3月の連休、妻が来福、長崎と平戸に2泊旅行に行ってきました。
メインは、「池島炭鉱坑内体験ツアー」、「ガーデンテラス長崎」(宿泊)、そして「平戸ひらめまつり」(平戸・生月観光)。
旅行の行程はこんな感じ。
炭鉱跡の見学というと、「軍艦島」(端島)が圧倒的に有名ですが、同じ長崎県には、「ブラタモリ」でも紹介された(2015年4月)「池島炭鉱」跡があります。
2019年5月に軍艦島に上陸した私たち夫婦、今回はその池島炭鉱跡に行ってきました。
軍艦島と違うのは、坑内に実際に入ることができる❝体験ツアー❞ということ。
(妻が東京で見つけた、こちらのツアーにネットで事前申し込み。)
ちなみに、池島、軍艦島、1泊目の「ガーデンテラス長崎」、そして、潜伏キリシタンの関連遺産のある天草とはこんな位置関係。
炭鉱、潜伏キリシタン関連遺産という観点では、長崎・西彼杵半島・平戸、天草は地理的にもつながりがあることが分かります。
池島へのフェリーが出ている西彼杵半島(にしそのぎ)の神浦港(こうのうら)へは福岡から車で3時間はかかります。
念のため、朝7時前に出発。
「時間に余裕があれば立ち寄りたいなぁ。」と思っていた、「日本の棚田百選」のひとつ「大中尾棚田」に立ち寄れました。
(神浦港までは10分ほど。ここまで来れば遅れることはありません。)
棚田観賞の難しいところは「どこから見るか」。
同じ目線の高さからの景色。
高台から見下ろすと、こんな景色。
おそらく先祖代々切り拓いて積み上げてきた石垣、気が遠くなるような時間と労力を感じます。
30分弱でしょうか、美しい大中尾棚田の景色を堪能させてもらいました。
神浦港に到着。
(ビジネスホテルの1階がフェリー待合所。)
フェリーの出発時刻まではまだ40分はありますが、超小ぢんまりとした港ですので何もありません。
(快晴なり。)
出航時刻15分前に軽トラで係の人がやってきてチケット窓口を開けます。
(昔の切符のような厚紙。懐かしい手触りです。)
このあたりは西彼杵半島の外海(そとめ)と言うエリアですが、人口などが掲示されています。
(池島の人口はざっと100人。全体としては1ヶ月の間に人口も世帯も減少しているのがやや衝撃的。)
フェリーが来ました、、、車は1台、乗客は10人ってところでしょうか。
出航して5分ほど、デッキに出てみると、神浦港が遠くなっています。
20分ちょっとで池島が見えてきました。
(池島は西彼杵半島から西へ7kmの場所にあります。)
港に入ってきました。
実はこの港、元々は「鏡が池」という池でしたが、石炭の輸送のために池の❝縁❞を切って港にしたもの。
(お土産で買ったクリアファイルの写真を見るとよく分かります。)
だから港のバス停は「池の口」。
(この池島港の大きさは、軍艦島がすっぽり入るくらいだそうです。軍艦島は周囲1.2km。)
池島を改めて紹介すると、周囲約4km 、49年間続いた炭鉱時代の設備が今も遺されていて、見学・体験ができる唯一の島です。
炭鉱開発は昭和27年(1952年)に始まり、閉山は平成13年(2001年)。島の人口は、最盛期で7776人ですが、住民票を移していない協力会社の労働者を含めると10000人は生活していたのではないかと言われています。
船を降りると桟橋で係の方(三井松島リソーシス株式会社)が待っています。
ツアーの出発点となる「池島開発総合センター」まで歩く約3分間、港や島の簡単な説明をしてくれます。
これは港に残る、往年の石炭積出の桟橋。
(崩れ落ちています。)
「池島開発総合センター」。
入室後、まずはツアー代金を支払って、炭鉱の説明ビデオ(約10分)を観ます。
(領収証兼池島炭鉱トロッコ電車「記念乗車証」。)
ここでちょっと早いですが、お隣の部屋(会議室)で昼食。
私たちは「当時をしのぶ炭鉱弁当」(お茶付き)を注文しておきました。
(アルマイト製の弁当箱は返さないといけません。)
結構美味しかったですが、おそらく当時の炭鉱マンはこれくらいの量では全然足りなかったと思います。(笑)
昼食後、もう一度、オリエンテーションルームに戻って、ヘッドライト付きヘルメットを装着。
(学生さんでしょうか、女性5人の坑内体験ツアーとはなかなかシブいですね。)
この後、全員で❝指差し呼称❞をします。
係の人が「構えて!」と言った時、私だけ「ヨシ!」と大声を出したので妻が引いていました。(笑)
今日は「足もと安全確認ヨシ!」で、3回連続で言って、「ご安全に!」で〆ます。
坑内に入るトロッコ電車の所(坑外停留所)まで少し歩きます。
(ヤギが草を食べています。)
建物は当時の社宅で、一部には今も住んでいる方がいます。
炭鉱の島は銭湯があるので、部屋には風呂はありません、、、そのためか、家賃は6000円。
トロッコ電車に乗り込みます。
すぐに炭鉱へ入って行きます。
ここでヘッドライトを点けますが、坑内で使うのでメタンガスに引火しないように火花が飛ばない完全密閉式の特別製で、お値段何と1個8万円!
