限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第312回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その17)』

2018-09-30 16:23:06 | 日記
前回

【承前】

B-1.ラテン語辞書

B-1-6 Georges "Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch"

以前述べたように始めて買ったラテン語の辞書は、Langenscheidt社の独羅辞典であったが、1999年からラテン語を本格的に自習しだすようになると、小型のこの辞書では物足りなくなった。

それで、前々回述べたように大型の英羅辞書である L&S を購入した。L&S は分厚く、収容語彙も多い期待通りであったので、満足して使っていた。そんなある時、神田神保町の洋書の古本屋である田村書店に入った。田村書店は一階は和書専門、二階は洋書専門と別れているが、他の洋書店(例えば小川図書や大島書店)と異なり、英書以外のドイツ語やフランス語の書籍をかなり多くおいている。それで、私はドイツ語の辞書や百科事典などを探す時には、ここに来る。案にたがわず、その日も、早速ドイツ語で書かれた分厚いラテン語の辞書が目にとまった。年代もの辞書

Georges の Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch

の背表紙は、今にもはがれ落ちそうなほどであった。印刷されたのは、なんと1889年(?)だった。中をみると、ドイツの伝統的な字体、Fraktur で書かれていたので、躊躇した。

Fraktur とは何であり、なぜ私が躊躇したかについて説明しよう。



中世のヨーロッパの写本は主として修道院で、いわば工芸品として制作されていた。つまり、一冊の写本にとてつもなく長い時間をかけていたのだ。その時の文字は上の写真にもあるように、角ばった線が連続的につながっているような字体であった。ヨーロッパ人はこの文字が気にいっていたようで、グーテンベルクが 15世紀半ばに印刷術を確立した時、この読みにくい字体をそのまま活字に移すことに意を注いだと言われる。日本人(すくなくとも私)には「これで、よくも読めたものだ!」と思うようなものであっても、ヨーロッパ人にとっては、風格や愛着を感じるのかもしれない。(もっとも、冷静に考えてみると、日本のカナ文字も同程度に解読するのは困難な文字だといえる。)

(まだしっかり調べていないので、確信はないが)啓蒙思想やギリシャ・ローマの文芸が広まったおかげで、イタリアやフランスではローマ帝国初期に使われたフォント(Antiqua、つまり、普通のローマ字のフォント)が使われるようになった(ようだ)。 18世紀中ごろに出版されたディドロの浩瀚な『百科全書』も「S」(大文字のエス)を除き、たいたい現代のローマ字フォントと全く同じ程度によめる。

ところが、ドイツ語圏は中世のような角ばった字体を好み、 Fraktur(亀甲文字)という字体を広く使い続けていた。(下の図の水色の部分では Frakturが使われ、ピンク色の部分では、 Antiqua が使われた。)



私が大学に入学した時(1973年)、ドイツ語の教科書には、参考程度ではあったが、まだこの Frakturが載せられていた。もっとも、ドイツにも、Grimm兄弟のように Fraktur ではなく、ローマ字(Antiqua)で出版すべし、と考えた文人もいたが、依然として Fraktur が主流であった。

ところで、世間ではヒトラーは悪行の限りをつくした悪魔の如く嫌われている。別にヒトラーを擁護する訳ではないが、公平な立場から言うと、ヒトラーもドイツ人のみならず、人類の文化に貢献することもしている。一つは、アウトバーンの建設であり、もう一つはこの Fraktur を国家規模で廃止し、強制的にローマ字への切り替えを指示した。明治時代の森鴎外などは Fraktur のドイツ語を楽々と読んでいたはずだが、私の世代ではかなり難しく感じる。



さて、この Georges の分厚い辞書はラテン語の部分は普通のローマ字で印刷されているのだが、ドイツ語の説明部分は残念ながら全て Fraktur で書かれているので非常に読みにくく感じた。しかし、内容的には非常に充実しているので、購入することにした。

使ってみると、確かに非常に説明が詳しい上に、引用も豊富にある。とても 100年以上前に作られて辞書とは思えないほど内容はしっかりとしている。ただ、残念なことに紙質がかなり悪く、茶色に酸化していた。それで新品が欲しいと思い、amazon.de で探すと、何と、現代でも尚、同じタイトルで販売されていた!( ISBN-13: 978-3775252836)。上下2巻(それぞれ、3108ページ、3576ページ)で合計 6000ページを優に超える大冊である。この現代版も購入したが、ドイツ語の部分は相変わらず Fraktur で印刷されている。ただ、フォントの細部を修正して、多少読みやすい字体に変わっている。

