限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第7回目)『中国四千年の策略大全(その7)』

2022-05-29 14:07:38 | 日記
前回

勝負師は、どんな場面であってもポーカーフェイスでないといけない。喜怒哀楽の情が顔に表れてしまうと、相手に乗じられて、作戦を有利に進められてしまうからだ。ポーカーフェイスの重要性は勝負師だけはない。政治家、それも国政のトップの君主にも必要だ、と指摘した聡明な妃がいた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 210 / 衛姫管仲東郭垂】(私訳・原文)

春秋時代、斉の桓公が管仲と衛国を攻伐する件について相談していた。朝議から宮廷に戻ってくると、衛から輿入れした衛姫が遠くから桓公を見るや階段から下りて管仲を拝礼して父の衛君の無礼を詫びた。桓公が何を言っているのかと問うと衛姫が答えていうには「主上の様子を遠くから眺めていますと、足を高く挙げ強気のようすが見えました。きっと、他国を攻伐する気だ、と感じましたが、私をご覧になると動揺されました。これはきっと衛国を攻伐するに違いない、と分かった次第です!」翌日、桓公が朝議の席で管仲に丁寧にお辞儀をしてから歩みよった。管仲はそこで「衛国を攻撃する件は中止ですか?」桓公は驚いて「貴卿はどうして分かったのか?」と尋ねると、管仲がいうには「今朝の主上の挨拶は丁寧で物の言い方も落ち着いています。それに私を見て何か恥ずる様子が見られたので、こう思ったのです。」

〔馮述評〕

桓公の一挙一動は、臣下やとりまきの婦女たち、皆に筒抜けだった。桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう。

斉桓公朝而与管仲謀伐衛。退朝而入、衛姫望見君、下堂再拝、請衛君之罪。公問故、対曰:「妾望君之入也、足高気強、有伐国之志也。見妾而色動、伐衛也!」明日君朝、揖管仲而進之。管仲曰:「君舎衛乎?」公曰:「仲父安識之?」管仲曰:「君之揖朝也恭、而言也徐、見臣而有慚色。臣是以知之。」

〔馮述評〕

桓公一挙一動、小臣婦女皆能窺之、殆天下之浅人歟?是故管子亦以浅輔之。
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桓公は春秋時代の五覇の一人に数えられるぐらいであるから暗愚であったはずだが、ついうっかりと気持ちを顔に表してしまったので、考えが読まれてしまった。これを衛姫から咎められたというのは、上に立つ者は心の動きを顔色や動作などで人に読まれてはいけないということではないだろうか。

馮夢龍はもっと直截(ちょくせつ)に「桓公は天下のうつけ者といえるのではないだろうか?」(殆天下之浅人歟?)と慨嘆している。このような君主に仕えた天下の賢人と称された管子(管仲)に対しては「こういう君主なので、適当に補佐していたのだろう」(是故管子亦以浅輔之)と、憐憫とも同情ともつかないコメントを寄せている。



近世になってヨーロッパ人がアジアに進出して来たときに、インドから始め、東南アジアなどが次々と彼らの占領下に入ってしまった。確かに、大きな青銅製(後には鉄製)の大砲に敗けたのが主原因だが、歴史を読んでみると、どうやら原因はそれだけではないようだ。各国では権力組織内の激しい内紛があり、外敵よりお互いに相手方を叩くことに注力していた。私は、この点は非常に重要な要因だと思える。というのは、この観点で日本の幕末を見ると、何故、西洋列強は同じように大砲で日本を制圧できなかったかが納得できるからだ。徳川幕府と倒幕の対立はあったものの、どちらも外国の勢力を借りてまで相手を倒そうとは考えなかったのはよく知られている。アジア、アフリカ、及び南米の植民地化の歴史を読むにつれ、幕末期の日本の政治的リーダーの見識の高さに自然と頭が垂れてくる。その日本に比べると、隣国の中国、朝鮮はどういった国だったのであろうか?

