(前回)
【承前】
B-1.ラテン語辞書
B-1-6 Georges "Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch"
以前述べたように始めて買ったラテン語の辞書は、Langenscheidt社の独羅辞典であったが、1999年からラテン語を本格的に自習しだすようになると、小型のこの辞書では物足りなくなった。
それで、前々回述べたように大型の英羅辞書である L&S を購入した。L&S は分厚く、収容語彙も多い期待通りであったので、満足して使っていた。そんなある時、神田神保町の洋書の古本屋である田村書店に入った。田村書店は一階は和書専門、二階は洋書専門と別れているが、他の洋書店(例えば小川図書や大島書店)と異なり、英書以外のドイツ語やフランス語の書籍をかなり多くおいている。それで、私はドイツ語の辞書や百科事典などを探す時には、ここに来る。案にたがわず、その日も、早速ドイツ語で書かれた分厚いラテン語の辞書が目にとまった。年代もの辞書
Georges の Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch
の背表紙は、今にもはがれ落ちそうなほどであった。印刷されたのは、なんと1889年(?)だった。中をみると、ドイツの伝統的な字体、Fraktur で書かれていたので、躊躇した。
Fraktur とは何であり、なぜ私が躊躇したかについて説明しよう。
中世のヨーロッパの写本は主として修道院で、いわば工芸品として制作されていた。つまり、一冊の写本にとてつもなく長い時間をかけていたのだ。その時の文字は上の写真にもあるように、角ばった線が連続的につながっているような字体であった。ヨーロッパ人はこの文字が気にいっていたようで、グーテンベルクが 15世紀半ばに印刷術を確立した時、この読みにくい字体をそのまま活字に移すことに意を注いだと言われる。日本人(すくなくとも私)には「これで、よくも読めたものだ!」と思うようなものであっても、ヨーロッパ人にとっては、風格や愛着を感じるのかもしれない。(もっとも、冷静に考えてみると、日本のカナ文字も同程度に解読するのは困難な文字だといえる。)
(まだしっかり調べていないので、確信はないが)啓蒙思想やギリシャ・ローマの文芸が広まったおかげで、イタリアやフランスではローマ帝国初期に使われたフォント(Antiqua、つまり、普通のローマ字のフォント)が使われるようになった(ようだ)。 18世紀中ごろに出版されたディドロの浩瀚な『百科全書』も「S」(大文字のエス)を除き、たいたい現代のローマ字フォントと全く同じ程度によめる。
ところが、ドイツ語圏は中世のような角ばった字体を好み、 Fraktur(亀甲文字)という字体を広く使い続けていた。(下の図の水色の部分では Frakturが使われ、ピンク色の部分では、 Antiqua が使われた。)
私が大学に入学した時(1973年)、ドイツ語の教科書には、参考程度ではあったが、まだこの Frakturが載せられていた。もっとも、ドイツにも、Grimm兄弟のように Fraktur ではなく、ローマ字(Antiqua)で出版すべし、と考えた文人もいたが、依然として Fraktur が主流であった。
ところで、世間ではヒトラーは悪行の限りをつくした悪魔の如く嫌われている。別にヒトラーを擁護する訳ではないが、公平な立場から言うと、ヒトラーもドイツ人のみならず、人類の文化に貢献することもしている。一つは、アウトバーンの建設であり、もう一つはこの Fraktur を国家規模で廃止し、強制的にローマ字への切り替えを指示した。明治時代の森鴎外などは Fraktur のドイツ語を楽々と読んでいたはずだが、私の世代ではかなり難しく感じる。
さて、この Georges の分厚い辞書はラテン語の部分は普通のローマ字で印刷されているのだが、ドイツ語の説明部分は残念ながら全て Fraktur で書かれているので非常に読みにくく感じた。しかし、内容的には非常に充実しているので、購入することにした。
