限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第355回目)『眼からうろこのイスラム理解が進む本(補遺2)』

2023-05-28 06:15:46 | 日記
前回に続いてイスラムに関する「眼からうろこ」の本、津田元一郎氏の『日本的発想の限界』を紹介しよう。この本の由来などは簡略ではあるが前回に触れたので、早速本文の紹介に入ろう。

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P.51-52 西側情報によると、ソ連軍が民衆を無差別に殺戮しているように宣伝されているが…(中略)、ソ連の開発援助の専門家家族がゲリラから耳を裂かれ、鼻をけずられ、眼玉をえぐられるといった残虐な処刑を受けている。

P.52 (アフガニスタンのような)遊牧社会においては略奪は美徳とさえ考えられている。。。

P.59 【要旨】アフガニスタンでは民主制が馴染まないという点について、地主が所有する大土地を小作人に均等に分配することは逆に紛争をもたらすという。というのは、一番肝心なのは「水」であり、部族を代表する地主がお互いに話し合いで水管理することで、小作人が安心して土地を耕せるという。地主を追放したら、小作人同士が水管理で紛糾してまとまらないという。(松浪健四郎『誰も書かなかったアフガニスタン』からの引用)

P.89 遊牧・オアシス社会の人間は、洗練された外交性と一定の開放性をもっている。(中略)その柔軟な表層をこえると、その奥にはきわめて強固な砂漠的人間の核があり、その核までゆくと、異国の人間ははじき返される外はない。それはきわめて強固な閉鎖性である。西欧人にも表層の奥に核があるといわれているが、遊牧・オアシス民の核の固さは、西欧人さえ悲鳴をあげる性質のものである。ましてや、中心核まで柔軟構造質で構成されている日本人には、遊牧・オアシス民型人間は最も適応困難なタイプの人間である。



P.93 イラン人には二つの顔がある(中略)表面では忠節と尊敬を、裏面では敵対と軽蔑をうまく使い分けている…(中略)オアシス社会においては、人間は常に両手で別々の人間と握手し、時の移りゆきで(顔の向きを変えるが)…それは彼らにとっては「裏切り」でも「寝返り」でもない。

P.93 日本人のように日本的忠誠と誠実で、一方とだけしか手を結ばず、背中で、別の手で、別の相手と手を結ぶことをいさぎよしとしない日本的心性はイラン人にはわかり難い。(文章を一部変更)

P.110 乾燥社会(i.e. 遊牧・オアシス社会)の人間は、その表層においては明るく友好的であっても、その奥のパーソナリティーの核はひどく固く、利己的、自己中心的であり、何かがあると、その奥のひどく固い核の部分が強い自己主張として攻撃的に出る。

P.121 実験、実習、実証などの精神はおよそイラン人には似つかわしくない。


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津田氏は、現地アフガニスタンでの日本の政治家・外交官の言動がいかに稚拙かということを何ヶ所かで厳しく指摘している(P.36、P.57)。つまり、表面だけを口先だけでつくろえばいいというような日本式の儀礼が現地人にはまったく響かないし、逆にバカにされるという指摘だ。結局、この本での津田氏の指摘を一言でまとめると次のようになるだろう。
 「日本的情緒のままでは、砂漠・オアシス・遊牧民といった範疇の人間、すなわち梅棹忠夫のいうユーラシア内部の「古典国家」の人たちには到底太刀打ちできない」

この本には、イランやアフガニスタンのような遊牧・オアシス民だけでなく東南アジアの人々についてもページが割かれている。その部分の関心の焦点は、日本とイギリスの東南アジア諸国に対する統治姿勢の差だ。日本が戦中だけでなく戦後も長らく、東南アジアから嫌われた根本の理由は日本語教育の強制をはじめとして、宮城遥拝のような強引な同化政策であった、ということだ。イギリスは徹底して現地民に対しては非干渉を貫いたという。例えば、マレーシアでは現地の学童の健康状態を調査して、 8割を超える学童が回虫を持っていることが分かったも何らの処置を施していない。植民地から収奪することを考えていたのがイギリスということだが、結果的にその方が国民から支援されることになったとは皮肉な話だ。
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智嚢聚銘:(第30回目)『中国四千年の策略大全(その 30)』

