A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記224 「チャロー!インディア」

2009-01-24 10:33:09 | 書物
タイトル:チャロー!インディア:インド美術の新時代
編集:三木あき子、黒岩朋子、佐々木瞳、田篭美保、西牧佐知子、町野加代子
インド関連資料監修:足澤一成
翻訳:スタンリー・N・アンダーソン、株式会社ジャパンエコー社、有限会社フォンテーヌ、三木あき子、町野加代子
校正・校閲:岩田高明、スーザン・ウェイチャー、町野加代子
ブック・デザイン:大岡寛典(大岡寛典事務所)、宮村泰朗
デザイン・アシスタント:中西要介、畑友理恵(大岡寛典事務所)
CGイラストレーション:岡崎雅洋
版画:葛西絵里香
印刷:文唱堂印刷株式会社
発行:森美術館
発行日:2008年11月22日
内容:
「現代インド―押し寄せる豊かさと苦悩」中島岳志(北海道大学公共政策大学院准教授)
「チャロー!インディア:インド美術の新時代」三木あき子(本展キュレーター)
「文化相対主義のバラード(または、私はいかにして悩むことをやめ、インドのアートシーンの変遷に愛着を持つようになったのか)」ピーター・ナギ(ナチュール・モルト、ディレクター)
「二都市の物語:知的資本の探求」ナンシー・アダジャニア(文化理論家、美術評論家、インディペンデント・キュレーター)
「バンガロールとアート」スマン・ゴピナート(キュレーター、「コラボ・アート&アーキテクチャー」ディレクター)
「ヴァドーダラの現代美術―簡単な紹介」ジャヤラム・ポドゥヴァル(マハラジャ・サヤジラオ(MS)大学美術史科助教授)
図版
年表
「インドへの接近」ディーパック・アナント(美術史家、評論家、インディペンデント・キュレーター)
作品リスト
寄稿者略歴
(本書目次より)

特製しおり付き

入手日:2009年1月17日
2009年は元旦から森美術館の「チャロー!インディア」展で展覧会初めとなった。
「チャロー!」はヒンディー語で「行こうよ!」を意味するという。ならば、2009年初頭は「チャロー!」の掛け声とともに、「チャロー!美術館」だ!というわけで、元旦開館をしている森美術館に出かけたのだ。

インドの現代美術など、どんなものがあるか当然知らない私には新鮮と同時に日本や欧米諸国と変わらない作風も見られ、現代美術というのはそれほどどこの国でも変わらないものだ、などとお正月ボケした頭でつらづらと考えた。
アトゥール・ドディヤ、シルパ・グプタ、N・S・ハルシャなど以前から知っていた作家たちも、このようなグループ展で展示されるとだいぶ印象が異なり(もちろん継続的に日本で見られるわけではないのだが)、こんな作風だったっけという気がしてしまう。
全体的には、アグレッシブというか、パフォーマティヴな作品などが多く、やはりインドでは静謐な作品はないのかしらんと感じた。多様な民族、宗教、言語を持つ国だけにテクニカルな面よりエネルギー溢れる作品の方が噴出しやすいし、またインド展としても紹介しやすいのだろう。

鑑賞後、購読している森美術館のメールマガジンで、カタログプレゼントの案内があり、応募してみたところ見事当選となり、カタログを頂いた。森美術館さん、ありがとうございます。

相変わらず森美術館のカタログは文献や資料・クレジットが充実していて感心する。近年のカタログは、ページ数、文章量を減らすものが多いのだが、このカタログは充実している。インド現代美術の動向、インドという国、文化、社会についても知見を得られるように人選、テーマが多岐に渡っていてすばらしい。
難を言えば、今展で出品されていない作品図版の方が、私は気になるというか、好きで、展覧会もそちらを出してくれればもっと楽しめたのにと思う。



