限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第22回目)『中国四千年の策略大全(その 22)』

2023-01-29 10:35:11 | 日記
前回

中国に「韜晦無露圭角」(韜晦して圭角を露わすなかれ)という言葉がある(日本流に言えば「能ある鷹は爪隠す」)。賢いところを見せれば、いらぬ嫉妬をかって眼をつけられていじめられるということだ。とりわけ、帝室の息子たちともなれば、本人よりも取り巻き連中が仕掛ける出世競争に巻き込まれてしまい、うまくいけば頂点を極め皇帝となることも可能だが、そうでなければなまじっか賢明であるために抹殺されてしまう。そのような状況では時期が来るまではうすらバカの振りをして注目を集めないのがよいとの教訓だ。北朝北斉の初代皇帝の文宣帝(姓は高、諱は洋)が生きた実例だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻12 / 486 / 高洋】(私訳・原文)

北斉の初代皇帝の高洋は本当は賢明であったが、外面はうすらバカのように見えた。だれも、彼の本当のところを知らなかったが、父親の高歓だけは見抜いていて「この子はわしより思慮がある」と言った。あるとき、高歓は自分の息子たちの智恵を試そうとして、乱雑にもつれた糸の玉を解くように言った。誰も玉をほどくことができなかったが、高洋だけは刀で斬り「乱れた者は必ず斬る」と言った。

高洋内明而外晦。衆莫知也、独歓異之。曰:「此児識慮過吾。」時歓欲観諸子意識、使各治乱糸。洋独持刀斬之、曰:「乱者必斬。」
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高洋はアレクサンドロス大王と同じ課題を全く同じ方法で解決した。つまり結び目が分からない糸の玉をスパっと断ち切ってしまったのだ。乱れに乱れた世の中を鎮めるには尋常の手段ではダメで、からみつくしがらみを英断をもってすぱっと断ち切ることが重要だと示した。戦乱を鎮めるには才よりも胆がものをいう。

ちなみに、「韜晦無露圭角」の言葉は、宋名臣言行録の杜衍の項に見えるが、この言葉の後に続く言葉も味わい深い。
 「毀方瓦合、求合於中、可也」(方を毀り、瓦合して中に合わんことを求めて可なり)

「とんがった知性をわざと隠して、バカの振りをして俗人(瓦で象徴)と交際すれば禍を避けることができる」という。つくづく、中国では普通に生きることすら難しいことが分かる事例だ。エピクロスの「隠れて生きよ」(λάθε βιώσας)の忠告がぴったりする。



次は、部下に死力を尽くさせる方法の話だ。种世衡は、終生国境の防備に従事した北宋の名将だ。子供の頃から気概に溢れていたとして次のような逸話が残る(『宋史』巻335)。

种世衡は幼いころから気節を重じた。ある時に、宝物が与えらえた時、従兄弟たちは争って金目のものを分捕ったが、种世衡は宝物は皆に挙げて、自分はただ書物だけを取った。
(少尚気節、昆弟有欲析其貲者、悉推与之、惟取図書而已)

种世衡は気概だけでなく、智略も備わっていた(智勇双全)。

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 馮夢龍『智嚢』【巻12 / 489 /种世衡】(私訳・原文)

种世衡が寬州城に根拠を構えることにしたが、井戸水を得ることができなかった。地下、50メートル(150尺)ほど掘っても石だらけで水はなかった。作業員たちは打つ手がなく「ここは水がでない土地だ!」と言った。种世衡はそれに対して「石の下に水がないことがあろうか?石を掘り出せばいいだけだ。一もっこ掘れば、一金を出そう!」作業員はこれを聞いて、また力を出して掘り進んだ。石をいくつかどけると突然、水が湧いてきた。これにちなんで、この城は清澗城と名付けられた。

种世衡既城寬州、苦無泉。鑿地百五十尺、見石、工徒拱手曰:「是不可井矣!」世衡曰:「過石而下、将無泉邪?爾其屑而出之、凡一畚、償爾一金!」復致力、過石数重、泉果沛然、朝廷因署為清澗城。
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同じくアレクサンドロスを引き合いに出すが、アレクサンドロスは若いながらも人を動かすコツをしっかりと掴んでいたようだ。『プルターク英雄伝』のアレキサンドロス伝には、部下の死力を尽くさせた話が載っている。