さて、Georges の Fistula の部分を示そう。



この図の青線で示した部分は、fistula がギリシャ語の συριγχ に該当するとの説明だが、他のラテン語の辞書にはなかった説明が以下のように見える。
「a) 複数管を持つ羊使いの縦笛、ギリシャ語でσυριγχ というが、これは羊使いの甲高く雄々しい歌の伴奏に使う草笛(Halmpfeife)[stipula]とは別物だ」


上で述べたように、編纂後100年経った現在でも、依然として出版され続けている Georges の Fraktur 部分は現代の若者のドイツ人にも読みにくいのであろう、この電子辞書版ではローマ字の字体(Antiqua)になっているようだ。私も当初は Fraktur を読むのに苦労したが ― そして、今でも少しはまだ苦労するが ― 慣れるにつれて、一種の風格を感じるようになった。(現代のドイツ人でも、古い世代ともなると Fraktur に愛着を感じるようだ。今から30数年前になるが、カーネギーメロン大学に留学していた時、Doverという大型印刷機では多くのフォントが印刷できたので、ドイツ人に Fraktur で印刷した手紙を送ったところ、大変喜ばれたことがあった。今だと安物のプリンターでも数多くのフォントで印字できるが、ラインプリンターが主流の当時ではまさに画期的なことであった。)

大部分のヨーロッパ諸国では近世になって印刷術の進歩と共に、読みやすい(と思われる)ローマ字(Antiqua)に移行したにも拘わらず、ドイツでは頑固なほど長く Fraktur が使われていたが、こういう点にドイツの文化に対する根本的な考え方が期せずして表れているように思える。

続く。。。
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想溢筆翔:(第376回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その219)』

2018-09-27 18:20:13 | 日記
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【318.痛恨 】P.2234、AD227年

『痛恨』とは「非常に残念に思うこと」という意味。ただし、「痛」とは別に肉体的な「いたみ」の意味ではない。辞海(1978年版)には「痛」には「甚也」という意味があるという。これがわかると「痛快」の意味がすんなりと理解できる。

「痛恨」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。現在、「痛恨」は我々の日常生活では頻繁に使われているが、中国では案外、使われていなかった単語であることが分かる。さらに古代から中世(唐)まで使われていたが、その後は近代に至るまでほとんど使われていない単語であることも分かる。



さて、資治通鑑で「痛恨」が使われている場面を見てみよう。三国志の中でも一番人気の諸葛孔明が「出師の表」を劉禅に提出し、出陣に当たって、こまごまと注意事項を与える場面。

 +++++++++++++++++++++++++++
。。。軽薄な連中を身びいきして、賢臣を疎んじたのが、後漢が没落した原因です。前帝(劉備)がまだ存命でおられた時、この点について前帝と話を致しましたが、いつも後漢の桓帝や霊帝の話になると、嘆き、痛恨なさっておられました。(そうなって欲しくはありません。さて)侍中尚書(陳震)、長史(張裔)、参軍(蒋琬)、これらの官僚は皆、善良で、国家に殉じる忠誠心のある臣下たちばかりです。どうか、陛下におかれては、彼らを信じ、親しくしてくださるようお願いします。そうすれば、我が国は日ならずして立派な国になれることでしょう。

。。。親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎与臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓、霊也。侍中尚書、長史参軍、此悉端良、死節之臣、願陛下親之、信之、則漢室之隆、可計日而待也。
 +++++++++++++++++++++++++++

と、このように述べて孔明は劉禅が普段から宦官ばかりとつるんで、賢臣たちを煙たがっているが、そのような態度を改めるよう諭した。しかし、結果的には効果がなく、日ならずして、隆盛になるどころか逆に魏に併合され、滅んでしまった。

さて、ここの部分をよく読むと、文面には表れていない裏の意味、つまり孔明のあてこすりが、かすかに見て取れる。それは孔明が劉備と後漢の衰亡について話をし、いつも桓帝や霊帝の話になると、二人とも痛恨の思いをしたというくだりである。孔明の意図するところは劉禅の帝王としての資質はこの二人と同レベルの低さだと謗っている点にある。

