かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

銅鐸には穴があって、風鐸には穴がない

2019-03-25 12:48:00 | かごめかごめの真実とは

2019年3月25(月)

 先日、四天王寺へと行った時に、風鐸を見ました。

「風鐸には穴があいていませんねぇ」

銅鐸は測量器械であり、そのための穴であり、向きの方向を確実に地表に反映させるための糸を架けるものです。



 


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銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした

2019-01-20 02:22:40 | かごめかごめの真実とは

2019年1月20日(日)

銅鐸の穴に鉤を直に突っ込むと、貴重な銅鐸に傷が付き、何度も繰り返していると変形して穴が大きくなっていってしまうので、舌を吊るとされている穴から紐を出して、それに有鉤銅釧と呼ばれている物を引っ掛ければ・」、というご意見を参考にしてセットしてみました。

巴型銅器は、脱着と水平の微調整もスムーズですし、有鉤銅釧で銅鐸の脱着も簡単に行えます。

本当に使い勝手が良いものです!

銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした!

先人達は素晴らしいですねぇ。

そして・・、銅鐸と古墳とため池が一番多い県が兵庫県であるということも、古代史解明につながるものでしょう。

       

(2019年1月19日撮影)


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巴型鉄器と有鉤鉄釧

2019-01-09 05:05:05 | かごめかごめの真実とは

2019年1月9日(水)

 巴型銅器と有鉤銅釧 ならぬ巴型鉄器と有鉤鉄釧が鉄工所から届けられました。

Yさん、いつでも現場で測量できますよぉ~!

 

銅鐸で測量ができることを立証しなければなりません.

 


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銅鐸で測量ができることを立証しなければなりません

2019-01-07 00:25:01 | かごめかごめの真実とは

2019年1月7日(月)

 6日、Yさんが三脚になる棒を持ってきてくれました。

太さも長さもピッタリで嬉しくなりました。

銅鐸は測量器具なんですね。

下げ振りなんですよ。

考古学者が

舌の材質と形状舌に使用された材質には、現状では青銅製のものと石製のものがみられる。しかし、時期は異なるが愛媛県東宮山古墳出土の馬鐸には有機物(骨)が舌として使用されており、他に木製のものもあったとすると、舌の材質には複数のものが使用されていたと考えられる。

・・と、学説を唱えられていますが、銅鐸が祭祀用であったとしたら、石だったらすぐに壊れてしまいますし、木製だったら音が出にくいことを思われませんかねぇ。

私には不思議で仕方ありません。 まともにこのようなことを言うこと自体、祭祀用に使っていたということを自己否定しているのに気づかないとは・・。

下げ振りだったら、石であっても木であっても、静止していますから問題は起きません。

舌は下げ振りなんですから、ある一定の重りになれば何でも利用できる訳です。

今日は間に合いませんでしたが、巴型銅器や有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)の模擬品が鉄工所から届けばより完成形になることでしょう。


オオ~~ッ!どこかで議論されているようですね。

ただし、幾つか修正が必要と思います。その一つは銅鐸の吊り方です。有鉤銅釧に気が付いたのはたいしたものだと思いますが、問題は銅鐸の穴に鉤を直に突っ込むと、貴重な銅鐸に傷が付き、何度も繰り返していると変形して穴が大きくなっていってしまう点です。したがって、舌を吊るとされている穴から紐を出して、それに有鉤銅釧と呼ばれている物を引っ掛ければ、この問題は解決すると思います。

もう一つは、俯角と仰角を付けた測量の方法が示されていない点です。目標が同じ高さにあるとは限らないばかりか、多くの場合は上か下に位置しています。その角度を割り出す方法が分かるように提示する写真を載せることで、説得力が増すと思います。

 

銅鐸と銅鏡とさげふりと糸があれば、俯角と仰角も、角度を割り出すこともできますね。

極端に言えば、銅鏡とさげふりと糸があれば、測量はできます! 

人手が最低3人と・・、付属品として、かけやや杭、記録用紙又は板なども必要ですね。

 

伊能忠敬の測量も大いに勉強になりますね。

 

終わって帰ればライトに浮かび上がる姫路城。


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兵庫県には昆陽池と言って日本列島を浮かべた池があります

2018-10-23 01:03:00 | 邪馬壹国

2018年10月

 全国でいちばん古墳の数が多い県は兵庫県である。

その数はじつに1万6577基で、2位が千葉県の1万3221基。

3位が鳥取県の1万3094基、4位が福岡県の1万1311基、5位が京都府の1万1310基となっている。

全国的には合計16萬1560基の古墳があるので、兵庫県が約10%を占めているという。

また、古墳だけでなく、遺跡の数と銅鐸出土数も兵庫県がナンバーワン

遺跡所在件数は、兵庫県2万5406、2位の千葉県が2万5131、3位の福岡県が1万6968。

銅鐸出土数は兵庫県で56点。以下、島根県54点、徳島県が42点と続く。

さらに、日本一ため池の多い県も兵庫県である。

兵庫県4万3347、広島県2万183、香川県1万4619、大阪府1万1105、山口県1万636。

2位の広島県の約2倍である。

古墳がたくさんあって、その横にはため池があって、遺跡もあって、銅鐸もたくさん出土している県が兵庫県ということです。

これらの大規模な土木工事を行うには、測量器械がなくてはなりませんが、銅鐸がその役割を果たしたと言うことです。

これらの意味することは、この兵庫という地は特別なところで、古代王族たちがどの地域よりも居住していて、王族のお墓がたくさん古代大王の陵墓を守っていることを教えています。