「水平坑道奥部電車停留所」という所でトロッコを降ります。
元炭鉱マンがいろいろと説明してくれます。
(当時の写真や坑内地図。)
坑内を徒歩で移動していきます。
(実際に使われていた道具が生々しく展示されています。)
ヘッドライトだけでなく、当時の蛍光灯は完全密閉の❝ケース❞に入れられていて、1セット10万円はしたそうです。
ちなみに、炭鉱労働者は年金もいいらしく、案内役の元炭鉱マンは県下トップクラスの年金をもらわれているそうです。(笑)
発破を仕掛けて爆破して坑道を作る「坑道掘進跡」。
ここで本物の巨大掘進機「ロードヘッダー」を見学。
(巨大重機は分解して搬入し4日間かけて組み立てたそうです。)
続いて、石炭採掘現場(復元)へ。
採炭機「ドラムカッター」を実際に回して当時の様子を見せてもらえます。
この直径1m以上厚み60cmはあるヘッド部分が回転し石炭を削り取っていきます。
壁面をワンスパン削り取ったら、このベースごと水圧で前進させ(向かって左に水平移動させ)、次の壁面(石炭)を削ります。
(比較する物がないので分かりづらいですが、高さ2mってところでしょうか。)
当時最先端の重機を用いて採掘していた石炭は1日8000トン。石炭はベルトコンベアーに乗せられ、地上へと運ばれて行きます。
池島の海底には無数の坑道が広がり、最深部は海面下650m、閉山後は全ての坑道が水没しているそうです。
ちなみに、池島近くには南西方向に「大蟇島」(おおひきしま)、北方向に「松島」があり、いずれも炭鉱でした。
松島がこのあたりの炭鉱発祥の地らしいですが、水没事故が何度が発生し、最大50名を超える炭鉱労働者が一度に亡くなったこともあるそうですが、松島の坑道地図が残されておらず、万が一池島から坑道を掘り進めて松島坑道と当たると水没事故を招く危険があるため、池島炭鉱は松島方向には掘り進まなかったそうです。
ロードヘッダーにしても、ドラムカッターにしても、そのままの大きさでは搬入できないので、パーツに分解して坑内で組み立てますが、そのパーツを運び込む地上につながる地点です。
(地下鉄が走れるぐらいの規模感。遠くに地上の光が見えます。)
次は、発破を仕掛ける穴をあける、穿孔機「オーガー」を実際に操作体験します。
(穴をあけたらダイナマイトと火花防止の「水タンパ」を入れる。)
ユニコーンの角のような長いドリルを岩盤に突き当てて穴をあけていきますが、すごい振動があり、職業病の白蝋病になる人が多かったそうです。
池島炭鉱の特徴のひとつが、とにかく安全第一の考えが徹底されていて、坑内の随所に安全確保の工夫があります。
(体験ツアーだけでなく、炭鉱はインドネシアの研修生の実地訓練にも使われているそうで、研修生が書いたもの。)
ここは「坑内救急センター」という緊急避難所の中。
メタンガス検知機、酸素、無線装置、乾パンなどの食料が置かれています。
電話機も引火防止のため完全密閉式の特別製。
この他にも、坑内発破の映像、ボタ(漢字では「硬」と書きます。不純物の多い岩等。)搬出場所などを見学すると、グルっと一周回ってきたみたいで、トロッコ電車の所に戻って来ました。
トロッコ電車に乗って、坑内から出ます。
池島開発総合センターに戻って、ヘッドライトとヘルメットを返却、最後にお土産のクリアファイル(150円)を買いました。
これで池島炭鉱坑内体験ツアーは終了。
なかなか勉強にもなる楽しいツアーでした。(私はおススメだと思います!)