世の中では、孔明は賢人であり、劉禅は愚主である、という評価が定まっているが、つらつら考えるに、孔明は小国の蜀全土の人と物資を大量につぎ込んで勝ち目のない魏との大戦(北伐)を、実に5回も行った。7年にもおよぶ戦役に継ぐ戦役で、民衆は塗炭の苦しみを味わい、国家は窮乏の極に陥っただろうことは、容易に想像できる。

それに反し、愚主の劉禅は、魏の軍勢が蜀都に迫るや、ほとんど抵抗することなく、魏の軍門に下った。劉禅は、その後、魏の都・洛陽に移送され、魏で安楽な生活が約束されると、本来のノー天気な愚かさのまま振る舞ったので、天下の笑いものとなった。

後知恵を承知で、結果論的に言えば、劉禅が主戦派に組みせず、徹底抗戦を避けたお蔭で、少なからぬ庶民の命が救われた。しかし、仮に劉禅が孔明に心酔し、才気渙発な賢主であったとしたら、果たして庶民は無事でいられたであろうか?

そうすると、果たして孔明の掲げた大義名分は本当に蜀に必要だったのだろうか、という疑問が湧いてくる。歴史に IF(イフ)はないので、確証はないが、愚主と謗られた劉禅の評価も見方によっては評価も変わるといえよう。

続く。。。
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【麻生川語録・45】『英単語の綴りを正確に記憶する裏ワザ』

2018-09-23 19:16:04 | 日記
小学校でローマ字を習った時には、「あいうえお」表をローマ字で書かされた。一発音が一表示に対応しているので、あっという間に覚えることができた。(ただ残念なことに、現代ではヘボン式表示以外に訓令式の表示がかなり一般的に使われるようになりつつある。それ故、「しゃ」は sha ではなく sya と書く人も多い。日本語はローマ字だけでなく、外来語の書き方にもいくつもの方式があるが、コンピュータ化の現代では、orthography が確定せず、揺らぐのは大問題だと私は苦々しく思っている。この点、ヨーロッパ各国は問題を先送りせず、必要の都度、こまめに orthography を改定し、強力な強制力を発動して新しい綴りを普及するための努力を怠っていない。)

ところが、中学校で英語を習うと、ちょっとした単語でも、発音と表記が異なっていることに驚かされる。英語のテストでは、綴りを正しく書かなくてはいけないが、どうしても覚えきれない単語がいくつか残る。代表的なのが、「シェークスピア」であろう。日本人には中学校から英語を習い始めて数十年経っても正しく書けずにいることは珍しくない。

私は、元来、単純な暗記モノは大の苦手で、英語を習いだしてから、英単語では発音から綴りが思い出せないことが多かった。そこで、苦し紛れに自分だけの秘策を編み出した。それは、英語の単語を完全に綴り通り、つまりローマ字読みに発音して覚える、という方法だ。私の頭の中では、簡単な単語は除き、大抵の英単語は
 「英単語の綴り」=「本式の発音」+「独自発音」 
というように、2つの発音が付随していた。



この方式は奇抜なアイデアのように思われるかもしれないが、実は日本人の我々にはとっくの昔から馴染の方法なのだ。というのは、我々日本人が使う漢字には必ず「音」+「訓」がついている。中国人からすれば、「音」はまだしも「訓」の発音は何を意味しているのかとんと想像がつかないだろう。しかし、我々にとっては「訓」は元の漢字とは切っても切れない関係にあるだけでなく、「訓」によって漢字を正確に思い出す手段となっているのである。

私の「独自発音」はまさにこの「訓」の役割を果たす。例えば、「 Shakespeare」を覚える時には、「シェークスピア」という本式の発音に付け加え、「シャーケスペアレ」と、途中の「a」の音や、最後の「e」までローマ字式にきっちりと発音した発音を覚える。この時、簡単な綴りでもしっかりと、ローマ字読みする: eight(エイ・ジー・エイチ・ティー)、 flare(フラーレ)、isle(アイスレ)など。

