限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第2回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その1)』

2021-01-31 22:19:08 | 日記
『教養を極める読書術』は、昨年の11月に出版された私の本である。自分で書いた本を読書レビューするのは、いささか自己撞着的ではあるが、読み返してみると、いくつかの場所で説明不足や、書き足りなかった点が見つかった。ドイツの文豪・ゲーテはドイツ文学の傑作といわれる畢生の作『ファウスト』を書き上げたが、死ぬまでに何度も書き直したと言われる。ゲーテの顰に倣う訳ではないが、私も自分の本に対して、第三者のつもりで足りない点を指摘したい。



〇 人はいかに生くべきか?(P.3)

本書では、冒頭に「人類4000年の特等席からの見晴らし」という文句を掲げた。この文句は本ブログの副題ともなっている。私は文化や文明は必ずしも時代と共に発展するとは考えない。例えば、ギリシャ彫刻や中国書道を見てもわかるが、2000年や1500年前に作られたものがいまだに世界の最高傑作と目されているものがたくさんある。現代が掛け値なしで古代より優れているものと言えば物質と情報の面であろう。確かに食い物は古代、中世より質・量ともけた違いに優れている。料理法も格段に進歩している。しかるに文化面でいえば、彫刻や書道だけでなく、進化どころか随分と退化している物が多くある。

例えば、自分の頭でしっかりと考えることができなくなっている日本人の若者が増えているようだ(下記記事参照)。偏差値教育やゆとり教育の弊害だと言えるが、本質的には、戦後日本が経済的に豊かになり、何も真剣に考えなくてもそこそこ生きていくことが可能になったのが、主原因であろうと私には思える。現在との比較で言えば、幕末明治の大変革時に、圧倒的に少ない情報や知識でありながら、30歳そこそこの若者たちが自分の頭で考えて、国を誤まらずに舵とっていったことを思えば、現在の政治家の不甲斐なさが一層際立ってくる。

【参照記事】
学力の低下現象と新「学問のススメ」 ― 加藤尚武(京都大学) 1999年4月8日

現在の日本では、人生論や哲学・宗教に関して「口角泡を飛ば」して議論する、というような熱き魂の触れ合いが敬遠される。その点、欧米各国では生活水準は日本より高いものの、いまだに青臭い人生論や日本では滅多に見られない宗教論争などに熱心に参加する人が多い。これらの議論の様子は、次のYouTubeの動画で確認することができる。

〇Debate Islam is a Religion of Peace
https://www.youtube.com/watch?v=kGxxbqPSLR8


〇Dawkins on religion: Is religion good or evil? | Head to Head
https://www.youtube.com/watch?v=U0Xn60Zw03A

〇The God Debate: Hitchens vs. D'Souza
https://www.youtube.com/watch?v=9V85OykSDT8


〇Islam and the Future of Tolerance (Fixed Sound)
https://www.youtube.com/watch?v=sWclm4Bi4UM


このような雰囲気に囲まれて育つ人間とそうでない人間とは随分と思考の深味が異なる。もっとも、日本国内に住み、日本人とだけ付き合う人々には、このような白熱議論と無縁であったとしても、何ら実生活に困まることはないだろう。しかし、日本を出て海外で生活をする、あるいは日本に居たとしても常に外国人とビジネスをしたり、会話をしないといけないと間違いなく、彼我の思考の差に愕然とする事態に遭遇するはずだ。その時になれば何とかうまく切り抜けられるはず、と考えるのは、事態を甘く見くびっている。それなら、思考を深める即効薬はと探しても、思考の深さというのは一朝一夕につくものではない。十年単位で始めて可能なものだ。それも、与えられたドリルを間違わずにこなせば、得られるというような代物でもない。