「マケドニアの兵士が大勢いた中の一人が王の黄金を運ぶ騾馬を駆って来たが、この獣が弱ったので自分がその荷を担いで運んでいた。大王はその男が非常に疲れているのを見て、その話を聴き、荷を下そうとした時に、『へこたれるな!そのままテントまで担いでいったら、お前の物にしていいぞ。』と言った。」(河野与一訳、岩波文庫、一部変更)

このように励まされた兵士は、当然のことながら気力をふり絞って最後まで荷物を運んだに違いない。种世衡も同じやり方で、敵に囲まれた城壁の中で源泉を掘り当てることで、生き延びたのだった。

続く。。。
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沂風詠録:(第350回目)『冷酷非情な曹操 ― 弱兵を踏み越えて退却』

2023-01-22 11:03:30 | 日記
日本の大河ドラマはここ暫く戦記物が続く。戦記物でないと視聴率が取れないのだろう。私が好んでみる、中国の宮廷ドラマはむしろ文人が登場したり、活躍する場面が多くみられる。『孤城閉 ~仁宗、その愛と大義~』などはまさにその典型で、登場人物のほとんどがフィクションではなく、私の愛読書である『宋名臣言行録』に名前が載っている実在の政治家・文人である。あたかも『宋名臣言行録』の現場に居あわわせているような臨場感豊かなドラマだ!

そのドラマの台詞には有名な故事成句や古詩がふんだんに織り込まれている。つまり、このような時代背景や引用句が分からないと筋立ては分かっても、もう一段の理解が届かないことになる。こういう風に述べると、「文の中国、武の日本」という対立構造をイメージし、「文の中国の方が人間的だよな」と思われるかもしれないが、なかなか、本当の中国は「武」の面では相当えげつないことをしている。その話をしよう。


 【出典】清平楽

『三国志』(正確には『三国志演義』)は中国だけでなく日本でも大人気であり、当時の中国の実態を分かったつもりになっている人が多い。しかし、いうまでもなく『三国志演義』はフィクションであり、実態を歪めたり、あるいは『三国志』に記載されていてもプロット展開の上で不要な部分はカットされていて、中国の歴史、および当時の中国人の生活の実態を知るには不完全な書物である。ありがたいことに『三国志』は現在、ちくま学芸文庫から全訳がでているが、全部で13,200円と少々値が張る。しかし、流石に正史の一つだけあった、歴史的記述は読み応えがある。

その中から、曹操が孫権と劉備に攻められて、大敗して退却した場面をみてみよう。《三国志・魏書、武帝記第一》(尚、この場面は三国志演義には記述が見当たらない。)

曹操は乗っていた船艦が焼かれてしまったので、陸路を退却した。軍を率いて華容道を歩いて戻ったが、たまたまぬかるみの場所に出くわした。道はどこにも通じていないし、風も強く吹く悪天候だった。羸兵(弱りきった兵士)全員にそこらにある枯草を集めさせ、背負ってぬかるみを埋めよ、と命じた。それでようやく騎兵がぬかるみを通過できたが、羸兵たちはぬかるみの中で立ち往生し、軍馬や屈強な兵士たちに踏まれて泥中に埋もれ、多数の死者がでた。
公船艦為備所焼、引軍従華容道歩帰、遇泥濘、道不通、天又大風、悉使羸兵負草填之、騎乃得過。羸兵為人馬所蹈藉、陥泥中、死者甚衆。)

ここで、「羸兵たちに草を背負わせた」という点に曹操の非情さと同時に計算高い点が見られる。まず、「羸兵・ルイヘイ」という言葉は「役立たず者」というニュアンスがぷんぷんとする。戦時においては戦闘にも参加できないし、兵站の作業員としても使えない羸兵、つまり老兵や傷病兵、は穀潰しでしかない。ぬかるみに出くわした時に、曹操は脱出と穀潰し解消の一挙両得の妙案を思いつき、一人、心の中で喜んだに違いない。

