A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

Recording Words 066 友人

2010-01-31 23:50:01 | ことば
共に苦しむことではなく、共によろこぶことが友人をつくる。
(フリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的Ⅰ』池尾健一訳、筑摩書房/ちくま学芸文庫、1994年、p.428)

皆と楽しい時間が過ごせたらいいな・・。

彼方からの手紙004 TALES FROM THE LIMEN

2010-01-30 23:34:33 | 美術
受け取り日:2010年1月25日
内容:
TALES FROM THE LIMEN
ROBERT PLATT SOLO EXHIBITION
2010.02.05(fri.)-02.28(sun)
open 12:00-18:00 on fri., sat., & sun.
eN arts(京都・東山)

「そうだ 京都、行こう。」

ちなみに、本展のDMは、ハガキというよりも正方形したチラシと言った方が適切なぐらい大きいです。冬の京都に人を来させようと思ったら、恐らくここまでやらないといけないのかもしれません。
 
 しかし、宛名面が余白だらけなので、地図ぐらい入れてもいいのに・・などと思ってしまいますが、ここは余白がデザインということなのでしょう。

Recording Words 065 必要なる一事

2010-01-29 23:23:40 | ことば
人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって軽やかにされた心かである。
(フリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的Ⅰ』池尾健一訳、筑摩書房/ちくま学芸文庫、1994年、p.424)

今日は「芸術」に触れて心が軽くなりました。

・・などと素直に書くと嫌味に聞こえるから「芸術」さんは困ったものである。

彼方からの手紙003 「Particles, Gravity or…」

2010-01-28 22:21:03 | 美術
頂いた日:2010年1月25日
内容
冨沢聡:Particles, Gravity or…
TOMIZAWA So:Particles, Gravity or…
会期:2010年2月8日(月)~2月13日(土)
AM11:00~PM7:00 最終日~PM5:00
galleria grafica bis(東京・銀座)

年にたくさんの展示を見ていると、せっかくDMでご案内を頂いても、過去の作品を思いだせないことが稀に(よく?)あります。そんな時は、自分の記憶力のなさを嘆いて、食事も喉を通らないことはなく、元気に日々を過ごしたりします。
ウェブで調べたところ、冨沢氏は2005年にギャラリー葉+21で行われた個展以降、展覧会をやられていないようです。なので、今回の展覧会が5年ぶりの個展ということになります。2005年のときの展示を自分が見ていたのかどうか、記憶がぼんやりしてしまうのですが、どちらでもいいのかもしれません。5年という歳月に関わらず、作品を見る「現在」という時間こそ、大切な時に違いはないのですから。

Recording Words 064 <待つ>

2010-01-27 22:56:48 | ことば
<待つ>はたしかに期待や予想と連動している。ただ、期待や予想ほどに、現在につなぎとめられてはいない。むしろ時のなかをたゆたい、なりゆきに身をまかせ、ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、そのすべてをさだめとして甘受するという、受動というよりも受容をこととしてきた。<待つ>はそういう待機、そういう受容としてあった。
(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、p.189)

なりゆきを「受容」しようと思う。

彼方からの手紙002 角死/死角

2010-01-26 23:50:18 | 美術
日々届く展覧会DM等を勝手に紹介する新プロジェクト(及び予定を忘れないための備忘録として)。
当初「Letters from...」というタイトルでしたが、変更いたしました(また変わるかもしれません)。

受け取り日:2010年1月24日
内容:
秦雅則 写真展
角死/死角

角死:2010年2月2日(火)~2月7日(日)
死角:2010年3月16日(火)~3月21日(日)
12:00~20:00(最終日19:00まで)
企画ギャラリー・明るい部屋

「死角」とは写真らしい言葉かもしれない。なぜなら、カメラのフレームにはつねに撮影者には見えない死角が存在するからである。そして「死角」とは「視覚」のことなのかもしれない。
では、「角死」とはなんだろうか。机の角に頭をぶつけて死ぬことだろうか。よくわからない。
しかし、ここで言葉をいくら考察したところで無駄であろう。私たちは見た「写真」についてしか語ることができないのだから、実際の展示を見ることを「死角」に身を潜めて待つとしよう。


