A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

ドレスデン国立美術館展[世界の鏡]

2005-07-28 00:09:50 | 美術
ドレスデン国立美術館展[世界の鏡]
2005年6月28日(火)~9月19日(月)
国立西洋美術館

 世界は鏡にうつるのだろうか。「鏡」を手元にある辞書で見てみた。「光の反射を利用して顔や姿をうつして見る道具」とある。展覧会を「鏡」とすると、この展覧会で、どんな世界がうつるのだろう。
 展覧会の最初で目にするのは、ペータ・ヘーゼの<集光鏡>(1740年頃)である。なにやら光を集めて、その熱で物質を溶かしたり、その温度を計るための道具らしい。丸い板が回転するように左右でとめられたゴテゴテとした実験道具である。周囲にはさまざまな計測器、地球儀、天体儀が展示されている。そう、ドレスデンのコレクションの始まりは、これら科学計測機器であったのだ。つまり、世界を「計る」とは、この世界を「知る」ということなのだ。
 歴代のドレスデン皇帝たちは、オスマン帝国の武器・武具、日本・中国の磁器、工芸品など、世界のさまざまな美術品・貴重品を収集している。これも、世界を知ることの欲求、好奇心のなせるわざであろうか。マイセン磁器にいたっては、白磁の成分を分析することで作り出す熱の入れようだ。

 ドレスデンはロマン主義誕生の地だけあって絵画作品も充実している。レンブラントの<ガニュメデスの誘拐>なる作品がある。大鷲のような鳥が嘴で子どもを掴んで連れ去って行く絵である。ずいぶん悲惨なシチュエーションだが、やけに子どもがでかい。レンブラントらしいが、お尻の辺りの肉付きがいいのである。がっしりしている。鳥と格闘できそうな体つきをしている。しかもこの子ども、小便をしているのだ。鳥に掴まれ空に浮かびながらである。恐怖とはいえ、恐い絵である。幸いに私は空に浮かびながら小便をしたことはない。だから、この子の気持ちはわからない。だが、こんな目にはあいたくないものだ。世界は広い。こんな人攫いの鳥がいるかもしれない。
 最後に、フェルメールの<窓辺で手紙を読む若い女>が、この展覧会を象徴している1品である。女が窓辺に立って異国から来たらしい手紙を窓辺に向かって読む。光が部屋に降り注ぐ。内部にありながら、外からの光り、手紙が外部を暗示するイメージとして働く。ここではないどこか。地球儀、天体図、計測機器に見られた外部の世界、身の回りの世界を理解可能なものとして認知すること。そういった意識の結実の一つがこのフェルメールの作品を購入させたのだろう。この作品に見られるような写実主義、光の描写はこの後ロマン主義へと接続する。ドレスデンは手紙で世界を知るのではなく、美術・工芸品を通して世界を知ろうとした。そのドレスデンは鏡の照り返しによってロマン主義をわれわれのもと送り返す。ドレスデンという鏡を見て、わたしたちは何を送り返すのだろうか。

ON PAPER 大竹伸朗展

2005-07-19 00:38:51 | 美術
ON PAPER 大竹伸朗展
6月6日(月)~8月8日(月)
BASE GALLERY

 大竹伸朗の絵画は、呼吸をしている。20年間に描かれた、その絵は、まとまりがあるわけではない。勢いよく力強い作品もあるし、細い線だけで描かれたものもある。あるデフォルメされたキャラクターもある。大竹の画業を振り返って感じるのは、多様な線の動きである。あるときは強く、あるときは繊細に。そのストロークを追っていくだけで、見ることの愉悦が感じられる。われわれは、呼吸を重ねるように、その線を追っていく。

 今回出品されている作品は、すべてイタリアのファブリアーノ社製版画用紙ロサスピーナを使用し、サイズは100×70cmである。あたりまえだが紙にはサイズというものがあって、方形であれば、どこかで縦と横の終わりがある。描くことのできる部分というのはあらかじめ決められている。だが、サイズが大きい小さいということに大竹の絵画はこだわらない。見ればわかるが、描かれたその作品は、100×70cmの枠を越えて、なおも拡がりつづけていると感じられるのだ。つまり、描かれていない部分、も含めて一つの絵画として存在している。言ってしまえば、大竹の今回の作品のサイズはは100×70cm以上だ。