私たちは、「島内観光オプションコース」を申し込んでいましたので、30分後に案内人の方と合流です。
それまでの間、坑内体験ツアーを主催、池島炭鉱を管理している三井松島リソーシス株式会社の(おそらく)管理者の方と雑談していましたが、「なるほどなぁ」と思うことばかりでした。(ブログに書けないことも多々あり。)
さて、観光案内の方が来られました。
参加者は、私たち夫婦と、何と本日池島に宿泊するという男性の計3人。
案内人の車でスタートです。
まずは、旧「石炭火力自家発電所」。
この発電所には発電時のボイラーの蒸気を利用し、海水から真水を作る装置が日本で初めて設置され、1日に2650トンの真水を坑内や住居に供給していました。
島中に張り巡らされたパイプが目立ちますが、発電所の蒸気を浴場へ、真水を施設や各家庭へと供給するための配管とのことです。
なお、施設遺構は特に保存措置をしていないので、どんどん崩壊が進んでいます。
「池島郷地区」という、当時最も栄えた繁華街だった所。
(元は漁港でボタで埋め立てられました。)
繁華街と言われても全く想像もできませんが、居酒屋、スナック、パチンコ屋などが軒を連ね、炭鉱労働者やお店に勤める女性で大いににぎわっていたそうです。
ここから坂を車で上って、池島郷地区を見下ろします。
無人の家屋も多く、崩壊がどんどん進んでいるそうです。
ちなみに、写真に見える山、昔は絶壁だったそうですが、ボタを山頂から海に向かって捨てている(落としている)うちに、このようになだらかになったそうです。
ちょっと移動して、「第一立坑」。
(水を送る配管。真夏はお湯になったとか。)
3段構成のエレベーターで一度に90人(?)を坑内に運ぶことができた、ワイヤーの巻き上げ機がそびえ立っています。
ここも崩壊が進み、少し前までは立坑近くまで見学できたそうですが、今は立入禁止。
次は住宅エリアを見て回りますが、ここは現役の郵便局と役場の出張所。
住宅エリアです。
池島の住宅は当時の一般的な住宅建物よりも鉄筋の数が多く丈夫にできているそうで、一棟取り壊すのに2000万円かかることから、数棟取り壊した後、コストがかかり過ぎるとのことで放置されています。
象徴的な棟。
(潮風と植物の威力で自然崩壊へ、、、。)
まだ人が入っても安全な棟に踏み入ります。
最上階4階の部屋に土足のままおじゃまします。
当時のまま時計がストップしたようで、何だか怖い気もします。
ベランダから屋上に上ることができます。
それぞれの棟に「21」とか「121」とか「136」とか番号が書かれていますが、意味があるそうで、120番以上は管理者住居、130番以上は役人(だったかな)、という感じ。
屋上からの眺めは絶景で、坑内体験ツアーで坑内から見えた地上の光(重機などの搬入口)の建物も見えます。
(中央のちょっと上に向いている建物。)
ちょっと移動して、こちらは現役の銭湯。
時間限定で、確か16時から20時までの営業だったかな、代金は100円だそうです。
高台にある慰霊碑です。
この碑の後ろには展望台があり、西彼杵半島方向の絶景が望めます。
角力灘に浮かぶこの3つの小島にはそれぞれ名前があり、左(奥)「小角力島」(こずもうじま)、中央「母小島」(はこしま)、右「大角力島」(おおすもうじま)。
この島々には伝説があり、案内人さん曰く、「大角力と小角力は兄弟で、お母さんの言うことを全然聞かないやんちゃ坊主だった。ある日いよいよ許せない悪さをしたので、怒ったお母さんは、大角力のお腹を包丁で刺し、小角力の右肩を包丁で切り落とした。だから2つの島はこんな形をしているんです。」とのこと、こわっ。
続いて、「ブラタモリ」でも放送されたスポット「8階建てアパート」の、斜面を利用した途中階への❝橋❞。
(8階建てでもエレベーターはない。)
このコンクリの橋も崩壊が進んでいて、反対側の1階側道路から見上げるとこんな感じ。
そう、いつ落下してもおかしくない状態。(かなり危険な印象でした。)
案内人さんの話では、映画「進撃の巨人」(実写版)のロケ地の最初の候補は池島だったそうですが、島内や西彼杵半島側に出演者・スタッフの宿泊施設を確保できないことから、最終的にロケ地が軍艦島に決定されたそうです。(軍艦島は世界遺産でもあり、その方が映画に箔がつくという事情もあったとも言ってました。)
