(前回)
【339.救援 】P.4470、AD500年
『救援』とは「危険や困難にあっている人を救い助けること」。辞海(1978年版)によると「救」も「援」もどちらも「助也」と説明する。これから判断すると「救援」という単語に付随する「危険や困難にあっている人」というのは元来の「救」「援」のどちらにもないニュアンスであるが、2つが合わさって熟語になると付随してきたことになる。このように、熟語の意味はもともとの構成要素の字が明示的にもっている意味だけではなく、合成語となって implicit(暗示的)に付けられる意味もあることが分かる。
「救援」の類語には「救助、救済、救難」があるが、これらの4つの熟語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。これから分かるように、救XXという熟語は史記には見つからないし、春秋左氏伝にもない。これから逆算すると、史記や春秋左氏伝では「救」という一字ですでに「救援、救助、救済、救難」などの包括的な意味を表わしていたということと推測される。
さて、資治通鑑で「救援」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏と南斉の戦争が繰り返された。
+++++++++++++++++++++++++++
南斉の冠軍将軍、兼、驃騎司馬の陳伯之が再び寿陽を攻めてきた。北魏の彭城王・元勰が防衛した。援軍はまだ到着しなかったので、汝陰太守の傅永が郡兵、3000人を率いて寿陽を救いに行った。陳伯之が淮口を固く守っていたので、しかたなく淮口から20里(12Km)ばかり離れた汝水南岸の岸辺に船を揚げて、陸上を水牛に牽かせてまっすぐ南に向かい淮水に着くと船を川に下ろして淮水を渡った。南岸に上陸すると南斉の兵隊もやってきたので、夜になるのを待って、傅永は秘かに寿陽城に潜入した。城を守っていた元勰は大層喜んで、「わしは故郷のある北の方角を見て、恐らく洛陽をまた見ることはあるまいと思っていた。貴卿がやってきてくれるとは夢にも思わなかった。」と言った。元勰は傅永に兵士全員を城の中に入れるよう命じたが、傅永はその命令を拒絶し「私がここに来たのは敵を退けるためです。もし、ご命令のように私の軍を城に入れれば、殿下ともろとも敵の攻撃にさらされます。それでは救援の意味がないではありませんか!」と言って、軍隊を城外に野営させた。
冠軍将軍、驃騎司馬陳伯之再引兵攻寿陽、魏彭城王勰拒之。援軍未至、汝陰太守傅永将郡兵三千救寿陽。伯之防淮口甚固、永去淮口二十余里、牽船上汝水南岸、以水牛挽之、直南趣淮、下船即渡;適上南岸、斉兵亦至。会夜、永潜入城、勰喜甚、曰:「吾北望已久、恐洛陽難可復見、不意卿能至也。」勰令永引兵入城、永曰:「永之此来、欲以卻敵;若如敎旨、乃是与殿下同受攻囲、豈救援之意!」遂軍於城外。
+++++++++++++++++++++++++++
傅永は船に乗って、味方の元勰が籠城する寿陽に向かったが、川(淮水)の途中で敵が待ち受けていた。それで、12Kmほど手前で船を陸に揚げて、何十頭(あるいは何百頭?)の水牛を使って船を陸上運搬した。
船を陸上で運搬するのは、非常に労力のかかることだと思うが、ギリシャでは昔からよく行われてきたことであるようだ。ローマの博物学者のプリニウスの『博物誌』(巻4-5)にはギリシャのぺロポネス半島の付け根のコリント地峡では小型の船は運搬車に載せてサロニコス湾とコリントス湾の間を移動させたという。北欧のヴァイキングも川を航行できない時は乗り組み員全員で船を担いで陸上移動したという。
日本ではついぞ陸上何キロにも渡って船を移動させるという智恵も技術も必要性もなかった。「必要は発明の母」であり、「戦争は技術の揺り籠」であることから考えると、日本では海運や水運の技術力が向上しなかったのも無理はない、と納得できる。
(続く。。。)
