A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記218 「愛するということ」

2008-12-31 09:20:37 | 書物
タイトル:愛するということ 新訳版
著者:エーリッヒ・フロム 鈴木晶訳
装幀:菊地信義
装画:木村繁之
発行:紀伊國屋書店
発行日:1999年7月19日第11刷
内容:
愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会の中で、より幸福に生きるための最高の技術である、とフロムはいう。ところが私たち現代人は、愛に渇えつつも現実には、そのエネルギーの大半を、成功、威信、金、権力というような目標をいかにして手に入れるかに費やし、愛する技術を学ぼうとはしない。人間砂漠といわれる現代にあり、<愛>こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。
(本書カバー裏解説より)

購入日:2008年12月25日
購入店:Amazon.co.jp
購入理由:
いくらクリスマスだからといって、<愛>に飢えていたわけではない。そのクリスマス前の週末、六本木の青山ブックセンターにたまたま行った際、『働かない人。』(左京泰明編、弘文堂)という魅力的なタイトルの本を立ち読みしたのだ。「それぞれの仕事の場で輝く、「働かない」10人の言葉から、働くことを考える。」というキャッチコピーに魅かれたのかもしれないし、自分の置かれた状況になにか活路を見いだしたかったのかもしれない。
 その10人のインタビュー集の中に働き方研究家・西村佳哲氏が入っていた。西村氏の著作は以前『自分の仕事を作る』(晶文社)を読んだことがあり、深く感銘を受けたこともあり、まずは西村氏の該当ページをパラパラと立ち読みしてみたのだ。内容は購入していない本なので控えたいが、仕事という概念に対して、こちらの「働くこと」の意識をゆるやかに軽くしてくれる内容であった。そのインタビューの中で西村氏が2冊の本を紹介していた。そのセレクトのおもしろさと本の内容からすぐに読んで見たくなった。残念ながら青山ブックセンターには置いていなかったので、ネットで購入することにしたが、その1冊が本書エーリッヒ・フロムの『愛するということ』である。
 エーリッヒ・フロムといえば、社会心理学で有名で、私も『自由からの逃走』は読んだことがある。心理学に疎いので、フロムがこのような本を書いていたとは知らなかったが、最近の私の関心である倫理の問題ともつながりそうで興味深い。巷では、恋愛映画、ラブソング、恋愛小説とあらゆるコミュニケーションは「恋愛」ばかりかと嘆かわしいが、フロムは「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。」と言う。<愛>とは感覚的、感情的なものと思っていたが、どうやらフロムによれば違うらしい。
フロムは言う。

「心の底から愛を求めているくせに、ほとんどすべての物が愛よりも重要だと考えているのだ。成功、名誉、冨、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされ、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのである。」(本書p.18-19)

<愛>という言葉に対して、エロティックな連想かスピリチュアルな発想しかできない貧困な頭しかない人には本書もこの文章も意味がないが、私が考えているのはまったく真逆である。それは<愛>という言葉から、異性愛しか想定しないからそうなるのだ。<愛>という概念をもっと広く捉えるべきだろう。しかし、今は本書を読んでもいないので、思考を進めることは止めにしたい。
 ところで、「愛するということ」が「働くこと」とアートとどう関係があるのか言われるかもしれない。本書の原題は「The Art of Loving」だし、働くこと=生きることに愛を持ち続けたいと考えている私にはすべて同じことだと思っている。




未読日記217 「交通の教則」

2008-12-29 22:00:06 | 書物
タイトル:交通の教則[運転者用]
監修:警察庁交通局
編集・発行:財団法人全日本交通安全協会
発行日:2008年11月12日第16改訂版
内容:
特集:
最新の道路交通法改正
これから施行される道路交通法
過去5年間の道路交通法令改正点
安全のための運転知識
交通事故の実態