Recording Words 063 聴く

2010-01-24 22:18:53 | ことば
聴くということがだれかの言葉を受けとめることであるとするならば、聴くというのは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、留保をつけずに言葉を受けとめてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという感触のことである。とすれば、<聴く>とは、どういうかたちで言葉がこぼれ落ちてくるのか予測不可能な<他>の訪れを待つということであろう。
(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、p.69)

耳をすまして、聴いています。
どうぞ、話してください。


彼方からの手紙001

2010-01-23 22:05:46 | 美術
人付き合いが悪いため、あまりお手紙やご案内を頂くことはないのですが、時々私宛に郵便物が届きます。そんなときはやはりうれしいものです。私ごときのためにお送り頂いたことに感謝を込めて、(プライバシーの範囲内で)郵便物をご紹介していこうと思います。
[なお、試験的プロジェクトのため、途中でやめる可能性もありますので、ご了承ください。また、すべての郵便物をご紹介するものではありません。]

受け取り日:2010年1月23日
内容:
千田哲也 個展
2010年2月1日(月)―2月6日(土)
11:00 a.m.~7:00 p.m.[最終日5:00 p.m.]
Gallery Q

作家の方よりご案内を頂きました。ありがとうございます。残念ながら面識はありませんが、住所が近くて驚きました。どこかで擦れ違っていてもおかしくなく、ちょっとした偶然に不思議を感じます。もしかして、そんな偶然からご案内をお出しになったのかしらん、などと余計な妄想へと広がります。


Recording Words 062 なんの「応え」も

2010-01-21 23:01:03 | ことば
なんの「応え」もないままそれでも「応え」を待つということ、それはその「応え」をいつか受け容れるものとして、それまで身を開いたままにしておくということである。それまでに何度か「催促」をしてしまうということはありうるにしても。(中略)すると<待つ>というのは、時間を駆ることはしないが、しかしただたんに流れるままにまかせるというのでもないような身がまえだということになる。そう、ひとは向こうからやってくるのを期待して<待つ>。<待つ>ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。否、いなければならない。<待つ>とは、その意味で、抱くことなのだ。
(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、p.15-16)

私は、待っています。


未読日記368 「まばゆい、がらんどう」

2010-01-20 23:32:52 | 書物
タイトル:まばゆい、がらんどう
編集:椎木静寧
編集アシスタント:村上友重
アートディレクション&デザイン:中島英樹
デザインアシスタント:吉本武臣(NAKAJIMA DESIGN)
印刷:株式会社サンエムカラー
発行:東京藝術大学美術学部附属写真センター
発行日:2010年1月6日
内容:
東京藝術大学大学美術館にて開催された<まばゆい、がらんどう>(2010年1月6日~1月20日)の展覧会カタログ。
A5サイズ、白黒、全63p

「まばゆい、がらんどう」椎木静寧(美術家)
「空間化する芸術―現象/物体」梅津元(芸術学)
「複製技術時代のダンス―物語失効後の身体」島津京(美術史/芸術学)
図版
志水児王
鷹野隆大
高嶺格
谷山恭子
玉井健司
平野治朗
森弘治
作家略歴