「すき腹にまずいものなし」との諺にあるように、いくら美味い料理でも、食べたいという欲求がないのならうまくは感じない。それと同様、自分の心の奥底から湧いてくる探究心・向上心がなければ、どのような本を読んでも自分の血肉にはならない。思考を深めようとしても、興味や関心が本物でないと読書は長くは続かないだろう。推理小説やサスペンスドラマが人気なのは、続きを読みたい、観たいという刺激が途切れずに湧いてくるからだ。読書も、この境地に至れば自然と読む分量が増えてくる。

本書は、私の読書遍歴をかなりつっこんで書いたが、振り返れば、20歳の時の「徹夜マージャンの果てに」からすでに 40数年経過しているものの、まだまだ知らないことが日々数多く出てくる。富士山の麓には、どんな日照りでも尽きることなく、滾々と清水が湧く湧水池がいくつもあるそうだが、私の疑問も尽きることなく湧いてくる。それら疑問の根底に通奏低音のように流れているメインテーマは、ずばり「人はいかに生くべきか」という難問だ。本書は突き詰めれば、このテーマに私がどう立ち向かったのか、という供述書、あるいは告白書のようなものだ。

ところで、私は知識欲というのは愛欲や金銭欲同様煩悩の一形態であると思っている。つまり世間的に見れば結構な性質かも知れないがつまるところ、仏(ほとけ)から見れば知識欲旺盛の人間というのは(情報を)飲んでも飲んでも喉の渇きが癒されない哀しい業(ごう)を背負っているとも考えている。

続く。。。
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百論簇出:(第260回目)『日本人の英語の欠陥の特徴と改善案』

2021-01-24 22:12:42 | 日記
英語に上達したいと願っている人は多いだろう。とりわけビジネスパーソンにとっての英語は、会話力というより文章力の方がはるかに重要だと私には思える。瞬間的に消えてしまう会話ではなく、簡単なEmailだけでなく社内文書は長い間残り、英語力のレベルが言い訳のしようのない形で数多くの人の目に触れるからだ。文章力が向上すると自然と、語彙力も会話力も伸びてくる。それゆえ、英語に上達したいと思うならまず、英語の文章力を養うことが重要だ。ただ、そのレベルが日本語を直訳した「英借文」だめなことは以前のブログ、
 百論簇出:(第226回目)『英借文を卒業し、本格的な英文を書こう』
では説明した

私は、割合多く日本人学生、あるいは社会人の書く英語に接してきたと思う。というのは、まず、留学経験があるので、自分の英語力の貧弱さを克服しようと努めた。その後、2008年のCMUJ(カーネギーメロン大学日本校)のプログラムディレクターに就任して、実業界からアカデミアに移った。それ以降、2014年に京都大学の准教授を辞するまでの数年間に、かなり多くの日本人学生の英文を見てきた。というのは、この間に関西大学には非専任講師として、日本人+留学性向けの英語の授業を行ったが、テストは英語で課した。また、京都大学の一般教養授業では、授業は日本語で行うものの、テストは英語で答えを書かせた。さらに、京都大学の日本人+留学生向けの授業(KUINEP)は英語であったので、当然のことながらテストも英語であった。 2012年にアカデミアを去ってからも、某社でのリベラルアーツ講義では、受講者の英語力アップのため、受講者と私のやりとりはすべて英語で行うことになっている。

このように、数多くの日本人の書く英文を見てきた経験から、文法レベルの良しあしは別として、日本人に共通の欠点があるが、ここでは次の2点を指摘し、その対策を考えてみよう。

1.単語が固い。とりわけ一部の単語だけが突出している場合がある。

日本語では漢語が概念を伝達するのに主たる役目を負っているので、その感覚で英語でも固い単語(つまり、ギリシャ語、あるいはラテン語由来の難解語)を据えると意味が通じやすいと錯覚しているのだろう。それで、英文を書くときに、和英辞典を引いて出てきた単語をそのまま使っているケースが往々にしてある。これは、単語の語源に無関心であることに由来するが、それではいつまで経っても、このような悪癖から抜け出すことはできない。易しい単語を使って上手に表現することを学ばなくてはいけない。我々の書くような英語は、とりわけ英語のなかでも土着語(ゲルマン語系統のことば)をうまく使い回すことができれば固さがとれたといえる。それには簡単な英英辞典(開拓者の新英英大辞典やLongman Dictionary of Contemporary Englishなど)を普段から使うことで、自然と身に着く。

