限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第62回目)『中国3000万人の結婚できない青年に朗報!』

2020-01-26 19:59:46 | 日記
最近、某有名タレントの不倫発覚でメディアが活気づいている。別に彼を擁護する訳ではないが、世の中には報道されていないだけで、類似の例は多々ある。彼の場合は、あまりにも素晴らしい容姿とキャリアに芸能界だけでなく、一般からも秘かに嫉妬されていたので、大騒ぎになるのであろう。「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、スタータレントの失墜で嫉妬が晴れて、すっきりした、というタレントは少なくないことだろう。

そもそも不倫というのは結婚しているから起こる不祥事である。昔からずっとあるのは、一夫一婦制には必然的な随伴物であり、根絶しがたい宿痾とも言える。

ギリシャの哲学者・プラトンは、人間というのは元来、好奇心旺盛な動物であるので、浮気する衝動は抑えがたいものだ、と見抜いた。以前のブログ「命がけのレイプ」に書いたように、プラトンはその主著『国家論』において、「たとえば理想国を考えたとする」という予防線を張った上で、長年秘かにあたためていたであろう「多夫多妻社会」の持論を展開した。識者はこの破天荒な提案に腰を抜かしたに違いないが、黙殺を決め込んだ。

ルネッサンス以降、西洋社会はギリシャ・ローマ古典を再認識し、キリスト教に欠けている社会思想や社会制度をこれらの古典から積極的に取り入れた。この結果、現在見るような、デモクラシー社会が実現し、人間の平等、個人の尊厳、などの意識が広まった。この時、ついでに、いっそのこと「一夫一婦制は悪しきキリスト教の伝統だから壊してしまえ!」との社会運動が起きて、「個人の自由を尊重して、これからは多夫多婦制だ!」と叫んでいたならば冒頭のような某タレントも堂々と不倫(正倫?)ができたはずだっただろうに!

話は変わるが、中国では人口抑制のため長年一人っ子政策が実施されてきた。これは、国家として健全な成長を遂げるために全体最適を目指した制度であったが、政府の期待とはうらはらに、各家庭では、自分の家だけの部分最適をめざした。つまり、各家庭では儒教が一番重要視している「男系を絶やさない」という目的にこだわった。その結果、女の出生率が男のそれに比べ異様に低くなり、現在では推定で3000万人もの適齢期の青年が結婚できないという悲惨な事態になっている。


【出典】Come out, good news! Adultery isn't a crime!

この失策を中国共産党になすりつけるのは簡単だが、血気盛んな青年たちが暴発しないために、「惑鴻醸危」的解決案を考えてみよう。最有力な案として浮上するのが、プラトンが提唱した「多夫多妻社会」だ。最近の香港のデモ騒動でも分かるように人権が保証されているとは言い難い中国共産党下では、誰も権力に逆らってまで赤の他人の青年の結婚問題の解決のためには立ち上がらないだろう。

最近数十年、欧米 ― とりわけアメリカ ― は、民主主義や人権を熱心に世界各地に広めていった。その結果はというと良くなったケースもあれば、逆に混乱に油を注いだ結果も見受ける。それはさておき、その熱心さで多夫多婦制を世界に広めていってくれて、多夫多婦制が世界の趨勢になったらなあ、と残念に思っているのが、現代の中国の結婚できないでいる 3000万人の青年であろう。

そこで、白羽の矢がたつのが、日本の国会議員だ。国会議員の中には不倫が原因で、議員辞職や党籍剥奪された人が多くいる。その人たちが結束して多夫多婦制を議員立法すれば、自分たちだけでなく、ついでに某タレントも救われる。悪乗りついでに、多夫多婦制を中国初め世界に広めるたらどうだろう。結婚できないフラストレーションの溜まっている 3000万人の青年もある程度納得するはずだ。中国社会が崩壊して一番被害を蒙るのは隣国の日本だ。多夫多婦制で中国の社会不安が解消されれば、日中の友好にも寄与することになる。多夫多婦制の議員立法はまことに一石三鳥の妙案だと愚考するのであるが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第416回目)『資治通鑑に見られる現代用語 (その259)』

2020-01-19 19:06:54 | 日記
前回

【358.有名無実 】P.4603、AD512年

『有名無実』は「名ありて、実なし」と訓読できる。つまり「名ばかりで、実質の伴わないこと」「評判と実質が食い違っていること」という意味で現在でも良く使われる。辞源(2015年版)には「謂空有名義或名声而無実際」(名義や名声はあっても、実質がない、むなしいことをいう)と説明する。

