以「宜」字類「直」字也、此章子厚諧謔之意。当時有術士曰:「『儋』字従立人、子瞻其尚能北帰乎?『雷』字『雨』在『田』上、承天之沢也、子由其未艾乎?『宜』字有蓋棺之義、魯直其不返乎?」後子瞻帰、至毘陵而卒;子由老於潁、十余年乃終;魯直竟沒於宜。子犯
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このような迷信が士大夫の間でも信じられていたということだ。現代の中国でも依然として一般人だけでなく、共産党の幹部ですらこのような占い師を信じているとの報道がたまに流れる。真相は確かめるべくもないが、中国の伝統の慣性力の強さからすれば、さもありなん、という感じがする。

続く。。。
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【座右之銘・138】『quam quisque norit artem, in hac se exerceat』

2023-06-11 11:41:20 | 日記
日本では哲学というと最近ではヴィトゲンシュタインの名前が挙がることが多いが、伝統的にカント、ヘーゲルなどのドイツ観念論の大御所、あるいはフッサールやハイデッカーも含め、ドイツ系の名前が挙がる。それらに比べると、フランス人のサルトルやデンマーク人のキルケゴール、あるいはイタリア人のスピノザは矮小化されてしまう。

ところが、そのようなドイツ系のビッグ・ネームの哲学者たちも、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの前に出るとまだ見習いの学生のように見えてしまうほど、古代ギリシャの大哲学者たちの存在は燦然と輝いている。 2000数百年経った今なお古代ギリシャの哲学は哲学の中心を占めている。ましてや、古代ギリシャのすぐ後の時代のローマ・ヘレ二ムズ期においては、まばゆいばかりの輝きであったろうことは容易に想像できる。

ローマの哲学というのは、日本では皆目人気がない。「独創性がなく、ギリシャの真似ばかり」というのがたいていの哲学を専攻している日本人学者の評価だが、中にはそのような偏向に異を唱える学者もいる。明治大学名誉教授の角田幸彦氏は『ローマの博学者ウァロ(その1)』という40ページ弱の論文でギリシャ偏重の日本の学界を手厳しく批判している。
(論文: https://core.ac.uk/download/80514275.pdf

しかし、欧米に暮らした私の個人的な経験からすれば、日本の学術界のギリシャとローマ文明に対する認識はかなり偏向していると思える。現在のヨーロッパ文明(欧米)の根幹はローマに負っているのはわざわざ言うまでもないことだ。中世を支配したキリスト教にしても、原語のヘブライ語やギリシャ語(コイネー)のラテン語訳でヨーロッパ全土に広まり、キリスト教発生から実に1000年以上にも及んで西欧では、新訳聖書ですら、原語で読める僧侶がほとんどいなかった。(もっとも、東方正教会ではギリシャ語に堪能な僧侶や学者は多くいたのは事実だ。)

結局、ローマ文明を支えたラテン語が中世のヨーロッパの根幹であり、共和政ローマの文化が文化人の精神的支柱であった。その頂点に立つのが雄弁家のキケロであった。キケロは職業としては弁護士・政治家ということになるが、流麗な文章が現代に至るまで多大な影響を与えているという面からいえば、大思想家であり大教育家でもある。

私は20代前半にドイツ留学をして、ギリシャより、ローマ文明がヨーロッパ文明の根幹を形成していることを知ってから、キケロやセネカなどのローマの賢人・哲人の著作に、主としてReclam文庫本を通して親しんできた。私の個人的な偏見であることを承知で言えば、彼らの著作のドイツ語訳は元のラテン語の息遣いまで忠実に表現できる優れたものが多い。それに対し、Loeb本の英訳は意味理解の上では優れていると認めるものの、こまやかな息遣いという点ではドイツ語訳には劣る。(これは格変化のあり/なしに由来する。説明は長くなるので、この説明は別の機会にしたい。)



今回紹介するのは、キケロの哲学的著作の一つ『トゥスクルム荘対談集』(Tusculanae Disputationes)の第1巻の一文だ。(Vol 1-41)
「死後の魂の存在に関しては、ギリシャの哲学者がいろいろな議論を展開しているので、迷ってしまうが、自分が納得する議論をさらに深める方がよい」といって、「ギリシャの諺にもあるように」と、次の文句が出てくる。

【原文】quam quisque norit artem, in hac se exerceat.
【私訳】自分の得意分野を伸ばせ。
【英訳】Apply your talents where you best are skilled.
【独訳】Jeder soll die Kunst ausüben, in der er Bescheid weiß.
【仏訳】Que chacun fasse le métier qu'il entend.


