『本当に残酷な中国史』は中国の歴史書『資治通鑑』のダイジェスト版ともいうべき私の処女作である。出版したのは2014年なので、早くも10年にもなろうとしているが、Amazonで見る限り、今だにコンスタントに売れ続けている。とりわけKindle版は unlimited に指定されているので、紙版より売れ行きがいいことが多い。
さて、その冒頭にも書いたが、私が資治通鑑を通読して痛切に感じたのが
「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
であるが、これは必ずしも私の資治通鑑に対するひいき目のせいではない、と言える。というのは、昨年『中国四千年の策略大全』を出版したが、これは明代の文人・馮夢龍が編纂した『智嚢』が種本であり、これを読むと中国人の策略は日本人には、到底真似どころか思いつきすらしない類のものが数多くあることに驚倒するだろう。最近、一般の人々の間でも有名となった将棋の藤井聡太・竜王・名人の繰り出す奇手、鬼手はとても並みいるプロ棋士でさえ想像もつかないが、まさにそのような類ともいえよう。
中国社会はしばしば混乱に陥るが、その都度、識者やジャーナリスト連が得たり賢しとばかり事件の経緯やその理由を懇切丁寧に解説してくれるが、多くの場合、私にはどうもピントはずれのような気がする。つまり、日本人の常識、あるいは近代西洋文明的な論理で中国を理解しようとして失敗している。これは何も日本だけにかぎらず、戦略的思考に長けたはずの欧米の辣腕国際ジャーナリストや外交官ですらそうだから、致し方ないのかもしれないが。。。
後知恵を承知で言えば、文化大革命などに関する当時の識者たちの見解はほとんどの場合、文化大革命を高く評価していた。曰く、「旧体制を破壊し、新たな中国を創造する非常に革新的な運動だ」と。ところが、いろいろな情報をまとめると、今ではすでに定説ともなっているように、文化大革命とは政権の主導者であった劉少奇に嫉妬した毛沢東の陰湿な劉少奇失脚作戦であったということだ。毛沢東には中国社会の改革など全く眼中になかった、といっていい。これに代表されるように、中国社会の変遷の本当の理由・原因は外部からは想像もつかないものであることが多い。
そもそも論でいえば、毛沢東が共産党革命を起こしたのは、何も虐げられ続けていた農民の逆境を救おうという純な人道的見地からではなく、なんとしてでも最高権力者になるという毛沢東のがりがり権力盲者のうすぎたない欲望であった、と考えるのが自然であろう。その時、彼が使える唯一の武器が農民であったのだ。人命など塵芥にも等しい中国において、共産主義は農民を味方につける「方便」にすぎなかった、というのが私の見立てである。それというのも、『狡兎死して走狗烹らる』の故事にあるように、共産党革命が成功してから共産党は農民を全く見捨てた。国民党を倒すまで、さんざん農民を利用しておきながら、いざ新政権が誕生すると、農民を強制的に農民戸籍に縛りつけ、都市戸籍と区別することで、農民を絶対に這い上がることのできない底辺層に押しこめただけでなく、農民の生活向上に力をいれなかった。その傍証となるのが、文化大革命中、習近平も味わされた「下放」という、都市の住民が農村に送られるシステムを、人々がどれほど嫌悪したかという一事からでも分かる。
文化大革命だけでなく、毛沢東が主導した大躍進政策に秘められた意図も、またすさまじい限りだ。一般には大躍進政策は毛沢東の経済的な失策と見られているが、私には大大成功の策略だと思える。というのは、語るだに身の毛がよだつ思いがするのだが、大躍進政策のために結果的に数多くの餓死者(一説には2000万人とも3600万人ともいう)が出たが、これはまさしく毛沢東の狙いどうりの結果だったはずだ。というのは、国民党との戦争に勝利し、平和な新中国になって、日本の同様、戦後のベビーブームによる人口増大に見合う食糧生産ができないことが明らかになった時、人減らしのためにいわば「禁じ手」を駆使したのだ。しかし、このことはなにも毛沢東独自の発想ではなく、長引いた戦争が終了した時にはしばしば見られる、至ってありふれた手段であり、以前のブログにも述べたように秀吉の朝鮮出兵といわば同じ発想だ。