未読日記223 「木村太陽×ポル・マロ」

2009-01-22 22:52:06 | 書物
タイトル:αmプロジェクト2008 現われの空間vol.5 木村太陽×ポル・マロ
翻訳:南平妙子
デザイン:河野伊央、長内研二
印刷:株式会社アトミ
発行:武蔵野美術大学
発行日:2009年1月13日
内容:
<αmプロジェクト2008 現われの空間vol.5 木村太陽×ポル・マロ>展(2009年1月13日-1月24日art space kimura ASK?)の展覧会カタログ。
キュレーターは住友文彦。

テキスト「木村太陽」編、「ポル・マロ」編:住友文彦(αmプロジェクト2008キュレーター/東京都現代美術館学芸員)
木村太陽:図版5点、作家略歴
ポル・マロ:図版6点、作家略歴

入手日:2009年1月17日
入手場所:art space kimura ASK?
恒例のαmプロジェクトの展覧会カタログ。習慣とは怖いものでDMを頂くと、他の見たい展覧会の途上にギャラリーがあるため、とりあえず入ってしまう。
今回は木村太陽とポル・マロの2人展だが、両者の作風が似通っているため、ギャラリーで展示を見てもどちらがどの作家の作品かわからなくなる。そういう意味では今回の2人展は成功だろう(それはそれでマズいか‥)。
どちらの作品か失念してしまったが、ドアノブの「顔」の作品はどうやってギャラリーから出ていいものやら困惑させる点でユニークだった。この種の試みが展示に貫徹されていれば、もっと展示にいやらしさがでてよかっただろう。たくさんのドローイング展示は、立体、インスタレーションのインパクトに較べると見劣りしてしまうので、壁で区切るなどすればもっと効果があったかもしれない。
結局、ドアノブの顔の作品が象徴しているように、なんとなく出るに出られない(触っていいやら悪いやら)というのが、今の現代美術なのかもしれない。要するに「困惑」というのだろうか。実に外の寒さが身に染みる展覧会であった。



TOUCHING WORD 077

2009-01-20 21:48:53 | ことば
時間というのは驚くほど人を変える。変わらない人も中にはいるが、そういう人はむしろ依怙地に変わることを拒否している。ふつうに生活していれば人は変わる。「ふつう」とはふつうのことだ。そういうことをいちいち説明しようとするから話がおかしくなる。―しかし、現代人である私たちは「ふつう」までいちいち定義しないと自覚的でないような(何に対して?)理屈っぽさにはまってしまっている。「ふつう」はふつうでいい。
(p.170-171 保坂和志『小説の誕生』新潮社、2006年)


「ふつう」がわからない人がいる。「ふつう」は「ふつう」のことだが、「ふつう」でない人は、「ふつう」がわからない。だから、「ふつう」を説明しても、「ふつう」のことがわからない。「ふつう」は「ふつう」のことだから。
最近、「ふつう」を説明することが多く、不毛な気持ちになる。「ふつう」じゃない生活をしている人や「ふつう」の感覚・感情を持たない人に、「ふつう」を説明しても、「ふつう」じゃない人には「ふつう」じゃないのだ。だんだん「ふつう」じゃなくなってきたのでここで一旦やめることにしよう。

TOUCHING WORD 076

2009-01-16 22:44:21 | ことば
平田草悠

草月流いけばな1級修業証より(2009年1月14日受取)

 だらだらと続けていた草月流いけばなのテキストも昨年10月に修業し、1級証を申請していたところ、つい先日、雅号とともに修業証をいただいた。
雅号は自分でも選べるとは事前に聞いてはいたが、私は決めなかった。
 自分の中にない名前を人から与えられたかったからだ。
それに、名前にしろ、愛称にしろほとんどつけるのは他人である。
俳句や絵の世界では、自分でつける人もいるし、それはそれでかまわないのだが、
「名前とは他者から与えられるものである」という考えが私の中にあり、自分で決めたくなかったのだ。
そこで、私に与えられた雅号は、「草悠」という。
たった漢字2字を見ただけで、とても心がこもっている名だとわかったし、なにより「悠」の字があったことに、そうか、そういうことか、と腹に落ちるものがあった。
 そこで「悠」の意味をあげよう。