兵庫県最大の前方後円墳は「五色塚古墳」(神戸市垂水区)で、全長194mということですが、神河町南小田836m山頂のイエス・キリストの墓である前方後円墳は、全長270mはあるかと思われます。300m級ほどの大古墳から卑弥呼の150mほどの古墳など兵庫県の山中には何基も隠されています。

もう小さいのならいくらでも山中に眠っています。

インターネットの時代になって、もうこれらの事実は隠し通すことはできないでしょう。


ところで、兵庫県伊丹市に日本列島の形をした島がある「昆陽池」をご存知だろうか。

この池は東大寺大仏殿建立の責任者と知られる高僧、行基が指導する集団によって、奈良時代の731年から約10年の月日を費やして造られたということですが、このポイントが実に妙です。

昆陽池は、東大寺大仏殿と出雲大社とを結んだライン上にあって、

東大寺大仏殿とイエス・キリストの墓の横にあるハートの丘が教える絶峯御林とその昆陽池から西に行った場所で3:4:5の大矩を描くポイントに

生石神社(おおしこじんじゃ)のモニュメント的な巨石の石の宝殿があります。

石の宝殿の巨石は、見事に奈良橿原神宮にある神武天皇陵と出雲大社に向けて設置されています。

この石の宝殿の巨石の下に、イエス・キリストの聖杯が置いてあると以前ブログに書いたことがありますが、すぐさまグーグル社は地図上から神社名を消したり、衛星写真の情景も変わりました。

そしてそれからほどなくして、国指定文化財認定となりました。 

これらのことは偶然でしょうか

ちなみに、昆陽池の日本列島は50数年前に、大阪国際空港(伊丹空港)から離陸した直後の窓から見て楽しんでもらえるよう、意図的につくられた人工島ということですが、これも先人達の想いと、現代人の想いとが織り成す妙であります。


邪馬台国は邪馬壹国が正しくて、女王卑弥呼は大国主命=イエス・キリストの墓守を聖地神河でしていたのでした。

政治政体は奈良巻向で、国事国体は播磨国風土記に記された埴岡の里、現在の朝来市生野町と神崎郡神河町で、卑弥呼の居城であり陵墓は婀月山でした。

卑弥呼の陵墓は、五色塚古墳と同じく表面は全て栗石で覆われていて、居城である遺跡の証拠も在りました。

  

東大寺大仏殿の真西に、大本教の聖地と言われる上島があり、その西にクラ掛島があります。

それらの各島から真北に上がったところにダビデの墓やイエス・キリストの墓が造られています。

これらの基本的霊ラインの上には神社や寺院、それにベンチマーク的な山や磐座があり、それらの点からまた三角法で次の点あ導きだされるようになっています。

それらの図形は、イエス・キリストの墓や卑弥呼の陵墓などに集まるように霊ライン網が作られています。

あまりにも見事です!

 昆陽池を上空から見ると・・!


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ダビデ王とソロモン王の墓の探索は 一日一組限定 木の助から始まった

2018-10-18 07:09:40 | かごめかごめの真実とは

2018年10月18日(木)

