A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

TOUCHING WORD 027

2008-02-29 22:12:08 | ことば
君が自分の義務を果すにあたって寒かろうと熱かろうと意に介すな。また眠かろうと眠りが足りていようと、人から悪くいわれようと賞められようと、まさに死に瀕していようとほかのことをしていようとかまうな。なぜなら死ぬということもまた人生の行為の一つである。それゆえにこのことにおいてもやはり「現在やっていることをよくやること」で足りるのである。
(p.93 『自省録』マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 岩波書店/岩波文庫1956.10)

TOUCHING WORD 026

2008-02-27 23:33:49 | ことば
君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。
(p.54 『自省録』マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 岩波書店/岩波文庫1956.10)

未読日記174 「見出された時Ⅱ」

2008-02-25 23:44:45 | 書物
タイトル:失われた時を求めて13 第七篇 見出された時Ⅱ
著者:マルセル・プルースト 鈴木道彦訳
装丁:木村裕治
カバー画:キース・ヴァン・ドンゲン「見出された時」
発行:集英社/集英社文庫ヘリテージシリーズ
発行日:2007年3月25日
内容:
この午後の集い(マチネー)‥‥‥それは長い歳月ののぞき眼鏡だった。すなわち一瞬の光景ではなくて、形をゆがめる<時>の遠近法のなかに位置づけられた人間の光景であった。
(本書帯より)

ゲルマント大公夫人のサロンで、「仮装パーティ」の会場に案内された語り手は、時間が人びとの上に押した刻印に胸を打たれる。ゲルマント大公夫人とは、もとのヴェルデュラン夫人であり、オデットは、今やゲルマント公爵の愛人に納まっている。そしてジルベルトの娘サン=ルー嬢こそ「メゼグリーズの方」と「ゲルマントの方」の完全な合体であり、時の生んだ傑作である。こうして語り手は、時の啓示に心打たれ、作品にとりかかることを決意する(第七篇Ⅱ)。
エッセイ:加藤周一
(本書カバー裏解説より)

購入日:2008年2月23日
購入店:紀伊國屋書店 渋谷店
購入理由:
昨年1月から読み始めた『失われた時を求めて』もいよいよ最終巻。13巻はまだ読み始めたばかりだが、約1年3ヶ月かかって1冊の本を読む経験はいままでにない読書経験となった。この1年はいつも私の傍らにこの小説はあった。例え私を取り巻く現実がどんな状況だろうと、この小説を読むことで私はいつも思考を落ち着かせることができた。それは、小説を読むことで現実へと立ち戻るひとつの意志だったのかもしれない。
振り返れば、2006年にはセルバンテスの『ドン・キホーテ』(岩波文庫版・前後篇合わせて6巻)を読んだ。これも約半年かけて読んだのだが、長いからといって退屈だということはまったく思わなかった。むしろいつまでも読んでいたいとさえ感じた。終わらない小説。果てしのない読書。今また思う。『失われた時を求めて』を読み終わりたくないと。12巻の後半、エッセイのように綴られる文学論がある。そこにある言葉の美しい綴れ折りに喜びとしかいえない感覚が立ち上がってくる。ただ言葉を読む読書という行為がこれほどスペクタクルで充実した経験だということをいまだかつてない「時」の経過とともに思い知る。いま私は、そんな時こそ「見出された時」と呼びたい誘惑にかられている。


TOUCHING WORD 025

2008-02-23 00:16:05 | ことば
何かするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。(中略)曇りなき心を持ち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要とせぬように心がけよ。(人に)まっすぐ立たせられるのではなく、(自ら)まっすぐ立っているのでなければならない。
(p.40 『自省録』マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 岩波書店/岩波文庫1956.10)