惑鴻醸危:(第28回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図』
「大躍進政策を意図的な殺人とはあまりにも穿った見方ではないか!」とのご意見もあろうが、一歩譲っても、大躍進政策の隠されたもう一つの意図には賛同せざるを得ないであろう。それは大躍進政策を現場で進めるにあたって、毛沢東の「鉄鋼生産に励め」との号令に従うか逆らうかあぶり出すための踏絵であるということだ。これも毛沢東独自の発案ではなく、中国伝来の策略の一つで、『韓非子』の《内儲説上》には次のような話がある。
韓の昭侯が爪を切り、切った爪が無くなったとわざと騒いで、臣下に床に落ちた爪を探させた。気の利いた臣下は自分の爪を切って、見つかりました、と差し出した。昭侯はこれによって、臣下の誠実さを測った。
(韓昭侯握爪而佯亡一爪、求之甚急、左右因割其爪而効之、昭侯以此察左右之誠不)
よく知られるように毛沢東は中国の歴史書を暗記する位によく読んでいる。資治通鑑は17回読んでいるし、浩瀚な二十四史も何度か読み返している。過去の古典的策略は全て頭に入っている。大躍進政策も韓の昭侯の策略と同工異曲で、数千万人の死の犠牲など歯牙にもかけず、だれが自分に忠実な部下で、だれが反抗的な部下かを見分ける踏絵であったわけだ。
このような毛沢東の悪辣な策略のせいで数千万人もの人命が失われたのは近代中国の悲劇だといえるが、唯一の救いは、自分の死後を託せる指導者として鄧小平を温存したことである。毛沢東はなぜか分からないが鄧小平にだけは敵視しなかった。そもそも鄧小平は劉少奇の一の子分である上に、フランス留学などの経験があり、国内派の毛沢東とはまったく毛色が合わない。その上、毛沢東は鄧小平の器が、自分より大きいと内心では兜をぬいでいたにも拘わらず嫉妬することがなかった、と私は推測する。諺に「英雄、英雄を知る」とあるが、鄧小平を生き残らせたことが、数多くの災厄で近代中国に与えた膨大なマイナスを一挙に帳消しにした、大博徒・毛沢東の輝ける一擲であったといえよう。
さて、その冒頭にも書いたが、私が資治通鑑を通読して痛切に感じたのが
「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
であるが、これは必ずしも私の資治通鑑に対するひいき目のせいではない、と言える。というのは、昨年『中国四千年の策略大全』を出版したが、これは明代の文人・馮夢龍が編纂した『智嚢』が種本であり、これを読むと中国人の策略は日本人には、到底真似どころか思いつきすらしない類のものが数多くあることに驚倒するだろう。最近、一般の人々の間でも有名となった将棋の藤井聡太・竜王・名人の繰り出す奇手、鬼手はとても並みいるプロ棋士でさえ想像もつかないが、まさにそのような類ともいえよう。
中国社会はしばしば混乱に陥るが、その都度、識者やジャーナリスト連が得たり賢しとばかり事件の経緯やその理由を懇切丁寧に解説してくれるが、多くの場合、私にはどうもピントはずれのような気がする。つまり、日本人の常識、あるいは近代西洋文明的な論理で中国を理解しようとして失敗している。これは何も日本だけにかぎらず、戦略的思考に長けたはずの欧米の辣腕国際ジャーナリストや外交官ですらそうだから、致し方ないのかもしれないが。。。
後知恵を承知で言えば、文化大革命などに関する当時の識者たちの見解はほとんどの場合、文化大革命を高く評価していた。曰く、「旧体制を破壊し、新たな中国を創造する非常に革新的な運動だ」と。ところが、いろいろな情報をまとめると、今ではすでに定説ともなっているように、文化大革命とは政権の主導者であった劉少奇に嫉妬した毛沢東の陰湿な劉少奇失脚作戦であったということだ。毛沢東には中国社会の改革など全く眼中になかった、といっていい。これに代表されるように、中国社会の変遷の本当の理由・原因は外部からは想像もつかないものであることが多い。