「有名無実」と類似の語句に「有名亡実」「有名鮮実」の2つがあるが、「亡」「鮮」もいづれも「ない」という意味なので有名無実と同じ意味だと理解できる。

これら3つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになるが、中国でも「有名無実」の頻度が圧倒的に高いということだ。


資治通鑑で「有名無実」が使われている場面をみてみよう。

時は南北朝時代、幾つもの短命の王朝が次々と生まれては、消えていった。そういった混乱の中においても、中国人は何故か知らないが古典的教養の中核である「礼」を尊重し、古礼を復活させようとした。

 +++++++++++++++++++++++++++
当初、南斉の太子の歩兵校尉で平昌出身の伏曼容が上表文を提出して、礼楽の改革を訴えた。世祖(南斉の武帝、蕭賾)は学士を十人選んで五礼を学ぶよう、詔をだした。丹楊の尹王倹を責任者に任命した。尹王倹が亡くなったので、国子祭酒の何胤が後を継いだ。何胤が東山に隠居してしまったので、南斉の明帝(蕭鸞)は尚書令の徐孝嗣に監督を命じたが、徐孝嗣が誅殺されたので、関係書類の多くが散逸してしまった。

それで、驃騎将軍の何佟之を責任者とした。南斉の滅亡時に兵火に遭い、書類はほとんど消滅した。梁の武帝(蕭衍)が即位すると、何佟之が「礼学を調査する役所を設置すべき」と求めたので、部会を作って検討させた。当時、政務担当の尚書は建国してから日が浅いので、すべきことが他にも沢山あるので、もう少し落ち着いてからがよいとして、併せて礼局の設置も時期尚早だという返答を尚書儀曹に戻した。それを受けて帝が次のように詔を発した。「礼が壊れ、音楽の演奏ができなくなっている。適当な時期に元のようにせよ。ただ、このごろ礼の整備を任せられる人が居ないので何年経っても完成しない。これでは有名無実だ。この件は国家の重大案件であるから、すばやく取り掛かるように。…」

初、斉太子歩兵校尉平昌伏曼容表求制一代礼楽、世祖詔選学士十人脩五礼、丹楊尹王倹総之。倹卒、以事付国子祭酒何胤。胤還東山、斉明帝敕尚書令徐孝嗣掌之。孝嗣誅、率多散逸、詔驃騎将軍何佟之掌之。経斉末兵火、僅有在者。帝即位、佟之啓審省置之宜、敕使外詳。時尚書以為庶務権輿、宜俟隆平、欲且省礼局、併還尚書儀曹。詔曰:「礼壊楽欠、実宜以時脩定。但頃之脩撰不得其人、所以歴年不就、有名無実。此既経国所先、可即撰次。…」
 +++++++++++++++++++++++++++

論語の有名な議論に、子貢が「政治をする上で、兵、食、信のどれが一番大切か?」と孔子に尋ねたところ、孔子は「信」だと言い、「人と言うのは、昔から死ぬと決まったものだ。信を失えば民は拠り所を失うではないか!」と答えた。つまり、人の命より、信を重んじるべきと孔子は考えたのだ。

孔子のこの考えは、今回取り上げた梁の武帝の発言にも見られる。人々が戦乱や自然災害で苦しめられていても、それを助けることに力を費やすのではなく、伝統的な儀礼を正しくとり行うことの方が遥かに重要だと考えた。

ところで、司馬遷は李陵を擁護したため、宮刑に処され、言うに言えない屈辱を味わされたが、それでも史記を完成させるために生き延びた。「報任少卿書」に司馬遷は命の価値について次のような名言を述べる。
「人固有一死、死有重於泰山、或軽於鴻毛」
(人、もとより一死あり。死は泰山より重きあり、あるいは鴻毛より軽し)

命は泰山より重い時もあるというものの、資治通鑑を読むと、中国の長い歴史の中ではそういったことは本当に稀で、命は吹けばとぶ鴻毛よりも軽かった事例ばかりが目につく。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【座右之銘・121】『君子蔵器於身、待時而動』