TOUCHING WORD 024

2008-02-21 22:00:52 | ことば
助言とは、ある質問にたいする答えというよりは、(いま繰りひろげられている)物語の続きにかんしての、ひとつの提案なのだから。提案をひきだすためには、まずはじめに物語を語ることができなければなるまい。(中略)助言は、生きてきた人生という布地のなかに編みこまれたときに、智慧となる。
(p.184 「物語作者」『ヴァルター・ベンヤミン著作集7 文学の危機』ヴァルター・ベンヤミン 高木久雄・佐藤康彦訳 昌文社 1969.6)

今日、ふとしたことから仕事場でベンヤミンのテキストを読んだ。ベンヤミンの「物語作者」の一部分がかなり要約されてではあったが、その言葉が水面に広がる波紋のように心に響いてきた。上にあげた訳とは違うのだが(今日読んだ翻訳の方がよかった)、私が持っている本から一部引用させてもらうことにする。 

未読日記173 「岸にあがった花火」

2008-02-20 22:36:05 | 書物
タイトル:宮永愛子展 岸にあがった花火
企画:財団法人アサヒビール芸術文化財団 加藤種男
編集:社団法人企業メセナ協議会 萩原康子
デザイン:BULAN GRAPHIC
会場・作品写真撮影:上野則宏
発行:財団法人アサヒビール芸術文化財団
発行日:2008年2月7日
金額:無料
内容:
2007年6月16日[土]-7月15日[日]に東京・すみだリバーサイドホール・ギャラリー、アサヒビール吾妻橋本部ビル1階ロビーにおいて開催された<宮永愛子展 岸にあがった花火>のカタログ。

「隅田川の塩」加藤種男(財団法人アサヒビール芸術文化財団 事務局長)
「錬金術の夢-結晶のカオスから」岡部あおみ(美術評論家、武蔵野美術大学教授)
会場インスタレーション
作品図版
出展作品一覧
宮永愛子 略歴

入手日:2008年2月17日
昨年の7月に見た展覧会。カタログを希望する場合は芳名帳に名前を書くと、後日送ってもらえるとのことで申し込んだカタログがいまごろになって届いた。すっかり忘れていたが、なぜ見に行こうと思ったのかその理由を思い出してみる。そう、宮永は防虫剤にも使われるナフタリンを素材として作品を制作しているのだった。ナフタリンによって靴や鍵などの造形作品を制作するが、その材質上、作品は気化し時とともに形は失われていく。美術作品というと、永遠に残るものという固定観念があるが、宮永のナフタリンによる作品は残らないのだ。その永遠性から遠く離れた消滅する作品に興味をひかれて見に行ったのだった。
タイトルの「岸にあがった花火」とは、今展の制作に隅田川の花火をヒントとしたことによる。ナフタリン同様目には見えながら、時とともに見えなくなる一瞬の存在としての花火。宮永の作品はこの地上にわずかだけ存在するかりそめの物質としての作品なのだ。と同時に長く時を経て保存され続ける衣装や絵画、市井の人々によって使われる続けている器などを同時に展示し、長くそこに存在し続けるものと短時間だけそこに存在するものを同居させる試みを行なっている。この試みはけっしてうまくいっているとは思わないが、永遠と瞬間という「時」を顕在化させるこの試みは興味深かった。

宮永愛子 web site
http://www.aiko-m.com/

宮永愛子展覧会情報
<宮永愛子展 漕法(公募 京都芸術センター2008)>
2008年2月8日[土]-2月26日[火]
京都芸術センター
<景色のはじまり personal site by aiko miyanaga>
2008年2月16日[土]・17日[日]
京都市伏見区深草

未読日記172 「わたしいまめまいしたわ」

2008-02-18 23:08:48 | 書物
タイトル:わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者
企画構成・カタログ編集:東京国立近代美術館(大谷省吾、蔵屋美香、鈴木勝雄、保坂健二朗、三輪健仁)
デザイン:服部一成、山下ともこ、田部井美奈
発行:東京国立近代美術館
発行日:2008年1月18日
金額:1,200円
内容:
版型・頁数 B4版 縦36.4×横25.7cm/52p(表紙含む)
1.「わたしはひとりではない」蔵屋美香
2.「アイデンティティの根拠」三輪健仁
3.「暗い部屋と「わたし」」鈴木勝雄
4.「揺らぐ身体」保坂健二朗
5.「スフィンクスの問いかけ」保坂健二朗
6.「冥界との対話」鈴木勝雄
7.「SELF AND OTHERS」蔵屋美香
8.「「社会と向き合うわたし」を見つめるわたし」大谷省吾
出品作品リスト