2023-05-21 07:35:53 | 日記
前回

中国の書物(現代文ではなく、漢文)を読んでいてしばしば感じるのは漢字に対する思い入れや親密度が中国人の方が日本人より遥かに強い、ということである。一例を挙げると、漢字を使ったクイズが中国には多くある。魏晋時代の説話を集めた『世説新語』の《捷悟編》には魏の曹操が楊脩と謎の文字列を解く速さを競った次の話が載せられている。

【大意】魏の武帝と楊脩がある石碑に「黄絹幼婦、外孫虀臼」と書かれているのを見て、武帝が楊脩に「この意味が分かるか」と尋ねると、楊脩は即座に「分かる」と答えたが、曹操は分からなかったので、一人で考えたが、三十里ほど行ってようやく分かった。二人で解釈を見せあった。「黄絹は色付の糸のなので『絶』、幼婦は少女なので『妙』、外孫は女の子なので『好』、虀臼とは辛を受け入れるので『辭』(辞、受+辛)、つまり『絶妙好辞』だ」ということ。これから、「武帝は楊脩の知恵に遅れること三十里」を意味する「有智無智三十里」や「黄絹幼婦」という成句ができた。

【原文】魏武嘗過曹娥碑下、楊脩従、碑背上見題作「黄絹幼婦、外孫虀臼」八字。魏武謂脩曰:「解不?」答曰:「解。」魏武曰:「卿未可言、待我思之。」行三十里、魏武乃曰:「吾已得。」令脩別記所知。脩曰:「黄絹、色糸也、於字為絶。幼婦、少女也、於字為妙。外孫、女子也、於字為好。虀臼、受辛也、於字為辞。所謂『絶妙好辞』也。」魏武亦記之、与脩同、乃歎曰:「我才不及卿、乃覚三十里。」

このようにクイズだけでなく、漢字の意味から未来を予言することは次に紹介するような話にあるように、中国では昔からよく行われていた風習である。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 686 / 梁武帝】(私訳・原文)

南宋の紹興の時(1140年ごろ)、熊が永嘉城の所に現われた。城を治めていた高世則が副官の趙元縚に次のように言った「熊の字を分解すると『能火』となる。皆、火に気を付けるように。」その後、数日して、予感が的中して、官民の家が17、8軒焼失した。また、弘治 10年(1497年)6月、北京の西門から熊が市内に入った。兵部郎中の何孟春は、また火に用心せよと言った。それから暫くして礼部省が火事にあい、直後には乾清宮が炎上して倒壊した。

紹興己酉、有熊至永嘉城下。州守高世則謂其倅趙元縚曰:「熊、於字為『能火』。郡中宜慎火燭。」後数日、果焼官民舎十七八。弘治十年六月、京師西直門有熊入城、兵部郎中何孟春亦以慎火為言。未幾、礼部火、又未幾、乾清宮毀焉。
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火事についていえば、昔の日本でもしょっちゅう発生していた。江戸時代、江戸の街は実に90回もの大火事に遭っている。つまり、高世則が火事を予言したといっても別に未来が分かったのではなく、統計的に簡単に言えたはずということになる。


次は、漢の劉邦の話で、司馬遷の『史記』などにも載せられているのでよく知られている話だろう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 688 / 漢高祖唐太宗】(私訳・原文)

漢高祖(劉邦)が柏人という村を通った。ここで宿泊しようとしたが、胸さわぎがして地名を問うと「柏人」という。柏人とは「人に迫る」ということだ。それで宿泊せずに立ち去ったが、後から聞くと、あやうく貫高たちに殺されるところであったという。というのは、劉邦は趙王に対して無礼に振る舞ったので、貫高たちが腹をたてて暗殺しようとしたのだった。