この方法では、一つの綴りに対して、発音を1つ余計に、つまり、2倍覚えないといけないので、記憶する負担が倍増する理屈となるのではあるが、実際にしてみると分かるが(と、体験者の私自身が言うのであるが)、記憶する量は大して増えない。しかるに、記憶定着率が圧倒的に高くなる!「独自発音」というのは、一見、物事を複雑にするようではあるが、実質的に簡便化・簡易化する。これは幾何学でよくやる「補助線を引く」という方法論だ。

この記憶法のおかげでシェークスピアの綴りを中学2年(?)の時に覚えて以来、一度も間違ったことはない。ちなみに、私はフランス語の単語の記憶にもこの方法を使っているが、そのたびに、フランス語の綴りの酷さにため息がでると共に、フランス人は綴りを一体どのようにして記憶しているのか知りたく思う。フランス語には、あまりにも読まない字が多すぎる。語源的には必要であるので、取り去るわけにはいかないことは分かるが、それならば、イタリア語やスペイン語のように、一層のこと完全に発音に合わせて綴りを変えるか、逆に、綴りに合わせて発音を変えては如何かと思う。この点、ドイツ語の方は遥かに合理的だと私には思える。私は以前から各人にはぴったりとする外国語が存在するという「語学相性論」を唱えているが、私がドイツ語にハマった一つの理由がドイツ語の単語の綴りと発音が非常に規則的な点に由来する。(参照:『社会人のリベラルアーツ』P.356)

さて、冒頭に漢字の「音・訓」の話をしたが、日本で漢字が国字とみなされる位普及し、誰もが意味を理解できるのは、まさに「訓」のお蔭だと私は考える。この意味は、日本と朝鮮における漢字の普及の大きな差を考えてみると良く分かる。朝鮮において漢字の読み書きができたのは、幼い時から日に何時間も漢字だけの本を読み、発音と綴りを原語(中国語)で学ぶことのできた両班だけであった。(ただし、発音は朝鮮訛の発音ではあったが。)庶民にとっては、土着語(朝鮮人本来の言語)とは無関係の発音は、耳から聞くだけでは意味が分からなかったに違いない。これは、日本でも同様で、「訓」のついている漢字は子供でも覚えやすいが、「訓」がない抽象語は記憶しにくいことからも分かる。こういった事を考えると、漢字の「訓読み」の発明は日本文化の発展に大きな功績をもたらしたといえる。
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想溢筆翔:(第375回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その218)』

2018-09-20 20:58:52 | 日記
前回

【317.髣髴 】P.4297、AD490年

『髣髴』(ほうふつ)とは「彷彿」とも書く。意味は3通りあり、1つ目は「ありありと想像するさま」、2つ目「ぼんやりとするさま」、3つ目は「よく似ているさま」。一つの語でありながら、「ありあり」と「ぼんやり」と、正反対の意味を含むというのは、どうも理解に苦しむ。。。

ところで、漢字で韻を合わせるのを重韻というが、頭韻を合わすのを「双声」といい、脚韻を合わせるのを「畳韻」(じょういん)という。この「ほうふつ」は「双声」であるので、漢字の意味よりもむしろ発音(韻)に重点がある。したがって、「髣髴」も「彷彿」もどちらも「方」と「弗」の音符を含むので、意符(髟や彳)は意味が無いと言えよう。このように漢字は「象形文字」や「表意文字」ではなく、単に発音記号としての意味を持つ場合も多い。(ついでに言うと、この「ほうふつ」には、更に人偏の意符もある。つまり「ほうふつ」と言う単語は、同じ意味を3通りの漢字で書けるのだ。)

この3つの「ほうふつ」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。「髣髴」が最も頻度が高いが、宋史に限っては「彷彿」の方が多い。



さて、資治通鑑で「髣髴」が使われている場面を見てみよう。

 +++++++++++++++++++++++++++
九月、…魏の馮太后が薨去(殂)された。帝(高祖、孝文帝)は悲しみのあまり、五日も食事をしなかったが、このような悲しみようは礼の規定に過ぎる。中部曹で華陰出身の楊椿が諫めていうには「陛下は祖先の業(ぎょう)を守り、世界の主としての責務があります。どうして、庶民のように悲しみに伏していられましょうか!群臣たちは、おろおろしてどう言ったらいいのか戸惑っています。また、聖人が定めた礼によると、悲しみにくれてもいいが、健康を害してはならないということです。たとえ陛下の孝心が歴代の帝王の誰より篤いとしても、健康を損なってしまっては先祖に顔向けができませんぞ!」帝はこの忠告に感じいって、一杯の粥だけを食べた。