 不思議な物語は今もなお続いていて、宍粟市一宮町福知に宿をとるその流れをさかのぼると、伊勢神宮内宮の真南に位置する八禰宜山の壺掃除に行きつきます。

武部さんと知人の宍粟市生まれの女性が落ち葉に埋もれていた神壺を発見し、その壺を有志の方々が綺麗に掃除したことに繋がっています。

その壺には大事な大きな意味がありました。

みなさんが遠方より何度も山に登り、綺麗に清掃されたことで間違いなく蓋をされ隠されていたものが表に出たという流れなのです。

私は壺掃除に行った道中、ダビデの星が刻み込まれた灯篭が撤去されだしたことを武部さんに教えられました。

その時「何で潰す必要があるんですかねぇ」と疑問に思いました。

そして皆さんと一緒に山に登り、八禰宜山の壺がどちらの方角に向いているのかコンパスグラスで計測しました。

壺は西に向けて造られていました。 

その壺は、伊勢神宮の内宮と外宮にも意味あるものでしたが、それ以上に西に意味ある大事なものがあることを教えていました。

そしてそれから、淡路島で一番高い諭鶴羽山~イエス・キリストの墓~壺が綺麗な2;1;√3の基本形になっていることが分かりました。

諭鶴羽山には、何度も見えない存在に山頂点に立つように諭された経験がある私でしたから、いろんな記憶が蘇えってきました。

この山頂点から北麓を見下ろした所にアブラハムの墓もありました。

実は、よく卑弥呼の墓か!?と言われる箸墓古墳がありますが、箸墓古墳は見事にこの諭鶴羽山頂を向けて造られていることにも大きな意味を感じている私です。

私の現在の住居にそのころ竪琴が運ばれてきました。 たて琴と言えばダビデ王。

このようなキーワードを教えられ、三角法を用いて大事なポイントに誰が祀られているかを教えられます。

数ある三角形でも特に2:1:√3や3:4:5の大矩の基本形になる点に注目していきます。

重要度は少し落ちますが、二等辺三角形になるポイントもみていきます。

そして一発でその場所にビビット感じるコンターラインに当たると、それは「間違いない!」ということになります。

問題は一発でなくてはなりません。

それほど先人たちは、現在のカーナビと変わらない測量技術を持っていました。

その技術と測量方法は、銅鐸アストララーベなどの測量器械を使い、先人達が残したものの上に時代を重ねより精度を上げていったのでしょう。

そしてそこには、やはり古代から光通信的に光の特性が駆使されたと思います。

そしてそこに欠かせないのがであり磐座でした。


そのようにして時が来て、武部さんと現地の探索へと出かけます。

泊まる場所は、そのポイントにできるだけ近い場所をグーグルマップから探し出します。

そこで浮かびあがったのが、一日一組限定の宿「木の助さんでした。

いつも必ずご先祖の神様たちは、ちゃ~~んと意味あるお宿を用意してくれるものなのです。

 

イエス・キリストの墓を教える「大岩の荒神淵」は、木の助さんの目の前に在ります。

 

武部さんがダビデ王のことを書きだしましたねぇ。

                                                          

 

   

聖地巡礼ツアー第16回 「イエス様の命日・宝珠の旅

宝珠はいらんかね・・とお爺さん。

ノアの箱バスの空席は、あと3席となりました。

 


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播磨と邪馬台国・卑弥呼のかかわり

2018-05-22 11:42:53 | かごめかごめの真実とは

[English]

2018年5月22日(火)

 一冊の本との出会いがありました。

播磨から読み解く邪馬台国

最新の発掘成果が明かす、播磨と邪馬台国・卑弥呼のかかわり

魏志倭人伝の読み方から注目の纏向遺跡まで、第一線の住人が縦横に語る

最新考古学事情   播磨学研究所・編

神戸新聞総合出版センター

その最後に、

播磨では、百基を超える前方後円墳が確認されている。

大和や吉備、出雲にも匹敵するほどの多さであるという。

この濃密な古墳分布は、明らかに、播磨が、邪馬台国以降の古代王権と深いかかわりを持ったエリアであることを物語っている。

本書が、邪馬台国と播磨の関係を考え、新しい歴史の流れを理解する上で、少しでもお役にたてば幸いである。

・・と、書かれている。

 

少なくとも私は、この奥播磨に大型の前方後円墳を5つは発見している

実は、銅鐸の出土数も兵庫県はトップクラスということのようである。

いよいよこの国の歴史の真実が表に出てきても良さそうな時期に入ってきたのでは・・と思う私ですが・・。

卑弥呼は奥播磨に居てた!・・『邪馬台国オリオン座説


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銅鐸は測量器具・・铜铎是测量器具

2018-05-16 14:27:06 | かごめかごめの真実とは

2018年5月17日(木)

 「不死鳥のあしあと」の中国語訳がすすんでいます。

 

 

銅鐸は測量機器

 

 銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

 研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している

 上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

 このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

 有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

 そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下げる「下げふり」として使われていたのである。

 銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。

 

铜铎是测量器具

 

铜铎,是从公元前2世纪至公元2世纪的弥生时代约400年间在日本列岛所使用、但随后却消失了的神秘的青铜器。

众多的研究者认为它是祭祀时使用的乐器类物品,我则提出这是一种“测量器具”之说。

在它上部钻出的洞孔,通过双目窥视可以正确地确定铜铎的朝向。

据此,其它用途不明的铜器之用途也就可被判明。

被称为“有钩铜钏”的青铜器,是利用铜铎上部钻出的洞孔即可简单地设置铜铎的悬挂金属配件。悬挂它的纽带,挂在“巴形铜器”上。巴形铜器是将事先连接起来的三角纽带与巴形的足部捆在一起,用以微调水平方向的道具。

然后,敲击铜铎内壁发出声音被叫做“舌”的器具,实际上是被用作为了使铜铎位于地面“基准点”的正上方而垂挂在铜铎中心的“钟摆”。

时不时地与铜铎一起出土的铜镜,可认为其是被用作测量

现场的分度器和水平仪。更进一步,可推测其还被用于光通信。

 


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銅鐸は測量機器 Der Dotaku – Glocke aus Bronze – war ein Messinstrument

2018-05-11 04:50:59 | かごめかごめの真実とは

2018年5月11日(金)

今、「不死鳥のあしあと」の、ドイツ語、英語、中国語での翻訳が急ピッチで進められています。

 

銅鐸は測量機器

 

 銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

 研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している。

 上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

 このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

 有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

 そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下げる「下げふり」として使われていたのである。

 銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。

 

Der Dotaku – Glocke aus Bronze – war ein Messinstrument

Der Dotaku ist eine aus Bronze hergestellte Glocke, die ca. 400 Jahre lang am Ende der Yayoi-Zeit in Japan verwendet wurde. Danach war er aber rätselhafterweise verschwunden.