ここで持ち出されている諺は必ずしもキケロの意図としっくりと一致しているとは言えないまでも、物事の優先順位を判断するときは他人の思惑など忖度する必要ない、との趣旨と理解できる。私も、中年を過ぎるころから、そのように考えるようになったし、この諺の文字通りの意味にも納得している。

ところで、キケロの文章が好まれる一つの理由としては、このような切れ味のよい諺やキケロオリジナルの警句がぽんぽんと飛び出すからだ。この点で、日本で夏目漱石が好まれている理由と似ていると言える。長らく多くの人に親しまれるには、このようにコクのある文章でなければいけないということだろう。

【参照ブログ】
 【麻生川語録・17】『長所と短所はコインの裏表』
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智嚢聚銘:(第31回目)『中国四千年の策略大全(その 31)』

2023-06-04 06:50:47 | 日記
前回

日本人と中国人は似ているようでも、いくつかの点でかなり違う。その一つがギャンブル好きと、迷信深いことであろう。たしかに日本人の中にもギャンブル好きや迷信深い人は多いが、中国の歴史書を読むと、日本人よりはるかにディープ(根深い)と感じる。「白虹貫日」(はっこう、日をつらぬく)という言葉があるが、これは、燕の太子の願いを受けて荊軻が秦の始皇帝を暗殺しようとしたが、失敗した時に現れた現象で、これ以降、このような現象は不吉とされた。単発的な自然現象と私には思えるが、自作の漢文検索システムで、二十四史中、『白虹貫日』と検索すると、下表に示すように、なんと169件も見つかった! 一番多いのが『宋史』で、続いて宋代の記事も多く含む『続資治通鑑』だ。宋代といえば、道学・朱子学が発達し、いわば理性が主流を占めるようになったといわれる時代だが、それでもやはり迷信っぽい話が牢乎として残っていたことが分かる。

表:二十四史中に見える『白虹貫日』

唐の太宗・李世民にまつわる、そのような迷信っぽい話。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 688 / 漢高祖唐太宗】(私訳・原文)

竇建徳が王世充を救おうとして、全軍を挙げて牛口に到着した。これを聞くと李世民は喜んで「豆が牛の口に入れば無事で居られるはずがない。」この時の戦いで、竇建徳を捕えることができた。

竇建徳救王世充、悉兵至牛口。李世民喜曰:「豆入牛口、必無全理。」遂一戦擒之。

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竇建徳が牛の口という地名に到着したことですでに、敗戦が決まっていたと李世民は豪語したが、資治通鑑・巻189に記述されているが、李世民といえども簡単に勝てたわけではない。「於是諸軍大戦、塵埃漲天」とあるように、両軍の戦いで、砂ぼこりで周りが見えなくなったということだ。しかし、いつものように李世民が先頭に立って武将たちを率いて敵陣に突入したので、敵は総崩れになった。敵を追いかけること30里(約20Km)、敵兵3000人の首を取り、5万人を捕虜にした。敵の大将である、竇建徳も生け捕りにした。



次は、漢字を使ったなぞかけでかなり高度だ。私はさっぱり分からなかった。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 693 / 開元寺沙弥】(私訳・原文)

開元寺沙弥唐の乾符の末年(880年ごろ)、広陵の開元寺に一人の客が留まったが、僧侶たちの無礼な振る舞いに、寺門に次のような詩を書いて立ち去った。「龕龍去東涯、時日隠西斜、敬文今不在、砕石入流沙」

僧侶たちはこの意味を分からなかったが、ある一人の僧侶がこれは罵りの言葉だと解釈した。つまり「合寺苟卒」という四字になるという。「合寺苟卒」とは

乾符末、有客寓広陵開元寺、不為僧所礼、題門而去。題云:「龕龍去東涯、時日隠西斜、敬文今不在、砕石入流沙。」僧衆皆不解、有沙弥知為謗語、是「合寺苟卒」四字。

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「合(まさ)に寺、苟卒(こうそつ)せん」、表面的な意味は「この寺はまもなく壊れる」だが、心情的には「こんな寺なんか早くぶっつぶれてしまえ!」ということであろう。

この詩の説明は、
龕龍去東涯、  龕(がん)の龍は東の涯に去り、
時日隠西斜、  時の日は西に隠れて斜めなり、
敬文今不在、  敬う文は今あらず、
碎石入流沙。  碎く石は流沙に入る。

各句の第一字目と二字目を比べてると、二字目はいずれも一字目に「含まれている」が分かる。

「龕」は「合+龍」
「時」は「日+寺」
「敬」は「苟+文」
「碎」は「石+卒」

これが分かると、それぞれの句で二字目が飛び去って無くなってしまうとどういう意味になるか。

「龕」から「龍が東の方に去った。(残りは→「合」)
「時」から「日」が西の方に傾き隠れた。(→「寺」)
「敬」の中の「文」は今はない、(→「苟」)
「碎」の中の「石」は流沙の中に入った。(→「卒」)

このように文字を分離させて意味を読み取る手法を「析字」というが、つくづく感じるのは、「漢字ネイティブの中国人の漢字のセンスに日本人は到底追いつかない!」

続く。。。
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