限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第397回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その240)』

2019-04-28 10:06:04 | 日記
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【339.救援 】P.4470、AD500年

『救援』とは「危険や困難にあっている人を救い助けること」。辞海(1978年版)によると「救」も「援」もどちらも「助也」と説明する。これから判断すると「救援」という単語に付随する「危険や困難にあっている人」というのは元来の「救」「援」のどちらにもないニュアンスであるが、2つが合わさって熟語になると付随してきたことになる。このように、熟語の意味はもともとの構成要素の字が明示的にもっている意味だけではなく、合成語となって implicit(暗示的)に付けられる意味もあることが分かる。

「救援」の類語には「救助、救済、救難」があるが、これらの4つの熟語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。これから分かるように、救XXという熟語は史記には見つからないし、春秋左氏伝にもない。これから逆算すると、史記や春秋左氏伝では「救」という一字ですでに「救援、救助、救済、救難」などの包括的な意味を表わしていたということと推測される。



さて、資治通鑑で「救援」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏と南斉の戦争が繰り返された。

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南斉の冠軍将軍、兼、驃騎司馬の陳伯之が再び寿陽を攻めてきた。北魏の彭城王・元勰が防衛した。援軍はまだ到着しなかったので、汝陰太守の傅永が郡兵、3000人を率いて寿陽を救いに行った。陳伯之が淮口を固く守っていたので、しかたなく淮口から20里(12Km)ばかり離れた汝水南岸の岸辺に船を揚げて、陸上を水牛に牽かせてまっすぐ南に向かい淮水に着くと船を川に下ろして淮水を渡った。南岸に上陸すると南斉の兵隊もやってきたので、夜になるのを待って、傅永は秘かに寿陽城に潜入した。城を守っていた元勰は大層喜んで、「わしは故郷のある北の方角を見て、恐らく洛陽をまた見ることはあるまいと思っていた。貴卿がやってきてくれるとは夢にも思わなかった。」と言った。元勰は傅永に兵士全員を城の中に入れるよう命じたが、傅永はその命令を拒絶し「私がここに来たのは敵を退けるためです。もし、ご命令のように私の軍を城に入れれば、殿下ともろとも敵の攻撃にさらされます。それでは救援の意味がないではありませんか!」と言って、軍隊を城外に野営させた。

冠軍将軍、驃騎司馬陳伯之再引兵攻寿陽、魏彭城王勰拒之。援軍未至、汝陰太守傅永将郡兵三千救寿陽。伯之防淮口甚固、永去淮口二十余里、牽船上汝水南岸、以水牛挽之、直南趣淮、下船即渡;適上南岸、斉兵亦至。会夜、永潜入城、勰喜甚、曰:「吾北望已久、恐洛陽難可復見、不意卿能至也。」勰令永引兵入城、永曰:「永之此来、欲以卻敵;若如敎旨、乃是与殿下同受攻囲、豈救援之意!」遂軍於城外。
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傅永は船に乗って、味方の元勰が籠城する寿陽に向かったが、川(淮水)の途中で敵が待ち受けていた。それで、12Kmほど手前で船を陸に揚げて、何十頭(あるいは何百頭?)の水牛を使って船を陸上運搬した。

船を陸上で運搬するのは、非常に労力のかかることだと思うが、ギリシャでは昔からよく行われてきたことであるようだ。ローマの博物学者のプリニウスの『博物誌』(巻4-5)にはギリシャのぺロポネス半島の付け根のコリント地峡では小型の船は運搬車に載せてサロニコス湾とコリントス湾の間を移動させたという。北欧のヴァイキングも川を航行できない時は乗り組み員全員で船を担いで陸上移動したという。

日本ではついぞ陸上何キロにも渡って船を移動させるという智恵も技術も必要性もなかった。「必要は発明の母」であり、「戦争は技術の揺り籠」であることから考えると、日本では海運や水運の技術力が向上しなかったのも無理はない、と納得できる。

続く。。。
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百論簇出:(第246回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その17・最終回)』