CHAPTER 1 歩行者と運転者に共通の心得
CHAPTER 2 自動車を運転する前の心得
CHAPTER 3 自動車の運転の方法
CHAPTER 4 危険な場所などでの運転
CHAPTER 5 高速道路での走行
CHAPTER 6 二輪車の運転の方法
CHAPTER 7 旅客自動車や代行運転自動車の運転者などの心得
CHAPTER 8 交通事故、故障、災害などのとき
CHAPTER 9 自動車所有者、使用者、安全運転管理者、自動車運転代行業者などの心得
別表
実用
(本書目次より)

入手日:2008年12月25日
入手場所:千葉運転免許センター
前回と同じく免許証の更新に行った際、講習時に配布された資料としていただいた冊子。人は言うかもしれない。いくら未読日記だからといって、こんなものまで取り上げるなと。所詮、数合わせだろうと。だが、記録とは主観で「選択」するような恣意的なものではない。条件に合えば、どんな内容の本であれ、すべて取り上げるのが、正しい記録というのものだ。

さて、本題に戻りたい。このような講習自体はとても必要なものだろうと思う。多発するする自動車事故(とくに飲酒運転等)を防止するうえでも、やっていないよりはやった方がいいと思う。だが、このような講習を行なう際に使用する「交通の教則」という冊子において、「ちびまる子ちゃん」のイラストはないだろうと私は強く思うのだ。講習は更新を向えた人たちが対象である。したがって、必然的に成人を過ぎているはずである。あるいは、この冊子が運転免許取得の教習に使われることもあるだろう。だが、それでも「ちびまる子ちゃん」はないだろうと思うのだ。子ども向けのキャラクターを使用し、かたい内容をやわらかくしようとするその姿勢はわかるが、いくらなんでもバカにしすぎじゃないだろうか。だからといって、こうしたいとかがあるわけではなく、結局は結論などなく、どうでもよかったりはする。用語・事例索引において、「ちびまる子ちゃん」は言う。

「確かめたいとき、疑問に思ったとき、調べてみよう!」

索引の意味を知らない人のためのアドバイスなのだろうか?たいへん親切な小学生である。
ちなみに、本書の奥付を見ると、[運転者用]と書かれていて、妄想が広がっていく。運転者用ではなく、同乗者用とか、歩行者用とかがあるのだろうか‥。



未読日記216 「人にやさしい安全運転」

2008-12-29 21:26:39 | 書物
タイトル:人にやさしい安全運転
監修:警察庁交通局
協力:科学警察研究所交通部
編集・発行:財団法人全日本交通安全協会
発行日:2007年7月1日
内容:
特集 テーマ1:ハイテクを活用する
特集 テーマ2:リスクに備える
特集 テーマ3:環境を考える
第1章 人にやさしい安全運転
第2章 安全運転の基本
第3章 危険を予測する運転
第4章 身体機能と運転操作
第5章 応急救護処置
(本書目次より)

入手日:2008年12月25日
入手場所:千葉運転免許センター
免許証の更新に行った際に、私は初めての更新だったため、初回講習を受けなければならかった。その講習時にもらった1冊が本書である。講習所でもらった教科書とほぼ同じような内容の冊子である。
講習は、学校か予備校の教室のような部屋で行なわれた。使い込まれた木造の板とパイプの脚がつけられたよく学校の教室にあるような机が20台ほど並べられた部屋だった。やや長方形の教室だったが、前方左斜めにはプロジェクタや書画カメラというのだろうか、プリントや本を置くとそのまま画像がスクリーンに投影されるカメラからの映像が上映・映写できるようスクリーンが天井から下ろされていた。正面にはホワイトボードがあり、ホワイトボードは2段のスライド式になっていた。私が部屋に入って、2、3分たつと係りの人が入ってきて、10時15分か20分ごろに開始いたしますと告げ、出て行った。あと5分ほどあったので、トイレに行くことにした。それにしても、あの部屋で講習を受けるだろう約20名ほどの人びとは皆、12月か1月生まれかと思うと不思議な気がする。同じ部屋に同じ月の誕生日の人さえそうそういないというのに、ここでは場合によっては全員12月生まれかもしれないのだ!別にそれはそれでかまわないのだが、同じ月(翌月の人もいるかもしれないが)の人びとが1箇所にいるという状況が初めてのため、興奮しているのだろうか。いや、こんなことで「興奮」などという言葉を安易に使ってはいけないのではないか?「興奮」とは喜怒哀楽のある出来事を経験したり、感じたりするときに使うべきであって、たかが同じ月の人が9割を占めるぐらいのことで興奮していいのだろうか?それとも、言葉の上で「興奮」などという言葉をあてがっているのだろうか。他に言葉が思いつかないからといって安易に通俗化された言葉を使っていいのか。
ということは考えず、10時17分に教室に戻り、椅子に座った。