2.文章がブチ切れて、粘り強さに欠ける。

英語力が足りないときは、日本語で考えていることでもそれをどう表現してよいかわからないので、自然と、短文をづらづらと並べてしまうことになる。そうなると文章がブチ切れて、粗雑な感じを与える。そうなると、論旨が滑らかにつながっていない印象を与えるので、説得力に欠ける。

このような欠点をどう克服したらよいか? ここでは、次の2点に注意を喚起したい。
 A. 「語感センサー」を磨くこと。 
 B. 英語的なSyntaxを積極的にとりこむ


A. 「語感センサー」を磨くこと。

単語の選択は、つきつめて言えば、「語感センサー」の問題だ。単語に関するセンスが何を意味しているのか分かりにくいのなら、単語の代わりに服装を考えてみよう。私自身は服装に関してはセンスがないと自覚しているが、私のごく身近に、服装のセンスのよい御仁がいて、いつもうるさく注意される。たとえ、同じ服を見ても私の「服装センサー」には何も響いてこないのだが、その御仁の「服装センサー」にはビビッときて、すぐさま「これはセンスがいい。あれはダサい。」と判断できる。

これと同様、人それぞれ英語の「語感センサー」というものがある。英語の動画、たとえばTEDを観てある特殊な単語が聞こえても、全く「語感センサー」が働かない人には、素通りしていくが、「語感センサー」が敏感な人はその単語がビビッと耳にひっかかる。そうして、すぐさまその単語を辞書で調べようとする。たかが一つの単語でも、気にかかればすぐに調べる、という習慣を続けていくと、数年の間には雲泥の差がついてくることはいうまでもないだろう。このようになるには、英語に限らず、日本語も含め、言語・単語自体に興味をもつことが第一歩だ。とりわけ英語では、この第一歩が語源にたいする興味である。語源に興味がでてくると知らない単語を耳にした途端に「語感センサー」がビビッと反応する。

「語感センサー」が磨かれないまま、大量の英文を読み、英語を聞いても、まるでザルで水を掬うみたいに単語は頭に残らない、と私の経験から言える。というのは滞米20年や30年の長期滞在の日本人、それもアメリカ人と結婚している人でも、ブロークンのまま単語力も表現力もまったく低いレベルの人をアメリカ滞在中、よく見かけたからだ。「語感センサー」と同じぐらい重要なのは文法力であるが、文法力が足りないと長期滞在者でも語学力が伸びないことについては下記ブログ参照して頂きたい。

【参照ブログ】
百論簇出:(第77回目)『語学を伸ばすには、若いころの海外滞在が必須』

このブログでは、文法力だけを問題としたが、考えてみると、その根っこにあるのが、「語感センサー」の良し悪しではないかと最近思い当たるに至った次第だ。



それではどのようにすれば「語感センサー」を磨けるのだろうか?

私自身の経験では、やはり単語に関する関心を高めると同時に、単語に対するいろいろな疑問に応えてくれる辞書(漢文の研究では工具書という)を身近に備えることだ。

まず、英英辞典では、American Heritage Dictionary(ISBN:978-1328841698)が良いだろう。それもCollege Editionではなく、本式のものだ。これは、語源辞書もThesaurus辞書兼ねているといえる。これは、かなり大型の辞書で重く、片手で持つと手首を痛める恐れがあるが、非常に役立つ。また、シソーラス辞書単体としては、Roget's International Thesaurusがあり、手元に置くとよいだろう。語源といえば、ギリシャ語・ラテン語の知識(主に語彙知識)が必要なのは今さら言うまでもないことだろう。