漢高祖過柏人、欲宿、心動、詢其地名、曰「柏人」、柏人者、迫於人也。不宿而去。已而聞貫高之謀。高祖不礼於趙王、故貫高等欲謀弑之。
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『智嚢』の《捷智編》には、上に紹介した以外にもいろいろな例が挙げられている。一種の語呂合わせ、つまり「解字」といういわばお遊びのように思えるが、中国人はなかなか真剣に意味解きに取り組んでいる。それは、出世や生死など大きな事態に関連してくると考えていたからであろう。それに反して、日本の故事成句でこのような「解字」に似た例といえば、私は徒然草・188段にある登蓮法師が「ますほの薄、まそほの薄」の意味を聞くために、雨の中を急いで行った話を思い出す程度でしかない。考えてみれば、ひらがなやカタカナのように漢字以外に逃げ道がある日本語と異なり、ローマ字と数字を除いては、漢字しか表現文字がない中国人は受験でいえば、浪人も出来ないし、私学も受けることができなく、国立大学一発勝負に挑む受験生に喩えられよう。

続く。。。
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沂風詠録:(第354回目)『眼からうろこのイスラム理解が進む本(補遺1)』

2023-05-14 10:40:53 | 日記
アフガニスタンと言えば、医師として、また人道支援家として長年同地で尽力したにも拘わらず、無惨にも2019年に武装勢力の襲撃に落命した中村哲氏が記憶に新しい。中村氏は、アフガニスタンの人に深い愛情を注いだが、アフガニスタンはその愛に報いるに憎しみをもってした。

前回、イスラムに関して「眼からうろこ」の本として大島直政氏の『イスラムからの発想』(講談社現代新書)を紹介したが、それにも優るとも劣らないのが津田元一郎氏の『アフガニスタンとイラン』『日本的発想の限界』の2冊で、イスラム(特にアフガニスタン)に関して、情け容赦のない厳しい現実が極めて率直な筆致で描かれている。



今回と次回に渡ってこの2冊を紹介しようと思うが、今回は先ず『アフガニスタンとイラン』(アジア経済研究所)の内容を紹介しよう。

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P.22 (要旨)アフガニスタンの荒野に病人が置き去りにされている実態をみて津田氏は驚いた。

そこから遊牧世界の人間の共通認識として本多勝一氏の『アラビア遊牧民』から次の文句を引用する。

P.22 「『孤高、獰猛、猜疑心』。遊牧民のパーソナリティは、北のモンゴロイドからアラブのコーカソイドを経て南のネグロイドに到るまで、民族や人種を超えて共通なものがあるようだ。」

P.26 一人一人はあくまで一人一人であり、家族と家族、部族と部族もまたばらばらである。ばらばらの個人、ばらばらの種族が結合するのには、一見、巳主敵契約や妥協の原理が働く。しかし、心の底は、あくまで、猜疑と反目にみちている。

P.40 (信頼していた使用人に机の上に置いた金貨を盗まれて)この国では、かぎをかけていないものは、ましてや机の上に置いたようなものは、紛失しても所有者の方に責任がある。

P.65 先進諸国のおびただしい経済援助は、この貧しい国(アフガニスタン)の王様を世界有数の金持ちにしてしまった。(中略)国家と王室との区別も定かでないうち、国家の収入も先進諸国の経済援助も、どんどん王様個人の預金に流れ込んでしまったのだ。

P.68 (津田氏はカブールを離れる時に、冷蔵庫を現地の友人に譲ったが、その時鍵付きの冷蔵庫が普通ということを知ったが、これに関連して石田保昭氏の『インドで暮らす』の次の文句を引用する。)「(インドの中央政府の役人の)妻は電気冷蔵庫にさえ常に鍵をかけ、風呂にはいる時には鍵のたばを持ってはいるのである。下男をまったく信用していないのである。」