購入日:2008年2月16日
購入店:東京国立近代美術館 ミュージアムショップ
購入理由:
東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館のコレクションを中心として「わたし」をめぐる考察を展開した展覧会。
見る前は、いわゆるコレクションを活用した常設展示のテーマ展といった内容と思っていた。だが、予想は裏切られ、思いのほか楽しめた内容に近美のレベルの高さを感じることとなった。
私が予想もしなかった点とは、展覧会がひとつのストーリーとして構成されているということであった。「わたし」をめぐって「自己」と「他者」「社会」などのキーワードを作品を通じて(展示することによって)考察するエッセイとして構成されているのだ。これは、作家の側からすると反感を買われるかもしれない。なぜなら、そのような意図を想定して制作したわけではないからだ。だが、展覧会とは多かれ少なかれストーリーとして構成されている。しかし多くの場合メッセージは後方に隠れ、あくまでも作品が鑑賞者に自由に受け取られるようになっているだろう。
しかし、今回のこの「わたしいまめまいしたわ」展は、作品同士及び空間ごとに明確に一本のストーリーが流れ、鑑賞者を誘導していく。コレクション中心と聞くと、いつも見ている作品ばかりか、と思ってしまう。そこをコンセプトを強く打ちだし構成したことが功を奏しているのだ。そして、思わせぶりな回文タイトルの意味が展覧会のエンディング作品を見ることで、すべてがつながり私は軽くめまいをおぼえた。いままで何度も見てきた作品が展示の仕方次第で、このような変化を見せることにいままでの美術体験にゆさぶりをかけるといってもいい体験を得ることができた。地味な印象の展覧会だが、内容的にはかなり高度で知性あふれる展覧会になっている。
思わず「地味」などという言葉を使ってしまったが、このような思い切った展示ができるのも良質な作品をコレクションとして持っているからこそできることを忘れてはならない。レベルの低い作品からは、このような思考もまた誘発しえないはずだからだ。

最後にカタログについて触れておこう。展覧会カタログではめずらしいB4サイズで図版が大きく掲載されているのはうれしい。だが、すべての作品を掲載しているわけではなく、図版やテキストも雑誌風に自由にレイアウトされている。服部一成氏のデザインは私も好きなのだが、今回はやや遊びすぎな気もしないではない。しかし、教育普及的な面のあるコレクション展としてはこれでいいのかもしれない。美術初心者には難しい研究論文もなく、重たさもないので映画のパンフレット感覚で手軽に見れる内容である。値段も手ごろで、デザインもシャレている。こういう内容的、デザイン的な「軽さ」が実は美術にはもっと必要なのかもしれない。


未読日記171 「横山大観-新たなる伝説」

2008-02-16 00:12:11 | 書物
タイトル:没後50年 横山大観-新たなる伝説へ
編集:国立新美術館横山大観記念館朝日新聞社、古田亮
デザイン:亀井伸二(W.O. DESIGN)
発行:朝日新聞社
発行日:2008年1月22日
金額:2300円
内容:
「横山大観-天心の精神とともに歩んだ近代日本画壇の壮士」内山武夫(前京都国立近代美術館長・美術評論家・足立美術館名誉館長)
「評伝・横山大観」古田亮(東京藝術大学大学美術館准教授)
図版
資料編
「横山大観の中の中国」坂倉聖哲(東京大学東洋文化研究所准教授)
「「朦朧体」と呼ばれた試みについて-描写法を中心に-」佐藤志乃(財団法人横山大観記念館学芸員)
「戦前における横山大観評価の形成史」植田彩芳子(前国立新美術館研究補佐員・現東京国立博物館特別展室研究員)
作品解説
年譜
主要文献-作品集と著述を中心に
出品目録
List of Exhibits
「Critique: Yokoyama Taikan」Furuta Ryo
「Yokoyama Taikan: A Hero of Modern Nihonga in Tune with Tenshin's Spirit」Uchiyama Takeo
(本書目次より)