また、英単語の意味を覚えても、実際にどのような時にどう使えばいいか、つまり活用の仕方が分からないのが実態だ。英和辞典や英英辞典では、確かに意味は分かるのだが、どうも使い方の痒いところには手が届いていない感が否めない。そのような時には、次の辞典がぴったりだ。
 『新編 英和活用大辞典―英語を書くための38万例』、市川繁治郎、研究社
新本の定価が2万円近くする高価な辞書であるが、思い切って買ってみよう(古本だと5000円位で入手できそうだし、電子辞書 CASIO Ex-word XD-H9100 もあるようだ)。使ってみると、すぐに非常に優れた辞書で、私も実感として強く感じるのだが、英文を書くときには頻繁に参照するが、いつも満足な説明が得られる。

B. 英語的なSyntaxを積極的にとりこむ

今回、「文章がブチ切れる」対策として特に言いたいのはSyntaxへの興味である。 Syntaxとは、文章構成のことであるが、日本語で文章を書くときにはあまり意識しないので、どういった点に気をつければよいのかわからない人がおおいことだろう。一つの例は、「英語では物が主体になるが、日本語では人が主体となる」ケースがある。日本語では絶対といっていいほど現れない表現に気をつけることが、重要だ。一例を挙げれば:

【英語】Heavy rain prevented me from attending the ceremony last night.
【日本語】昨晩は、強雨のために私は祭典に出席できなかった。

このような文に出くわした時に「同じ人間でもこのように感じ方が違うのだな!」と感じることができるかが分かれ目である。「語感センサー」が鈍いとこのような文章でも何も異様に感じ通り過ぎていくことだろう。

さて、Syntaxへの興味は、英語でも必要であるが、他言語(私の場合はヨーロッパ言語と漢文)をする時にはより一層必要となる。ヨーロッパ言語の中では、とりわけ古典語といわれる古典ギリシャ語とラテン語では、「語感センサー」にビンビンとくる。古典ギリシャ語やラテン語の本を読んでいると「なぜ、このような言い方をするのだろう? 込み入った言い方だが、スマートな言い方だなあ!」と感心したり、疑問に感じたりすることが頻繁にある。

例えば、ローマの詩人ホラティウス(Horatius)のラテン語の詩(Satire2-3、320)を取り上げてみよう。
【原文】haec a te non multum abludit imago.
【私訳】この画は実にお前の特徴をよくとらえている
【英訳】This image bears no great dissimilitude to you.
【独訳】Da nimm dir ein nicht unpassendes Gleichnis.


何気ない文章だが、原文のラテン語を英訳を使って語順通りにならべると次の文になる。
 This to you no great dissimilitude-bears image.

びっくりすることに、文頭の this は文末の image にかかっているのだ!つまり、一つの概念であるはずの「this image」が完全に分断されて、一文の両端に位置しているのである。英語だけでなく、広くヨーロッパ語にまで視野を広げて日本語では考えられない文章構成(Syntax)を知るというのは、最終的には「語感センサー」を磨くに大いに役立つはずだ。

【参照ブログ】
沂風詠録:(第324回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その29)』

あと、英語に限らず、文章を磨くには、文章を寝かせることが重要であることは、よく知られていることだ。時間をおくことで、自分自身の文章を客観的に分析することができる。

以上、簡単なアドバイスではあるが英語力向上に何らかのヒントを得て頂ければと願う次第だ。
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翠滴残照:(第1回目)『連載を始めるに当たって』

2021-01-17 21:46:41 | 日記
私が本格的に読書を始めたのは、以前のブログ『徹夜マージャンの果てに』でも書いたように大学3年生の20歳の時であった。振り返れば、すでに40年以上も前の話である。それから、濃淡はあったが、読書はずっと続けてきた。その経緯については、最近ビジネス社から上梓した『教養を極める読書術』に書いた通りである。