Viele Forscher gehen davon aus, dass der Dotaku ein Instrument war, vermutlich zum Musizieren bei einem Ritual. Ich dagegen befürworte die These, dass er ein Messinstrument war.

Dadurch, dass man mit beiden Augen durch die Löcher durchschaut, kann man die Ausrichtung des Dotaku präzise festlegen.

Durch diese These stellt sich der Verwendungszweck der anderen weiteren Bronze-Utensilien, der bislang unbekannt war, auch heraus.

Die Bronzeringe mit Hakenfortsatz sind Werkzeuge, deren Haken in die Löcher über dem Dotaku gesteckt werden, um den Dotaku einfacher aufzuhängen, wofür ein anderer Bronzeapparat in Form eines Tomoe-Musters eingesetzt wird. Die am Stativ im Voraus verbundene Schnur wird an die Füße des tomoe-förmigen Bronzeapparates gekoppelt, um die waagerechte Richtung abzustimmen.

Folgend wurde der Klöppel, den man für den Schläger des Dotaku hält, in der Tat als Zeiger, der mittig unter dem Dotaku über dem Boden hängt, verwendet, damit der Dotaku korrekt über dem Bezugspunkt steht.

Der Bronzespiegel, der häufig zusammen mit einem Dotaku ausgegraben wird, müsste am Vermessungsort als Winkelmesser oder Wasserwaage verwendet worden sein. Des weiteren wurde er vermutlich auch zu Zwecken der Kommunikation per Lichtreflexion benutzt.


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不死鳥のあしあと・・限定発売 予約受付中 

2017-08-14 11:16:21 | かごめかごめの真実とは

      不死鳥のあしあと ・・ 予約受付中


いよいよ私の不思議な7年間の体験を、オールカラーでA4の見開きで綴った図形の数々と写真集が、8月31日に出版されます。

 

 不死鳥のあしあと   

      神々はこの日本の大地に

         世界が平和になれる仕掛けを

             残してくれていました。   

 

             上森三郎

 

             定価=本体10000円+税 

            限定 3690冊 発売!

 

             株式会社 T・T・C にて 予約受付中

 

 

 

  目 次


 前書き 1

 それは3本の十字架から始まった

 黄金比の十字架


世界の聖地「埴岡の里」 5

 供えられた水・亀ヶ壺

 神棚の榊・1対のメノラー

 女神ハトホルの地上絵

 鶴と亀・魚・玄武

10 埴岡の里の地上絵全図

11 八幡山ピラミッド

12 イエス・キリストの生命の樹

14 絶峯御林と古城山御林

15 絶峯はイエスを、古城山はモーセを祀る山

16 モーセの地上絵


女王卑弥呼と邪馬壹国 17

18 卑弥呼の墓・婀月山

19 卑弥呼の墓はこと座のベガ

20 卑弥呼は初代斎王だった

21  瀬織津姫、弁財天、卑弥呼

22 邪馬壹国とオリオン座

23 オリオン座の山々

24 七福神の航路

25 使節は対馬に上陸した

26 折鶴


イエス・キリストの三つの陵墓 27

28 空海様と最澄様が守るイエスの公的な陵墓

29 イエス・キリストの本当の墓

30 イエスの墓の景観

31 イエスの陵墓を守る磐座

32 ベテルギウスは赤く輝く

33 イエス王家の墓・天神山

34 橿原神宮の不思議


イエス・キリスト終焉の地 35

36 イワナガヒメの神社とハート形の山

37 十字架の山

38 イエス終焉の地の風景


千山の九福神と日本の七福神 39

40 千山・雁塔の九福神

41 八福神のレリーフ

42 八福神の壁画

43 埴岡の里に七福神が祀られている

44 不思議な光の写真


マリアの墓は岡山県美咲町にあった! 45

46 マリアの墓 発見への道

47 「祖母」とは誰のことなのか

48 マリアの墓の風景


モーセの墓は丹後半島にあった! 49

50 モーセの墓 発見への道

51 竹野神社

52 モーセの墓と依遅ヶ尾山

53 モーセの墓から描ける図形

54 銅鐸は測量機器


淡路島の勾玉山はアブラハムの墓! 55

56 勾玉形の山を発見!

