A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

追悼・東野芳明

2005-11-21 23:20:35 | 美術
 美術評論家で多摩美術大学名誉教授である東野芳明が19日、亡くなった。
75歳だった。
60年代の前衛的な美術作品を「反芸術」と命名したのは有名な話だ。
マルセル・デュシャン研究でも知られ、東京大学、多摩美共同で「大ガラス」のレプリカまで作成した。
90年、脳硬塞で倒れ、長く病床にふせていた。


大学時代、自分がいる学科(大学)の歴史を調べてみたことがある。
ある授業の課題で、一人で一冊の本を作る課題が出たのだ。
私は、悩んだ挙げ句、自分が在籍している学科(大学)の歴史を調べて、書くことにした。
その時、直面したのが東野芳明だった。
なぜなら、私の在籍している学科を作ったのが東野芳明だったからだ。なぜ、新しい学科を作ることになったのかを調べていくうち、東野芳明本人の人生を辿ることになった。彼の著作を読み、教授たちから当時の状況、東野の人柄などを聞く作業をした。この行為自体は、大学2年目にして、大学嫌いで人見知りで精神的に落ち込んでいたときの私には他人の人生を辿る、という行為が主観を消すことになり、リハビリのような行為と言えた。

 結果、たいした本にはならなかったし、だいいち資料不足だった(本格的に人の評伝を書くとなると、かなりの調査が必要だ)。その当時は、東野の著作から彼自身の人生、経験について書いた箇所を拾う作業をするため、かなり精読した。だが、後に東野の著作を読むと、論点のつまらなさ、深読みする批評、ダラダラ続く文章にうんざりした。何より嫌いだったのは、文章の一部をカタカナ文字で書くことだった。80年代ポップな軽さが後の私には気持ち悪かった。
 いま振り返ると、あの時東野芳明という人物を研究したことは、いい経験になったし、反面教師であったと言える。なぜなら、その文章からまったく何の影響も感動も刺激も受けなかったからだ。私は、反-東野芳明であった。だが、60年代以降の近現代美術史を一人の批評家の側から調べたことは、思わぬ発見、出会いがあり、歴史を再構築していくとてもスリリングな作業だった。その意味で、東野芳明は格好の素材であった。

 現在、彼が作った学科は大きく変わろうとしている。来年、中沢新一が教授に就任するニュースは各新聞紙上に載り、話題となった。昨年、今年度で大学を去った(去る)教授も半数いる。そんな時、この学科の創立者が亡くなるとは、偶然にしては出来過ぎである。確実に時代は変わろうとしている。

東野さん。迷っていた時、あなたの人生を辿ることで、現実や歴史と接点をもつことができました。心から御冥福をお祈りいたします。





付箋3

2005-11-08 22:33:24 | 美術
 三島由紀夫の『金閣寺』を最近読んだ。
この本は青春小説でもなく、まして犯罪小説でもなく、美をめぐるモノローグとして読むことができる希有な小説なのだ。
その中の一節より。

僧の主人公が金閣寺の庫裡の裏の畑で作業中、小輪の黄いろい夏菊の花を見つけるのだ。
その花に蜂が舞っている。この菊の花は金閣のように美しく完全だが、
決して金閣に変わることなく、
夏菊の花の一輪にとどまっている、と主人公は思う。

「そうだ、それは確乎たる菊、一個の菊、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、こうして対象としての形態に身をひそめて息づいていることは、何という神秘だろう!

形態は徐々に稀薄になり、破られそうになり、おののき震えている。それもその筈、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向かって花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。」(三島由紀夫『金閣寺』、新潮社(新潮文庫)、1956年、pp.200-201)

最後の下りは菊と蜂をめぐる「描写」というより、芸術論としても読めるのだ。
ここで、例えば菊が「彫刻」だとしたら。
菊でなくとも、「かたち」あるものが「生」の鋳型であり、生きとし生きる生物の「生」が形態の鋳型だとしたら。
予感を秘めた「かたち」。
生とかたちは互いに求めあう。