2019-04-21 16:35:45 | 日記
前回

振り返ってみれば、始めて資治通鑑を読んだのは1980年の春に社会人となった時であった。この時はまだ漢文もあまり正確には読めなかったが、それでもなんとかアメリカ留学までに4冊本の第1冊(約2500ページ)を読み終えた。その後、留学から帰国後の1985年ごろに、たまたま読んだ本に隋の煬帝が作った巨大船の話が載っていた。それで詳細な内容が知りたくて資治通鑑の隋の部分を読んだが、面白さにひきこまれて煬帝の死と李世民(唐・太宗)が活躍する唐の初期の部分など第3冊の半分位を読んだ。その後、ソフトウェアの仕事が忙しくて読む時間がとれなり、いつしか資治通鑑のことは忘れていた。

2004年の年初からかなり自由時間が取れるようになったので、全巻を読もうと決意した。しかし当初は「漢文検索システム」もなく、記事や人名の関連を調べるのに非常に時間がかかった。それで情況を改善すべく 2月頃から資治通鑑を読みながら 同時にシステムづくりを始めた。私はプログラムに関してはプロであるので、検索システムは、あたかもプロの建築士が自分の家を建てるようなものだった。テレビではしばしばプロの建築士が建てた自分の家が紹介されるが、どれも非常にセンスがよく、建築の素人ではとても思いつかないような構造や意匠がふんだんに盛り込まれているものだ。これと同じく、私はそれ以前に在庫管理システムの設計からコーディングまでC言語で数十万行も書いていたので、プログラムに関しては自分の要望を満たすプロ仕様のものを作ることができる。この「漢文検索システム」も自分自身が発注者、仕様決定者であり、かつ、制作者でもあるので発注者の「わがまま仕様」を満たすべく作った。

全294巻という大部の資治通鑑検を読むのに非常に役だった「わがまま仕様」の一つを紹介しよう。前々回に述べたように、台湾の中央研究院のサイトからダウンロードしたファイルは私の手持ちの中華書局版の本とページが一致しているので、検索時には巻数だけでなく、ページ数を指定することも可能とした。この機能は次のような検索で威力を発揮する。。

巻132(AD 470年、P.4155)には北魏の献文帝(顕祖)が馮太后に毒殺されたことについて伏線が次のように記されている。

【本文】有司以聞。帝大怒、誅敷兄弟。(献文帝が李敷兄弟の悪行を臣下から聞いて激怒し、李敷兄弟を誅殺した)

【胡三省の注】為馮太后鴆魏主張本。(このことが原因で、後になって馮太后が献文帝を毒殺した。)

この場合、献文帝は数年後(AD 476年)殺されているので、その年の記事を全て読めば事情を知ることができるが、ここでは検索システムで巻数を指定して探してみよう。殺されたのは132巻以降なので、133巻、134巻、…を調べればよいが「鴆」という一字が手がかりとなる。一般論として「鴆」のような一字で資治通鑑全体、(あるいは宋紀)など大きな単位を検索すると山のように検索結果が出てくるが、特定の巻だけで検索すると数が絞られる。具体的には:
 > gh 0 -z133 鴆 ==> (巻133では、0件)
 > gh 0 -z134 鴆 ==> (巻134では、4件。以下の通り)
====================
 h_tugan.jpn:85981 :: 3魏馮太后内行不正、行、下孟翻。以李奕之死怨顕祖、事見一百三十二巻明帝泰始之六年。密行鴆毒、夏、六月、辛未、顕祖殂。年
==> [Vol 134,  Page 4187 ]  [AD 476]  [54%] [ 2/4冊目 ] 

 h_tugan.jpn:85984 :: 、遂崩。」按事若如此、安得不彰、而中外恬然不以為怪、又孝文終不之知!按後魏書及北史皆無殺事。而天象志云「顕文暴崩」、蓋実有鴆
==> [Vol 134,  Page 4187 ]  [AD 476]  [77%] [ 2/4冊目 ] 

 h_tugan.jpn:85992 :: 年十二、馮太后臨朝称制;時宋太宗泰始二年也。至次年、太后帰政。今既鴆顕祖、而高祖尚幼、故復臨朝。復、扶又翻。朝、直遙翻。以馮
==> [Vol 134,  Page 4188 ]  [AD 476]  [20%] [ 2/4冊目 ] 

 h_tugan.jpn:86112 :: 宋略作「太妃賜」、今従宋書。帝嫌其不華、令太医薬、欲鴆太后。左右止之曰:「若行此事、官便応作孝子、豈復得出入狡獪!
==> [Vol 134,  Page 4194 ]  [AD 477]  [18%] [ 2/4冊目 ] 
====================