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 馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 227 / 朱仙鎮書生】(私訳・原文)

宋と金の戦いで、現在の開封市(河南省)近くの朱仙鎮の戦いで岳飛に大敗した金の太子・金兀術は汴京を棄てて逃げようとした。一人の書生が金兀術の馬を留めて言った。「太子、逃げるには及びません。もうしばらくすれば、岳飛は退却するでしょう。」金兀術は怒って「岳飛はわずか500騎で我が10万の軍を撃ち破ったのだぞ。汴京の人々は日夜、彼の到着を心待ちにしている。どうして守りきれることがあろうか?」書生が答えていうには「昔から権力を持つ臣下が宮廷内に残っていれば、将軍がいくら外で頑張っても成果を挙げることはできませんでした。もうしばらくすれば岳飛もきっと罷免されることでしょう。そうすれば心配要りません。」金兀術は「なるほど」と悟り、汴京に留まることにした。

〔馮述評〕この書生の提案が金兀術に採用されたので、岳飛を目の敵にしていた秦檜に有利となった。

朱仙鎮之敗、兀術欲棄汴而去。有書生叩馬曰:「太子毋走、岳少保且退。」兀術曰:「岳少保以五百騎破吾十万、京城日夜望其来、何謂可守?」生曰:「自古未有権臣在内、而大将能立功於外者、岳少保且不免、況成功乎?」兀術悟、遂留。

〔馮述評〕以此書生而為兀術用、亦賦檜駆之也。
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書生の予言通り、宋の権力を握る臣下の秦檜が岳飛を罷免したので、宋軍からの攻撃は緩み、金は助かった。危ういところを助かった金兀術であるが、物事の成否は現状だけでなく、その背景の状況に及んでまで考えないといけないということだろう。

これと類似の話は李氏朝鮮にもある。文禄の役で朝鮮に押しかけた日本軍は李舜臣の水軍に阻まれてしまい、朝鮮半島の征服は叶わず引き揚げた。その後、李舜臣に軍命違反があったとされて、一兵卒にまで落とされてしまった。(もっとも、最後には再度、将軍となって日本軍に向かうのだが、矢に射られて戦死した。)数百年経っても国民性は変わらない。中国古典を読むときに、こういった日中の国民性の差を認識した上で、中国の叡智を活かすようにしないといけない。

続く。。。
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軟財就計:(第10回目)『私のソフトウェア道具箱(その 10)』

2022-05-22 21:06:21 | 日記
前回

前々回から Britannica 9th のデータにアクセスするためのプログラミングに関して話をしている。私の欲しい情報が、百数十年前に編纂・出版されたこの百科事典にはある。ただ、百年以上も前の百科事典にどれほどの価値があるか納得できない人も多いことだろう。ここでは、中世のある文法学者に関する情報量を比較して、9thの特徴を見てみよう。

ところで、現在 Rhetoric(弁論術・雄弁術)についていろいろ調べているが、たまたまPriscian(プリスキアヌス)という中世の文法学者の本が広く読まれた、という記述に遭遇した。("Encyclopedia of Rhetoric", by Thomas Sloane, P.480-482)

Priscianという人物は知らなかったので、とりあえず、Wikipediaでチェックすると、英語("Priscian" )でも日本語(「カエサレアのプリスキアヌス」)でも説明がある。

この英語および日本語のWikipediaの記述をよむと、参考文献の項に次のような但し書きがついていた。
 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Priscian". Encyclopadia Britannica (英語). 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 360.

つまり、記事の本体は Britannica 11thから取られているということだ。それで、Priscian について、3つの Britannicaの記事を読んだが、各版は内容的にかなり異なっている。それらを比較することで時代背景や各時代に重要視されたことがかなりはっきりと分かった。以下、Priscianの記述を3つの版で比較してみよう。
【1】Britannica 11th
【2】Britannica 9th
【3】Britannica 最新のWeb版

【1】Britannica 11th

現在のWikipediaのPriscian に関する記事のソースは、Britannica 11thの次のサイトに原文がある
 https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Priscian

出だしの部分と最後の部分だけを取り出すと次のようになる。
ーーーーーー

Encyclopaedia Britannica, Volume 22 ― Priscian

PRISCIAN [Priscianus Caesariensis], the celebrated Latin grammarian, lived
about A.D. 500, i.e. somewhat before Justinian. This is shown by the facts
that he addressed to Anastasius, emperor of the East (491-518), a laudatory
poem, and that the MSS. of his Institutiones grammoticae contain a
subscription to the effect that the work was copied (526, 527) by Flavius
Theodorus, a clerk in the imperial secretariat. Three minor treatises are
dedicated to Symmachus (the father-in-law of Boetius). Cassiodorus, writing
in the ninety-third year of his age (560? 573?), heads some extracts from
Priscian with the statement that he taught at Constantinople in his
(Cassiodorus's) time (Keil, Gr. Lat. vii. 207).

