A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。
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memorandum 302 自尊心

2016-05-31 23:10:48 | ことば
自尊心がなければ、真の幸福はまず不可能である。そして、自分の仕事を恥じているような人間は、自尊心を持つことは到底できない。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、240頁.

自尊心を持つことができる仕事をしたい。
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memorandum 301 安心感

2016-05-30 23:42:48 | ことば
 安心感をいだいて人生に立ち向かう人は、不安感をいだいて立ち向かう人よりも、格段に幸福である――少なくとも、なまじ安心感が強すぎて災難に陥るようなことがないかぎりは、そうだ。また、いつもではないにせよ、非常に多くの場合、安心感のおかげで、ほかの人なら圧倒されてしまうような危険をまぬがれることもできる。かりに、あなたが狭い板の上を歩いて深い割れ目を渡っているとしたら、こわいと思わない場合よりも、こわいと思った場合のほうが、ずっと落っこちる見込みが高い。同じことは、生き方についてもあてはまる。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、195頁.


安心と安心感は異なる。
「安心感」は絶対ではなく、確率的に不安感より「いつもではないにせよ」安心ということだ。
どうせいつ深い割れ目に落ちるかわからないのだ。
ならば「安心感」をいだこう。
自分にも他人にも「安心感」を与えよう。
安心であれ。

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memorandum 300 幸福の秘訣は、

2016-05-29 23:03:02 | ことば
 幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、172頁.


いつでも友好的なんだけど、どうしてか人に嫌われる。振られる。避けられる。


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memorandum 299 幸福は、

2016-05-28 22:13:58 | ことば
幸福は、同じような趣味と、同じような意見を持った人たちの交際によって増進される。社交は、ますますこの線に沿って発展するものと期待される。そして、こうした方法により、現在、非常に多くの因習にとらわれない人たちを苦しめている孤独感は、だんだん減っていき、ほとんど皆無になってほしいものである。こうなれば、疑いもなく、彼らの幸福は増すだろうし、一方、因習的な人たちが現在、因習にとらわれない人たちを左右することで得ているサディスティックな快楽が減少することも、また確かである。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、151頁.


私もまた「同じような趣味と、同じような意見を持った人たちの交際」を望む因習にとらわれない者だが、なかなかその機会がなく孤独感ばかり増している。世間や職場は、サディスティックな快楽を得ることで幸福を満たす因習的な人ばかりなので、ますます私は孤独・孤立していることは確かである。
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memorandum 298 意見

2016-05-27 23:16:21 | ことば
 私見によれば、専門家の意見は別として、一般に、重大な問題でもささいな問題でも、他人の意見が尊重されすぎているのではないか。概して、飢えを避け、投獄されないために必要なかぎりで世論を尊重しなければならないが、この一線を越えて世論に耳を傾けるのは、自ら進んで不必要な暴力に屈することであり、あらゆる形で幸福をじゃまされることになる。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、149頁.

他人の意見に耳を傾けつつ、私見も尊重したい。
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memorandum 297 おそれ

2016-05-26 21:48:02 | ことば
自分の環境とどうもしっくりいかないと思う若い人たちは、職業を選択するにあたっては、可能な場合はいつでも、気心の合った仲間が得られるチャンスのある仕事を選ぶようにつとめなければならない。よしんば、そのために収入が相当減るとしてもである。若い人たちは、こんなことが可能だということをほとんど知らない場合が多い。なぜなら、彼らの世の中についての知識はひどく限られているため、わが家で慣れっこになっている偏見が世の中全体に広まっている、と思いこみやすいからだ。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、145頁.

就活をしている若い人に伝えたいものだ。そして、転職活動をしている私自身にとっても念頭におきたい指針である。進学に美大を選んだのも同じ理由だったし、仕事探しも収入優先ではなかったのも、私が生きられる環境を優先に考えたためである。そして、これから私はどんな仕事につくだろうか。どんな仲間が得られるだろうか。不安でもあるが、楽しみでもある。
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memorandum 296 ねたみ

2016-05-25 23:22:03 | ことば
手にはいる楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと(もしかすると、てんで誤って)思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたは、ねたみから逃れることができる。

ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、97頁.

