A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記210 「仰臥漫録」

2008-11-18 00:13:32 | 書物
タイトル:仰臥漫録
著者:正岡子規
発行:岩波書店/岩波文庫 緑 13-5
発行日:2002年10月25日第46刷
内容:
子規が死の前年の明治34年9月から死の直前まで、俳句・水彩画等を交えて赤裸々に語った稀有な病牀日録。現世への野心と快楽の逞しい夢から失意失望の呻吟、絶叫、号泣に至る人間性情のあらゆる振幅を畳み込んだエッセイであり、命旦夕に迫る子規(1867-1902)の心境が何の誇張も虚飾もなくうかがわれて、深い感動に誘われる。(解説=阿部 昭)

購入日:2008年11月15日
購入店:DORAMA 下北沢PART6店
購入理由:
その日、私は折からの腰痛に悩まされ、午前中は身動きできなかった。昼になってから太陽も照り気温も上昇したためか、まずは病院に行くことができた。その後、動ける体になったため、移動をし始めた。仰臥の午前が尾を引いてか、身体の痛みを微かに感じるためか、移動するたびに疲労が蓄積されていく気がする。
その日、私は平出隆氏の『遊歩のグラフィスム』(岩波書店刊)を読んでいた。河原温の地図から正岡子規の地図へとゆるやかに記述が進むにつれ、正岡子規が読みたくなってきた。それも本書の中で具体的に取り上げられている『仰臥漫録』を読みたいと。それは、私が仰臥の午前を経験したために、病床で記述されたこの本を自分の身と重ねてしまったためなのかもしれない。
下北沢での用事が終わり、小雨の中、チェーン店の古本屋にふらふらと吸い寄せられ、文庫コーナーを物色する。すると、数少ない岩波文庫の棚によりにもよって本書がそっと置かれているではないか。
仰臥の午前の果てに、遊歩が導き出してくれた本書との出会いに感謝をしよう。身体が痛かろうが、私は外に出たい。

TOUCHING WORD 070

2008-11-14 00:06:15 | ことば
人間が救いと救ってくれる信仰とを必要とするためには、自分の思想の知恵と調和に対する喜びを失い、救いの奇跡を信じる大冒険を試みるためには、まずその人は不幸に、ひどく不幸にならなければならない。悩みと幻滅を、にがさと絶望を体験しなければならない。極度な窮境に陥らなければならない。
(p.710 「ガラス玉演戯」『新潮世界文学全集37 ヘッセⅡ』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳、新潮社1968.11)

わたしがいま経験しているのは「不幸」という名の窮境なのだろうか。
ようやく風邪が直ったと思ったら、腰痛、腹痛、下痢に襲われ、目はアレルギー性結膜炎らしく目には重さとかゆみが離れない。眼科からは目薬3つと軟膏1つが与えられたが、それが救いの奇跡になるかどうかはわからない。

TOUCHING WORD 069

2008-11-07 23:59:56 | ことば
わたしは、いつもとても眠くて、眠気のない晴れきった意識の状態なんて、ずっと味わっていなくて、そんなものはとっくに忘れてしまっていて、もう何年ものあいだ、スイッチが落ちるぎりぎり手前で起きているような感じの周辺にだけしか、わたしはいたことがなくて、もはやそういう状態が、すっかりわたしの体にとってデフォルトなのだった。
(p.86 「わたしの場所の複数」『わたしたちに許された特別な時間の終わり』岡田利規、新潮社2007.2)

いつも眠いわけではないのだが、「スイッチが落ちるぎりぎり手前で起きているような」感覚がここ数年あり、同じことを考えている人が(小説の中だけど)いるものだな、というより「デフォルト」という言葉をこんな風に使うなんてわたしは初めて知った、defaultとは何もしないこと、怠慢、棄権、欠席などという意味だが、引用文ではコンピュータ用語で言うところの「初期設定値」「標準値」という意味での表現で、取り方によっては「何もしない」怠惰な人ということにもなりかねず、というよりそうかもしれない、ということを考えながら昨日は帰った。

未読日記209 「あれとこれのあいだ」

2008-11-05 00:55:29 | 書物
タイトル:あれとこれのあいだ 小金沢健人
編集:神奈川県民ホールギャラリー 中野仁詞、堀江紀子
デザイン:菊池敦巳
翻訳:小川紀久子
印刷:グラフ株式会社
発行:神奈川県民ホール
金額:1500円
内容:
神奈川県・神奈川県民ホールギャラリーにて2008年11月1日(土)-11月29日(土)まで開催された<あれとこれのあいだ 小金沢健人>展の展覧会カタログ。