P.71 アフガニスタンにおいて、相手の生存そのものをおびやかすものでない限り、「盗み」は盗みではない。したがって、「汝盗むなかれ」という強い戒律があり、人びとの心に強い信仰が生きている世界なのに、「盗み」は横行し、日常化している、と責め、偽善だ、と非難するのは、日本人側の誤解である。

P.78 マレーシア人は互助の観念が強い。(中略)イスラムの「喜捨」の教えがマレー伝統の共存の原理の哲学となっている。しかし西南アジアのイスラムの「喜捨」の感じは、いささか性質が違う。そこでは、もともとマラヤの農村的助合いの原理ではなく、遊牧民的掠奪が原理となる。

ここで津田氏が指摘するのは、イスラム教という宗教の戒律より各地に伝統として伝わっている習慣の方が人々の行動規範に遥かに大きな影響を持つということだ。この意見に私も同感で、従来から世界各地の文化圏を正しく理解するには、欧米の市民社会の社会観や倫理観の影響が少なかった19世紀までの生活実態を知ることが肝要だと次のブログで述べている。
沂風詠録:(第258回目)『19世紀までの公式で現代問題が解ける』
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さて、津田氏は本書の最後を次の文句で結んでいる。
「私は、文化は、およそ、その世界のこころになり、その世界に身を沈めなければ、正しく把握できないのだ、と信じている。だからこの私の生活体験的人間論も、文化や人間の思想をその根底からと把えたいと願っている人びとの役に立ちうると信じている。」

この考え方の基本は次に紹介する『日本的発想の限界』にも通底している。
続く。。。
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智嚢聚銘:(第29回目)『中国四千年の策略大全(その 29)』

2023-05-07 08:59:17 | 日記
前回

日本は、中国から多くの文物、制度を取り入れている。それで、ついうっかり名称が同じであれば、内実も同じだろうと勝手に考えてしまいがちだが、名称は同じでも内実はかなり異なる例は多い。儒教もその一つである。儒教は古くは飛鳥時代に仏教と共に渡来してきたことは誰もが知っている。一部の知識人たちの間で、儒教に関してのいくばくかの知識が共有されていたことは徒然草の記述からもわかるが、庶民に広まったのは近世・江戸時代といっていいだろう。もっとも、鎌倉時代に書かれたという児童向けの初等教科書である『童子教』『実語教』には儒教的文句は見られるものの、これは儒教の直接的影響というより、日本古来の道徳心を表現したものと考える方が妥当だと私は考える。

徳川家康が本格的に(朝鮮)儒教を導入したことで、江戸初期から日本では論語を初めとした経典の訓点本が広まった。この時、儒教の中心概念がすり替えられた。中国では儒教の中心は「孝」や「先祖崇拝」という家族内道徳であったが、日本では幕藩体制を維持するための思想である「忠」が中核に据えられた。これは朱子学の正閏論だけを極大化したもので、中国の儒教本来の概念を恣意的に歪めたまま日本に定着した。

次の話を読めば日中の儒の概念の差が極めてよく分かるだろう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 672 / 杜鎬】(私訳・原文)

北宋の儒者・杜鎬の兄が江南で法官をしていた時、村の子供が父の画像を傷つけたと訴えられた。近親者の証言もあったので、杜鎬の兄はどのような法律で裁けばいいものか分からず困っていた。杜鎬はまだ子供であったが、その話をきくと「僧侶や道士が皇帝の肖像画や仏画を傷つけたのと同じ条文を適用すればいいではありませんか」と助言したので、兄はすごい弟だと思った。