今回の場合、探している個所は一番初めの検索結果に該当することが分かる。

巻数の指定をもう少し幅広くしたい場合があるがその時は 「?」を使う。例えば巻が30番台であれば 「3?」とする。あるいは巻が 100番台であれば、「1??」のようにすれば良い。

さて、検索プログラムを作り、実際に使って史書を読んでみて分かったのは、従来のように辞書や工具書などを頼りに読むというのはあたかも幾つもの点を細い線でつないでいくようなものだということだ。個々の細部の事象は分かっても、全体像というか、立体感が全くつかめないのである。語句の出典について調べると、どの本に載っているかは分かるものの数量的な情報は得ることはできない。さらに、語句の初出の本は調べることはできても、果たしてその語句が当時どの程度一般的であったのかという点に関しては分からない。また「類似の語句はあったのか?」また、「その使用頻度はどの位であったのか?」などについて調べようとすると、不可能ではないにしても非常な手間がかかる。

実際、検索システムを使って資治通鑑を読むと、当時の諺の中には言い回しが微妙に異なっているバージョンがいくつかあるということも判明した。考えてみればこれは当たり前で、当時は辞書などが普及せず、皆、耳から聞いて覚えていはずなので、正確性が担保できなかった訳だ。例えば、日本では「羊頭狗肉」という言葉が使われているが、この句は漢文文脈では見えず、禅の『無門関』が出典のようだ。漢文文脈では羊の代わりに「牛」、狗の代わりに「馬」であった。それに加え、言い回しも次のようにいくつかバリエーションが見つかる。
1.懸牛首于門、而売馬肉于内也
2.懸牛頭而売馬脯
3.懸牛首於門而求買馬肉


ただし、この3つの諺の内最後の諺の意図は「羊頭狗肉」のように騙して別の安物を売るのではなく、敵を欺く手段として、ある物を探している時、わざと別の物を探しているように公言してカモフラージュすることを指すようだ。

さて、日本で漢文の古典と言えば、ほとんどが紀元前(つまり前漢)以前の文を指す。確かに、戦国時代から前漢にかけての文章は文法的にも文体的にも端正で後世の漢文の模範となる文章が非常に多い。ただ、ここで問題なのは前漢以前の漢文には見えなかったような熟語が、後の時代になると頻繁に使われるようになったが、普通の漢文を読んでいる限りそういった事情はつかめない。

資治通鑑を通読すると、前漢以前のオーソドックスな漢文から始まり、徐々に文体や熟語が時代と共に変わっていくことがよく分かる。たしかに、司馬光などが元の文章を添削しているので、資治通鑑の記述は必ずしも書かれた当時の漢文の文体や語彙を正確になぞっている訳ではないが、通読すると明らかにある時代から登場する熟語がかなり変わっていることが分かる。ざっくり言って、三国志が終わったころ、つまり西暦300年ごろから急激に現在でも見慣れているような二字や四字の熟語が頻出するようになる。その中には現代の日本でも一般的に使っている熟語も多い。例えば「忖度」「突入」「採用」「平素」「潜伏」などがある。

これらの熟語については現在連載中の「想溢筆翔:資治通鑑に見られる現代用語」を参照願いたい。この連載ブログ記事では、二十四史+資治通鑑+続資治通鑑+清史稿の計27の史書に使われている回数をカウントした表を載せているが、これは「漢文検索システム」の検索結果をちょっとしたプログラムでまとめたに過ぎない。

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以上、17回にわたって最近(2018年10月)出版した「資治通鑑に学ぶリーダー論」に関連して資治通鑑を読むために「漢文検索システム」を自作した話を述べた。こういった補助手段なしでは資治通鑑という大冊を読むことは到底できなかったと思っている。