使ってみると、確かに非常に説明が詳しい上に、引用も豊富にある。とても 100年以上前に作られて辞書とは思えないほど内容はしっかりとしている。ただ、残念なことに紙質がかなり悪く、茶色に酸化していた。それで新品が欲しいと思い、amazon.de で探すと、何と、現代でも尚、同じタイトルで販売されていた!( ISBN-13: 978-3775252836)。上下2巻(それぞれ、3108ページ、3576ページ)で合計 6000ページを優に超える大冊である。この現代版も購入したが、ドイツ語の部分は相変わらず Fraktur で印刷されている。ただ、フォントの細部を修正して、多少読みやすい字体に変わっている。
さて、Georges の Fistula の部分を示そう。
この図の青線で示した部分は、fistula がギリシャ語の συριγχ に該当するとの説明だが、他のラテン語の辞書にはなかった説明が以下のように見える。
「a) 複数管を持つ羊使いの縦笛、ギリシャ語でσυριγχ というが、これは羊使いの甲高く雄々しい歌の伴奏に使う草笛(Halmpfeife)[stipula]とは別物だ」
上で述べたように、編纂後100年経った現在でも、依然として出版され続けている Georges の Fraktur 部分は現代の若者のドイツ人にも読みにくいのであろう、この電子辞書版ではローマ字の字体(Antiqua)になっているようだ。私も当初は Fraktur を読むのに苦労したが ― そして、今でも少しはまだ苦労するが ― 慣れるにつれて、一種の風格を感じるようになった。(現代のドイツ人でも、古い世代ともなると Fraktur に愛着を感じるようだ。今から30数年前になるが、カーネギーメロン大学に留学していた時、Doverという大型印刷機では多くのフォントが印刷できたので、ドイツ人に Fraktur で印刷した手紙を送ったところ、大変喜ばれたことがあった。今だと安物のプリンターでも数多くのフォントで印字できるが、ラインプリンターが主流の当時ではまさに画期的なことであった。)
大部分のヨーロッパ諸国では近世になって印刷術の進歩と共に、読みやすい(と思われる)ローマ字(Antiqua)に移行したにも拘わらず、ドイツでは頑固なほど長く Fraktur が使われていたが、こういう点にドイツの文化に対する根本的な考え方が期せずして表れているように思える。
(続く。。。)
【承前】
B-1.ラテン語辞書
B-1-6 Georges "Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch"
以前述べたように始めて買ったラテン語の辞書は、Langenscheidt社の独羅辞典であったが、1999年からラテン語を本格的に自習しだすようになると、小型のこの辞書では物足りなくなった。
それで、前々回述べたように大型の英羅辞書である L&S を購入した。L&S は分厚く、収容語彙も多い期待通りであったので、満足して使っていた。そんなある時、神田神保町の洋書の古本屋である田村書店に入った。田村書店は一階は和書専門、二階は洋書専門と別れているが、他の洋書店(例えば小川図書や大島書店)と異なり、英書以外のドイツ語やフランス語の書籍をかなり多くおいている。それで、私はドイツ語の辞書や百科事典などを探す時には、ここに来る。案にたがわず、その日も、早速ドイツ語で書かれた分厚いラテン語の辞書が目にとまった。年代もの辞書
Georges の Ausfürliches Lateinisch-Deutsches Handwörterbuch
の背表紙は、今にもはがれ落ちそうなほどであった。印刷されたのは、なんと1889年(?)だった。中をみると、ドイツの伝統的な字体、Fraktur で書かれていたので、躊躇した。
Fraktur とは何であり、なぜ私が躊躇したかについて説明しよう。
中世のヨーロッパの写本は主として修道院で、いわば工芸品として制作されていた。つまり、一冊の写本にとてつもなく長い時間をかけていたのだ。その時の文字は上の写真にもあるように、角ばった線が連続的につながっているような字体であった。ヨーロッパ人はこの文字が気にいっていたようで、グーテンベルクが 15世紀半ばに印刷術を確立した時、この読みにくい字体をそのまま活字に移すことに意を注いだと言われる。日本人(すくなくとも私)には「これで、よくも読めたものだ!」と思うようなものであっても、ヨーロッパ人にとっては、風格や愛着を感じるのかもしれない。(もっとも、冷静に考えてみると、日本のカナ文字も同程度に解読するのは困難な文字だといえる。)