始めのうちは、本の著者に対しては敬意を払っていた。というのは、「自分の名前公にして、世の中に本を出すのであるから、まともに調べ、深く考えて書いているに違いない」と信じていたからだ。それで、丁寧に読んでいて、理解できない点があれば、自分の未熟さをはがゆく思ったものだった。

しかし、そのようにして何百冊かを読んでいくと、次第に納得できない記述に出くわすようになってきた。一例が、『教養を極める読書術』にも書いた、和辻哲郎の『風土』である。特段、和辻に恨みがあって個人攻撃をする訳ではないのだが、文化勲章を受章している人で学識も申し分ないはずだが、論理が通っていない、トンデモ本のように私には思えた。『風土』の最初の辺りには「ふむふむ」と読んでいたのだが、次第にどうもやりきれなくなって、途中から引き返して、再度初めから読み返してみた。その結果、はじめの個所にもやはりおかしい個所ばいくつか見つかった。和辻以外にも、トンデモ本はあるが、まだ存命中の著者もいるので、名前を出すのは控える。



いずれにせよ、『教養を極める読書術』でも書いたように、性根を入れて読書してみて始めてショーペンハウアー(Schopenhauer)が口をすっぱくして言っていた Selbstdenken(自ら考えること)の重要性を身に染みて感じた次第だ。実際、ドイツやアメリカの留学中にしばしば経験したが、欧米人と議論していると、時折、日本では経験したことのないような非常に鋭いつっこみに出くわすことがあった。何回も真剣な議論をしてみて、ようやく私は「健全な懐疑心」こそが欧米文化のコアであることを納得するに至った。それは元をたどればギリシャ精神にまでたどり着く。決して、キリスト教などではないことも重要な点だ。

ドイツやアメリカでの留学を通じて「健全な懐疑心」を肯定的にとらえることができた。そうすることで、そこまで何となく感じていた、世間の常識や伝統的な考え方に対する違和感の正体が明かになった。つまり、これらの常識や伝統的な考えかたにはゼロベースで理性的に考えると正しくないものがあるが、だれも敢えて異を唱えない。一例として、江戸時代の年貢を考えてみよう。歴史の授業などでは、農民に重税が課せられたと言われるが、理論的に考えると「年貢は四公六民以下」でないと辻褄が合わないにも拘わらず已然として、江戸時代は重税で農民は苦しい生活を強いられたと教える。(詳しくは次のブログを参照して頂きたい。)
惑鴻醸危:(第25回目)『定説への挑戦:江戸時代の年貢は四公六民以下だった!』

理論だけでなく、実際の記述をチェックしてみよう。江戸時代に長崎から江戸まで旅行した外国人の書き物がある。例えば、有名なのは、次の3冊:ケンペル『江戸参府旅行日記』、 C.P.ツュンベリー『江戸参府随行記』、シーボルト『江戸参府紀行』。彼ら口を揃えて、当時のヨーロッパの庶民より、日本人の方がよほど暮らし向きがよかった、と述べている。こういったことから、私が導きだした答えが間違いではなかったことを確信した。

このように、私は本に対し「健全な懐疑心」を持ち、「権威に寄りかかったり、屈する ことなく、自主性をもって読書」する方針を貫いてきた。この「翠滴残照」(すいてき・ざんしょう)ではそのような方針の成果として私の読書感想を綴ろうと思う。まず最初は、「隗より始めよ」という言葉にもあるように、私自身の最新刊『教養を極める読書術』を俎上に載せて批評しよう。ついでに、書き忘れたことや、書き足りなかった点も付け加えたい。

続く。。。
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沂風詠録:(第332回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その37)』

2021-01-10 17:00:37 | 日記
前回

D-1.ドイツ語辞書 ― 語源辞書

D-1-5 Wolfgang Pfeifer, "Etymologisches Wörterbuch des Deutschen"

