A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

illuminations 筑紫拓也展

2005-06-30 01:12:27 | 美術
Illuminations 筑紫拓也展
2005年6月25日(土)~7月20日(水)
ツァイト・フォト・サロン
東京都中央区京橋1-10-5松本ビル4階


 日本庭園の池の水面を撮った写真作品である。それだけなら美しい写真はいくらでもあるだろう。だが、筑紫の切り撮った写真は見たことのない像をわれわれに見せる。べつにCG加工したわけでも、赤外線写真などの特殊なカメラを使ったわけでもない。
写真を逆さまにしたのである。 
 見えていた像は、安定したかたちを失い、上下天地を消失する。くらくらするような、視角の不安定さから、写っている対象を認識するという写真作品特有の見方を消失させるのだ。石がぽっかりと上空に浮かんでいたり、ビルの手前に水の波紋がひろがる、というように非現実感漂う風景が存在するのである。
 池というのは不思議なものだ。透き通った水が鏡のように外界の風景を写し取る。もうひとつの壊れやすい現実世界。われわれが池の水面をじっと眺めるとき、同じような目眩にも似た、幻惑感を抱いてはいないだろうか。フレームに切り取る過程を通して、水面と陸の境界は溶け合い、境目がわからなくなる。自分はどっちの世界の住民なのか。モネの睡蓮の作品を思い出すまでもなく、溶け合う世界を相照らし出す池の水面は、もうひとつのカメラアイ(視覚)だったのかもしれない。

小林古径展

2005-06-22 23:44:24 | 美術
 小林古径の絵は寡黙である。静けさが画面を被い、時が止まったように感じられる。まるで、事物を見つめながら、そのものから気配が漂ってくるようである。眼が離せない。というより、眼が離れられない。古径の絵からは墨の滲み、岩絵具の色、線一筆一筆から色気、匂い、香りが漂い、「叙情性」などという言葉を越えた世界へと私を連れ出す。とくに、花や植物、静物を描いたものにその傾向が強い。例えば、村上華岳の風景画を思いおこしてみよう。その純度の高い画面からゆらぎを与える官能性さえ持ち合わせた、その絵画から「日本画」などという分類さえ意味を失ってしまう。画面から立ち上る気配は、煙りが舞うようにもわもわふわふわ動いているのである。華岳の絵から感じる「生」としか言えない画面表現を古径の絵からも感じるのである。
 ただ、古径の絵からは、そのような「流れ」より、カメラで対象を接写するときの緊張感、近さを感じるのである。そのかたち、線、色彩、つや、光etc.それらを慈しむように丁寧に定着させてゆく。じわじわと印画紙に像が浮かび上がるように、画面に筆が加えられていく。見つめた刹那の緊張感、高揚感が留められ、世界の豊かさにあらためて気付かせる。
 別に現実は派手なものではない。古径が描く日常の何気ない動作、動物の動き、植物の静けさ、人物のまなざし。それらは、些細でとりとめもなく瞬間瞬間現われては消えていく。その一瞬間を留めようとする意志が古径の描く画面からは感じられるのである。そう、これはまなざしによる存在論であった。存在は寡黙だ。静けさの中にあること、存在することの美学。古径の寡黙な画面から私たちはどのような気配を感じ取れるのだろうか。

近代日本画の巨匠 小林古径展
2005年6月7日(火)~7月18日(月・祝)
東京国立近代美術館

写真はものの見方をどのように変えてきたのか

2005-06-15 13:47:51 | 美術
写真はもののを見方をどのように変えてきたのか 2:創造
2005年5月28日(土)~7月18日(月・祝)
東京都写真美術館

 今年開館10周年を迎える東京都写真美術館の特別企画コレクション展「写真はものの見方をどのように変えてきたのか」シリーズ第2部。第1部「誕生」では、写真の誕生期を紹介しダゲレオタイプによる写真が出品されていて充実した展覧会であった。今回の第2部では、19世紀末から1930年代頃の写真に見られるピクトリアリズム(絵画主義)、技術や科学の発達によるクローズアップ、赤外線写真などリアリズム写真、バウハウス、シュルレアリスムなど同時代美術による影響を受けた写真などを紹介する。
 今回は、日本人作家による作品が中心を占めることが特色である。福原信三、福原路草兄弟の写真はモダニズムらしい洗練された構図が美しいし、小石清の写真集もさまざまな実験的な撮影、プリントを試み、そのイメージは今なお強烈である。
 これらの展示を見て思うのは、美術の受容である。とかく、私たちは海外諸外国からの影響を受けているので、芸術表現に関しても欧米の写真の受け売りであろう、などと考えてしまう。洋服を着るのも、車に乗るのも、カメラも映画もパソコンも食事もトイレも、そのほとんどが西洋からの輸入による西洋化だと言ってもいい。芸術も絵を「描く」、彫刻を「彫る、刻む」といった行為に西洋も東洋も関係ないにも関わらず、美術史、美術館という制度、システムによって私たちは芸術の歴史が西洋美術史を基本としたものだと理解してしまってはいないだろうか。もちろん、美術の歴史の転回・転向といったものが、西洋から起こったことは事実だし、否定すべくもない。だが、その美術の変化をそくす種が日本に蒔かれたとき、僅かながら変化が生じる。写真のシュルレアリスム受容、カメラのレンズの多様化を豊かに咀嚼してみせた日本人写真家の作品を見る時、何かを受け入れる懐の大きさ、想像力の大きさを感じるのである。