以前出版した『日本人が知らないアジア人の本質』(ウェッジ)で中国に関する一節《人命はゴミより軽い》に、近代における欧米人の旅行記や滞在記からの実例を幾つかあげた。今回紹介した曹操の例から《人命はゴミより軽い》のは何も最近の鄧小平が天安門に戦車を導入した時だけでなく、中国古来の価値判断であるということだ。歴史は民族のベースの価値判断を知るのに最適だな資料だと思う。
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智嚢聚銘:(第21回目)『中国四千年の策略大全(その 21)』

2023-01-15 10:30:58 | 日記
前回

王朝の倒壊時には、数多くの英雄が出現する。秦から漢にかけては、項羽や劉邦だけでなく、范増、季布、韓信、陳平、など挙げればきりがないほどいる。また、隋の煬帝が暗殺されて李世民が唐を建国するときにも数多くの英雄が出たが、そのなかに竇建徳(とう・けんとく)という人物がいた。

竇建徳は義理堅い人であったようで、ある村人の親が死んだときに貧乏で葬式を出してやれないと聞いて、野良仕事をしていたが、即座に仕事を放りなげて、その村人の家に行き自腹をきって葬式を出して挙げた。これによって、竇建徳の名は一挙に知れ渡ったという。(嘗有郷人喪親、家貧無以葬、時建徳耕於田中、聞而嘆息、遽輟耕牛、往給喪事、由是大為郷党所称。)

また、竇建徳の父が亡くなった時、会葬者が 1000人を超えたという。香典などは全て、受け付けなかった。このように竇建徳は大変義理堅い人であったが、それよりも高く評価されたのは、常に兵士と苦労を分け合ったことだ。それで、兵士は皆は死力を尽くした。(毎傾身接物、与士卒均執勤苦、由是能致人之死力)

そういった義理堅く、部下の心をつかむ策略に長けた一面、胆力もある人だったのは次のエピソードからわかる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻11 / 479 / 竇建徳】(私訳・原文)

隋末の英雄・夏王の竇建徳がまだ微賤だった時、夜中に屋根から家に強盗が忍び入った。竇建徳はそれに気づき、扉の陰に隠れてたちどころに3人の強盗を殺した。残りの強盗は恐れをなして入ってこず、屍を返してくれと叫んだ。竇建徳は「縄を投げ下ろせ、そしたら結んでやる」と答えた。強盗たちは縄を下ろしたので、竇建徳はその縄に自分を括り付けて「引っ張り上げよ」と命じた。刀を携えて、上に引っ張り上げられるや、またもや残りの強盗を皆殺しにした。これによって一躍有名となった。竇建徳は泥棒を殺すのをゲームをするように楽しんだ。

夏主竇建徳微時、有劫盗夜入其家、建徳知之、立戸下、連殺三盗、余盗不敢入。呼取其屍、建徳曰:「可投縄下係取去。」盗投縄而下、建徳乃自係、使盗曳出、捉刀躍起、復殺数盗。由是益知名、以誅盗為戯。
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よほど、自分の腕に自信がないとできない技だが、流石に一代の梟雄と目されるだけあって、やりかたは生半可でない。残念なことに、後年、唐に対抗して帝位に就いてからは、驕るところがあり、最後は李世民の捕われて処刑された。



『日本人が知らない、アジア人の本質』(ウェッジ)の第2章《人間不信の中国》では「人命はゴミより軽い」というタイトルで、欧米人の中国観察記録の幾つかを引用した。このような記事を現在書けば、軒並みに「反中を煽る」と糾弾されること間違いないが、 100年には事実としてあったことを認識する必要がある。そして、このようなことは何も100年前に急に始まった訳ではなく、以下の文に見るようにずっと以前からあったというのが中国の悲劇だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻11 / 481 / 李福】(私訳・原文)

唐の李福が知事(尚書)に任ぜられて南梁を治めた。領地には昔からの名門の子弟が多く住んでいたが、その中の不良たちが悪行を重ねていた。前の知事は何の取り締りもしなかったので、庶民は困っていた。李福の仕事ぶりは厳格、果敢であった。職人に大きな竹籠を数個作らせた。最もたちの悪い不良数人を呼び出し、家系や朝廷に親戚がいるかどうかなどを尋ねた。それから不良たちに向かって「君たちの家は地方の名家であるにも拘わらずこのような悪行をして先祖や親戚に対して恥ずかしいとは思わないのか?今日の罰を聞けば、親族はきっと大喜びする事だろう」と言って竹籠に閉じ込めて漢江に沈めて殺した。これ以降、名門の子弟たちは行いを慎むようになった。