未読日記215 「セカンド・ネイチャー」

2008-12-24 22:49:53 | 書物
タイトル:セカンド・ネイチャー
監修:吉岡徳仁
編者:21_21 DESIGN SIGHT
印刷・製本:凸版印刷株式会社
プリンティングディレクション:田中一也(凸版印刷株式会社)
発行:株式会社求龍堂
定価:本体1,714円+税
内容:
21_21 DESIGN SIGHT 第4回企画展 吉岡徳仁ディレクション「セカンド・ネイチャー」展(2008年10月17日-2009年1月18日)の展覧会カタログ。

出品作家:安部典子、東信、カンパナ・ブラザーズ、片桐飛鳥、ロス・ラブグローブ、森山開次×串田壮史、中川幸夫、吉岡徳仁

ディレクター・メッセージ「セカンド・ネイチャー -記憶から生み出される第2の自然、デザインの未来を考える」吉岡徳仁
「セカンド・ネイチャーを考える」橋場一男
作品紹介
スペシャルメッセージ:三宅一生、佐藤卓、深澤直人
作品リスト
参加作家およびディレクタープロフィール
インフォメーション
(本書目次より)

購入日:2008年12月20日
購入店:21_21 DESIGN SIGHT
購入理由:
記憶から生み出される第2の自然から、デザインの未来を考える「セカンド・ネイチャー」展のカタログ。
自然を語るとき、自身が経験した自然現象をもとにしか語りえない。デザインを語るときも、自身が感じたことからしか語りえない。自然とデザインの経験の「記憶」が混じりあう場所で生まれる「セカンド・ネイチャー」というキーワードは、曖昧な点があるのもたしかだが、展覧会として見るとうまく芯が通っている。また、橋場一男氏による引用を集めた「セカンド・ネイチャー」論によってその概念を補強し、カタログと展覧会の関係を絶妙な距離感で保っている。これぐらいのレベルの展覧会+カタログがもっと増えてほしいものだと思う。ちなみに、会場の21_21は美術館というより大きめのギャラリーといった規模なので、これぐらいの小規模な出品数の方が見やすい。

中川幸夫は花の作品(の写真?)かと思っていたら、予想外の作品で衝撃を受けた。私がこの展覧会を見ようと思ったのも、中川幸夫の名前があったから来たようなものなのだが、予想以上に展示がビシッと決まって、電気が通い始めた感覚を憶える。次のロス・ラブグローブがまた奇妙な建築模型のような立体作品で、側に置かれた液晶テレビから流れる制作風景の映像に度肝をぬかれ、完全にスイッチが入り始める。その後は、科学的精密さを発揮した作品が続くのだが、結晶がきれいで、ついカタログを衝動買いしてしまう。

余談だが、東信氏の松を氷に入れて冷凍した作品を見て、以前私も葉っぱを水の中に入れて、冷凍した作品を作ったことを思い出した。別に私の方が先だと言うわけではない。その作品はチャックがついた小さな透明のビニール袋に葉っぱを封じ込めた作品だった。その冷凍葉っぱはもう存在していないが、今回の東信氏の作品を見て、思い出した。自分はあの時、なぜ葉っぱを冷凍になんかしたんだろうか‥。