帝がようやく食事をするようになったので、王族たちは一斉に王宮にやってきて意見書を提出した「馮太后の墓陵の区画を定めてください。そして、漢や魏の先例にならい、また馮太后の遺言に従って葬り、喪の期間を終了してください。」これに対して帝は次のような詔を発した「馮太后が亡くなったというものの、太后の居所の梓宮でお目にかかっていたのがまるで昨日のようで、今でもお姿を拝見できたらなあと願う。墓陵の件は、まだ議論する気にはなれない。」

九月、…魏太皇太后馮氏殂;高祖勺飲不入口者五日、哀毀過礼。中部曹華陰楊椿諫曰:「陛下荷祖宗之業、臨万国之重、豈可同匹夫之節以取僵仆!群下惶灼、莫知所言。且聖人之礼、毀不滅性;縦陛下欲自賢於万代、其若宗廟何!」帝感其言、為之一進粥。

於是諸王公皆詣闕上表、「請時定兆域、及依漢、魏故事、太皇太后終制、既葬、公除。」詔曰:「自遭禍罰、慌惚如昨、奉侍梓宮、猶希髣髴。山陵遷厝、所未忍聞。」
 +++++++++++++++++++++++++++

北魏の馮太后は中国の歴史上でもまれにみる女傑である。(参照:『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』P.115 - 119)実質の女帝として長らく君臨したが、享年49で薨去した。それで、一説には実の息子とも言われる孝文帝が何日もの間、食事すら取らずにその死を悲しんだという場面である。実親でなくとも、系譜上は馮太后は祖母に当たる人であるので、儒教の礼のしきたりにしたがって相当期間、喪に服する義務がある。喪中には、粗末な食事をとり、いわば栄養失調状態になればなるほど孝心が篤いと誉められるのが儒教である。

儒教の礼の規範をよく見ると、日々の労働のおかげで、かつかつに生きている庶民には到底服することのできない長い喪の期間(父母には足かけ3年)が定められている。その間、仕事は一切放棄して、苫屋(掘立て小屋)に寝泊まりし、粗末な食事をするのが親に対する孝心の証だという。さらには、大金をはたいて、死体の口に含ませる璧(宝石、 jade)を買わないといけない。これら、いづれも庶民にとっては大きな負担である。私には、墨子がこういった無理な負担を強いる儒家を非難したのは無理もないと思われるのだが、中国人はそうは考えなかった点に、中国人の伝統的価値観がくっきりと見える。

続く。。。
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沂風詠録:(第311回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その16)』

2018-09-16 17:15:35 | 日記
前回

【承前】

B-1.ラテン語辞書

B-1-5 P.G.W. Glare "Oxford Latin Dictionary"(略称:OLD)

前回、 Lewis and Short(L&S)のラテン語の辞書を紹介したが、出版社のOxford大学は1931年ごろからこのラテン語辞書の改定を計画し、1933年から本格的に改定作業を開始した。当初は12年で出版にこぎつける予定だったようだが、結果的に出版完了は1982年であった。第二次世界大戦をはさんでいるとはいえ、改定に実に50年近くもかかっている。現在では、この版を更に改定した2nd Version(ISBN-13: 978-0199580316)が 2012年(それも4月1日!)に 2巻本として出版されている。私の持っているのは 1st Version(ISBN-13: 978-0198642244)なので、以下それについて説明する。



伝説では、ローマは紀元前753年4月21日に建国された。ラテン語がその小さなローマ市(というより、村)の言葉であったが、ローマがその後、大発展するにつれ、広大なローマ帝国に普及した。西ローマ帝国が滅んだ後も、カトリック教会の公用語として近世に至るまで、西ヨーロッパ全域で通用する唯一の公的言語であった。それ故、今に伝わるラテン語の文章は、古代ローマ人が書いたものだけでなく、中世に書かれたものも数多くある。近世においても、ラテン語は使われ続け、デカルトやニュートンもラテン語で著作した。