あしかけ数年、実質一年で資治通鑑という大冊を読んだが、読後感を一言で表すと:
 「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」

資治通鑑を読んで、過去だけでなく、現在の中国および中国人を理解することができるといえる。と同時に、中国および中国人を理解することは、とりもなおさず、日本および日本人を正しく理解することにもつながると私は確信している。
(了)
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想溢筆翔:(第396回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その239)』

2019-04-14 09:43:40 | 日記
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【338.離婚 】P.4462、AD500年

『離婚』とは言うまでもなく「夫婦が婚姻を解消すること」。「離婚」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。



初出は晋書であり、史書にも何回も見られる語であるが、中国の権威ある辞書・辞源(2015年版)にはこの句は載せられていない。もう一方の辞海(1978年版)には古典の語句ではなく近代の語句であるかのように次のように説明する。
「夫妻脱離、婚姻関係也」(夫妻が婚姻関係を脱離する也)

この説明は「離婚」を「脱離+婚姻」と単にそれぞれを2文字ずつに置き換えたに過ぎない上に出典も示されていない。これから分かることは、漢文の文脈では離婚というのは正式な語句の一員と認めてられていなかったということだ。「離婚」がなかったことはないので、それでは、漢文脈ではどのような表現であったのか?一般的にどういう単語を使ったのかは私には分からないが、一例として漢の武帝の時の朱買臣のケースを挙げてみる。儒者・朱買臣がまだ貧しい時、二宮金次郎のように薪を背負いながら古典を声をだして暗誦して歩いた。それを恥ずかしく思った妻が離婚を望んだが彼女の要求は「求去」(去らんことを求む)と書かれている。結婚を破るというより、別れるというニュアンスのようだ。

さて、上の表から分かることは南北朝では結構使われているものの、唐以降は極端に少なくなっている。例えば、唐書の倍以上ある膨大な宋史にはわずか1回しか見えない。契丹族の遼史には5回見えるものの後はほとんど使われていない。つまり「離婚」という単語は漢文脈では唐の時代まで使われていたが現在では死滅語であるということが言える。

さて、資治通鑑で「離婚」が使われている場面を見てみよう。時は、南北朝の南斉の末期、暴虐極まる乱君・東昏侯に臣下のだれもが敵意と恐怖を抱いていたが、誰も敢えてこの帝の首に鈴をつけることができなかった。そういった中、崔慧景が息子と共に東昏侯の打倒に立ちあがった。

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崔慧景が建康を出発する時、直閤将軍である息子の崔覚と秘かに東昏侯の打倒について示し合わせた。それで、崔慧景が広陵に到着すると、崔覚は宮中から脱出して父と合流した。広陵を過ぎて暫くすると崔慧景は将軍たちを招集して次のように演説した。「ワシはこれまで三帝の厚き恩を受け、また先帝から後を宜しくと頼まれた。ところが現在の若き皇帝はとち狂っていて本朝はまさに崩壊寸前だ。国家滅亡の危険を知りつつ何もしないならこれはもはや黙っているわけにはいかない。今や諸君と共に、紊乱した政治を糺し、大いなる功績を打ち立てるときではないだろうか?」将軍たちは一斉に賛同したので、広陵に戻ることにした。司馬の崔恭祖は広陵城の守備をしていたが、喜んで開門して、崔慧景の軍を引き入れた。帝(東昏侯)は反乱の報をうけると、ただちに右衞将軍の左興盛に指揮権を与え、建康の水陸の軍隊を率いさせて反乱軍を討つよう命じた。崔慧景は広陵城に二日間滞在して、軍隊を整えると長江を渡った。

さて、以前、南徐州と兗州の二州の知事(刺史)である江夏王の蕭宝玄は徐孝嗣の娘を娶って妃としていたが、徐孝嗣が帝(東昏侯)に殺されると同時に、帝から離婚を命ぜられた。それで蕭宝玄は帝(東昏侯)恨らんでいた。このことから崔慧景は反乱の大義名分として蕭宝玄を帝に担ぎあげようと考え、蕭宝玄にその旨を伝える密使を送ったが、蕭宝玄はその使いを斬って、配下の者たちに反乱軍に備えて城を守るよう命じた。