杜鎬侍郎兄仕江南為法官。嘗有子毀父画像、為近親所証者、兄疑其法未能決、形於顔色。鎬尚幼、問知其故、輒曰:「僧、道毀天尊、仏像、可以比也。」兄甚奇之。
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杜鎬の兄が困ったのは、「孝」が最優先される中国では父の肖像画を傷つけるのは極めて重大な犯罪であるが、それで死刑のような重罰を課してよいものかどうか、と迷ったからだ。まだ幼い杜鎬が兄に優って適切な判決を助言した、というのがこの話である。子供のころから英知あふれる杜鎬は、同時に誠実な人柄であったようで、『宋史』巻296には次のような話が載せられている。

【大意】杜鎬は博聞強記であり、自分で調査した個所は尽く暗記していて、係員に「この事はこの書の第何巻の何行目にある」と述べるが、一度たりとも間違えたことはなかった。帝が珍しい本を入手する度に呼ばれたが、いつも内容を抜粋したメモを手にしながら説明したので、帝はたいそう喜ばれた。(中略)50歳を超えても、連日、古典の書、数十巻を読破していた。役所に宿直した日などは、朝の太鼓で目が醒めるとすぐさま《春秋》を朗誦した。大官になってもわずかに雨風が凌げる粗末な家に20年ものあいだ住み続けた。(中略)性格は穏やかで、清廉で模範的な言動で官僚や文人仲間たちから尊崇されていた。

【原文】鎬博聞強記、凡所検閲、必戒書吏云:「某事、某書在某巻、幾行。」覆之、一無差誤。毎得異書、多召問之、鎬必手疏本末以聞、顧遇甚厚。士大夫有所著撰、多訪以古事、雖晩輩、卑品請益、応答無倦。年逾五十、猶日治経史数十巻、或寓直館中、四鼓則起誦《春秋》。所居僻陋、僅庇風雨、処之二十載、不遷徙。燕居暇日、多挈醪饌以待賓友。性和易、清素有懿行、士類推重之。



次は、日本人には真似のできない、中国の統治法についての逸話だ。「上に政策あれば、下に対策あり」と言われるように、中国の政治の実体は極めて複雑で、本当の姿が見えないことが多い。政令の言葉の表面づらにこだわってはいけない。囲碁で「左を撃たんとすれば、右を撃て」とのことわざがあるが、中国の政治はまさにこの文句を地で行く。次の話のような融通無碍な点が中国の人治と言われる所以といえよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 684 / 虞世基周之屏】(私訳・原文)

明代、周之屏がベトナム(南粤)に居たとき、張居正が田を測量せよと命令した。役人たちは小さな田が多いので測量は困難だと思った。また、情況を視察した役人たちも役所に戻ると張居正に同じように「無理だ」と説明した。張居正はそれでも「ただ測量せよ」と大声で叱った。それを聞いた周之屏は何かを悟ったらしく、一礼するとさっさと出て行った。その他の役人はどうすればいいか分からずお互いにひそひそと話し合うばかりであった。張居正は笑って言うには「今、部屋を出て行ったものは物分りのいいやつだ」。 役人たちは、外に出ると、周之屏に「一体どうなっているんだ?」と尋ねた。周之屏は「張公の本音は測量するという行為でベトナム人に国法が存在することを知らしめたいだけなのだ。測量が難しい田があるのはとっくにご承知のはずだ。どの田を測量するかは、我々が勝手に決めればよいことなのだ」。役人たちは「な~るほど」と了解した。

周之屏在南粤時、江陵欲行丈量、有司以瑤僮田不可問。比入覲、藩、臬、郡、邑合言於朝、江陵厲声曰:「只管丈。」周悟其意、揖而出。衆尚囁嚅、江陵笑曰:「去者、解事人也。」衆出以問云何、曰:「相君方欲一法度以斉天下、肯明言有田不可丈耶?伸縮当在吾輩。」衆方豁然。
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本編の主人公の張居正は、硬骨の臣という名に相応しい人物だった。ただ、改革を強引に推し進めたので、死後に弾劾されて一家滅亡の悲劇を生んだ。残念ながら、秦の商鞅を初めとして中国ではこのような例に事欠かない。この現象は今なお存しているように私には思える。

続く。。。
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