57 アブラハムの墓の神木

58 神野山の王塚はテラの墓

59 桓武天皇も祈った仙境・交野山

60 テラ、アブラハム、モーセの三角形

61 竹生島と曽爾の亀山

62 亀山から鎧岳へ


空海様の隠された生涯 63

64 空海様の生誕地は星の岩屋

65 アークは剣山から埴岡の里へ

66 奥鎗戸のピラミッドを中心に等比数列の図形が出現した

67 空海様の亡骸は移された

68 空海様のルーツに迫る


チーム空海が造った「日月の山」! 69

70 麻賀多神社は御所を結ぶライン上にあった

71 息栖神社は淡路島の勾玉山を向いていた

72 ついに「日月の山」が姿を現した


神社・寺院で祈れば… 73

74 大聖寺(岡山県美作市)

75 比叡山延暦寺

76 香寺町土師・大年神社

77 姫路城

78 城の描く図形


後書き 79

 後書き

私は、過去も現在も、どんな宗教にも関わりを持ったことがない。

これからもその姿勢に変わりはない。

そんな私が、2010年8月11日、ちょうど56歳と7ヶ月目のまさにその日に、福岡の宗像大社で目に見えない存在からの声を聞いた。その時から摩訶不思議な世界へと誘われて来た。

不思議な声に導かれ、最初は伊勢神宮から兵庫県中央部に伸びる十字架を、そしてさらに2本、合計3本の大・中・小の十字架を描かされた(本書3ページに掲載)。

全てはこの3本の十字架から始まったのだ。

それからまる7年が経った。

最初は自分が何をやっているのか、目に見えない存在から何をやらされているのか、全く分からなかったのだが、ここに来て、その意図ははっきりと分かってきた。

目に見えない存在は、「この日本の歴史は世界の中で最も古く、『世界文明の起源は日本』であること」を教え続けていた。

この日本は、アブラハムの父テラから始まり、アブラハム、モーセ、イエス・キリストもこの聖なる日本を拠点にして、地球的視野で助け合い生きる世界を希求し続けていた。

彼らはこの日本の大地に埋葬され、しかもその陵墓の位置(そして本当の歴史)が後世の人に分かるようにと、夏の大三角形やオリオン座などの星座をこの大地に降ろして位置決めしていた。

その後の王や賢人たちも、これらの重要な陵墓に三角法を使って関連づけて、自分の墓の位置決めを行うことで、この大地に足跡を残した。

山、墓、磐座、神社、寺院、城等を関連づけるこの三角法の位置決めは、後世まで引き継がれた。

テラ、アブラハム、モーセ、マリア、イエス・キリストの墓がこの日本にあるということを世に知らせるシナリオが、世界を平和に導く神様の計画のようだ。

何世紀にもわたってこの計画を守り伝えた先人たちの御霊も、「私が何をなしたかを世界中の人達に伝えてください」と伝言して消えた女王卑弥呼も、空海様も、この計画の成就を願っていることだろう。

 

               2017年8月31日

 

                  卑弥呼の誕生日を祝って

 

                                     上森三郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銅鐸は測量機器

銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している。

上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

「有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。

それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。

巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下「下げふり」として使われていたのである。

銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。


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不死鳥のあしあと 8月31日 株式会社 T・T・Cより出版

2017-08-03 10:24:23 | かごめかごめの真実とは

2017年8月3日(木)

 いよいよ私の不思議な7年間の体験を、オールカラーでA4の見開きで綴った図形の数々と写真集が、8月31日に出版されます。

 不死鳥のあしあと    とタイトルは決めました。

 神々はこの日本の大地に

 世界が平和になれる仕掛けを

 残してくれていました。   

         上森三郎

 

   定価=本体10000円+税

 

   株式会社 T・T・C にて 予約受付中!