図版 映像
図版 ドローイング
「ビデオアートの文脈からみる小金沢健人」近藤幸夫(慶應義塾大学准教授)
「ハイパーソニック・ヒストリー」大森俊克
「小金沢健人のベルリン時間」中野仁詞(神奈川芸術文化財団美術部門学芸員)
出品作品リスト
略歴
(本書目次より)

購入日:2008年11月2日
購入店:神奈川県民ホールギャラリー
購入理由:
神奈川県民ホールギャラリーの1300平米のギャラリー空間に全室暗闇による映像インスタレーションを展開する(個人的には)待望の小金沢健人日本初の大型展。とくに一番大きい展示室空間を使った<速度の落書き/Graffiti of Velocity>(2008)は圧巻である。もともと公募展会場などに使われることが多いこのホールの単調な空間をここまで変容させたことは驚きである。
カタログの近藤幸夫氏のテクストでも指摘されている通り、小金沢の作品は「映像によって映像について考えるメタ映像的」(p.53)作品であり、それが他の日本の映像アート作品とはまったく質が異なっている。それは、本展における<無題(渋滞)>(2008)、<矩形の中のジェット>(2007)を見ればあきらかだろう。ここでは、カメラという光学器械の持つ性質が映像として結実し、わたしたちの日常へと照射する。映像の中の抽象性が、実は現実の世界に根ざしたものであること。このまなざしの変換がステップボードとなり、より広い世界へとわたしたちを誘うのだ。「あれ」でもなく「これ」でもない。小金沢健人の映像空間は「あれとこれのあいだ」を映し出すのだ。

購入しておきながら残念なのがカタログである。メインとなる映像作品の図版が1作品1点だけなのだ。もとより映像作品の図版掲載はさまざまな意見があるだろうが、たかが1点だけではその余韻さえ味わえない。展示風景の写真もないので、それら映像図版を加えて、展覧会会期中あるいは会期終了後に発行してもよかったのではないだろうか。多少金額が上がっても展覧会がよいだけに私は購入するのだが‥。また、近藤幸夫氏のテクストは誤字が多いし、他の論考も刺戟を受けるほどの質・量ではないのも残念だ。年齢が若いため文献が少ないのもわかるが、参考文献のリストはまとめてほしいところだし、また、執筆者が今展のために電話ないし直接のインタビュー(会話?)を引用に使うのであれば、カタログに掲載するべきだろう。一般観客の視点からも、作家のコメントないしインタビュー記事は少量でもほしかった。
しかし、デザインはすばらしい。カタログを購入したのも菊池敦巳氏によるものだったのが大きい。フォントの使い方、レイアウトなど美術カタログらしくないデザインですばらしい。会場でもらったチラシによれば小金沢氏は来年春に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館でも個展を行うという。こちらのカタログには期待したいところだ。

MIMOCA'S EYE vol.2 小金沢健人展
2009年1月18日(日)-3月29日(日)
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
*「あれとこれのあいだ」展カタログは神奈川県民ホールギャラリーでの展覧会に合わせて制作・発行されたもののため、丸亀展は本展とは別内容と思われる。情報を待ちましょう。


TOUCHING WORD 068

2008-11-01 00:12:30 | ことば
自分の生活は、踏み越えて行くことでなければならない、一段一段と進んで行くことでなければならない、ちょうど音楽が主題と速度をつぎつぎとかたづけ、演奏し終え、仕上げ、あとに残し、疲れることなく、眠ることなく、いつも目ざめ、いつも完全に目前にあるように、場所をつぎつぎと渉破し、あとに残して行くのでなければならない、とそう私は心に期しました。
(p.625 「ガラス玉演戯」『新潮世界文学全集37 ヘッセⅡ』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳、新潮社1968.11)

踏み越えるというより踏み潰されているような‥
進んでいくというより後退しているような‥
かたづけていくというよりかたづけられているような‥
演奏し終えというより演奏さえしてないような‥
疲れることなくというより疲れっぱなしのような‥
眠ることなくというより眠っているような‥
いつも目ざめているというより起きてないような‥
目前にあるというより目前にはなにもないような‥
場所を渉破するというより場所さえないような‥
あとに残すというよりなにも残らないような‥