唐李福尚書鎮南梁。境内多朝士荘産、子孫僑寓其間、而不肖者相効為非。前牧弗敢禁止、閭巷苦之。福厳明有断、命織篾蘢若干、召其尤者、詰其家世譜第、在朝姻親、乃曰:「郎君借如此地望、作如此行止、毋乃辱於存亡乎?今日所懲、賢親眷聞之必快!」命盛以竹籠、沈於漢江、由是其儕惕息、各務戢斂。
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むかし、鄭の子産が、残酷なほどの厳罰を課すことが犯罪防止に効果があると後継者の子大叔に遺言して死んだ。しかし、子大叔は厳罰を課すのに忍びず、刑を緩やかにした。その結果、鄭には盗賊が増えて手に負えなくなった。子大叔は、ここにきてようやく子産の言ったことを理解して、盗賊全員をとらえ、皆殺しにしたことで鄭に盗賊がいなくなった。(『春秋左氏伝』《昭公 20年》)

現在はどうか知らないが、子産の遺言通り、かつての中国では「一罰百戒」のために簡単に人が殺されていたのは数多くの旅行者の証言からも明かだ。

続く。。。
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【座右之銘・136】『omnia scire, non omnia exequi.』

2023-01-08 21:28:26 | 日記
古代西洋の歴史家といえば決まって「歴史の父」とよばれたギリシャ人のヘロドトスの名前があがる。確かにヘロドトスの歴史はその名に恥じない内容とストリーの面白さがある。大学生の時に始めて読んで「歴史ってこんなに面白いんだ!」と眼からうろこであった。ヘロドトスを読んでいたほぼおなじ頃に、中国の「史書の祖」ともいうべき司馬遷の『史記』も読んでいて(少々大げさに聞こえるかもしれないが)「魂がぶち抜かれる」ほどの強い衝撃を受けた。

私は高校卒業までは、英語が得意だったことを除けば、完全な理系人間で歴史や地理などの暗記ものは全くの苦手としていた。それで、大学受験が終わり大学に入学したあとは、世界史や日本史に関する書物には食指が動かなかった。ところが、ヘロドトスと司馬遷を読んで歴史ものの面白さを発見して、分かったのは私が苦手としていたのは、「暗記もの、年表もの」であって、決して「歴史書そのもの」ではなかったことだ。つまり、そこまで私を歴史から遠ざけていた元凶は、汗臭い人間ドラマをあたかも不潔なゴミであるかのように除菌処理し、政治体制・君主・王朝名など乾いた名称を覚えやすいように整理されていた教科書や学習参考書であったということだ。こういうことが分かって以降、私は俄然、歴史そのもの、つまり「歴史の原典」に向かっていった。
この経緯は、『教養を極める読書術 ― 哲学・宗教・歴史・人物伝をこう読む』の第3章に書いた。


 "Agrippina Landing with the Ashes of Germanicus"

そのような「歴史の原典」のうちにタキトゥスの『年代記』(岩波文庫)はあった。タキトゥスの描く時代は、ローマが共和政の絶頂期を過ぎて帝政期に入り、政治的には翳りが忍び寄ってきた時代だ。陰湿な政治的駆け引きが悲劇的な事件を次々と生んでいった。その犠牲者の一人が初代のローマ皇帝・アウグストゥスの家系につらなるゲルマニクス(ゲルマニクス・ユリウス・カエサル)であろう。ゲルマニクスは将軍として各地を転戦して戦果を挙げたが、小アジアに進軍中、妻子を残して急死した。妻のアグリッピナは幼子二人(そのうちの一人が後の暴帝・カリグラ)を連れて、船でローマに戻った。そして、ゲルマニクスの遺灰の入った骨壺(urn)を抱えて上陸したという場面は、次のように記されている。