...(中略)...


The best edition of the grammatical works is by Hertz and Keil, in Keil's
Grammatici latini, vols. ii., iii.; poems in E. Bahrens' Poetae latini
minores, the "Periegesis” also, in C. W. Muller Geographi graeci minores,
vol. ii. See J. E. Sandys, History of Classical Scholarship (ed. 1906), pp.
272 sqq.
ーーーーーー


11thでは、Priscianの出生を述べたあとに、彼の主著である『文法学教程』(Institutiones grammaticae)に関してざっくり説明し、記述の不備について述べる。とりわけ語源の説明が乱暴(wild)であることを非難する。この記述は、約1000語(ワード)程度に収まっている。

【2】Britannica 9th

Britannica 9thのPriscian の記述は次のサイトに原文がある。(Vol 19)
 https://digital.nls.uk/encyclopaedia-britannica/archive/190218840

11thでは主著である『文法学教程』について、わずかしか説明されていなかったが、9thでは全18巻のそれぞれの巻について、細かいフォントであるが、かなり詳しい記述がある。この本は、中世ヨーロッパで最もよく読まれたというラテン語の文法書と言われるが、どういうことが書かれていたかの概要を知ることができる。これだけ詳しく書かれているということで、『文法学教程』は19世紀の人間にとって、ラテン語文法に関する重要参考書であったことが分かる。

内容はともかく、分量的には11thの4倍(4400語)もあることに驚く。つまり、9thから11thに至る段階で、記事内容が大幅に削除されたということだ。実際、WikipediaのBritannica 11thの項には、9thとの比較で
 "more articles than the 9th, but shorter and simpler;"
と書かれているが、その実態をこのPriscianの記事で検証することができる。

9thと11thとの差はそれだけでなく、9thではギリシャ文字が使われているが、11thでは極力使うのを避けているようだ。また、9thではラテン語やギリシャ語の文章が英訳なしでそのまま記載されているが、 11thでは、英訳がついている。この事情を推察するに、11thになって(20世紀に入って)ギリシャ語やラテン語が読めない人たちにも Britannicaが利用されるようになったためであろう。 9thまでは、読者は暗黙の了解で、高等教育を受けた人、すなわちギリシャ語やラテン語が読める人、ということであった。この現象は、日本でも同じく、かつての辞書(例:諸橋の大漢和)では漢文が読み下し文なしで掲載されていた。



【3】Britannica 最新のWeb版

最新のBritannicaは、ウェブで無料公開されている。課金無しであるは結構だが、内容的にはギリシャ・ローマの古典文学にたいしてはかなり冷たい。Priscianに関する記述文は、約360語程度しかない。つまり、現在ではPriscianは特定の専門家を除いて、全く関心の持たれない人であるということが分かる。つまり、中世のラテン語文法書に関して、一般人は知る必要がないということになる。

 ****************

このように、英語圏における、Priscianという人物の価値、及び中世のラテン語文法書が重要視されたのは19世紀までであるということが分かった。他のヨーロッパ諸国ではどうであったかということを知るためにフランス語とドイツ語の百科事典で Priscianについて調べてみよう。この2つの言語では、1900年前後に膨大な百科事典が出版されていて、現在 Web上で内容がPDF および テキストデータ(一部 OCRデータ)で公開されている。

フランス語では La Grande Encyclopédie がある。全31巻で、それぞれが1000ページを超える大部なものである。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、約350語と至って簡便である。



また、ドイツ語ではMeyers Konversationslexikon がある。全16巻で、それぞれ1000ページを超える。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、更に少なく、わずか約140語しかない。



このように、百年以上前の百科事典を参照することで、時代時代でどういう内容が重要視されたかという痕跡を辿ることができる。内容的にみて、現代の百科事典が必ずしも、過去のものより優れていると言えないと同時に、現在の百科事典からは窺い知ることのできない当時の知的水準の様子がリアリティを伴って分かる。

続く。。。
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沂風詠録:(第345回目)『ドイツ語にもある諺「髭の塵を払う」』

2022-05-15 16:09:38 | 日記
ずっと以前のブログ
 沂風詠録:(第5回目)『漢文教育の重要性』
で「間一髪」(um ein Haar)という日本語の表現と全く同じものがドイツ語にもあると紹介した。民族が変わっても同じような発想をする例をさらに一つ紹介しよう。今回の例は漢文とドイツ語の言い回しだ。