  アマゾンでも購入できます

  目 次

前書き 1

 それは3本の十字架から始まった

 黄金比の十字架

世界の聖地「埴岡の里」 5

6 供えられた水・亀ヶ壺

 神棚の榊・1対のメノラー

 女神ハトホルの地上絵

 鶴と亀・魚・玄武

10 埴岡の里の地上絵全図

11 八幡山ピラミッド

12 イエス・キリストの生命の樹

14 絶峯御林と古城山御林

15 絶峯はイエスを、古城山はモーセを祀る山

16 モーセの地上絵

女王卑弥呼と邪馬壹国 17

18 卑弥呼の墓・婀月山

19 卑弥呼の墓はこと座のベガ

20 卑弥呼は初代斎王だった

21  瀬織津姫、弁財天、卑弥呼

22 邪馬壹国とオリオン座

23 オリオン座の山々

24 七福神の航路

25 使節は対馬に上陸した

26 折鶴

イエス・キリストの三つの陵墓 27

28 空海様と最澄様が守るイエスの公的な陵墓

29 イエス・キリストの本当の墓

30 イエスの墓の景観

31 イエスの陵墓を守る磐座

32 ベテルギウスは赤く輝く

33 イエス王家の墓・天神山

34 橿原神宮の不思議

イエス・キリスト終焉の地 35

36 イワナガヒメの神社とハート形の山

37 十字架の山

38 イエス終焉の地の風景

千山の九福神と日本の七福神 39

40 千山・雁塔の九福神

41 八福神のレリーフ

42 八福神の壁画

43 埴岡の里に七福神が祀られている

44 不思議な光の写真

マリアの墓は岡山県美咲町にあった! 45

46 マリアの墓 発見への道

47 「祖母」とは誰のことなのか

48 マリアの墓の風景

モーセの墓は丹後半島にあった! 49

50 モーセの墓 発見への道

51 竹野神社

52 モーセの墓と依遅ヶ尾山

53 モーセの墓から描ける図形

54 銅鐸は測量機器

淡路島の勾玉山はアブラハムの墓! 55

56 勾玉形の山を発見!

57 アブラハムの墓の神木

58 神野山の王塚はテラの墓

59 桓武天皇も祈った仙境・交野山

60 テラ、アブラハム、モーセの三角形

61 竹生島と曽爾の亀山

62 亀山から鎧岳へ

空海様の隠された生涯 63

64 空海様の生誕地は星の岩屋

65 アークは剣山から埴岡の里へ

66 奥鎗戸のピラミッドを中心に等比数列の図形が出現した

67 空海様の亡骸は移された

68 空海様のルーツに迫る

チーム空海が造った「日月の山」! 69

70 麻賀多神社は御所を結ぶライン上にあった

71 息栖神社は淡路島の勾玉山を向いていた

72 ついに「日月の山」が姿を現した

神社・寺院で祈れば… 73

74 大聖寺(岡山県美作市)

75 比叡山延暦寺

76 香寺町土師・大年神社

77 姫路城

78 城の描く図形

後書き 79

 後書き

 

私は、過去も現在も、どんな宗教にも関わりを持ったことがない。

これからもその姿勢に変わりはない。

そんな私が、2010年8月11日、ちょうど56歳と7ヶ月目のまさにその日に、福岡の宗像大社で目に見えない存在からの声を聞いた。その時から摩訶不思議な世界へと誘われて来た。

不思議な声に導かれ、最初は伊勢神宮から兵庫県中央部に伸びる十字架を、そしてさらに2本、合計3本の大・中・小の十字架を描かされた(本書3ページに掲載)。

全てはこの3本の十字架から始まったのだ。

それからまる7年が経った。

最初は自分が何をやっているのか、目に見えない存在から何をやらされているのか、全く分からなかったのだが、ここに来て、その意図ははっきりと分かってきた。

目に見えない存在は、「この日本の歴史は世界の中で最も古く、『世界文明の起源は日本』であること」を教え続けていた。

この日本は、アブラハムの父テラから始まり、アブラハム、モーセ、イエス・キリストもこの聖なる日本を拠点にして、地球的視野で助け合い生きる世界を希求し続けていた。

彼らはこの日本の大地に埋葬され、しかもその陵墓の位置(そして本当の歴史)が後世の人に分かるようにと、夏の大三角形やオリオン座などの星座をこの大地に降ろして位置決めしていた。

その後の王や賢人たちも、これらの重要な陵墓に三角法を使って関連づけて、自分の墓の位置決めを行うことで、この大地に足跡を残した。

山、墓、磐座、神社、寺院、城等を関連づけるこの三角法の位置決めは、後世まで引き継がれた。

テラ、アブラハム、モーセ、マリア、イエス・キリストの墓がこの日本にあるということを世に知らせるシナリオが、世界を平和に導く神様の計画のようだ。

何世紀にもわたってこの計画を守り伝えた先人たちの御霊も、「私が何をなしたかを世界中の人達に伝えてください」と伝言して消えた女王卑弥呼も、空海様も、この計画の成就を願っていることだろう。

               2017年8月31日

                  卑弥呼の誕生日を祝って

                                     上森三郎

 

 

銅鐸は測量機器

銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している。

上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

「有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。

それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。

巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下げる「下げふり」として使われていたのである。

銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。

 

 


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巴形銅器・有鉤銅釧・銅鐸・銅鏡・・これら全て、測量機器でした!

2017-04-19 13:40:28 | かごめかごめの真実とは

2017年4月20日(木)

巴形銅器も測量器具でしたねぇ。

巴形銅器は三脚を固定し、有鉤銅釧(銅鐸)を吊るす為の道具でした!

そして、基準点に合わすための水平距離の微調整を行いやすくする為の器具でした。

 

銅鐸は測量の道具だった

 

上森が教えられ、解明してきたことの多くは、今の時点では、日本の常識とは異なる異説で、首を傾げる人も多いかもしれない。しかし、銅鐸は測量の道具だった、とする上森の意見は、一級建築士として自分の事務所を構えていた上森ならではの観察眼と知識に基づくものだけに、万人に受け入れられる説得力がある。

 

 銅鐸は、紀元前2世紀から、紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した、謎の青銅器である。

その用途も不明で、研究者の多くは祭祀に使われたのだろうとみてきた。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。

つまり、風鈴の元祖で、その後、巨大化して、鳴らすものではなく、飾り物になった、というのだ。

これまでに発掘された銅鐸の形は、いずれも似たような形をしている。上の図は、代表的な形である。

では、ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか?