【ラテン語原文】Postquam duobus cum liberis, feralem urnam tenens,egressa navi defixit oculos, idem omnium gemitus;
【私訳】(アグリッピナが)骨壺を抱き、二人の息子の手をひいて伏目がちに下船したとたん、皆が嗚咽にむせんだ。
【英訳】When, clasping the fatal urn, she left the ship with her two children, and fixed her eyes on the ground, a single groan arose from the whole multitude;
【独訳】Als Agrippina nun mit ihren beiden Kindern, die Aschenurne tragend, mit gesenktem Blick das Schiff verließ, da erscholl ein einstimmiges Wehklage;

幼子を連れた若い未亡人に、港に出迎えた皆が思わず涙したという絵になる場面だ。たまたま、この部分を読んでいた時(1986年)東京上野の近代美術館でターナー展があり、このシーンを描いた絵が展示されていたのが、今も強く記憶に残る。また、ロンドンの National Gallery of Arts ではターナーの油絵だけでなく水彩画の絵が一部屋に所狭しと展示されていて、その巧みな筆さばきはまるで水墨画だと感心した。

その後、ラテン語を自習し、ある程度ラテン語が読めるようになってLoebやReclamの対訳本を頼りにして、タキトゥスの原文を読み解いていた時、他の文人とは次元の異なる、含蓄豊かで引き締まった文体に「これはまるで漢文だ」と驚いた。今回、紹介するのもそのような句だ。
 omnia scire, non omnia exequi.
(全てを知りながら、必ずしも全てを罰はしなかった)

これは、タキトゥスの岳父にあたる軍人・アグリコラの伝記 "Agricola"にある一節である。アグリコラは現在のイギリスに総督として赴任したが、部下や現地人が間違いを犯しても、それを知りつつ、不問に付したケースも多々あったという、寛大な人格者であった。タキトゥスは身内びいきでアグリコラの伝記を書いたのではなく、ローマ市民の鑑として書いたのである。中国の古語にも「水至清則無魚、人至察則無徒」(水、至って清ければ則ち、魚なし、人、至って察ならば則ち、徒なし)という言葉がある。リーダーシップの要諦とでもいうべき言葉だ。
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百論簇出:(第268回目)『ブログ連載、5000日を迎えて ― 原典を読む重要性』

2023-01-02 10:32:30 | 日記
今日で本ブログ開始後、5000日を迎えた。

本ブログを始めたのは、今から14年近く前の、2009年4月25日であった。当時、私は京都大学の産官学連携本部の准教授をしていて、リベラルアーツの授業を 4つ受け持っていた。 2つは、京都大学の教養課程の京大の学生向け、あとの2つは交換留学生向けの英語の授業であった。当初は授業で伝え忘れた、あるいは補足する内容を書くためにこのブログに記事を書いていた。書くべきことが次々と浮かんできたので、ほぼ毎日のように書いていた。2年程そうしていたが、次第に書くべきことが少なくなり、2周年を迎えて【減筆宣言】をした。

2012年に京都大学を辞してからは、フリーランサーとして、リベラルアーツに関する講演や収録、および企業研修をしてきた。その中でも感慨深いのはなんといっても、8冊の本を出版できたことだ。確かに、ブログは自由に意見を発信できるメリットはあるものの、情報発信のリーチ(到達範囲)が限定的だ。それに比べると、本はブログの100倍ほど面倒ではあるが、それでも社会全体に対して発言することができる。この意味で、アップルシード・エージェンシー社、とりわけ栂井理恵さんのご尽力で多くの本を出版できたことに感謝している。

さて、昨年(2022年)は、日立評論のWebサイトに科学技術史の記事を連載して頂いた。この内容は下記の通りだ。

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第1章]科学・技術史を学ぶ必要性
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol05/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol06/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol07/index.html

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第2章]ギリシャ科学技術概説
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol13/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol14/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol15/index.html

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第3章]ローマ・ヘレニズム科学技術概説
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol18/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol19/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol20/index.html

これら9本の連載記事(続編もあり)では意図的に、個人的体験を前に出す書き方にした。というのは、一般的な説明であれば、すでに関連図書がかなり多く存在しているので、何も私がしゃしゃり出て書くまでもないことだ。しかし、私の個人的体験を入れて書くことで、日本の学界・社会・製造業界が抱えている雑多な問題点を主観的に批評することが比較的やりやすくなった。つまり、工学部でも科学技術史は大学では教えてもらわなかったし、私自身も学ぼうという気が湧かなかった、という率直な感想を述べた。私が特別に「アンチ科学技術史」であったということでなく、当時(1970年代)の日本の理科系学部では軒並みそうであったではなかろうか。拡大解釈すれば、これは私の個人的問題ではなく日本全体の問題だということだ。