崔慧景之発建康也、其子覚為直閤将軍、密与之約、慧景至広陵、覚走従之。慧景過広陵数十里、召会諸軍主曰:「吾荷三帝厚恩、当顧託之重。幼主昏狂、朝廷壊乱;危而不扶、責在今日。欲与諸君共建大功以安社稷、何如?」衆皆響応、於是還軍向広陵。司馬崔恭祖守広陵城、開門納之。帝聞変、壬子、仮右衞将軍左興盛節、都督建康水陸諸軍以討之。慧景停広陵二日、即収衆済江。

初、南徐、兗二州刺史江夏王宝玄娶徐孝嗣女為妃、孝嗣誅、詔令離婚、宝玄恨望。慧景遣使奉宝玄為主、宝玄斬其使、因発将吏守城。
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帝(東昏侯)の残虐に耐えかね、反乱を起こした崔慧景の唯一の頼みの綱は、江夏王の蕭宝玄であった。というのは、蕭宝玄は帝(東昏侯)から徐孝嗣の娘の妃を離婚するよう強制されたから、帝への恨みから自分の味方になってくれるに違いないと考えたからだ。ところが案に反して、蕭宝玄は崔慧景の誘いに乗らないどころか使者を斬り殺して崔慧景に敵対する姿勢を明らかにした。

というのが本編の内容だが、その後の文章を読むと、どんてん返しの結末がある。崔慧景が迫ってくると、蕭宝玄は心変わりして、守備に就いている将軍たちを逆に殺して開門して崔慧景を受け入れる。そして、崔慧景たちとともに帝(東昏侯)打倒に都(健康)に進軍するのだった。

後年の我々には結末が分かっているので、誰に付けばよいかは分かるが、当時の関係者にとっては一寸先は闇夜の如く、誰が最終的な勝者となるのか分からない状況だった。各人はそれぞれベストと思う道を選択しているが、現代の我々の目からすれば何と危うい道を渡っていることよ、とはらはらしてしまう。翻って、このような歴史を読むとき、彼らの言動を高見から批判的に見るのではなく、自分の身を当時の状況に置いてみて、自分なら一体どう行動するか、バーチャル的に考えてみることが歴史を読む意義だと私は思っている。

続く。。。
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百論簇出:(第245回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その16)』

2019-04-07 09:06:33 | 日記
前回

自作の『漢文検索システム』で検索できるのは、資治通鑑や二十四史、春秋左氏伝のような史書だけでなく、経書(儒教の経典)、子書(経書以外の思想書)、詩文集(唐詩選のような歴代の詩、文選など)、類書(太平御覧、芸文類聚、冊府元亀など)その他(宋名臣言行録、本草綱目、容斎随筆など)が検索できる。原型は十数年前に作ったが、現在でも調べものをしていて私のPC内に見つからないときは、そのつどWeb上から原文を見つけてダウンロードし、検索システムに追加している。現在のところざっと1.5Gバイト(7億文字)程度の文章が蓄積されている。

さて、2004年1月に資治通鑑を通読しようと決心してから、同時進行的に漢文検索システムを構築しながら資治通鑑を読み始めた。私の性分として、納得できない個所が残るといつまでも気にかかる。それで、自分に納得のいく方法で検索ができる漢文検索システムがあることは非常に重要だ。以前も述べたように、台湾製のできあいの漢文検索システム「寒泉」を使ったなら、検索個所が見つけられずにフラストレーションが溜まり、とても資治通鑑全文を最後まで読み進むまでには至らなかったであろう。この点については『本当に残酷な中国史』(角川新書)P.32 に次のように書いた。
このような検索ソフトがあって初めて資治通鑑という大作を読み通すことが可能となったのだ。逆にこういった検索ソフトをもたずに資治通鑑を読もうとするのは、あたかもドンキホーテが槍で風車に立ち向かったような無謀さを感じる。