 銅鐸は構造上は本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいており、鐸身は末広がりになっているのだ。

 デザイン的には、直線で末広がりになっているものと、流線で下の方ほど広がりが大きいものがある。

そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。

後期のものほどサイズは大きく、鰭に「飾り耳」と呼ばれる突起が付いているものもある。

 鐸身に文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなど、装飾デザインは、様々だ。

 銅鐸の構造で、上森が気に留めたのは、鐸身に穴があけられていることだった。研究者には、「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれている。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分、鈕の穴を挟むようにふたつ、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏に各ふたつ、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形で、表裏各ふたつと、合計10コの穴があいている。

 「型持穴」という名称がつけられたのは、それらの穴が製造過程の副産物だと考えられたからだ。鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間が必要となり、隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を内型に作っておいたものが、穴として残った、と推測されたのだ。

ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造するのは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいかもしれない。

 もしこれらの穴が「型持穴」なら、穴の数や位置が決まっている必要はあっただろうか?そもそも、優れた鋳造技術とデザイン感覚を持った古代の銅鐸の製作者たちが、不要な穴を残したとは、考えにくいのではないか?

この穴に着目した上森は、銅鐸は実は古代の測量機器だったのではないか、と考えるに至った。鐸身の上部に開けられた穴には目的があり、双眼鏡のように、両目で「覗くための穴だ」というのだ。

2013年8月28日に、上森は出雲の歴史博物館に展示されていた銅鐸を使って、それを確認している。

「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・! 暗い中に焦点が1点に綺麗に映し出されたのです」

 

 

 つまり、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められる、というのだ。遠くの観測点には、銅剣を立てておいたのであろう。この説ならば、穴の位置も合理的に説明がつく。

 さて、これまでの定説では、銅鐸の上面の「舞」にある2つの穴も、「型持穴」だが、それらは内側から鐸身をたたく「舌(ぜつ)」という部品を吊り下げるための鎖かひもを通す穴も兼ねていた、とされている。

 

しかし、銅鐸を測量機器として見直すと、異なる説明も可能になる。

現在の測量でも、基準となる地点の地面には、石や金属で目印を設置する。三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして、位置決めをする。

上森によれば、銅鐸はその「レベル」にあたる器具であり、やはり、その中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置する。舞にある穴はそのために使われたのだ。

 

さらに、上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。

   

上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」に架け、次に鐸身横の「飾り耳」、さらに、下部の「刻み」に架けてから交差させる。同じ幅でそのひもを固定する装置を地面近くに作っておけば、交差したひもが触れ合うことで銅鐸はしっかりと固定されて安定し、きちっと観測点の方向を示す。

また、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。

おそらく、「飾り耳」を考えつく前には、鈕の穴と下部の「刻み」だけで、同じことをしていたのではないだろうか。やがて、ひもが固定しやすく、ひもの長さも調整しやすいようにと、現場の声を生かして、デザインが改良されて、「飾り耳」がついたのだろう。飾り耳は「飾り」ではなく、フックだったのだ。

 

上森は、銅鐸と一緒にしばしば出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として利用されていた、と考えている。また、銅鏡は光通信の道具でもあったのかもしれない。

上の写真は、銅鐸と同時代に作られていた青銅製品で、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれている。

釧(くしろ)というのは、腕輪のことだ。

沖縄など南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われている。

誰がどう考えても、腕輪としては形状が異常なだけでなく、危険でさえあるこの有鉤銅釧は、上森によれば

銅鐸を使った測量現場では大活躍の道具になる。

上森はこの有鉤銅釧を「銅鐸吊り金具」だったと見ているのだ。

 前述のように、「舞」にあいている穴は、舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖かひもを通すために使えるが、神戸市渦ヶ森で発掘された銅鐸などのように、舞の裏側の中央に環がつけられているものでは、この穴を使う必要がない。

 そこでこの「吊り金具」の出番となる。

 適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておく。それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにする。そこに銅鐸を持ってきて、鉤の部分を舞にあいた2つの穴に両側から引っ掛けるのだ。

 この組み合わせで、銅鐸の取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりせず、より使いやすくなる。

        

 

上森は言う。銅鐸は「倭国大乱」以前に使われていた測量機器で、最も進化した形で使われたのは、イエス・キリスト=大国主命が大王として国造りをしていた時代であり、キリストの死後、戦乱の中では測量さえもできなくなったので、地中に埋められるなどして廃棄されたのだと。

 

 

 銅鐸とともに「ひも」も出てきましたね。

 

銅鐸にひも初確認

 

2015年8月12日の神戸新聞NEXTに銅鐸のひもの記事がありますねぇ
 
 

 

 