TOUCHING WORD 073

2008-12-17 00:48:18 | ことば
私にはつねに、目前の混乱を目にすると、当座それを片付けてしまうよりも、今後も恒常的に襲ってくるだろう混乱を恒常的に整理するための、コンセプチュアルな器や構造やシステムを考案することの方へ考えが向う、という性向があるらしい。いいかえれば、目の前のものの整理は、所詮とりあえずのことにすぎない、というふうに考える性質らしい。これは、またも大袈裟になるが、いわば、世界の渾沌に向き合おうというときの、ひとつの理性的判断といっていいかと思われる。
(p.5 平出隆『遊歩のグラフィスム』新潮社 2007年)

自分に襲ってくる混乱を迎えていながら、いまだズルズルとコンセプチュアルな器や構造やシステムを考案してしまうこの私は、この一文に強く共感してしまう。「とりあえず」という言葉を頻発するわりに、それら混乱をどうやったらまとめることができるのか考え続けてしまう。周囲の混乱、注意、警告、心配をよそに、あまり焦燥感がない。もう終りが見えているというのに。20代最後の年が始まった今、困ったものだと思う。

未読日記214 「小説の誕生」

2008-12-15 23:38:03 | 書物
タイトル:小説の誕生
著者:保坂和志
カバー写真:藤部明子
装幀:新潮社装幀室
発行:新潮社
発行日:2006年10月20日2刷
内容:
小説について、もっともっと考えたい人のために

世界を絶望せずに生きるための小説を求めて。

小説にしか、できないことがある。
小説について、行き着く先もわからないまま考えつづけるうち、
「小説論」はどんどん「小説」へと変容していった。
「小説論」とは思考の本質において、評論ではなく、「小説」なのだ。

大好評『小説の自由』につづく、待望の第二弾!
(本書帯より)

小説的思考とは何か?小説が生成する瞬間とはどういうものか?小説的に世界を考えるとどうなるのか?ということを、書いたのがこの『小説の誕生』だ。とりわけ後半は、書きながら自分でも、もう本当にどこに行ってしまうのかわからなかったが、その状態を引き受けることができたのだから、これは評論でなく小説なんだろうと思う。(まえがきより)
(本書カバー裏より)

購入日:2008年12月7日
購入店:丸善 日本橋店
購入理由:
静岡からの帰り、持ってきていた読みかけの本2冊を読み終わり、駅で買った東海新聞、静岡新聞(最近、私は旅先で売っているローカル紙を必ず買うようにしている)もほとんど読み終わり、途中駅でなにも読むものがなくなってしまったので、まだ読んでいない保坂和志の著作を購入した。
「小説論」と書かれているが、これは美術など他の芸術形式にも充分当てはまる奥の深い著作である。例えば、「小説にはなぜ風景が書かれるのか?」という問いは、美術においてもいまだ有効な問いだと思うのだ。この日、たまたま「風景」をテーマとした展覧会を見たせいもあるが、小説において風景を記述することと絵画や写真で風景を描く、撮影することは、表現された形式は違うが風景を見る、思考することにおいては同じである。私たちの前に選択するすべもなく現われた風景に対して、その環境、空間を受け入れ、思考や言語や道具や機械を使って風景を表現・考察すること。その意味は深く広大だ。私たちはありきたりな思考・言葉に縛られて、自身の言葉で風景を「取り替えが不可能な」リアリティのある風景として表出することに困難を感じてしまうのだ。
保坂氏の著作ではいつも問いがすばらしく、その波紋が私の内で広がり続ける。広がり続ける波紋に揺すぶられて、私の思考が揺らめきだす。このような著作を読むと、1篇の小説に似たような読後を感じ、心のうちに生成するいまだ経験したことのない感情を感じるのだ。

TOUCHING WORD 072

2008-12-13 00:38:55 | ことば
「才能は自分の中になく、社会の中にある」
「才能は自分の中になく、他者の中にある」


(中略)

自分の中にもともと個性はない。
自分の中にもともと才能はない、としてみる。
自分の個性は、人に出会って、関わって、自分の価値を認めた相手の中にあると考えてみる。

(p.114 山田ズーニー『おとなの小論文教室。』 河出書房新社 2006年1月)