 大竹は書いている。「絵を描きはじめる前の真っさらな「紙」を見ていると、こちらの無意識を引き出そうとする何者かがその圧縮された繊維の隙間に潜み常に呼吸をしているように思えることがある。」(「ON PAPER 大竹伸朗展」カタログ、ベイスギャラリー、2005年)と。描く者と「無意識を引き出そうとする何者」=紙との交感。紙には描く者の心の内が見えているのかもしれない。しかし、紙にはサイズがある。だが、描かれた画面はサイズを越える。紙に描き出されたのは、ほんの一部分でしかない。だからこそ、20年に渡り、このロサスピーナは大竹を求め、描くことを求めた。両者の呼吸が同じ波長になるとき、大竹の「今」が画面に刻まれる。
 ワン・ツー、ワン・ツー。
呼吸は止まらない。


北城貴子展

2005-07-16 00:48:09 | 美術
北城貴子展
2005年7月5日(火)~7月23日(土)
GALERIE ANDO ギャラリエアンドウ

 関西在住の若手女性作家・北城貴子の東京個展。残念ながら彼女の名前を知らなかったのだが、新たなスバラシイ作品、作家と出会う衝撃というのは、金縛りにあうようである。もちろんすべての人が気に入るような作品などあるわけはないだろうし、大衆的人気を獲得する美術作家なんぞもいかがわしい。だが、この北城貴子の作品は「いかがわしい」作品ではないし、いかがわしい作家でもない。
 彼女の作品は素材としての油絵具を使いこなし、確実に美しさを持った作品を現出させることに成功している。その作品は、色がちょこちょこと置かれていたり、飛沫のように飛び散っていたり、薄く塗られ、あるいは軽く絵具の盛り上がりがある、といった具合に色彩が響きあう絵画空間を形成している。聞くところによると、一見抽象絵画を思わせる北城の作品だが、実際の風景をデッサンし、それをもとに油彩作品が描かれるという。つまり、色彩の造り出す抽象絵画と思えた北城の作品が、実際は、現実の風景に取材して生まれているということだ。
 そう言われて見ると、モネの睡蓮連作のように水面を描いたと思われる作品もある。だが、印象としては同じく関西を中心に活躍している女性作家児玉靖枝の作品により近いだろう。児玉の近年の作品は、花や木や枝といった草花を描いているが、その造型は抽象的である。いや、正確には「抽象的」に見える。描いている対象は誰もが知っているものなのに、それが、児玉の手にかかると見たこともない「作品」となる。児玉の実在する物質がもつ気配、雰囲気を濃厚に閉じ込めたその作品世界は抽象・具象などという項目で割り切れるものではない。この世ともあの世ともわからないが、不思議な空間が生まれているのだ。北城の作品は児玉とはまた、趣が違うが、漂う気配、奥行き、光といった点から児玉の作品を想起したのである。
 だが、ここでは、北城の作品である。北城の造り出す画面は、いままで見ていた風景が、まばたきや暗闇のため残像として眼に残るような、あるいは、かつて見た夢の内容は忘れたが、光の記憶だけが残っているような、そんな気分にさせるのである。これは、消えてしまいそうで、だが確実に実在する「絵画」である。


借りた場所、借りた時間

2005-07-07 23:47:38 | 美術
借りた場所、借りた時間
photographersユ gallery横浜展
2005年6月25日(土)~7月10日(日)
BankART Studio NYK
photographers' gallery