共産圏というと今では死語となってしまったが、数十年前までは実際に存在していた。ドイツも東西に分かれていて、共産圏に属す東ドイツはDDR(Deutsche Demokratische Republik)と呼ばれていた。DDRを直訳すると「ドイツ民主共和国」となり、あたかも民主主義国家のような名称であるが、実際は、共産党の独裁政権で自由のないのはもちろん、ちょっとしたことでも密告されると秘密警察に連行されるという、国全体が監獄のようなところであった。

私は、ドイツ留学中の1978年に西ドイツからヒッチハイクで、東ドイツを横断して西ベルリンまで旅行したことがある。西ベルリンから東ベルリンに入るには、チェック・ポイント・チャーリーの税関を通る必要があるが、この時、強制的に西ドイツのマルクを東ドイツの安いマルクに不当に等価交換させられた。東ドイツの一番小さな一フェニッヒ硬貨などは、― 実際試した訳ではないが ― 水に投げ入れても浮いてくるほどの薄っぺらく、軽いものであった。東ベルリンには朝早くから夜遅くまで、丸一日滞在した。夜遅くに西ベルリンに戻って、国境から東ドイツのウンターデンリンデン(Unter den Linden)通りを見張らせる台の上から見た東ドイツの寒々とした光景は、数十年経った今でも忘れることができない。

さて、そのような暗澹たる社会ではあったが、東ドイツでもドイツ語の辞書作りへの熱意は消えることなく続いていたようだ。



今回紹介する、Pfeifer が主体となって作った『ドイツ語語源辞書』(Etymologisches Wörterbuch des Deutschen)は東ドイツで作成された。数十年の編纂を終えて、1986年に第一版が完成した。東西ドイツ統一の動乱のさなかの1989年に出版されたが、たちまち西ドイツも含めてドイツ語圏で大好評を博したようだ。

その後、ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー(BBAW)が無償提供する「ドイツ語電子辞典」プロジェクト(DWDS ― Das Digitale Wörterbuch der Deutschen Sprache)のサイトにもこの語源辞書が載せられるようになった。

この辞書の前言(Vorwort)によると、この辞書の編纂に当たっては、すでに存在している数多くの辞書(グリム、Kluge、Pokorny、Frisk、Walde-Hofmann、など)を参照したという。即ち、現在までの学術業績の集大成という、一見地味ではあるが、苦労の多い煩雑な作業の成果といえる。この前言で私にとっては新発見であったのが、ドイツ語の語源辞書の見出し語は8000語程度で十分であるとのことで、この辞書では見出し語は8054語としたという。この数が果たして他の言語に通用するのかは分からないが、私は個人的にはドイツ語は英語より、かなり少ない(だいたい半分程度)の単語を知っているだけでよい、と感覚を持っているが、それと合致する。

http://zwei.dwds.de/wb/etymwb/Eisen

さて、前回(DudenのHerkunft Wörterbuch)でも取り上げた Eisen(鉄)の部分を見てみよう。



他の語源辞書(Kluge、Duden)に比べてゲルマン系の単語の列挙がかなり多いことに気づく。古ドイツ語(ahd)、中世ドイツ語(mhd)、古ザクセン語(saechs)、中世低地ドイツ語(mnd)、オランダ語(nl)、古英語(aengl)、英語(engl)などなど。他の言語との比較だけでなく、更に一歩踏み込んで、Eisen の単語はゲルマン語固有の単語ではなく、バルカン半島に居住していたイリュリア族(Illyrier)の単語ではないだろうかとの推測を提示する。

私がこの辞書を知り、購入したのは去年なので、また十分使いこなしているとは言えないが、ちょっと使ってみただけで、すぐに素晴らしい内容であることは分かった。ドイツ語を学ぶ上で信頼できるたのもしい辞書がまた一冊増えたという感じがしている。

続く。。。
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【座右之銘・127】『Nunquam erit felix quem torquebit felicior』

2021-01-03 15:27:24 | 日記
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」とは言うまでもなくトルストイの名作『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文句。(Happy families are all alike;every unhappy family is unhappy in its own way.)