目から鱗の言葉だ。「才能」や「個性」という自分の中に備わるものという通念がある言葉の意味を覆す発想だと思う。いま手元に明確な資料がないので曖昧だが、野口体操の創始者である野口三千三氏も「私」というものは「私」のなかにあるのではなく、他者の中に「私」はあるというようなことを言っていたが、その思考と近親性を感じる。「私」や「個性」「才能」という概念を社会や他者の中にあると仮定することで、「私」を作り上げるのは「私」ではなく、社会や他者であるとすること。「私」や「個」から離れることで、誤解を理解として引き受け、多様な「私」として他者の思考をゆるやかに引き入れること。それが「私」というものだとこの「私」は思っていて、「私」性を引き剥がすこの言葉は、それゆえ印象的だった。この言葉の前では「自分探し」などという言葉は空虚に響く。確定しえない「私」を不確定な「私」として捉えることで、「才能」や「個性」などという空虚な言葉を無効化できるだろう。

未読日記213 「風景ルルル」

2008-12-11 23:58:40 | 書物
タイトル:風景ルルル ~わたしのソトガワとのかかわり方~
編集:多田智美(Licht/ait)
アートディレクション:森本千絵(goen゜)
デザイン:酒井洋輔(goen゜)、京都goen゜、井上みすず(goen゜)
翻訳:板井由紀、水野大二郎、小林直人
英文校正:ジャスティス・ウォーレン、ダニエル・ハーフォード
写真撮影:青野千鉱(株式会社博報堂プロダクツ)、長塚秀人、木奥恵三、上野則宏
印刷製本:株式会社サンエムカラー
発行:静岡県立美術館
発行日:2008年12月5日
金額:2000円
内容:
静岡・静岡県立美術館にて開催された<風景ルルル ~わたしのソトガワとのかかわり方~>展(2008年11月3日-12月21日)の展覧会図録。

出品作家:内海聖史、小西真奈、佐々木加奈子、鈴木理策、高木紗恵子、照屋勇賢、ブライアン・アルフレッド、柳澤顕

テキスト「「風景ルルル ~わたしのソトガワとのかかわり方~」距離や地理を越えたコミュニティーを求めて」川谷承子(静岡県立美術館 学芸員)
図版
作家略歴/参考文献・出品リスト

購入日:2008年12月7日
購入店:静岡県立美術館 ミュージアムショップ
購入理由:
交通網やインターネットの発達により、地域的な障害がなくなる一方、今いる場所との繋がりを喪失していく現代にあって「風景」とはどのようなものなのか。そんな時代にあって断片的、流動的で軽く、ささやかな表現を見せる現代の作家8名の作品を「風景ルルル」と題し、「風景」を考察する展覧会。

 奇抜なタイトルながら、予想以上に充実した内容を見せる静岡県美の好展覧会。鑑賞後、気持ちもルルルとなる(恥ずかしい言葉だ‥)。冗談はさておき、8名の作家の展示がゆるやかにつながりながら、ひとつの展覧会という「風景」を形作るところがこの展覧会のすばらしいところだ。
 高木紗恵子の描く樹は照屋勇賢の切り出す木と呼応し、照屋の切り出された木の切跡は柳澤のコンピュータで描かれたような無機質な線と呼応し、鈴木理策と内海聖史の展示は1点だけでは成立しない、断片的、重層的な構造を持ち、『海と山のあいだ』ならぬ絵画、写真同士の「あいだ」を見せる。佐々木加奈子の写真と小西真奈の絵画は、画面の中にぼんやりと人物を配置する構図が近似する(個人的な偶然は前日見た<ヴィルヘルム・ハンマースホイ>展(国立西洋美術館)で多く見られた後ろ姿の人物が、小西の絵画でも頻出し、後ろ姿の絵画という系譜をまとめたい衝動に駆られた)。
 ブライアン・アルフレッドはポップなパステル調の絵画、ペーパーコラージュ、アニメーションで他作家の作品と較べると異色であり、私などはジュリアン・オピーの作品を想起してしまう。だが、今展では柳澤顕の色彩を使用せず線を際立たせたシャープな絵画とネガポジの関係に見えるだろう。そして、『There is a Light That Will Never Go Out』(2006-2008)のような静謐なノイズミュージックとともに美しい光を描き出すアニメーション作品は前半の興奮を静める効果を持ち、後半の展示へと私たちを向かわせる。