2020-01-12 13:34:20 | 日記
学生時代から私は思想的・心情的には老荘、とりわけ荘子、に強く惹かれている。しかしながら、この心情とは逆に、自分自身の日々の言動を振り返る時には、論語の短い警句を思い出すことが多い。論語の文章を完全に暗記している訳ではないが、朧ろげに「こういう意味のことを言っていた」との記憶を頼りにして、「自作の漢文検索システム」で検索したり、岩波文庫本を最初のページからダァーっと繰っていって正確な文句を探しだす。論語は何度も読んでいるので、最初から探しても10分程度で見つかることが多い。

さて、先ごろ易経を読んでいたところ、『君子蔵器於身、待時而動』(君子は器を身に蔵(かく)し、時を待ちて動く)という句が目に入った。易経は重要経典であるので、中国古典を読むと必ず何らかの文句が登場する。それで、易経は今まで何度となく読み返した。しかし、どれも感覚的に似たような文句が脈略もなくずらずらと並ぶので、いつもさっと通り過ぎてしまうことが多く、文句自体はあまり記憶には残っていない。この句も以前読んだはずなのは、この個所にマークがついていることから分かるが、すっかり忘れていた。

それで改めて易経のこの句を読んでいて、論語の関連した句をいくつか思い出した。例えば次のような句が挙がる:

子曰:「君子不器。」(巻2・為政篇:君子は器ならず)
「君子は特定の専門だけしか分からないような狭い知識ではだめだ。」つまり、specialist(専門家)ではなく、generalistでないと君子とは言えないということだ。

子貢問曰…「何器也?」子曰:「瑚璉也。」(巻5・公冶長篇、子貢いわく、何の器なるや? 子曰く、瑚璉なり)
孔子には総勢3000人もの門弟がいたと言われるが、その中でも子貢の才は飛びぬけていた。人格的には顔回に敵わなかったようだが、孔子は子貢を最上級の才覚のある人物として「瑚璉(素晴らしい器)」と絶賛したのだ。

子曰:「…不患莫己知、求為可知也。」(巻4・里仁篇:己を知ることなきををうれえず。知らるべきことを為すを求む)
「自分を正しく評価してくれない、と嘆くな。評価してもらえるよう努力せよ」と励ます。自分に対する世間や会社内での評価に対して不満を言ってもどうなるわけではない、人の評判や評価に右往左往や右顧左眄せず自己研鑽に励むべし、ということだ。

今回取り上げた易経の「君子蔵器於身、待時而動」はまさにこの最後の文句と呼応する。世間の評価など気にせず、自分に自信ができるまで待ってから行動を起こせということだと、私は理解した。器を完成させるには、ちょこまかと動いたり、能力もないのにあたかもあるかのように宣伝しても、そのうちきっと化けの皮がはがれると言っているように思える。



以前、安岡正篤氏の本を読んでいた時、どの本に書いてあったか思い出せないが「勉強したければ、若くして有名になってはだめだ」という文句に出会った。安岡氏は大学に在学中から世間に名前が売れ、若くして首相クラスのご意見番として政界・財界からひっぱりだこになっていた。毎晩の如く、宴席に出づっぱりで勉強時間がないことを秘かに嘆いていたに違いない。

社会人となってすぐのころから、私は安岡氏の本はかなり網羅的に読んでいる。初めは、安岡氏の博学に舌を巻くことが多かったが、その内、だんだんわかってきたことがある。それは、安岡氏は50歳以降、知識的に停滞していて、繰り返しが非常に多いことだ。確かにトピック的に目新しい記述もないとは言わないが、残念ながら、それらの情報は底が浅く、多分、耳学問的に仕入れた話だと想像できる。安岡氏の言葉は本人の自戒の弁であるかも知れないが、私には他山の石として肝に銘じておきたい。

 ***************

ところで、最近(2019年12月末)、日産の元会長のカルロス・ゴーン被告人が関空からレバノンへと逃亡したが、出国時は大きな容器に身を隠したといわれる。この状況を漢文的に表現すれば、
罪人、待時而動」(罪人は身を器に蔵(かく)し、時を待ちて動く)
とでもなろう。字をちょっと入れ替えるだけで、現代の事象を的確に表現できるという点を見ても、易経はなるほど千古にわたり輝く知恵の宝庫だと納得できる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第415回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その258)』