このようにラテン語は、2000年以上にわたって使われ続けていて、その間に語彙や語法がかなり変わっていると考えられる。ところが、このOLDに収録されている単語は、紀元後200年までの所謂、古典ラテン語に限定されている。 Publisher's Note にはその理由を「中世ラテン語は年代が特定できないから採用しないことにした」と説明する。さらに、語源についても、最低限しか掲載しない、との方針も述べる。つまり、使用された年代が確定出来る単語を出典つきで、年代順に並べるという OED(Oxford English Dictionary)で採用した Historical Principles に従ってこの辞書(OLD)を編纂したということだ。

私にとってはこの2つの制約の内、前者(古典ラテン語だけ)は全く問題とはならない。というのは、私の読むラテン語は BC 200年あたりからAD 200年あたり(日本でいうと弥生時代)のもので、しかも独訳(Reclam)や英訳(Loeb)がついている、極々オーソドックスなラテン語の文典であるからだ。

しかし、後者(語源)については不満がある。しかし、考えてみればOLDの方針意図はそれなりの納得性をもっている。ラテン語の語源辞書(例:Dictionnaire etymologique de la langue latine)を見ても分かるが、ラテン語の語源を数行で納めるのはかなり困難な作業である。さらに学術的観点からすれば、今後、新たな文献(碑文など)の発見により、説明を改定しなければならないこともあるだろう。学術的な正確さを重視するOLDにあっては将来発生するであろう「誤った記述」を避けたいとの意図が強かったので「語源の記述はしない」との結論に至ったものと思われる。従って、ラテン語の語源に関しては別の辞書をチェックする必要がある。

さて、OLDの Fistula の部分を下記に示そう。



流石に50年かけただけあって、L&S の説明よりも詳しいことが分かる。字数にしても、ざっと見、2割増しになっている。しかし、ここで赤字で示したように、必要に応じてギリシャ語も頻繁に登場
 fistula, quam τοναριον uocant (fistula はτοναριονと呼ばれた)

τοναριονをギリシャ語の辞書の LSJで調べると、
 "pitch-pipe, to give the key-note for singing or speaking"
との説明が見える。つまり、歌手や演説家が音程(声のキー)を確かめるために、笛をプーと吹いてもらうということだ。現在でもオーケストラの音合わせにオーボエ奏者が特定の音(A線)を吹く。(記憶が定かではないが、確か、和楽器でも笛によって音合わせをすると思うのだが。。。)

このようにOLDは内容的には素晴らしいものであるが、正直言って、私はこの辞書は好きになれない。それは、OLDが採用している現代のラテン語の orthography が理由だ。上で述べたように、近世までラテン語はヨーロッパ各国の言語に深く入り込み、ラテン語経由の単語があたかもそれらの国々本来の単語であるかのように使われてきた。その時、i と j、および u と v は区別されて書かれた。しかるに、現代の科学的な言語学によると半母音の j と v は元来 i と u であるので、j と v はそれぞれ i、u と記述するのが正しいという。

科学的に正しいと言われても、これがどれほど迷惑で混乱させることか、英単語を使って説明しよう。

例えば、この規則を適用すると job は iob となり、 vulgar は uulgar と記述されるのである。OLD の影響かどうか分からないが、現在、印刷・出版されているラテン語の辞書のほとんどがこの形式だ。しかし、私が1977年から1984年にかけて、ドイツやアメリカで購入した辞書や本では、かなりの部分 j が i 表記にはなっていたものの、まだ u と v は区別されていた。

ところが ― 私の経験からなので正確性には欠けるが ― ざっくり言って、1990年代以降に出版された辞書や一部の本は j と v を使わない形式になっている。頭では理解しているものの、私には uulgar のような綴りを見ると生理的に嫌悪感を抱いてしまい、読む気が失せてしまう。ただ、ラッキーなことに、私の読む Reclam版や Loeb版のラテン語の本は現在出版されているものも含めて(たいていは) u v は区別されて印刷されている。従って、辞書に関して言うと、この OLD はよほどのことがないと引かず、英語=ラテン語辞書では、もっぱら 前回説明したL&Sを愛用している。それでもこの OLD は所謂「最後の砦」(the last resort)として、確かに値は張るが(4万円程度)、持っているべきだ、と認めるに吝かではない。

続く。。。
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