[音]ユウ(イウ) [訓]はるか
1.時間的・空間的に、どこまでも続くさま。はるか。悠遠、悠久
2.気分がゆったりしているさま。悠然、悠長、悠揚、悠々自適

 まさに、この1字に私がこうありたいと考えている思考が込められているではないか。だが、残念ながら、この字は私の頭からは出てこなかっただろう。他者が名づけるからこそ、私にとって気づくことのできた字である。
 ちなみに、「草」は以前から植物も漢字も好きだった。今回あらためて気づいたことだが、「草」は名詞の前に付くとアマチュアを表すのだ。例えば、「草野球」「草競馬」などと。本格的なプロとは違い素人の遊びだと思われるかもしれない。だが、「草野球」と聞いたときの、あの自由さ、ユルさはどうだろう。適度な緊張感と試合後の酒目当てなユルさはすばらしい。それこそ私が求めているものだ。草いけばな、草批評、草研究‥なんだかバカみたいだが、急にアウトドアな感じがしてくるから不思議だ。今年は草人生でいこう。



未読日記222 「TEAM09 千葉正也」

2009-01-15 22:24:45 | 書物
タイトル:TEAM:TOKYO WONDER SITE EMERGING ARTISTS ON MEZZANINE 09 千葉正也
編集人:家村佳代子
編集:下倉久美、星野美代子
写真:加藤健
デザイン:寺井恵司
印刷:株式会社カノウ印刷
発行:財団法人東京都歴史文化財団 トーキョーワンダーサイト
発行日:2007年8月9日
内容:
「ritual」今村有策(トーキョーワンダーサイト館長/東京都参与)
「ぐにゃぐにゃの人型がつれていってくれるところ」後藤繁雄(編集者/クリエイティブ・ディレクター/京都造形芸術大学ASP学科教授)
「ARTISTS STATEMENTS」千葉正也
図版13点、作家略歴

入手日:2009年1月10日
入手場所:アグネスホテル アンド アパートメンツ東京
神楽坂のアグネスホテルアンドアパートメンツ東京で開かれた<ART@AGNES 2009FINAL>に行った際、SHUGOARTSの部屋に置いてあったのを頂いたもの。2007年にトーキョーワンダーサイトで開かれた際のカタログだが、この展覧会は未見。先週末まで開かれていたSHUGOARTSでの個展を見ると、支持体であるキャンバスそのものを作品化していて、絵画を空間にどのようにあらしめるのかという点に比重が置かれているように感じられた。小林正人の作品に近いものを感じるが、描かれる画面そのものは、それほど記憶に残らなかった。

 ちなみに、ART@AGNESには初めて行ったが、ホテルに行って人の客室に勝手に入るようで、実におもしろい。ホテルなので部屋そのものは大きくはかわらないところを、各ギャラリーが展示をすることによって、空間が変わっていくさまにギャラリーの癖がでていて興味深い。中には、旅から帰って、こんな部屋には帰りたくないと思う部屋もあって困惑してしまうが。
 ちなみに、私のベスト3は以下の通り。

Rontgenwerke AG
kunst-bau | tokyo
KENJI TAKI GALLERY

この3部屋は展示を欲張っていない。落ち着いて作品を見せようとする姿勢が感じられて好感が持てた。アートフェアとはいえ、ホテルだからこそスペシャルな空間にしてほしいものだ。残念ながら、私が行った時間にはこの3部屋はほとんど人がいなかったのだが、しかし、込み合っている部屋が多い中、ゆっくりと作品を見れた。
kunst-bauでの展示で見た川合昭夫という人は無知ながら初めて知ったが、麻のキャンバスの繊維をなぞるように描くとか草だけを描くなどミニマル絵画の極致に吃驚してしまう。1点買って帰ろうかと思ったが、あいにく財布の中に持ち合わせがなかった(というより値段にも吃驚した)。