ところで、私はこれまでに中国関係の本を幾つか書いた。出版の時代順に並べると:
『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』 (角川SSC新書)
『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書)
『資治通鑑に学ぶリーダー論: 人と組織を動かすための35の逸話』(河出書房新社)
『中国四千年の策略大全』(ビジネス社)

これ以外にも、次の本では、部分的に中国を取り上げている。

『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)
『旅行記・滞在記500冊から学ぶ 日本人が知らないアジア人の本質』 (ウェッジ社)

これらの本の内では、最初に出版した『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』 が櫻井よしこさんから賞賛されたので大変売れ行きがよかった。ただ、タイトルなどから私は「嫌中論・反中論」者とみなされたようだが、『資治通鑑に学ぶリーダー論』や『教養を極める読書術』を読んで頂くとわかるように、中国の良き面も認めて高く評価している。

とりわけ、若い頃に『宋名臣言行録』を読んで以来、儒者の鑑ともいえる「宋代士大夫」の潔い生き方に共感できる点を多々感じている。宋代の代表的な士大夫(文人政治家)と言えば東京の「後楽園」の由来ともなった「後楽」という名句を作った范仲淹が挙げられる。また、蘇軾は、王羲之の端正な書体とは異なった奔放で斬新な書風を開拓しただけでなく、文章家としては唐宋八大家の一人として有名であるが、東坡肉(トンポーロウ)のという料理名に読み込まれていることでも広く庶民にも愛されている。



この2人に比べると知名度は低いものの、寇準(こうじゅん)も気骨のある文人政治家だ。宋の二代目皇帝の太宗に召された時、臆せず、自分の信じる所見を堂々と述べた。寇準が退席した後、太宗は「唐の太宗が魏徴を得た時のようにうれしい」と絶賛した。魏徴もそうであったが、寇準も信念を曲げない硬骨の臣であったのだが、それが災いした。

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宋名臣言行録:巻4

寇準は、士と友好関係を結ぶことを楽しんだ。後に高官となった丁謂や种放という人たちも皆、寇準公の門下生であった。あるとき、寇準公は信頼できる人にこっそりと「丁謂は奇材ともいうべき人材だが、安心して重責を任すことはできない」と打ち明けた。

さて、寇準が大臣(宰相)で、丁謂が副大臣(参政)の時、、役所のレストランで会食した際に寇準の鬚(ひげ)がスープにつかった。丁謂は早速立ち上がって、寇準の鬚の汚れをぬぐった。寇準はその所作に怒り「君は副大臣という高い位にいるにも拘わらず、あたかも下役のように自ら大臣の鬚を拭くのか?」と叱責したので、丁謂は非常に恥じ(、恨みを抱いた)。寇準は正直を信条として、おべっか者などは気にかけなかった為に、最後にはその者のために陥られてしまった。

公好士、楽善、不倦。丁謂・种放之徒、皆出其門。嘗語所親曰、「丁生誠奇材、惟不堪重任。」公為相、謂参政。嘗会食都堂。羮染公鬚。謂起払之。公正色曰「身為執政、而親為宰相払鬚耶。」謂慙不勝。公恃正直、而不虞巧佞。故卒為所陥。
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寇準は愛弟子の丁謂のためを思えばこそ注意したのであるが、中国によくあるパターンで、逆恨みされて、陥れられることになった。この話は、正史の『宋史』(巻281)の《寇準伝》にほぼ同じ内容の文章が見える。
(初、丁謂出寇準門至参政、事準甚謹。嘗会食中書、羹準鬚、謂起、徐払之。準笑曰:「参政国之大臣、乃為官長払鬚邪?」謂甚愧之、由是傾構日深。)


この寇準と丁謂の話から「髭の塵を払う」という諺ができて、「おべっかを使う」という意味で使われるようになった。

ところで、以前、セネカの「怒りについて」(De Ira、3-8-8)を Reclam文庫のドイツ語で読んでいた時にこれと同じ表現に出くわして驚いたことがある。原文、私訳、ドイツ語訳を以下に示す。
【原文】nihil asperum territumque palpanti est.
【私訳】お世辞を言われて怒ったり落ち込む人はいない。
【独訳】Wer anderen um den Bart streicht, hat nichts Raues und abweisend Strenges an sich.