 新宿にある写真家によるフォトギャラリーphotographersユ galleryの横浜展。ギャラリーの移動展のためなのか「借りた場所、借りた時間」というタイトルがつけられている。思えば、展覧会というメディアはすべて「借りた場所、借りた時間」である。一定期間ひとつの場所で同じ作品を展示する。期間が終われば、撤去して真っ白な壁なり床が出現する。つまり、美術作品とは、その「借りた場所、借りた時間」のあいだに何ができるか、ということだ。
 では、この10人の写真作家による展覧会で、何ができたのだろうか。本山周平の「2005年4月1日」は9枚の同じ場所を写したものと思われる写真が一枚のプリントに並んでいる。撮影行為のつながりも感じられるこの連作からは、一つの場所を複数の視点、位置からとらえ、それを一つのプリントに並べることで、一つの写真への情報の読みとりを拡散させる。4月1日という日に見たであろう、景色を連続してみるような心地にさせる。別にそれが4月1日でも、7月7日でもかまわないのだが、そう規定されることで、ひとつの4月1日のドキュメントとなる。例え、エイプリルフールだからとこれらが別々の日に撮られた写真でも、違う場所の写真が混じっていても、かまわないのだ。同じ白黒の色調の9点の作品からもうひとつの「場所」を再構成し、一つの場所を形作ること。そう、1日が複数の出来事によって成り立っているように。
 北島敬三の「PORTRAITS」は白いシャツを着た人物を白地を背景として撮影されたシリーズである。定点観察のようなこのシリーズは、時間がたつにつれて、それぞれ人によって髪型が変わり、しわが増え、痩せたり太ったりする。もちろん生きてる限り、髪はのびるし、飲み食いするのだが、極端に抑制された白シャツに白地の背景がそれら顔に刻まれた時間の痕跡をより際立たせるのである。モデルとなる人物が無表情であるのも、容易に人物の特徴が読み取れないことに作用しているだろう。今までの展示では、時間軸を通して展示することはせず、バラバラにして展示していたようだが、今回は比較的時間軸にそった展示であった。時間軸上に展示することによって、より顔の変化に気付きやすいと言える。このような「PORTRAITS」シリーズは、人の顔を注視すること、些細な変化に眼をむけることを要求する。つまり、「見る」という行為の奥深さに気づかされるのだ。
 

北に澄む 村上善男展

2005-07-04 00:24:21 | 美術
北に澄む 村上善男展
2005年4月23日(土)~7月3日(日)
川崎市岡本太郎美術館

 岡本太郎との交流をきっかけに自身の郷里である岩手県をはじめとする東北地方の風土に根ざした作品を制作し続けている村上善男の回顧展。
 注射針に新聞紙、プラスチックや古文書、実にさまざまなものがキャンバスにはりつけられている。まさに、キャンバスは戦場と化している。絵具はのた打ち、飛び散り、さまざまな物質が同じ一つのキャンバスに混在している。だが、かわらない要素がある。
 点と線だ。
村上の初期の作品から、何かと何かを結ぶのに線がでてくる。
「ヴァグースQ」では、電信柱を思わせるフォーク状の塔にいくつもの線が交差し入り乱れて描かれている。建築設計図のように数式のようなものも余白に描かれている。中期の荒川修作を彷佛させる白地にドローイング風に描かれた「天気図」シリーズには大気の動き、変化が表グラフのように図示される。(余談だが、天気図というテーマは興味深い。自然現象である天気ほど私たちの生活に密着したものはなく、これほど生活や精神に影響を与えるものもないだろう。眼に見えない温度、湿度含め「天気」「気象」から近現代絵画を見直すことができないだろうか。) 近年の古文書をはりつけた作品にも名前や言葉の一節に点が置かれ、その点がさまざまな点と結びあう。この点や線が何を意味するものなのかはわからないが、リズミカルに画面をおおう線が絵画空間に視線を動かす愉しみを与えてくれる。それがどんな内容を持った古文書なのか問わなくともキャンバスにはり巡らされた点と線はある空間を造り出しているのだ。
 
 展覧会後半に設けられた「東北アヴァンギャルド考」も村上の批評性を裏付ける刺激的なセクションだ。村上が萬鉄五郎、松本俊介、澤田哲郎、阿部合成、工藤哲巳らの作品に見たテーマ、造型を彼の文章をあわせて展示したセクションである。萬鉄五郎の「仁丹」「雲のある自画像」の2点と晩年は文人画を描いていたというエピソードを知るにつけ、この作家を「近代美術」の枠で見てしまうことの危険さを感じる。美術というと都市を中心とした活動、現象だと知らず思ってしまう無知を私は恥じたのである。