購入日:2008年2月14日
購入店:国立新美術館Souvenir From Tokyo
購入理由:
仕事で<横山大観展>に行った際に購入したもの。
「代表作、ずらり」という謳い文句通り、圧倒的なスケールで展開されるフルコース展覧会。私は横山大観については、素人の域をでないのだが、一通り見て感じるのは前半「生々流転」までがハイライトだったのではないだろうか。「彩管報国」としての戦時中の作品及び戦後の作品にいたっては、大味で富士や海ばかりである。
では、はたして副題の「新たなる伝説へ」はどのような伝説のことを指すのであろうか。このような代表作を並べて「国民的画家」である横山大観の「伝説」をより強化するためなのだろうか。いや、企画者の意図としては、特別出品された伝・陳容筆の「五龍図巻」、伝・牧谿の「遠浦帰帆図」、尾形光琳筆の「槇楓図屏風」ら古典の名作と大観の作品を同時展示することで、大観と彼が見て学んだ古典作品との比較を行なおうということだろう。比較することで大観作品の再読を行う検証の場を設けたことは確かにおもしろい試みではある。だが、たかが3点でどれだけその試みが成功しているかは疑問である。
むしろ、今回の展覧会でひっそりと展示されていた「野に咲く花二題(蒲公英[タンポポ]・薊[アザミ])」(1942年)に私は時が止まった。富士山、海などをモチーフとした大作ばかりの中で、まさに野に咲く花のようにひっそりと展示されていた。この作品は国民的画家の横山大観らしくない絵ではある。だが、富士山を描いたどんな作品よりも私には心に残る。このひそやかさこそ横山大観の「新たなる伝説」ではなかったか。これでもかと大作を並べるより、このような小品から横山大観を見つめることが、この画家には必要なことなのではないだろうか。

未読日記170 「歌舞伎美人だより」

2008-02-14 22:57:14 | 書物
タイトル:歌舞伎美人(かぶきびと)だより 2008年2月号
発行:歌舞伎美人編集部
発行日:2008年2月
内容:
歌舞伎を愛する人のためのウェブサイト「歌舞伎美人」がお贈りする、歌舞伎をもっと楽しむマガジンです。
(本誌表紙より)

○二月 梅 うめ(文:湊屋一子、写真:山本大樹、アレンジメント:野の花司)
○冬を楽しむ江戸っ子の工夫
○観客道 いとうせいこうさん(題字:紫舟、インタビュー・文:富樫佳織、写真:谷内俊文)
○松竹 歌舞伎検定 想定問答 第四回
○クロスワードパズル Vol.4
○今日のことば