日立評論の科学技術史の連載を書きながら再認識したのは原典を読む重要性だ。

「原典を読む」は何も科学技術史に限ったことでなく、歴史、文学、哲学、宗教、思想など全てに於いて、重要だ。現在、SNAなどのショートメッセージ主流のサイトによって、日本人の読解力や文章構築力はかなり低下していると私は感じる。この傾向を助長しているのが「あらすじで読む…」式のダイジェスト版の出版だ。よく似た意味で、NHKの番組「100分de名著」も問題を感じる。このような形式で、名著に対して関心を喚起すること自体は全く悪くないと思っているが、これだけであたかも原典を読んだ気になって、本当の原典を読むに至らないのは、誠に勿体ない。ご存じのように、徒然草の第52段に、石清水を詣でた法師が山の麓まで来て、山頂の本殿に参らずに帰ったという話がある。兼好はせっかくのことに勿体ないとして「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」とのコメントを最後に記している。

あらすじを紹介した抄本や解説書はあたかも車で高速道路を走るような感覚で、安定感はあるが驚きはない。それに反し、現代とは異なる価値観や人生観によって書かれた原典を読むのは原野の中を四輪駆動でがたがたと走るようなもので、常に予想もつかない事態に出会う驚きに満ちている。つまり、原典には常に刺激的な発見がある。是非、「あらすじ」や解説書で済ませてしまうのではなく本体の原典に取り組んでほしい。始めは原典など、とっかかり難いと思われるかもしれないが、思い切って読んでみると案外読みやすいことに驚かれることだろう。

さて、日立評論の連載では、科学技術書の原典を多く紹介したが、私自身を振り返っても、解説書で記憶に残る本は少ない。原典はなぜだか長く記憶に残るから。もっとも原典といっても原語で読むのは流石に難しいので、和訳でよいからチャレンジして欲しい。ただ、英語は勿論のこと、英語以外の語学にも挑戦する、という心構えで原書にアタックすることをお勧めする。英語は現在のグローバル環境では他のどの言語より重要なのはいうまでもない。現在、英語力向上のためにTOEICのドリルを学ぶ人は多いが、英語 「を」 学ぶのではなく、英語 「で」 学んでほしい。つまり、ドリルではなく自分の興味のもつテーマの英書を読むことだ。

原典や原書に私がこだわるのには、理由がある。

半世紀も前の高校生の時、大学受験雑誌に、釜洞醇太郎・大阪大学学長の 4センチ角ほどの小さなコラムが載っていた。釜洞氏の専門は医学であるが「原典・原書を読め」との文句が強烈に私の脳に突き刺さった。この言葉に背を押されるように、私はなるべく原書にアタックした。当初は英語しか出来なかったが、ドイツ留学を機にドイツ語も楽に読めるようになり、次第に他の言語(フランス語、ラテン語、古典ギリシャ語、オランダ語、漢文)に手を広げた。多くの言語に接して「英語だけ学んでいても英語は上達しない」ことに気づいた。というのは多くの言語を学ぶことで、言語の機能そのものに対する多くのリファレンスポイントを持つことができるからだ。それは我々の母国語である日本語を第三者的な視点で考えるきっかけとなる。喩えていえば、英語だけを学ぶのはあたかも一本の直線を伸ばすようなものだが、多くの言語を学ぶのは面的に伸びていくようなものだ。三角形でいえば英語だけというのは狭い基底の三角形で、高くなるとふらふらし、倒れそうであるが、多言語を学ぶと広い基底の三角形のようで、高くなっても安定性がある。

ただ、原典、原書を読むというのは、非常に時間がかかる。数ヶ月かかってようやく一冊の本を読了するような亀ペースではあるが、一日にビジネス書三冊のような安チョコな兔(うさぎ)ペースの読書からはとても想像できない奥深い世界を知ることができる。是非、トライしてみて欲しい。

【参照ブログ】
 【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』
 【麻生川語録・33】『鯨を一匹まるごと食べる式の読書法』
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