頂いた日:2010年1月17日
頂いた場所:東京藝術大学大学美術館
美術館受付の方より頂いた1冊。どうもありがとうございます。

新年早々に奇妙なタイトルを持つ現代美術展が東京藝術大学大学美術館で開かれた。それが本展<まばゆい、がらんどう>展である。出品作家を見ると、現代美術界の個性派、実力派が揃っている。皮肉ではないが出品作家で「まばゆい」作家は高嶺格や鷹野隆大だが、一般的な訴求力はないだろう。そんなハードコアな現代美術家たちを集めて、抽象的なタイトルを持つ展覧会をやってしまうのだから大学美術館らしくてすばらしい。
さて、「まばゆい」とは視覚的で、「がらんどう」とは空間を指す言葉だが、「まばゆい」はともかく、展示を「がらんどう」にするわけにもいかない(内藤礼のように展示室を「がらんどう」にしてしまう人もいるが・・)。
だが、本展の展示やカタログを見て感じるのは「がらんどう」より「まばゆい」に比重が置かれているのかもしれない。そもそも「まばゆい」には「恥ずかしい、てれくさい」という意味もある。例えば、鷹野隆大の大判写真に写る裸の男性たち。大判サイズゆえに視線は自然と男性器へ誘導させられてしまうことの恥ずかしさ。そう、「まばゆい」には「度が過ぎていて、見ていられない」という意味もある。
逆に照明が暗いことで作品に使われるレーザー光の「まばゆさ」が鮮烈な清水児王作品。マンガン記念館の光がまったく入らない坑道にインスタレーションを制作した際の高嶺格の日記・テキスト作品『在日の恋人』は、近づく展覧会会期までの作品制作の焦りや思いが、度を過ぎた計画を実行に移す高嶺の存在を「まばゆい」ものにしている。ちなみに、『在日の恋人』は2008年に河出書房新社より単行本として出版されたが、もともとは展覧会で発表された作品である。単行本になるくらいなので文章量が多いが、読み始めると長さは気にならなくなる(最も私は時間が足りずに全部は読めなかったのだが)。
そして、本展中、もっとも「がらんどう」にして、「まがゆい」作品だったのが、森弘治である。昨年のhiromiyoshiiで行われた個展<his speech>も鮮烈だったが、今展の『Study for clone project』(2009、HDビデオ、ステレオサウンド)、『Re:』(2009、HDビデオ・プロジェクション、ステレオサウンド)は2010年最初の収穫にして、(日本の)現代美術映像作品の変革と更新を高らかに告げる傑作である。

『Study for clone project』は黒バックに女性がクローンにまつわる話をする。その際に、彼女は手元を見ながら親指とそれ以外の指を順にくっ付け合わせながら話すのである。親指と人差し指、続いて親指と中指、そして薬指、小指とリズムを取るかのように、その割にはぶっきらぼうに話す女性の身振りの可笑しさと奇妙さが同居した作品である。誤解を恐れずに言えば、これは「ダンス」である。

続く『Re:』は、ある女性の「ぜいたく」と収入をめぐる問いかけに対する女性たちの返答を映像とした作品(のよう)である。登場するほとんどの女性たちは年収1000万円前後の生活をしている人たちなのだが、その生活の「ぜいたく」さが鼻につくところを同じ女優が演じることで滑稽味を出している。変幻する「女性」、しかし変わるようで変わらないお金持ちたちの生活が語られていく様は、異なる意見が同一人物から発せられているようにも見えて、演技の境界性を感じることだろう。

そして、森弘治が斬新なのは「日本語」で作品を制作していることである。何をあたり前のことを言っているんだと思われるかもしれない。だが、多くの現代美術映像作品は「言葉」がなかった。あったとしても短い単語か会話、あるいは英語だった。しかし、森弘治作品では過剰なまでの日本語によるナラティヴが映写されるのである。そして、役者たちの会話とちぐはぐな身振り、ないしは周到なキャラクター設定と台詞が丁寧なリアルさを構築することに成功している。この過剰なまでのモノローグこそ、がらんどうな現代日本のリアルな現在なのかもしれない。

最後に本図録について述べよう。図版は展覧会が新作中心となるため、掲載図版は旧作中心となっている。そこが残念でならないが、致し方ない。また、企画者である椎木静寧氏のテクストで言及されている作品が、展覧会では未出品な作品が多いため、展覧会コンセプトがわかりにくくなっている気がする。梅津元氏のテクストはグループ展としては珍しいが志水児王の作家論。余談だが、志水氏のレーザー光を使った作品は、会場規模が大きいか、建築的な特殊性や制約が課された方がおもしろいと思うのだが、今展のようにこじんまりした展示ではコンパクトすぎるのではないだろうか。そして、島津京氏のテクストはどの作家についても触れていないダンスについての小論。なぜ掲載されているのかよく意味がわからない。