入手日:2008年2月10日
入手場所:歌舞伎座
<歌舞伎座百二十年 初代松本白鸚二十七回忌追善 二月大歌舞伎>の夜の部に行った際に入り口で配布された冊子。
各界で活躍する著名人が歌舞伎の楽しみ方を語る「観客道」という連載にいとうせいこう氏が登場していて、思わず読んでしまう(ちなみに、掲載されている写真を見ると、いとう氏は半袖シャツを着ているのでインタビューは夏に行なわれたのかもしれない)。その中でいとう氏は「歌舞伎はロックンロールショー」だと言っていて、私もそんな考えを抱いていたのでがっかりしながらもうれしさを感じる。歌舞伎を見るとき、自分の知識がないせいもあるが、物語を追って見ているより「カッコいいなー」と思いながら見ている。そして、そのワケのわからなさを楽しんでいる。物語や舞台、小道具、セリフの意味などを知る機会は、いづれ訪れるだろう。いまはただ役者の動き、舞い、衣装、音楽に身をゆだね、知識ではなく身体で歌舞伎を体感したいのだ。誤解を招く言い方かもしれないが、「わかる」から楽しいのではなく、「わからない」から楽しいのだ。経験という時間は情報や知識を自然に蓄積していくので、何も知らない状態で何かを見れる感じる期間というのは実は限られているのではないか。自分の頭でものを考える上でも、まずは最小限の限られた情報のみで歌舞伎を味わい、ロックしたい。
(誤解を招く書き方をしてしまったが、私は知識を否定しているわけではない。歌舞伎に限らず知識というのは、参考情報でしかない。作品を見るとき作家のこと、過去のこと、時代背景のことなどまずは知らなくていいだろう。出会いに先入観はない方がいい。そして、見ることで(見続けることで)、自分がなにを知るべきかあるいは何を知らなくていいかは自ずと「わかる」ということだ。)

未読日記169 「ギャラリー代々木通信01」

2008-02-13 23:33:57 | 書物
タイトル:ギャラリー代々木通信 01
編集:宮田徹也
デザイン:上畠益雄
発行:ギャラリー代々木
発行日:2008年1月
内容:
ギャラリー代々木発行のフリーペーパー。

「ギャラリー代々木通信創刊にあたって」宮田徹也
「ギャラリー代々木の現在」佐藤信夫(ギャラリー代々木オーナー)
「<新美術史>? <The New Art History>って何だ?」ジャスティン・ジェスティー
「美術とは何か イラストとの対比の場合(一)」宮田徹也
「展評 三瀬夏之介の新作に寄せて」小金沢智
ギャラリー代々木スケジュール
「断片的回想 これまでのギャラリー代々木」佐藤信夫
「ギャラリー代々木 これまでの展覧会2007年10月~12月」寸評:宮田

入手日:2008年2月9日
本誌に寄稿している小金沢氏より頂いた1冊。
日本近現代美術の研究者らにより創刊されたこの「ギャラリー代々木通信」は通常のギャラリー紹介を行なうフリーペーパーとはその内容において異なるものとなっている。それは、ギャラリーとは直接接点のない美術史研究・批評エッセイが大部分を占めていることだ。この冊子の中心的人物である宮田氏によれば以前、銀座にあったサトウ画廊が発行していた『サトウ画廊月報』を参考にしたという。この『サトウ画廊月報』は画廊の活動紹介以外に評論家・画家のエッセイ、論文、海外報告などさまざまな内容で構成されていたという。つまり、この『ギャラリー代々木通信』は『サトウ画廊月報』の精神を引き継ぎ、この誌面自体が研究者・批評家・アーティストによるもうひとつの表現の場を目指すということなのかもしれない。今後が楽しみなフリーペーパーの誕生である。
だが、誌面とギャラリーの展示、ウェブサイトが連動していないのは残念な点である。残念ながら私はまだギャラリー代々木に行ったことはないのだが、過去の展示紹介を見る限り、やや取り上げる作家・作品のレベルに振れ幅があるように感じる。貸し画廊であれば致し方はないのだが、ギャラリーの展示と誌面の内容が共鳴するようであれば望ましい。可能なら『ギャラリー代々木通信』中心メンバーらがキュレーションを行なう展覧会及びシンポジウムなどを行なうことで、展示と誌面との溝が埋まり、展示と誌面が連動していくことだろう。そのとき、ひとつの言説は実物の作品という大いなる論証を得ることになる。また、この誌面と連動したウェブサイトはほしいところだ。冊子を手に入れることのできなかった人が記事を読むこともでき、またバックナンバーの入手も可能となるからだ。とはいえ、まだ創刊号である。いまから多くの要望を突きつけることは酷な話だ。予算も限られていることだろう。まずは若手研究者・批評家のささやかな発表の場がひとつ生まれたことをいまは心から祝福しようではないか。