ここに示した、「お世辞をいう」という表現はドイツ語訳では「um den Bart streichen」(直訳すると:髭の周りをなでる)と「髭」という直接的表現が出てくる。元のラテン語では palpanti と表現されている。これは palpoの分詞(verbal participle)で「撫でる」という原義だが、そこから「へつらう」という意味が派生している。このSenacaの文では「へつらう」の意味だが、調べた限りの英訳、フランス語訳ではいづれも「撫でる」と訳している。ラテン語の辞書(Lewis & Short や Oxford のラテン語辞典)をチェックすると、palpoの 2番目の語義 flatter にこのセネカの個所が例文として挙げられていることから判断すると、英訳、仏訳はいづれも誤訳と言える。
【英訳1】no creature is savage and frightened if you stroke it.
【英訳2】no creature continues either angry or frightened if you pat him.
【仏訳】il n'en est point de rude et d'intraitable pour une main légère.



話は変わるが、私は現在、インプレス社のウェブ雑誌、IT Leadersに
 『麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド』
という連載記事を書いている。主としてドイツ語のウェブサイトからドイツおよびヨーロッパのIT事情に関する記事を月に一回のペースで選び出して、翻訳している。 IT記事のドイツ語というのは、私が普段接しているギリシャ・ラテン古典を翻訳したドイツ語に比べると構文や単語が易しいので理解しやすい。しかし、それでもどのように訳すればよいのか、迷うことがある。とりわけ、今回紹介したケースのように直接的な意味と間接的な意味がある時は、十分注意しないといけないと改めて感じる次第だ。
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智嚢聚銘:(第6回目)『中国四千年の策略大全(その6)』

2022-05-08 10:00:26 | 日記
前回

日本は古墳時代から奈良・平安にかけて積極的に中国文化の取り入れ、強い影響を受けてきた。その後、894年の遣唐使の廃止以降、国風文化が栄えた、と言われる。遣唐使の廃止は、菅原道真の提言ではあるが、当時、中国では黄巣の乱で大いに乱れていたことは日本にも商人たちを通じて知られていたことであろう。最終的に黄巣の乱で唐の王朝の命脈が絶たれてしまうのであるが、それより百年遡った安史の乱でもあわや、という場面があった。この時、亡国の淵にあった唐王朝を救ったのが名将・郭子儀であった。



「文」尊重(というより、「文」偏重)の中国では、「武」は卑しいものと見られていたが、それでも、平安末期から中世、そして江戸初期にまでいたる日本の武将たちと比べるとはるかに「文」の素養に長けていた。中国の武将の中には「儒将」という文人顔負けの教養と見識を備えている武人が何人かがいるが、郭子儀もその一人であろう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻 2 / 109 / 郭子儀】(私訳・原文)

唐の名将、郭子儀は来客があるときはいつも多くの侍女たちに出迎えさせていたが、盧杞(徳宗の時の大臣)が来ると聞くと侍女たちをいつもシャットアウトして、出迎えさせなかった。息子たちはその意味が分からず父の郭子儀に尋ねると諭すような調子で次のように答えた。「盧杞は容貌が醜いので、侍女たちが見ると、つい笑ってしまうかもしれない。もし将来、盧杞が権力を握ったなら我ら一族は皆殺しの目に遭うからだ。」

【馮夢龍の批評】
そういえば、春秋時代の成公元年(紀元前590年)に斉の頃公の母が晋からの使者である郤克を見て笑ったため、殆ど国が亡びそうになった。この事件を知っていた郭子儀は些細なことで大きな禍になるのを予め防いだのだ。

郭令公毎見客、姫侍満前。乃聞盧杞至、悉屏去。諸子不解。公曰:「杞貌陋、婦女見之、未必不笑。他日杞得志、我属無噍類矣!」

〔馮述評〕
斉頃以婦人笑客、幾至亡国。令公防微之慮遠矣。
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人治の国、中国では、昔は(そして多分、現在でも?)権力者のちょっとした気分次第で、罪もないのに迫害されるケースがしばしば見受けられる。郭子儀はそのような難癖をつけられるのを予防したわけだ。

ところで、ここの部分に見られる馮夢龍の評論にあるのは、史記の巻39《晋世家》に記載されている次の話である。ちなみに、巻32《斉太公世家》にも同様の記載があるし、《春秋穀梁伝・成公元年》にはもう少し詳しく載せられている。
(以下の和訳部分には現在では差別用語とみなされる語句があるが、平凡社の文のまま掲載する。ただし()内の語句は私が補った。)