TOUCHING WORD 075

2009-01-09 23:22:34 | ことば
 身体の死によるのと同じ潜在的な締切りは、別のふうにもあらわれる。もうこれ以上起きていられない、という事態は、まさに小さな死として、日々あらわれているからである。実務的な締切りよりも、予測される入眠時刻のほうが早い場合、そしてもういちどそれ以前にめざめて働くことができない場合、彼にとってはその入眠時こそが締切りであって、依頼してきた媒体から与えられたそれは失効するであろう。
 また、夜に入ってしまうとどうしても書けないとか、朝飯前にしか書けないといった理由が、これに取って代わることもあるだろう。生理的な理由だったり、環境上の理由だったり、さまざまであるとしても、それもまた身体の停止という意味で、書く主体にとっては小さな死だといえるだろう。
 大きな死も小さな死も、身体の停止という、ひとつの期限を示すものである。それはつねに、また至るところにひそんでいる。


(p.45 平出隆『遊歩のグラフィスム』新潮社、2007年)

今週、私はいくつ小さな死を経験したことだろうか。抗えない睡魔が私を襲い、小さな死へと至らしめる。締切りを守れなかったことの後悔は、悔やんでも悔やみきれない。あなたも知っているように、死は取り返しがつかないのだ。しかし、今日も入眠時刻がやってきてしまったようだ‥。

未読日記221 「ランドスケープ」

2009-01-08 23:18:14 | 書物
タイトル:ランドスケープ-柴田敏雄
企画・監修:東京都写真美術館
企画担当:藤村里美
編集補助:鈴木佳子 大澤紗蓉子
翻訳:ルース・マクレリー(ザ・ワード・ワークス)
制作:YTP Total Planning & Design(吉田守孝 林 貴則)
印刷・製本:凸版印刷
PD:十文字義美 都甲美博
発行:旅行読売出版社
発行日:2008年12月13日
定価:2800円+税
内容:
「もう一つの風景写真-柴田敏雄論」飯沢耕太郎(写真評論家)
図版
 color
 B&W
 night
「選ばれた風景」藤村里美(東京都写真美術館学芸員)
展覧会歴/主要参考文献
 作家略歴
 個展/主なグループ展
 主要参考文献
 作品収蔵
作品リスト
(本書目次より)

購入日:2009年1月2日
購入店:東京都写真美術館 ナディッフ バイテン
購入理由:
暮れに柴田敏雄展(双ギャラリー)を見て、頭に余韻が残っていたのと、新年特別企画で入館無料だったためお正月の写真美術館へ。振り返れば、08年のお正月も写真美術館に行った気がする‥。
 年末年始はずっと「風景」について考えていた。なぜ、人は風景を写真に撮り、絵に描いてきたのだろう。写真の場合でいえば、風景を記録するとは、美しい風景をただ記録に収めるためだろうか。だが、美術の一領域である写真における「風景」とは、そのような綺麗な写真のことなのか。そして、風景を前にして、写真家がシャッターを押すタイミングとはいつなのだろうか。
 そこで、映画におけるカメラマンの役割とは「待つことだ」という言葉を思い出す。映画・映像において、カメラを持つ者は、どうしても動かしたくなる。撮影したことがある人ならわかるが、クローズアップや手持ちカメラで移動撮影したりしまいがちで、それを咎める言葉である。カメラを固定し、ひたすら人や風景を撮影する時間というのは、1分や3分でも永遠のようで、じっとしていられなくなるだろう。それを踏まえると、テオ・アンゲロプロスや小津安二郎のカメラは恐ろしい。
 だが、映像がカメラを通して、そこに写りこむ人間の肉体性や風景や場所の纏う空間を、時間として記録するものであるとするなら、写真が風景を必要とするのはなぜなのか。もちろんまだ答えはでない。