そもそも論でいえば、毛沢東が共産党革命を起こしたのは、何も虐げられ続けていた農民の逆境を救おうという純な人道的見地からではなく、なんとしてでも最高権力者になるという毛沢東のがりがり権力盲者のうすぎたない欲望であった、と考えるのが自然であろう。その時、彼が使える唯一の武器が農民であったのだ。人命など塵芥にも等しい中国において、共産主義は農民を味方につける「方便」にすぎなかった、というのが私の見立てである。それというのも、『狡兎死して走狗烹らる』の故事にあるように、共産党革命が成功してから共産党は農民を全く見捨てた。国民党を倒すまで、さんざん農民を利用しておきながら、いざ新政権が誕生すると、農民を強制的に農民戸籍に縛りつけ、都市戸籍と区別することで、農民を絶対に這い上がることのできない底辺層に押しこめただけでなく、農民の生活向上に力をいれなかった。その傍証となるのが、文化大革命中、習近平も味わされた「下放」という、都市の住民が農村に送られるシステムを、人々がどれほど嫌悪したかという一事からでも分かる。
文化大革命だけでなく、毛沢東が主導した大躍進政策に秘められた意図も、またすさまじい限りだ。一般には大躍進政策は毛沢東の経済的な失策と見られているが、私には大大成功の策略だと思える。というのは、語るだに身の毛がよだつ思いがするのだが、大躍進政策のために結果的に数多くの餓死者(一説には2000万人とも3600万人ともいう)が出たが、これはまさしく毛沢東の狙いどうりの結果だったはずだ。というのは、国民党との戦争に勝利し、平和な新中国になって、日本の同様、戦後のベビーブームによる人口増大に見合う食糧生産ができないことが明らかになった時、人減らしのためにいわば「禁じ手」を駆使したのだ。しかし、このことはなにも毛沢東独自の発想ではなく、長引いた戦争が終了した時にはしばしば見られる、至ってありふれた手段であり、以前のブログにも述べたように秀吉の朝鮮出兵といわば同じ発想だ。
惑鴻醸危:(第28回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図』
「大躍進政策を意図的な殺人とはあまりにも穿った見方ではないか!」とのご意見もあろうが、一歩譲っても、大躍進政策の隠されたもう一つの意図には賛同せざるを得ないであろう。それは大躍進政策を現場で進めるにあたって、毛沢東の「鉄鋼生産に励め」との号令に従うか逆らうかあぶり出すための踏絵であるということだ。これも毛沢東独自の発案ではなく、中国伝来の策略の一つで、『韓非子』の《内儲説上》には次のような話がある。
韓の昭侯が爪を切り、切った爪が無くなったとわざと騒いで、臣下に床に落ちた爪を探させた。気の利いた臣下は自分の爪を切って、見つかりました、と差し出した。昭侯はこれによって、臣下の誠実さを測った。
(韓昭侯握爪而佯亡一爪、求之甚急、左右因割其爪而効之、昭侯以此察左右之誠不)
よく知られるように毛沢東は中国の歴史書を暗記する位によく読んでいる。資治通鑑は17回読んでいるし、浩瀚な二十四史も何度か読み返している。過去の古典的策略は全て頭に入っている。大躍進政策も韓の昭侯の策略と同工異曲で、数千万人の死の犠牲など歯牙にもかけず、だれが自分に忠実な部下で、だれが反抗的な部下かを見分ける踏絵であったわけだ。
このような毛沢東の悪辣な策略のせいで数千万人もの人命が失われたのは近代中国の悲劇だといえるが、唯一の救いは、自分の死後を託せる指導者として鄧小平を温存したことである。毛沢東はなぜか分からないが鄧小平にだけは敵視しなかった。そもそも鄧小平は劉少奇の一の子分である上に、フランス留学などの経験があり、国内派の毛沢東とはまったく毛色が合わない。その上、毛沢東は鄧小平の器が、自分より大きいと内心では兜をぬいでいたにも拘わらず嫉妬することがなかった、と私は推測する。諺に「英雄、英雄を知る」とあるが、鄧小平を生き残らせたことが、数多くの災厄で近代中国に与えた膨大なマイナスを一挙に帳消しにした、大博徒・毛沢東の輝ける一擲であったといえよう。