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(晋の景公)八年に、(晋は)郤克を使者として斉に送った。斉の頃公の母が楼上から見て嘲笑した。というのは、郤克はせむし(僂)であり、魯の使者はびっこ(蹇)であり、衛の使者は片目(眇)であったので、斉もまた、そのような不具者をだして客をみちびかせたからである。郤克は怒り、帰途、黄河にいたってからいった。「必ず斉に報復して見せます。黄河の神もご照覧ください!」(平凡社・中国古典シリーズ 『史記』)

八年、使郤克於斉。斉頃公母従楼上観而笑之。所以然者、郤克僂、而魯使蹇、衛使眇、故斉亦令人如之以導客。郤克怒、帰至河上、曰:「不報斉者、河伯視之!」
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郤克はその後、2年にして、魯の救援に赴き、斉軍を破り、この時に受けた屈辱の怨みを晴らした。(春秋左氏伝、成公2年)

日本では、魏蜀呉の抗争が描かれている『三国志』の時代、紀元3世紀が人気であるが、私は個人的には、その次の時代、つまり晋(西晋+東晋)の時代の方が好きだ。この時代には、老荘思想や仏教が普及し、文人たちが儒教の縛りを離れてかなり自由に振舞っているからだ。その例は『世説新語』におびただしいほど見ることができる。しかし、その一方で、現実の政治は三国時代以上に乱れ、貴族・高官といえども安閑とはしていられなかった。当時の名門貴族であった何曾もそのような兆候を敏感に感じていた。

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何曾は晋の高官で、いつも武帝(司馬炎)の宴席に列席していた。ある日、家にもどって子供たちに次のように話した「主上は中国を統一して晋という王朝を創業した。ワシはいつも宴席にいるが、いまだかつて国家運営に関する展望を聞いたことがない。話はいつも日常の些細なことばかりだ。これでは王朝の将来が危うい。王朝ばかりではなく、我が一族も危ういぞ。お前たちも没落は免れまい。」そう言って孫たちを指さし「この孫たちの代になると必ず国が大いに乱れるだろうよ!」後になって孫の何綏が東海王・司馬越に関連して処刑されると何綏の兄である何嵩が泣きながら「祖父はなんという大聖であったのか?」と叫んだ。

 馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 208 / 何曾】(私訳・原文)

何曾、字穎考、常侍武帝宴、退語諸子曰:「主上創業垂統、而吾毎宴、乃未聞経国遠図、唯説平生常事、後嗣其殆乎?及身而已、此子孫之憂也!汝等猶可獲沒。」指諸孫曰:「此輩必及於乱!」及綏被誅於東海王越、嵩哭曰:「吾祖其大聖乎?」嵩、綏皆邵子、曾之孫也。
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何曾は新たに誕生した晋の朝廷で国家運営に関する政治の話が全くなされなくなったことで、晋の滅亡を予感した。これからすると、現在の日本の国会討論などでは日本国としてのありかたなど国家の大計を議論せず、ひたすら大臣の発言の言葉じりを捕まえて「首相の任命責任を問う」などという枝葉末節な話に終始している。このぶざまな低落はまさしく、何曾が憂えた状況を同じではないか!ウクライナのように、国家の危機存亡の事態にもしっかりと対処できる国との差は大きい。

続く。。。
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軟財就計:(第9回目)『私のソフトウェア道具箱(その 9)』

2022-05-01 19:09:50 | 日記
前回

前回、Britannica 9th の情報取得の処理プログラム(バッチファイル)を掲載したが、プログラミングのプロの眼からみれば、非常に素人っぽい書き方にあきれた人もいるだろう。その驚きはもっともで、私自身も以前ならそういう評価を下したに違いない。というのは、以前のブログ記事
 百論簇出:(第158回目)『IT時代の知的生産の方法(その6)』
に書いたように、私は以前、SE(システムエンジニア―)兼プログラマーとして、C言語で数十万行レベルのシステムプログラムを書いていた。それゆえ、プロの眼から見た今回のプログラムのような素人のプログラムのまずさは自覚している。しかし、プロのレベルのプログラムというのは、過剰なプロ意識に急き立てられ、得てして凝った書き方をするため、非常にメンテナンスしにくい。というのは、凝縮したコードなので、後から読んで、一体何を目的にしたのかが分かりにくいのである。それを防止するため、プロはきっちりしたドキュメント(解説書、説明書)を残す。ところが、現在の私にはそういう時間がない。それで、ドキュメントを残す代わり、わざとダサい、素人っぽいコードにして、読めば直ぐに分かるようにしているのだ。