 企画展と連動した常設展示も目を見張るものがある。とくに内海聖史の作品と小松均『赤富士』(1978)のガラスケース越しに向かい合う作品の像が反射する展示は、レゾナンスを展示として視覚化した試みだろう。これは、余程意識的に作品を見る経験を持っていなければ、生まれない展示だ。一瞬間、よく作家が了承したものだと感じる。

 展覧会図録・広報物のデザインは森本千絵によるもの。この展覧会図録はかつてない構成をしており、購入後ページをめくって見える「風景」に驚きを隠せなかった。資料としては、該当ページを探すのに面倒だとは思うが、デザインとしてはかなり遊んでいて、その遊びがいいか悪いかは置いておいて、アートブックとしては評価できる。図録は全208ページあるが、実質的には半分の内容なので、デザインに凝らなければ値段も半分で買えたのかしらん‥と思うのは、遊びがない発想なのか。
 なお、出品作家ではないが、本展のプロモーション映像の音楽を坂本美雨・高木正勝が担当している。

MOMAT NIGHT - AUTUMN -

2008-12-08 23:51:50 | お知らせ
体調不良などでご連絡・ご報告が遅れてしまいましたが、恒例の不定期DJイベントを行ないましたのでご報告です(結果的にシークレットイベントになってしまいましたが‥)。当日は雨降る寒さの中、ご来場頂いた方どうもありがとうございます。

<MOMAT NIGHT - AUTUMN ->
2008年11月24日(月・祝)18:00-22:00
LOOPLINE(千駄ヶ谷)

セットリスト(18:00-19:00)
Radiohead / Everything In Its Right Place
Fishmans / Walking In The Rhythm (shinjuku-Version 2 mix)
Death Cab For Cutie / Brothers on a Hotel Bed
Belle and Sebastian / If You're Feeling Sinister
Tortoise / I Set My Face To The Hillside
Akira Kosemura + Haruka Nakamura / graf
高木正勝 / New Flat
AIR / Remember
The Tough Alliance / First Class Riot
Robert Svensson / 1987

こういったイベントではあまりないと思いますが、SEが入っている曲を今回は意識的に選びました。この11月は、体調不良続きで臥せっていることが多く、ぼぉっとしながら外の音を聞いていたりした時間があったせいでしょうか。したがって、低体温で抑揚のない選曲になりましたが、なにぶん今回はポストロック、エレクトロニカメインな内容でということでしたので、ご容赦ください(最後の2曲だけダンスミュージックなのですが、これは次回への予告編ということで‥)。では、またの機会にお会いしませう。




TOUCHING WORD 071

2008-12-05 23:17:13 | ことば
だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂は、あらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと-このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが-その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起するすることにほかならないからだ。
(p.47-48 『メノン』プラトン 藤沢令夫訳、岩波書店/岩波文庫、1994.10)

「何を見ても何かを思い出す」とはヘミングウェイの本のタイトルだが、「想い」違いながら、言葉を置き換えても通じるかもしれない。私もまた何かを想い出すことを待ち望んでいる。だが、想起は、想起しようとしても起らない。何かを想い出すという現象は、好むと好まざるに関わらず、自身で決定することができない。そう、「想起」という名の現象は、私たちに突然襲ってくるものなのだ。ある「きっかけ」が「想起」を召喚するのだとしたら、その「きっかけ」もまた偶然でしかなく、私たちには倦むことなくこの探求の道を行くしかないということになる。