スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
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インパール作戦

2011-12-07 22:53:30 | 考えてみたこと
スウェーデンの新聞を昨日眺めてみたら、隅っこにどこかで見た写真が載っていた。あれ。。。と思って良く見ると真珠湾攻撃の写真である。日本では12月8日で記憶されているが、現地時間は12月7日だったので、世界的には「12月7日」が真珠湾攻撃の日なのである。
第二次世界大戦の事をぼんやり思い出しつつ昨今のニュースを眺めているうちに、何となく大戦末期の無謀な作戦の数々を連想してしまった。別に何か共通項がある訳でも、今回の事件に役に立つ教訓がある訳でもないのだが、つらつらと書いてみたい。
大戦末期に日本軍が実施した作戦の中でも、最も悪名高いのがインパール作戦である。ビルマ(現在のミャンマー)で補給線を無視して作戦を強行した結果、前線では食料も弾薬も無くなったという悲惨な作戦である。作戦兵力9万人の内3万人が戦死、その大半は餓死したという。しかも地形が険しい為、作戦を行えば補給が不可能になる事は事前に参謀から何度も指摘されていた。それでも司令官・牟田口将軍は反対意見を押し切って作戦を強行したとされる。最終的には前線で戦っていた師団の司令官が余りの補給のなさに激怒、命令を無視して独断で撤退を開始した。牟田口将軍のキャラクターも強烈であった様で、「精神力で戦え」「撤退したら腹を切れ」などと怒鳴りちらし、前線からの補給の要請には「今から食糧を送る」と空手形を繰り返すなど、部下の反感を買う行動には事欠かなかった様である。

幾つか指摘したい点を。
1、当時日本は敗色濃厚、陸海軍とも各地で連戦連敗であった。どこかで形勢挽回をする必要に迫られていたのである。牟田口将軍が無謀な作戦を言い出した時、「上手くいけば儲けもの」という心理が陸軍上層部に働いた事は想像に難くない。実際、牟田口将軍の上司に当たる人物(河辺将軍)は結局作戦を認可してしまっている。この時点では参謀長がはっきり反対していた事は彼の耳にも入っていた筈である。
2、牟田口将軍はそのキャラクターも相まって戦後はB級映画の悪役並みの扱いであるが、士官学校では成績優秀で、フランスに留学経験もあるエリートであった。またインパール作戦中でも、彼に会った人物は初対面の時、「温厚で物分かりの良さそうな人物」という印象を持ったと語っている。戦後も自宅への来客へはこまめに気配りするなど、少なくとも根っから人当たりが悪い人物ではなかった様だ。特に上官達や陸軍上層部に対して彼がどういう態度で接していたかはおおよそ想像がつく。
3、有名なエピソードは、河辺将軍と牟田口将軍が作戦中止を巡って会談を持った時のエピソードである。3月に作戦が開始され、4月には攻勢は頓挫し、もう実質的に勝ち目はなくなって来ていた。かくて6月に河辺将軍が前線を視察に来るのである。しかし牟田口将軍は自分から「作戦を中止したい」とは切りだせない。で河辺将軍は後日「牟田口は何か言いたそうだったが、それを突き詰めずに帰った」と手記に書き、牟田口将軍は「もうインパール作戦は中止にするべきだと思ったが、自分からは言いだせなかった。河辺将軍には私の顔色から察して欲しかった」と手記に書くのである。このあと作戦はずるずる続き、その間にも兵士はバタバタ餓死して行った。
4、インパール作戦直前に第二次アキャブ会戦という小さな前哨戦があり、ここで本作戦と全く同じ展開が既に見られていた。すなわち軽装備で山を越えて突破する日本軍に対し、イギリス軍は円陣を組んで対抗し、結局日本軍は敵軍を包囲したまま補給が途絶、飢えと弾薬の不足で撤退のやむなきに至った。しかもこの際の日本軍の司令官(花谷将軍)が滅茶苦茶な要求を前線に突き付けて被害を拡大した所まで瓜二つである。当然ながら、この戦訓が本作戦に生かされた形跡は全くない。
5、戦後、イギリスのある将軍は日本軍の将軍について「最初の計画にこだわり応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」と評している。

こうして見て行くと、「遠い昔の、牟田口という変な指揮官のせいで起きた異常な事件」とは決して言えないと思う。日本の組織--それも上手くいかなくなり始めた組織--で、いつでもどこでも起きうる事件であると思う。如何であろうか。
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