果たしてこの言葉が真理かどうかは別として、この言葉が正しいとすれば「幸福にはバリエーションが少ないが、不幸にはバリエーションは多い」と解釈できる。

しかし、歴史にはこの解釈と真逆の解釈ができるケースが多い。というのは、歴史を読むと成功したはずの人が、最後には不幸な目に遭って悲劇的な最後を辿る人が数多く登場する。つまり、幸福でもバリエーションが多いということだ。このような場合、嫉妬が原因であることが往々にしてある。他人からみると羨ましいほどの結構な暮らしをしていても本人はそのように思えないのだろう、自分より幸福な生活をしている人を妬ましく思う気持ちになってしまうようだ。それが、結局は不幸へ転落する道だ。

史実ではないという留保条件は付くが、 96億円ちかくの製作費をかけたといわれる最近( 2018年)の中国ドラマ『如懿伝 ― 紫禁城に散る宿命の王妃』に登場する、数多くの妃たちの争いはまさに「他人への嫉妬が、巡り巡って自らが没落する」の典型的シーンの連続といって過言ではない。ついでながら、このドラマはさすがに高額のギャラを払って名優を揃えている、と豪語するだけあって、絶秒なカメラワークで、ちょっとした表情やしぐさを捕らえ、ドラマの完成度を高めている。金をかけた以上の効果を出している、素晴らしい出来栄えのドラマといえる。

さて、時代や民族は違えど、この人間模様は古代のローマでもしばしば起こっていたようで、セネカの "De Ira"(『怒りについて』、3-30-3)では次のような警句が見える。
【原文】Nunquam erit felix quem torquebit felicior.
【私訳】自分より幸福な人が居ると思うだけで腹立たしくなる人はけっして幸福にはなれない。
【英訳】No person will be happy to whom a happier person is a torture.
【独訳】Jemand, den immer der Gedanke an die noch Glücklicheren quält, wird niemanls glücklich sein.
【仏訳】Il ne sera jamais heureux, celui que torture la vue d'un plus heureux que lui.

もっとも、このような戒めはすでに旧約聖書の十戒の最後の項目にも挙げられている。『出エジプト記』(20-17)には「隣人の持ち物を欲してはならない」との神の厳命があり、所有物としては「家、妻、奴隷、牛、ろば」が挙げられている。他人への嫉妬を戒めているのだ。逆に言えば、それだけ当時のユダヤ人の間では他人の富に対する嫉妬心が癒されないほど激しかったということの証左にもなろう。


(Thou shalt not covet thy neighbour's wife; thou shalt not covet thy neighbour's house; nor his field, nor his servant, nor his maid, nor his ox, nor his ass, nor any of his cattle, nor whatever belongs to thy neighbour. )


一方、中国では古来、あまり昇りつめて他人の嫉妬の犠牲にならないように、と戒めた言葉がある。易経に「亢龍有悔」(亢龍に悔あり)とあり、老子には、早めに他人の嫉妬を避けて引退せよ、と説く「功遂身退、天之道」(功遂げ身を退くは、天の道なり)という句もあるほどだ



つらつら考えるに、人間は万物の霊長と威張ってはいるが、自然界を見渡すと、動物は、確かに食べ物やメスを巡って時に血みどろの争いこそすれ、決して嫉妬からくるものではないし、人間より傷が浅い段階で分を弁えて引き下がる。その点からすると、人間において高度に発達したと言われる前頭葉が嫉妬を生んでいるとしたら、神様は人間に何と厄介な荷物を背負わせてくれたのだ、と恨み言を言いたくもなる。
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