 本書は展覧会の開催に併せて刊行され、柴田敏雄の写真を「color」「B&W」「night」の3つのテーマに分け、構成されている。サイズもB4サイズと通常の展覧会カタログとは一回りも大きいサイズである。なぜ、このような大きいサイズなのだろうか。それは、柴田敏雄が一貫して展覧会で写真を見せることを念頭において、大型プリント作品を制作してきたからである。そのため、スケール感を出すため、やや扱いにくいぐらいのサイズで「存在感」をもって主張する本となっている。加えて、プリントの美しさがかなり忠実に再現されていることを指摘しておきたい。
 柴田の経歴を見るとわかるが、もともと柴田は絵画・版画を大学で専攻していた。そのため、大型作品の制作に抵抗がなく、かつ版画のようなディテールの細かいメディアも熟知していたことが、柴田の作品に複雑さと広がりを与えている。「人に感動を与えるのに大きさというものが有効であるということ」を絵画から学んだと柴田の発言にあるが、そのプリントの大きさが鑑賞者の前に「風景」となって現れるのだ。私が見ているは「写真」なのか、それとも「風景」なのだろうか。絵画や写真を「風景」を見るように、鑑賞することは可能だろうか。例えば、リンゴが描かれた絵があれば、リンゴがそこにあるという仮定で見たりすることは可能だ。その再現性に感嘆するだろう。だが、風景の持つスケールは再現不可能だ。山を実寸大で描くことはできないし、家を実寸大で撮影することもできない。描く、撮影するというとき、そのフレームが求めるスケール(縮尺)というのは、どのような要請から決定されるのだろうか。疑問ばかりが後を絶たないが、突き詰めれば「風景」を「風景」として定義するものはなにかということだろう。どこからどこまでが風景で、どこからが風景でなくなるのだろう。しかし、こういうこともありえる。風景写真・風景画ではないものを見ても、そこに「風景」を見てしまうこともあると。「風景」とは、見ようとしないと見えてこないということだろう。普段歩きなれた道の風景が、さして気にもとめていないように。そう、こちらの感情だったり、風景そのものの変化によって、風景は「風景」として認識される瞬間がある。私はいくつ風景に出会うことができるだろうか。





未読日記220 「Still in the Night」

2009-01-05 20:57:32 | 書物
タイトル:Still in the Night
著者:柴田敏雄
テキスト:新畑泰秀(横浜美術館主任学芸員)
翻訳:ロバート・リード
制作・発行:双ギャラリー
発行日:2008年12月13日
金額:1,260円
内容:
東京・東小金井の双ギャラリーにおいて2008年12月13日(土)~2009年1月25日(日)に開催された<柴田敏雄展 Still in the Night>に併せて刊行された作品集。
図版13点、作家略歴収録

購入日:2008年12月28日
購入店:双ギャラリー
購入理由:
夜の写真をポツポツと撮り始めてからというもの、夜の写真が気になり始めた。私の無知もあるが、夜を撮影した写真(あるいは絵画)はどれぐらいあるのだろうか。そこに表れるいくつもの夜に想いを重ねる。
 もともと夜の散歩を好む癖があり、疲れてても酔っていても歩いてしまう私は夜の闇に忽然と現れる風景を記録し始めたのだった。朝が来て、昼が来て、夜が来るのは自然の摂理で、夜を経験しない人などいない。なのに、昼間の光と違い、夜を記録し、描いた作品はかなり少ない気がするのだ。
 そんな夜の写真の系譜があるとするなら、確実に傑作として位置づけられるだろう作品がこの柴田敏雄の「Still in the Night」だ。柴田敏雄といえば、山間にあるダムや自然の中にある人工的なものを撮影した「日本典型」が代表作だが、そのシリーズ誕生前夜に夜の高速道路、パーキングエリアを撮影したのが本作である。人1人いない夜の闇に浮かび上がるガソリンスタンドの光の美しさ、また、印画紙の黒味の美しさ。誰もが知っているのに、日常とはかけ離れた風景を見せる「日本典型」で見られる柴田敏雄の方法論はすでにこの作品に見られる。この初期作ですでに完成されているといってもいい。異なるのは80年代の空気感が、些細な箇所から「見えて」くるということだろうか。以後、柴田はダムやコンクリート、水といったよりニュートラルな対象へとカメラをむけていく。そこでは、「時代」は削ぎ流され、ときに硬質、ときにやわらかさを持つ独自の風景表現へと向かうのだ。話が飛んでしまったが、すべては「Still in the Night」から、つまり「夜」から始まったのだ。