(まだしっかり調べていないので、確信はないが)啓蒙思想やギリシャ・ローマの文芸が広まったおかげで、イタリアやフランスではローマ帝国初期に使われたフォント(Antiqua、つまり、普通のローマ字のフォント)が使われるようになった(ようだ)。 18世紀中ごろに出版されたディドロの浩瀚な『百科全書』も「S」(大文字のエス)を除き、たいたい現代のローマ字フォントと全く同じ程度によめる。
ところが、ドイツ語圏は中世のような角ばった字体を好み、 Fraktur(亀甲文字)という字体を広く使い続けていた。(下の図の水色の部分では Frakturが使われ、ピンク色の部分では、 Antiqua が使われた。)
私が大学に入学した時(1973年)、ドイツ語の教科書には、参考程度ではあったが、まだこの Frakturが載せられていた。もっとも、ドイツにも、Grimm兄弟のように Fraktur ではなく、ローマ字(Antiqua)で出版すべし、と考えた文人もいたが、依然として Fraktur が主流であった。
ところで、世間ではヒトラーは悪行の限りをつくした悪魔の如く嫌われている。別にヒトラーを擁護する訳ではないが、公平な立場から言うと、ヒトラーもドイツ人のみならず、人類の文化に貢献することもしている。一つは、アウトバーンの建設であり、もう一つはこの Fraktur を国家規模で廃止し、強制的にローマ字への切り替えを指示した。明治時代の森鴎外などは Fraktur のドイツ語を楽々と読んでいたはずだが、私の世代ではかなり難しく感じる。
さて、この Georges の分厚い辞書はラテン語の部分は普通のローマ字で印刷されているのだが、ドイツ語の説明部分は残念ながら全て Fraktur で書かれているので非常に読みにくく感じた。しかし、内容的には非常に充実しているので、購入することにした。
使ってみると、確かに非常に説明が詳しい上に、引用も豊富にある。とても 100年以上前に作られて辞書とは思えないほど内容はしっかりとしている。ただ、残念なことに紙質がかなり悪く、茶色に酸化していた。それで新品が欲しいと思い、amazon.de で探すと、何と、現代でも尚、同じタイトルで販売されていた!( ISBN-13: 978-3775252836)。上下2巻(それぞれ、3108ページ、3576ページ)で合計 6000ページを優に超える大冊である。この現代版も購入したが、ドイツ語の部分は相変わらず Fraktur で印刷されている。ただ、フォントの細部を修正して、多少読みやすい字体に変わっている。
さて、Georges の Fistula の部分を示そう。
この図の青線で示した部分は、fistula がギリシャ語の συριγχ に該当するとの説明だが、他のラテン語の辞書にはなかった説明が以下のように見える。
「a) 複数管を持つ羊使いの縦笛、ギリシャ語でσυριγχ というが、これは羊使いの甲高く雄々しい歌の伴奏に使う草笛(Halmpfeife)[stipula]とは別物だ」
上で述べたように、編纂後100年経った現在でも、依然として出版され続けている Georges の Fraktur 部分は現代の若者のドイツ人にも読みにくいのであろう、この電子辞書版ではローマ字の字体(Antiqua)になっているようだ。私も当初は Fraktur を読むのに苦労したが ― そして、今でも少しはまだ苦労するが ― 慣れるにつれて、一種の風格を感じるようになった。(現代のドイツ人でも、古い世代ともなると Fraktur に愛着を感じるようだ。今から30数年前になるが、カーネギーメロン大学に留学していた時、Doverという大型印刷機では多くのフォントが印刷できたので、ドイツ人に Fraktur で印刷した手紙を送ったところ、大変喜ばれたことがあった。今だと安物のプリンターでも数多くのフォントで印字できるが、ラインプリンターが主流の当時ではまさに画期的なことであった。)
大部分のヨーロッパ諸国では近世になって印刷術の進歩と共に、読みやすい(と思われる)ローマ字(Antiqua)に移行したにも拘わらず、ドイツでは頑固なほど長く Fraktur が使われていたが、こういう点にドイツの文化に対する根本的な考え方が期せずして表れているように思える。
(続く。。。)