やはり「足るを知る」ということか。何はともかく仕事しよ。
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memorandum 295 直視

2016-05-24 23:29:32 | ことば
何か災難が迫ったときには、起こりうる最悪の事態はどんなものであるか、真剣に慎重に考えてみるがいい。この起こりうる災難を直視したあとは、これは結局、それほど恐ろしい災難ではあるまい、と考えるに足りるしっかりした理由を見つけることだ。そういう理由は、いつでも存在している。なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、何ひとつ宇宙的な重要性を持つものはないからである。いっとき、最悪の可能性をじっくり見すえ、真の確信をもって、「いや、結局、あれはそう大したことにはなるまい」とわれとわが身に言いきかせたとき、あなたは自分の心配がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。この過程を二、三度くりかえす必要があるかもしれない。しかし、もしも、あなたが何事も回避しないで、最悪の事態を直視したならば、最後には、自分の悩みごとがすっかり消えて、そのかわりに、一種うきうきした気分が生まれていることを発見するだろう。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、84頁.

そう、私に起こることで宇宙的な重要性を持つものなんかない。
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「High-Light Scene」展テキスト

2016-05-23 23:02:57 | お知らせ
 5月22日をもって「High-Light Scene」展は終了いたしました。ご来場頂きました皆様に心よりお礼申し上げます。おかげさまでたくさんの方にご覧頂くことができました。皆さまからはさまざまなご感想、ご意見もお聞きすることができ、とても刺激を受けました。展覧会は終わりましたが、展覧会を見た感想、ご意見など、ぜひお気軽にお声がけいただけると幸いです。

以下、会場で配布したテキストです。
長いですが、ご興味ございましたらお読みください。

ーーーーー

High-Light Scene
平田 剛志

 ハイライト映像(シーン)を見るとき、私たちは何を見ているのだろう。今日の一日や過去を振り返るとき、私たちは何をハイライト(想起・回想)しているのだろう。そのとき、ハイライトするのは重要な部分を編集・抜粋した出来事なのか、あるいは「光」なのだろうか。
 ハイライトシーン(High-Light Scene)は、映像において最も重要な、または感動的な場面、見所を要約した映像である。映画やドラマ、演劇のあらすじ、コンサートからスポーツの得点シーン、ニュースまで「ハイライトシーン」を通じて私たちは物語や試合、出来事の内容、結果を知ることができる。転じて、ある一日または旅行や祭り、冠婚葬祭などにおいて印象的な出来事やエピソードを「ハイライト」と呼び、過去を想起・回想するだろう。そう、「ハイライト」とは、過去を照らす光なのだ。
 一方、ハイライト(HIghlight)とは、絵画において光のあたった最も明るい部分を白や黄色の絵具などで浮き立たせる技法である。光沢やテクスチュアを再現・模倣する表現技法として15世紀のフランドル絵画において確立され、現在では写真やマンガまでハイライトが効果的に使われている。
だが、絵画において、「ハイライトを置く」「ハイライトを入れる」「ハイライトをつける」などと表現されるように、「ハイライト」は絵の具という物質を意味する。つまり、ハイライトとは、モチーフに光(ハイライト)を象徴する白や黄色の絵の具を加筆・着彩することで、画面や対象の光の反射・反映を再現、視覚化する技法なのである。

 このように、「ハイライト」には、一方には非日常的、劇的、重要な見所、他方では空間や人物にあたる「光」のテクスチュアを再現・模倣するという異なる意味があるのだ。つまり、「ハイライト」には、岡田温司が「ハイライトの逆説」【註1】 と呼ぶように、二面性があるのである。「ハイライト」は自然な光の再現描写だが、ハイライトそのものは白や黄色の絵の具の塊りでしかない。鑑賞者は人物や物質に反射・反映する「ハイライト」を見ているのか、絵の具の塊を見ているのか、ハイライトは絵の具の物質として知覚されてしまう可能性を孕んでいるのである。「ハイライト」の像であると同時に物質である再現性と物質性、模倣と反模倣、フォルムとアンフォルムの二面性、二層性は、現代美術、モダニズム絵画へと連なる問題として今日に引き継がれ、今展における3人の作家にも確認することができる。

 大洲大作(1973年大阪生まれ)は、主に列車の車窓を過ぎる一瞬間の光のシークエンスを捉えた写真作品を制作してきた。大洲の《光のシークエンス》は、具体的な車窓の風景でありながら、写真にとらえられることによって初めて見ることのできる「ハイライトシーン」である。では、列車ではなく日常において、大洲は「ハイライト」をどのように撮影、記録してきたかを本展では見ることができるだろう。また、スライド映写機を用いたスライドプロジェクションも出品される。スライド映写機を通じてスクリーンに映し出される「光」は、「それはかつてあった」【註2】 光のハイライトシーンであり、映写機の光と音が私たちをかつての「光」へと誘うだろう。