さて、漢文検索システムで出典をこまめにチェックして分かったことは『春秋左氏伝』が意外と多く引用されているということだった。引用されている言葉が数百年後の中国人にとっても重要な行動規範となっているということだ。日本に置き換えて考えると、鎌倉時代に制定された「貞永式目」が江戸時代の規範となり、また江戸時代に制定された「武家諸法度」が現代にも規範として通用しているようなものだ。

「時代が変われば考え方・基本理念が変わってしかるべき」と考える日本人と「時代が変わっても正しい考え方・基本理念は不変だ」とする中国人の差だ。中国人の伝統的な、善悪・正邪を峻別する強硬な姿勢と、一旦下された善悪・正邪の判決は時が経ったからといって容易に風化させない恐ろしいまでのリゴリスティク(教条主義的)な考えをまざまざと知らされた。

また、資治通鑑につけられている胡三省の注に発音と地名に関する条項が非常に多いことにも驚いた。難しい漢字に対して注を付けるのは理解できるのが、私にとっては簡単だと思われるような字に対しても発音を説明している。例えば、「会、工外翻」とあるが、この意味は『会は [k-ai]、つまり「カイ」と発音する』。また、「見、賢遍翻」は『見は [k-en]、つまり「ケン」と発音する』。「楽、音洛」は『楽は [ラク] と発音する』という説明だ。

発音のの注に反して、出典については、単に「左伝」「礼記」と素っ気なく示すだけでそれぞれの書物の中のどの年号か、あるいはどの編名などは全く記していない。それでも、資治通鑑の読者にはそれぞれの書物のどこに書いてあるのか分かるのだ。この注の付け方から、「学識ある文人たちは簡単な文字の発音が分からなかった」というのは今だもって私にはどうも理解し難い。不思議だ。

さて、検索システムを使って読んでいると、資治通鑑が参照した原文もついでに検索できることがある。概して資治通鑑の文章は原文の意図を忠実の反映しつつも、手際よく凝縮しているが、たまに不用意に削り過ぎて文意が通らないこともある。一例として以前のブログ
 通鑑聚銘:(第11回目)『馬援、3次元立体図で戦場を説明』
で述べた「往来分析」そうだ。これは本来の後漢書には「道径往来、分析曲折」と書かれていた。つまり、資治通鑑に書かれているような「往来と分析」ではなく「道路の幅や物資の輸送状態、道路網の枝分かれ曲がり具合」ということが本来の意味なのだ。わずか数字を削ったために続き具合が非常に悪くなった例だ。



漢文検索システムを使えば人名や事柄の検索が簡単にできるが、これが無い時は非常に苦労した。

人名に関していえば、中華書局の標点本・二十四史(+清史稿)にはそれぞれ「人名索引」という本が出版されている。これを検索すると、どういった人で、どういう事件と関連した人かが分かる。しかし、これは「言うは易く、行うは難し」である。実際、漢文検索システムを作る前に、史記、漢書、後漢書などを読んでいる時にはこの索引を使って調べていたが、いわゆる「しらみつぶし」に調べていかないといけないので、該当する個所を見つけるまで長い時には半時間程度かかっていた。

人名は索引があるのでまだしも、事柄となるとお手上げだった。中国古典の専門家であれば、なにがしかの工具書(参考書)を利用できる環境にあるであろうが、私のような素人ではそういった便宜はない。それで検索というのはもっぱら私個人の「人間コンピュータによる人海戦術」に依っていた。ありていに言えば、該当しそうな書物を片端から繙いて調べるのであるが、調査は半時間程度では収まらないこともあり、また結局見つけることができず調査を断念することも数えきれないほどあった。

そういった過去の苦労を考えると、確かに私の自作漢文検索システムは完璧とはいえないまでも、大抵の調査に対して何らかの個所を検出してくれる。思い返せば2004年当時はCPUやハードディスクの性能が低く、検索には2分程度かかっていたこともしばしばあったが、現在ではメモリーの容量が大きくなったので、一度検索するとデータがキャッシングされるので2回目以降、数秒のオーダーで検索できる。

結局このような便利な検索システムを手にいれたおかげで、以前のように検索にフラストレーションを感じることなく、大部の資治通鑑をさくさくと読み進むことができた。

続く。。。
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