またちょっと移動して、案内人さんに連れて来られたのはこの建物の窓際。
「この台に乗って窓の中をのぞいて見てください。」と言われたので、窓に顔を近づけると、、、
風呂でしたぁ。
池島の風呂は真水、軍艦島の風呂は海水だったそうです。
観光コースも終盤戦、「第二立坑」。
第一立坑と同じく超大型エレベーターのワイヤーの巻き上げ機が露出しています。
ワイヤーは安全のため4年に一度交換されていたそうです。
この第二立坑広場に立つ「女神像」(「慈海」という名前)は、著名な彫刻家の北村西望さんのお弟子さんの作だそうで、その視線は海の下に続く坑道を見つめているそうです。
観光コースの最後は、現役の学校。
かなり立派な学校ですが、生徒数は、中学生1名、小学生1名(!)。(しかも兄弟)
もちろん、先生の方が多く(科目別にいらっしゃるそうです)、「お金はもっと違う所に使ってもらいたいというのが本音です。」と何人かの方がおっしゃっていました。
これで島内観光オプションコースは終了。
人数が多ければ、どうやら島内の唯一の公共交通機関であるバスを使って移動し、徒歩時間ももっと多くなるようです。(今日は3人だったので、全行程を案内人さんの自家用車で移動しました。楽でした。)
島に泊まる男性を集会所のような宿で降ろして、私たちは池島港の待合所へ送ってもらいました。
行きはフェリーでしたが、帰りは高速艇、なのでちょっとだけ船賃は割高です。
高速艇は近隣の島を巡っているようで、到着して乗り込むと、あっという間に出航。
15分くらいだったでしょうか、神浦港に到着。
(すばやく下船しないと再び出航しそうです。)
時刻は16時。
これから本日の宿、長崎の稲佐山の中腹にある「ガーデンテラス長崎」へ移動ですが、道中、外海エリアの観光スポットを散策です。
外海エリアは、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部です。
(「外海の出津集落」。)
車を「外海歴史民俗資料館」に停めて、「ド・ロ神父記念館」との共通入館券を購入、閉館までちょっと時間が少ないですが、足早に散策です。
資料館で潜伏キリシタンのことやド・ロ神父の偉業を勉強して、次に「ド・ロ神父記念館」まで数分歩きます。
(記念館は教会のように奥に長い建物です。右の像がド・ロ神父。)
ド・ロ(マルク・マリー・ド・ロ)神父は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師で、1868年(慶応4年)に来日、1879年(明治12年)に外海地域に赴任、布教活動をする傍ら、貧困に苦しむ人々のために社会福祉活動に尽力しました。
出津(しつ)教会堂の建築、教会を中心とした村づくり、そして、1883年(明治16年)には「出津救助院」を創設。この他にも多彩な事業を授けることによって、外海の人々に「自立して生きる力」を与えました。
(「旧出津救助院」。)
ド・ロ神父記念館から更に数分歩くと、「出津教会堂」に着きます。
社会福祉や産業開発などに数々の偉業をなしたド・ロ神父は今も「ド・ロさま」と呼ばれて敬愛されています。
歴史民俗資料館に戻って、車で10分ほど移動、「道の駅 夕陽が丘そとめ」。
外海は日本のパスタ発祥の地ですが、実はド・ロ神父が「マカロニ工場」を建設したことが始まりです。
池島炭鉱坑内体験ツアーのお弁当がちょっと少なかったので、ここで❝つなぎ❞のパンを買いました。
「神浦名物 昔ながらのいちのせパン」と銘打たれていますが、帰宅後ネットで調べてみると、ド・ロ神父の下でパン作りを学んだ方が「一瀬菓子舗」さんでパン職人として働き始めて、このあんパンとメロンパンを作ったそうです。
「道の駅そとめ」は「夕陽が丘」というぐらいですので、西方向に海の眺望が素晴らしいです。
北西を望むと、遠くに「大島造船所」(大島トマト)を見ることができます。
(造船用のクレーンが見えます。)
西側すぐ近くには「遠藤周作文学館」があります。
(夕陽にはちょっと早いですが、雰囲気は味わえました。)
「遠藤周作文学館」には2017年10月、仕事の関係で立ち寄ったことがあります。
これで外海エリアの散策は終了。
今回の旅行のお目当てのひとつ、「ガーデンテラス長崎」(宿泊)へと向かいます。