 竹中美幸(1976年岐阜生まれ)は、水彩、アクリル樹脂を用いた平面・立体作品を手がけ、(半)透明素材を介在した光と影、重層的な視覚の揺らめき、瑞々しさを視覚化してきた。近年は映画フィルムを素材に、暗室の闇のなかでフィルムに光を留めた作品を制作している。映画フィルムというシークエンスに刻まれた色彩は、展示空間に差し込む光と混ざり、揺らぎあう。本来、映画フィルムは映写機にかけられ上映されるが、竹中の作品は映写されずに天井部から吊るされたり、アクリルボックスに入れられて展示される。そのフィルムの静止は映画フィルムが生産中止され、映写・上映されないメディアとなった「現在」を体現してもいるだろう。竹中は、映画フィルムを映写機の光源からギャラリー空間に差し込む自然光へと変えることで、映画フィルムをリバイバルさせるのだ。と同時に、ロラン・バルトが「映画は挿話の連結であり、(中略)完璧な瞬間の総和から成る連続的な歓喜がある」【註3】 と述べたように、映画フィルムがこれまで留めてきた光の「ハイライトシーン」を体現するのである。

 中島麦(1978年長野生まれ)はストロークの集積・蓄積から生まれる絵画やドローイングを発表してきた。近年は、ドリッピング、ポーリングによる偶然性を取り込んだ絵画制作を行なっている。中島の作為と無作為、偶然と必然、カオスとコスモスがせめぎ合う画面は、描く行為の痕跡と絵の具の物質性が刻まれた「ハイライトシーン」である。今展では、新作のキャンバス作品および大洲大作の写真作品を素材とした新作ドローイング(5/4に公開制作)を出品する。
 中島のドリッピング、ポーリングによる「一振り」は「一瞬」の集積であり、時間の層である。中島の絵画における絵の具の「ハイライト」は再現や模倣が目的ではなく、絵の具の物質性と描く身ぶり、速度の身体性を体現する。画面には筆とキャンバスが触れていないために筆触が見えないが、絵の具という物質を速度という一瞬の出来事(ハイライト)に還元した「ハイライトシーン」なのだ。一方、ドローイングには再現性と抽象性の境界域を描き出すハイライトの二面性を見ることができるだろう。

 3作家に共通するのは、直接的な手を介さないで生まれた「ハイライト」であることである。大洲はカメラで「光」を撮影し、竹中は暗室のなかでフィルムに「光」をあて、中島は筆をキャンバスに触れずに「ハイライトシーン」を描く。「ハイライト」は人為的に「光」を再現・模倣する技法として生まれたが、3人の作品における「ハイライト」は再現・模倣するよりも瞬間的で偶然な「光」との出会い、その出来事、一瞬間、直接性の「ハイライトシーン」なのだ。
 ゆえに、彼らの作品は支持体や素材という物質が反射・反映する「ハイライト」である。大洲のスライドフィルムや印画紙、竹中の映画フィルム、中島のキャンバスや絵の具は、「光」をとどめ、私たちへと反射・照射される「ハイ-ライトシーン」だ。「ハイライト」が反射・反映される本展において、私たちは何を見るのだろうか。私たちそれぞれの「ハイライトシーン」のはじまりである。

【註1】 岡田温司『絵画の根源をめぐって』(https://www.sal.tohoku.ac.jp/…/tasogare…/pdf/tasogare_04.pdf
【註2】 ロラン・バルト『明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房、1985年、94頁。
【註3】 ロラン・バルト『第三の意味』沢崎浩平訳、みすず書房、1998年、147頁。

ーーーーー










High-Light Scene
2016年5月4日(水)~5月22日(日)[月曜休] 
11:00 ~ 19:00 *金曜日は20:00まで
企画:平田剛志
出品作家:大洲大作、竹中美幸、中島麦
会場:Gallery PARC
協力:サイギャラリー、Gallery OUT of PLACE
助成:アーツサポート関西
写真:大洲大作
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memorandum 294 疲れ

2016-05-22 22:34:31 | ことば
私たちのすることは、私たちが当然考えているほど重要なものではない。成功も失敗も、結局、あまり大したことではない。大きな悲しみだって乗り越えることができる。これで一生涯、幸福に終止符を打つにちがいないと思われるような悩みごとも、時がたつにつれて薄らいで、ついには、その痛切さを思い出すことさえほとんどできなくなる。
ラッセル『ラッセル幸福論 (岩波文庫)』安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年、80頁.

やれやれ、もう忘れよう。思い出さないことにしよう。
人類は「幸福」という概念を作ったことがそもそも「不幸」の原因なのかもしれない。

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