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ところで、過去の印刷文化遺産は、現在、急ピッチで電子化され、一部は公開されている。一番有名なのは、1971年に開始したプロジェクト・グーテンベルクだ。ここには、英語だけでなく、他の言語の作品が多数掲載されている。一方で、Wikipediaの姉妹サイトの Wikisource にもグーテンベルクと勝るとも劣らない程の点数が掲載されている。とりわけ、私の興味中心である、ギリシャ・ローマの古典、および中国古典の充実ぶりはグーテンベルクを遥かにしのぐ。
また、タフツ大学(Tufts University)が運営しているギリシャ・ローマの古典に特化した Perseusというサイトもある。



これらのサイトのデータは、近年では、出版物から画像データなども埋め込んでいることはあるが、基本はテキスト形式(あるいはhtml 形式)で提供される文字情報である。特定の出版物にこだわらないので、原則的にページ数はついていない。一方で、著作権の切れた出版物そのものを電子化したサイトもいくつかある。有名なところでは、Google ブックスがあるが、私がよく参照するのはインターネットアーカイブ(Internet Archive)だ。

これらのサイトの多くは欧米の図書であるが、中国の書物に関しては上で紹介したWikisource以外にも中国哲学書電子化計画というサイトがある。これらと比較すると日本の図書の電子化は非常にみすぼらしい!確かに、日本の電子図書館として、青空文庫は有名ではあるが、内容はかなり文芸作品に偏っている。それは許せるとしても、文字コードがJIS規格であるため、ちょっと古い書物ともなると例外文字が頻出して見苦しいことおびただしい。例外文字はイメージデータ、あるいはとして埋め込まれているため、検索には全く役にたたない。
例えば、次のような一節がある(青空文庫、内藤湖南『尚書稽疑』)
「幼嘗受其義於葆琛先生」
この一節はブラウザーでは全く問題なく字は表示されてはいるものの、埋め込まれている文章は次の通りである。
「幼嘗受其義於葆※(「王+深のつくり」、第 3水準1-88-4)先生」

つまり、「葆琛」が検索できないのである。これはなにも中国古典文に限らず、日本の古典に関しても見られる。また、図書をPDF化するプロジェクトでは国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/)はあるが、PDF化の作業が粗雑なため、読むに堪えないような図書もけっこう多い。また、Google Booksでは、たまにテキストファイルがある程度だが、インターネットアーカイブではほとんど場合、かなり精度の高い OCRでテキスト化されたファイルがついている。それと比較すると、国立国会図書館デジタルコレクションでは雑なPDFデータなので、テキスト化は望めない。先ごろの印鑑廃止騒動や、これらの事実から分かるように、日本はDXにとりかかるどころか、インターネット時代、つまりデジタル化に完全に乗り遅れている。これが、日本の哀しき現状なのだ!

つくづく、日本の先人たちが築きあげた印刷文化遺産が十分に活用されていないことを残念に感じる。たとえば、塙保己一が編纂した『群書類従』『続群書類従』や、物集高見(もずめ たかみ)個人の超人的な努力で完成された『広文庫』などはさすがに国立国会図書館デジタルコレクションにはPDFデータでは収められてはいるものの、テキスト化されていないので情報アクセスが困難なので、せっかくの宝も持ち腐れとなっている。

一方、世界の先進諸国では過去の印刷文化遺産が急ピッチで電子化され無料でデータ公開されている。それゆえ、前回までに説明したように Britannica 9thの PDFデータを容易にアクセスするために、自分でプログラミングできることは、知的平面(intellectual horizon)を広げる上でも欠かすことのできない技術であるのだ。この意味で私は、理系研究者はもちろん、文系研究者だけでなく一般人も、すくなくとも一年、望むらくは数年程度はプログラミングとコンピュータシステムを真剣に学ぶべきだと考える。インターネットからデータを取得し、自分の望む形式に集計・変形できる技能を身につけることは、今や100年ともいわれる長い人生を知的に生きる上で欠かせないと考える。

続く。。。
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