未読日記219 「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」

2009-01-04 20:34:32 | 書物
タイトル:ずっとやりたかったことを、やりなさい。
著者:ジュリア・キャメロン 菅靖彦訳
装幀:坂川事務所
装画:木村晴美
本文デザイン:浅香ひろみ
協力:逍遥舎
発行:サンマーク出版
発行日:2001年4月25日
内容:
毎日の繰り返しに、埋もれた自分。
そろそろ起こしてみませんか?
<忘れた夢を取り戻す12週間の旅>

第1週 安心感を取り戻す
第2週 アイデンティティを取り戻す
第3週 パワーの感覚を取り戻す
第4週 本来の自分を取り戻す
第5週 できるという感覚を取り戻す
第6週 豊かさの感覚を取り戻す
第7週 つながりの感覚を取り戻す
第8週 芯の強さを取り戻す
第9週 思いやりの心を取り戻す
第10週 守られているという感覚を取り戻す
第11週 自立の感覚を取り戻す
第12週 信じる心を取り戻す
(本書帯より)

購入日:2008年12月25日
購入店:Amazon.co.jp
購入理由:
前回に続き、『働かない人。』(左京泰明編、弘文堂)に収録されている働き方研究家・西村佳哲氏のインタビュー中で推薦されていた本の2冊目。
 いわゆる自己啓発本だが、著者のジュリア・キャメロンは映画・テレビ・ドキュメンタリーの監督、脚本業のかたわら、創造性を育てる方法論「アーティスト・ウェイ」を提唱し、ワークショップ、大学などで教えてもいる人物であり、本書は精神論より創造性を育てるための実用書になっている。マーティン・スコセッシも本書を「自らの創造性に触れるための貴重なツール」とコメントしているという。
 上記の内容欄にあるように、本書は全体で12週間のプログラムに分かれており、読者はそれをこなしていけばいい体裁になっている。
 日々の仕事に追われていると、自分には創造性など縁がないし、創造性なんか求められていないと思っていた。仕事上、周囲は「芸術家」ばかりなので、何者でもない私は自分を殺すと決めていたのだ。だが、とある理由で文章を書く機会があったとき、書く以前に思考する・創造する力が衰えていることに愕然としたのだった。ロウソクの灯が消えかけているような状態だろうか。別の言葉で言えば、「ずっとやりたかったこと」がわからない、思い出せない(そんなものあったっけ?という問いも別にあるが‥)。これではいけないと思っていたとき、偶然本書を知ることになった。
 「創造性」というと、とかく芸術家だけのものと思いがちである。だが、本書でも指摘されている通り、「創造性」は「自分らしく生きていくために欠かせない資質」として考えられている(「」内の表現がいいとは思わないが‥)。つまり、芸術家ではなく、ごく普通に暮している一般人でも創造性は大事だということだ。本書がアメリカでベストセラーとなったのもうなずける気がする。感覚が麻痺し、創造性を喪失し、無感情になっていく前に何か手を打ったほうがいいだろう。だが、本を読むことぐらいで何かを期待しているわけではない。自身の感情教育のリハビリとしていいかもしれないとは考えている。


TOUCHING WORD 074

2009-01-03 21:12:29 | ことば
春くれば
ふりつも
雪も
とけぬべし
しばし
時まて
山の
うぐいす


(おみくじより 2009年1月2日天台宗 泰叡山 龍泉寺(目黒不動尊)にて)

あけましておめでとうございます。
上記は新春にひいたおみくじの言葉から。
私のうぐいすはいつ鳴くのでしょうや。