【339.救援 】P.4470、AD500年
『救援』とは「危険や困難にあっている人を救い助けること」。辞海(1978年版)によると「救」も「援」もどちらも「助也」と説明する。これから判断すると「救援」という単語に付随する「危険や困難にあっている人」というのは元来の「救」「援」のどちらにもないニュアンスであるが、2つが合わさって熟語になると付随してきたことになる。このように、熟語の意味はもともとの構成要素の字が明示的にもっている意味だけではなく、合成語となって implicit(暗示的)に付けられる意味もあることが分かる。
「救援」の類語には「救助、救済、救難」があるが、これらの4つの熟語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。これから分かるように、救XXという熟語は史記には見つからないし、春秋左氏伝にもない。これから逆算すると、史記や春秋左氏伝では「救」という一字ですでに「救援、救助、救済、救難」などの包括的な意味を表わしていたということと推測される。
さて、資治通鑑で「救援」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏と南斉の戦争が繰り返された。
+++++++++++++++++++++++++++
南斉の冠軍将軍、兼、驃騎司馬の陳伯之が再び寿陽を攻めてきた。北魏の彭城王・元勰が防衛した。援軍はまだ到着しなかったので、汝陰太守の傅永が郡兵、3000人を率いて寿陽を救いに行った。陳伯之が淮口を固く守っていたので、しかたなく淮口から20里(12Km)ばかり離れた汝水南岸の岸辺に船を揚げて、陸上を水牛に牽かせてまっすぐ南に向かい淮水に着くと船を川に下ろして淮水を渡った。南岸に上陸すると南斉の兵隊もやってきたので、夜になるのを待って、傅永は秘かに寿陽城に潜入した。城を守っていた元勰は大層喜んで、「わしは故郷のある北の方角を見て、恐らく洛陽をまた見ることはあるまいと思っていた。貴卿がやってきてくれるとは夢にも思わなかった。」と言った。元勰は傅永に兵士全員を城の中に入れるよう命じたが、傅永はその命令を拒絶し「私がここに来たのは敵を退けるためです。もし、ご命令のように私の軍を城に入れれば、殿下ともろとも敵の攻撃にさらされます。それでは救援の意味がないではありませんか!」と言って、軍隊を城外に野営させた。
冠軍将軍、驃騎司馬陳伯之再引兵攻寿陽、魏彭城王勰拒之。援軍未至、汝陰太守傅永将郡兵三千救寿陽。伯之防淮口甚固、永去淮口二十余里、牽船上汝水南岸、以水牛挽之、直南趣淮、下船即渡;適上南岸、斉兵亦至。会夜、永潜入城、勰喜甚、曰:「吾北望已久、恐洛陽難可復見、不意卿能至也。」勰令永引兵入城、永曰:「永之此来、欲以卻敵;若如敎旨、乃是与殿下同受攻囲、豈救援之意!」遂軍於城外。
+++++++++++++++++++++++++++
傅永は船に乗って、味方の元勰が籠城する寿陽に向かったが、川(淮水)の途中で敵が待ち受けていた。それで、12Kmほど手前で船を陸に揚げて、何十頭(あるいは何百頭?)の水牛を使って船を陸上運搬した。
船を陸上で運搬するのは、非常に労力のかかることだと思うが、ギリシャでは昔からよく行われてきたことであるようだ。ローマの博物学者のプリニウスの『博物誌』(巻4-5)にはギリシャのぺロポネス半島の付け根のコリント地峡では小型の船は運搬車に載せてサロニコス湾とコリントス湾の間を移動させたという。北欧のヴァイキングも川を航行できない時は乗り組み員全員で船を担いで陸上移動したという。
日本ではついぞ陸上何キロにも渡って船を移動させるという智恵も技術も必要性もなかった。「必要は発明の母」であり、「戦争は技術の揺り籠」であることから考えると、日本では海運や水運の技術力が向上しなかったのも無理はない、と納得できる。
(続く。。。)