2020-01-05 19:39:08 | 日記
前回

【357.送迎 】P.4531、AD503年

『送迎』とは文字通り「送り、迎え」の意味である。古くは春秋左氏伝(僖公・22年、BC 637)にも使われているので、既に 2700年もの歴史がある単語だ。

左伝で「送迎」が使われている場面:
鄭が宋に攻められた時、楚が救援に駆け付けた。この時、宋の襄公は、軍師が敵方の楚軍が川を渡る切る前に攻めよ、と忠告したにも拘わらず「それは仁者のすべきことではない」と撥ね付けた。楚軍が川を渡り切り、陣営を充分に整えるのを待って攻めたが、逆に襄公自身も股に傷を負う程の大敗を蒙った。(この敗戦から「宋襄の仁」という故事成句ができた。)鄭は楚軍に助けられたので、お礼にと鄭の文公の妃と側室が楚軍を労ったがその時、二人の貴婦人が楚軍の兵営まで出向いて行ったので、当時の人たちは「非礼也。婦人送迎不出門」(礼にあらざる也、婦人の送迎は門を出ず)と非難したという次第。

ところで、「送迎」と連続して使われる他に「送●迎▲」のような使われ方もある。自作の漢文検索システムで検索すると次のような句が見つかった。

出現頻度の多い順に挙げると次のようになる。1.から3.はある程度多いが、4.以下はほとんど1回しか見えない。
 1. 送故迎新
 2.送往迎来
 3. 送去迎来
 4. 送文迎武
 5. 送文舞迎武舞
 6. 送暑迎寒
 7. 送夕陽、迎素月
 8. 送鬼迎鬼


「送迎」と「送故迎新、送往迎来、送去迎来」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。



さて、資治通鑑で送迎が使われている場面を見てみよう。

南北朝時代、王朝が目まぐるしく移り変わる中、士大夫たちも新しい王朝が誕生する都度、すばやく変わり身して競って新政権に仕えたが、東晋の名門である謝家のサラブレッドの謝朏はそういった節操の無さにはあからさまな不快感を示した。それで、梁王朝からの仕官の勧めにも応じなかったが、梁の武帝(蕭衍)じきじきの要請についに根負けして膝を屈した。

 +++++++++++++++++++++++++++
謝朏は軽舟に乗って王宮に到着すると、即座に、侍中兼司徒兼尚書令に任命された。謝朏は足が痛いので拝謁できないと言い訳をし、普段着けている角帽をかぶって輿に乗って雲竜門まで出かけて任官の礼を述べた。武帝(蕭衍)は華林園に出てくるよう命じたので、小車に乗って出席した。翌朝、武帝(蕭衍)はわざわざ謝朏の邸宅にまで趣き、宴会を存分に楽しんでから帰った。謝朏は出仕は辞退したいと述べたが許可されなかった。しかたないので、母親を郷里から連れて来たいと願ったが、許可された。出発の日、武帝はまたもや謝朏の邸宅にまでやってきて、自分で詩を作り餞別とした。官僚や王宮の人々の送迎の列は延々と続いた。郷里から母親を連れて戻って来ると、自宅で政務してよいとの武帝から温情あふれる指令が届いていた。ところが、謝朏はもともと煩雑な仕事が嫌いであったので、政務はなおざりにして真面目に励まなかった。世間の人はえらく失望した。

謝朏軽舟出詣闕、詔以為侍中、司徒、尚書令。朏辞脚疾不堪拝謁、角巾自輿詣雲竜門謝。詔見於華林園、乗小車就席。明旦、上幸朏宅、宴語尽懽。朏固陳本志、不許;因請自還東迎母、許之。臨発、上復臨幸、賦詩餞別;王人送迎、相望於道。及還、詔起府於旧宅、礼遇優異。朏素憚煩、不省職事、衆頗失望。
 +++++++++++++++++++++++++++

東晋時代は竹林の七賢に代表されるように、老荘思想が士大夫(知識人)の間に流行した。彼らの貴族趣味からすると、政治は下っ端の小役人のすべきことであり、彼らはもっぱら有閑マダムのような享楽的人生を送ることを理想とした。

東晋は100年近く前に終わったがそれでも、東晋王朝では一流の名家であった謝家には、まだ当時の貴族的雰囲気が残っていたのであろう、謝朏は政務に精を出すのは馬鹿らしいと思っていた。武帝(蕭衍)は、わざわざ腰を曲げて名家のサラブレッドを呼び寄せたにも拘わらず、全くの穀潰しに過ぎないことが分かり、さぞかしがっかりしたに違いない。

最近の日本でも、名門の政治家の家系の出であるにも拘わらず、まったく役立たずの政治家もちらほらいるが、風流の度合は謝朏とは比べるべくもない。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする