(前回)
勝負師は、どんな場面であってもポーカーフェイスでないといけない。喜怒哀楽の情が顔に表れてしまうと、相手に乗じられて、作戦を有利に進められてしまうからだ。ポーカーフェイスの重要性は勝負師だけはない。政治家、それも国政のトップの君主にも必要だ、と指摘した聡明な妃がいた。
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馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 210 / 衛姫管仲東郭垂】(私訳・原文)
春秋時代、斉の桓公が管仲と衛国を攻伐する件について相談していた。朝議から宮廷に戻ってくると、衛から輿入れした衛姫が遠くから桓公を見るや階段から下りて管仲を拝礼して父の衛君の無礼を詫びた。桓公が何を言っているのかと問うと衛姫が答えていうには「主上の様子を遠くから眺めていますと、足を高く挙げ強気のようすが見えました。きっと、他国を攻伐する気だ、と感じましたが、私をご覧になると動揺されました。これはきっと衛国を攻伐するに違いない、と分かった次第です!」翌日、桓公が朝議の席で管仲に丁寧にお辞儀をしてから歩みよった。管仲はそこで「衛国を攻撃する件は中止ですか?」桓公は驚いて「貴卿はどうして分かったのか?」と尋ねると、管仲がいうには「今朝の主上の挨拶は丁寧で物の言い方も落ち着いています。それに私を見て何か恥ずる様子が見られたので、こう思ったのです。」
〔馮述評〕
桓公の一挙一動は、臣下やとりまきの婦女たち、皆に筒抜けだった。桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう。
斉桓公朝而与管仲謀伐衛。退朝而入、衛姫望見君、下堂再拝、請衛君之罪。公問故、対曰:「妾望君之入也、足高気強、有伐国之志也。見妾而色動、伐衛也!」明日君朝、揖管仲而進之。管仲曰:「君舎衛乎?」公曰:「仲父安識之?」管仲曰:「君之揖朝也恭、而言也徐、見臣而有慚色。臣是以知之。」
〔馮述評〕
桓公一挙一動、小臣婦女皆能窺之、殆天下之浅人歟?是故管子亦以浅輔之。
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桓公は春秋時代の五覇の一人に数えられるぐらいであるから暗愚であったはずだが、ついうっかりと気持ちを顔に表してしまったので、考えが読まれてしまった。これを衛姫から咎められたというのは、上に立つ者は心の動きを顔色や動作などで人に読まれてはいけないということではないだろうか。
馮夢龍はもっと直截(ちょくせつ)に「桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?」(殆天下之浅人歟?)と慨嘆している。このような君主に仕えた天下の賢人と称された管子(管仲)に対しては「こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう」(是故管子亦以浅輔之)と、憐憫とも同情ともつかないコメントを寄せている。
近世になってヨーロッパ人がアジアに進出して来たときに、インドから始め、東南アジアなどが次々と彼らの占領下に入ってしまった。確かに、大きな青銅製(後には鉄製)の大砲に敗けたのが主原因だが、歴史を読んでみると、どうやら原因はそれだけではないようだ。各国では権力組織内の激しい内紛があり、外敵よりお互いに相手方を叩くことに注力していた。私は、この点は非常に重要な要因だと思える。というのは、この観点で日本の幕末を見ると、何故、西洋列強は同じように大砲で日本を制圧できなかったかが納得できるからだ。徳川幕府と倒幕の対立はあったものの、どちらも外国の勢力を借りてまで相手を倒そうとは考えなかったのはよく知られている。アジア、アフリカ、及び南米の植民地化の歴史を読むにつれ、幕末期の日本の政治的リーダーの見識の高さに自然と頭が垂れてくる。その日本に比べると、隣国の中国、朝鮮はどういった国だったのであろうか?
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馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 227 / 朱仙鎮書生】(私訳・原文)
宋と金の戦いで、現在の開封市(河南省)近くの朱仙鎮の戦いで岳飛に大敗した金の太子・金兀術は汴京を棄てて逃げようとした。一人の書生が金兀術の馬を留めて言った。「太子、逃げるには及びません。もうしばらくすれば、岳飛は退却するでしょう。」金兀術は怒って「岳飛はわずか500騎で我が10万の軍を撃ち破ったのだぞ。汴京の人々は日夜、彼の到着を心待ちにしている。どうして守りきれることがあろうか?」書生が答えていうには「昔から権力を持つ臣下が宮廷内に残っていれば、将軍がいくら外で頑張っても成果を挙げることはできませんでした。もうしばらくすれば岳飛もきっと罷免されることでしょう。そうすれば心配要りません。」金兀術は「なるほど」と悟り、汴京に留まることにした。
〔馮述評〕この書生の提案が金兀術に採用されたので、岳飛を目の敵にしていた秦檜に有利となった。
朱仙鎮之敗、兀術欲棄汴而去。有書生叩馬曰:「太子毋走、岳少保且退。」兀術曰:「岳少保以五百騎破吾十万、京城日夜望其来、何謂可守?」生曰:「自古未有権臣在内、而大将能立功於外者、岳少保且不免、況成功乎?」兀術悟、遂留。
〔馮述評〕以此書生而為兀術用、亦賦檜駆之也。
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書生の予言通り、宋の権力を握る臣下の秦檜が岳飛を罷免したので、宋軍からの攻撃は緩み、金は助かった。危ういところを助かった金兀術であるが、物事の成否は現状だけでなく、その背景の状況に及んでまで考えないといけないということだろう。
これと類似の話は李氏朝鮮にもある。文禄の役で朝鮮に押しかけた日本軍は李舜臣の水軍に阻まれてしまい、朝鮮半島の征服は叶わず引き揚げた。その後、李舜臣に軍命違反があったとされて、一兵卒にまで落とされてしまった。(もっとも、最後には再度、将軍となって日本軍に向かうのだが、矢に射られて戦死した。)数百年経っても国民性は変わらない。中国古典を読むときに、こういった日中の国民性の差を認識した上で、中国の叡智を活かすようにしないといけない。
(続く。。。)
勝負師は、どんな場面であってもポーカーフェイスでないといけない。喜怒哀楽の情が顔に表れてしまうと、相手に乗じられて、作戦を有利に進められてしまうからだ。ポーカーフェイスの重要性は勝負師だけはない。政治家、それも国政のトップの君主にも必要だ、と指摘した聡明な妃がいた。
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馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 210 / 衛姫管仲東郭垂】(私訳・原文)
春秋時代、斉の桓公が管仲と衛国を攻伐する件について相談していた。朝議から宮廷に戻ってくると、衛から輿入れした衛姫が遠くから桓公を見るや階段から下りて管仲を拝礼して父の衛君の無礼を詫びた。桓公が何を言っているのかと問うと衛姫が答えていうには「主上の様子を遠くから眺めていますと、足を高く挙げ強気のようすが見えました。きっと、他国を攻伐する気だ、と感じましたが、私をご覧になると動揺されました。これはきっと衛国を攻伐するに違いない、と分かった次第です!」翌日、桓公が朝議の席で管仲に丁寧にお辞儀をしてから歩みよった。管仲はそこで「衛国を攻撃する件は中止ですか?」桓公は驚いて「貴卿はどうして分かったのか?」と尋ねると、管仲がいうには「今朝の主上の挨拶は丁寧で物の言い方も落ち着いています。それに私を見て何か恥ずる様子が見られたので、こう思ったのです。」
〔馮述評〕
桓公の一挙一動は、臣下やとりまきの婦女たち、皆に筒抜けだった。桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう。
斉桓公朝而与管仲謀伐衛。退朝而入、衛姫望見君、下堂再拝、請衛君之罪。公問故、対曰:「妾望君之入也、足高気強、有伐国之志也。見妾而色動、伐衛也!」明日君朝、揖管仲而進之。管仲曰:「君舎衛乎?」公曰:「仲父安識之?」管仲曰:「君之揖朝也恭、而言也徐、見臣而有慚色。臣是以知之。」
〔馮述評〕
桓公一挙一動、小臣婦女皆能窺之、殆天下之浅人歟?是故管子亦以浅輔之。
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桓公は春秋時代の五覇の一人に数えられるぐらいであるから暗愚であったはずだが、ついうっかりと気持ちを顔に表してしまったので、考えが読まれてしまった。これを衛姫から咎められたというのは、上に立つ者は心の動きを顔色や動作などで人に読まれてはいけないということではないだろうか。
馮夢龍はもっと直截(ちょくせつ)に「桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?」(殆天下之浅人歟?)と慨嘆している。このような君主に仕えた天下の賢人と称された管子(管仲)に対しては「こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう」(是故管子亦以浅輔之)と、憐憫とも同情ともつかないコメントを寄せている。
近世になってヨーロッパ人がアジアに進出して来たときに、インドから始め、東南アジアなどが次々と彼らの占領下に入ってしまった。確かに、大きな青銅製(後には鉄製)の大砲に敗けたのが主原因だが、歴史を読んでみると、どうやら原因はそれだけではないようだ。各国では権力組織内の激しい内紛があり、外敵よりお互いに相手方を叩くことに注力していた。私は、この点は非常に重要な要因だと思える。というのは、この観点で日本の幕末を見ると、何故、西洋列強は同じように大砲で日本を制圧できなかったかが納得できるからだ。徳川幕府と倒幕の対立はあったものの、どちらも外国の勢力を借りてまで相手を倒そうとは考えなかったのはよく知られている。アジア、アフリカ、及び南米の植民地化の歴史を読むにつれ、幕末期の日本の政治的リーダーの見識の高さに自然と頭が垂れてくる。その日本に比べると、隣国の中国、朝鮮はどういった国だったのであろうか?
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馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 227 / 朱仙鎮書生】(私訳・原文)
宋と金の戦いで、現在の開封市(河南省)近くの朱仙鎮の戦いで岳飛に大敗した金の太子・金兀術は汴京を棄てて逃げようとした。一人の書生が金兀術の馬を留めて言った。「太子、逃げるには及びません。もうしばらくすれば、岳飛は退却するでしょう。」金兀術は怒って「岳飛はわずか500騎で我が10万の軍を撃ち破ったのだぞ。汴京の人々は日夜、彼の到着を心待ちにしている。どうして守りきれることがあろうか?」書生が答えていうには「昔から権力を持つ臣下が宮廷内に残っていれば、将軍がいくら外で頑張っても成果を挙げることはできませんでした。もうしばらくすれば岳飛もきっと罷免されることでしょう。そうすれば心配要りません。」金兀術は「なるほど」と悟り、汴京に留まることにした。
〔馮述評〕この書生の提案が金兀術に採用されたので、岳飛を目の敵にしていた秦檜に有利となった。
朱仙鎮之敗、兀術欲棄汴而去。有書生叩馬曰:「太子毋走、岳少保且退。」兀術曰:「岳少保以五百騎破吾十万、京城日夜望其来、何謂可守?」生曰:「自古未有権臣在内、而大将能立功於外者、岳少保且不免、況成功乎?」兀術悟、遂留。
〔馮述評〕以此書生而為兀術用、亦賦檜駆之也。
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書生の予言通り、宋の権力を握る臣下の秦檜が岳飛を罷免したので、宋軍からの攻撃は緩み、金は助かった。危ういところを助かった金兀術であるが、物事の成否は現状だけでなく、その背景の状況に及んでまで考えないといけないということだろう。
これと類似の話は李氏朝鮮にもある。文禄の役で朝鮮に押しかけた日本軍は李舜臣の水軍に阻まれてしまい、朝鮮半島の征服は叶わず引き揚げた。その後、李舜臣に軍命違反があったとされて、一兵卒にまで落とされてしまった。(もっとも、最後には再度、将軍となって日本軍に向かうのだが、矢に射られて戦死した。)数百年経っても国民性は変わらない。中国古典を読むときに、こういった日中の国民性の差を認識した上で、中国の叡智を活かすようにしないといけない。
(続く。。。)