 2000年前に埋められたとして、紐が完全に微生物に分解されずに残っていたことは、舌を鳴らすわずかの長さよりもっと長い紐ということが言えます。

 ますます銅鐸は測量機器だったことを証明する発見ですね。

 

 

「銅鐸は測量機器だった!」と認識することで、新たな古代史の扉が開かれます。

 


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10月9日 馬路村の奥山へと御参りに行きました

2016-10-26 15:41:17 | かごめかごめの真実とは

2016年10月26日(水)

10月9日(日)は室戸岬のホテル明星から馬路村へと車を走らせました。

あいにく小雨がパラツク天気でしたが、天気は回復に向かう気配でした。

空海さまは、長安(現、西安)から帰ってきて真っ先に馬路や生野へと来ていると私は思っています。

馬路は重要な場所だと言うことです。

馬路は、イエス・キリストの生命の樹で言えば、第4のセフラのケセドにあたる場所です。

(ケセドはゲドゥラーとも呼ばれる。数字は4、色は、金属は図形正四面体、宝石はサファイア、惑星は木星を象徴する。王座に座ったで表される。神名はエル。守護天使はザドキエル

今でこそ馬路村は辺鄙な場所ですが、古代には全く逆だったと考えられます。

おそらく太古の遺跡が表土に覆われて隠されていると私は思っています。

    

金林寺で御参りしてから、目指す山へと向かいました。

    

        

 

 

 

                    

二千年前の銅鐸がこの場所にあることが、イエスの生命の樹の意味を教えてくれています。

淡路島からも忽然と銅鐸が出土しましたが、出土した場所は、イエスの生命の樹の第二のセフラの中心部でしたね。

馬路村に着いた時はまだ小雨が降っていましたが、山に入るころには雨は上がっていました。

目指す山に入るにも全く道は無いので、崖みたいな急斜面を上って小山の頂点にたどり着き、そこから尾根伝いに頂上まで登りました。

目指した頂上には、磐座はありませんでしたが、私はその場所に行っただけで、何か胸のつかえが下りて清々しい気分になれました。

見えない御霊の皆さん方が長い年月を経て再会されているようでした。

山から下りて、麓の熊野神社へと呼ばれましたが、そこで手を合わせると、登った山に手を合わせるように神社の向きは配置されていました。

神社の上空には、私達に感謝するかのように、エネルギー体の雲が微笑んでいるようでした。

金林寺で手を合わせると、広島県三次市の弘法山に向かって手を合わせるようになっていました。

 


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卑弥呼生誕の日に、日月神示を解く!

2016-08-30 21:18:28 | 邪馬壹国

2016年8月31日(水)

 今日は、卑弥呼さんが生まれた日です。 1839年前の事でしたぁ。

そうそう、卑弥呼さんの幼少の頃の名前は、「あづき、と呼ばれていました」と言うことでしたね。

AD177年8月31日、現在の兵庫県香美町庵月山でお生まれになりました。

身長162cm 血液B型

248年11月17日。イエス・キリストの命日を選んで入定。5日後の22日に死亡。享年71歳でした。

大事な大事な卑弥呼さんの誕生日の今日、日月神示が解けました。

淡路島には、1.2㎞ほどの勾玉が造形されていましたが、なんとぉ! 玉と勾玉が岐阜の山にも造られていました。

その山に向けて、日月神示がおろされた麻賀多神社は造られているようです。

又イエス王家の聖なるラインの先に、重要な神社が存在していました。この神社は淡路島の勾玉の山に向けて造られているようです。

日月神示が教えていたことは、ダビデの星の中心にチョンを打つこと(見つけること)でしたが、これは生野、神河を頭にするダビデの星の中心に淡路島の勾玉山が存在していることを教えていました。

玉と勾玉(日と月)がセットで造られている山の位置情報は、亀さんが教えてくれます。

麻賀多神社ともう一つの神社は、日月神示の重要にして重大な神社が存在することを教えていました。

もう一つの神社と淡路の勾玉の山を結ぶと、丁度富士山山頂を通ります。

そしてその中間点で垂線をあげたライン上にその「玉と勾玉」の山は存在していました。 

その三点を結ぶと綺麗な二等辺三角形を描きます。

富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる

と、その仕掛けはしてありました。

  最後の最後、卑弥呼さんが教えてくれました。

そうそう、そういえば、卑弥呼さんは、自ずから入定するときの大事な岩戸の中に、玉と勾玉の形をした二つの石を大事に内封していました。

凄いパワーをこの石は発しているようです。波動測定器ではその石の破片でも最高値を振り切ります。

卑弥呼さんの思いが詰まっているようです。

この二つの石は、大事にスタップサロンでお座りになられています。

又、卑弥呼さんのお墓の中には、血塗られてない王家の三種の神器が間違いなくあります。

現在、王家に伝わる血塗られた三種の神器はダビデの星の南の海に沈め、血塗られてない王家の三種の神器を一刻も早く王は手にすることです。

神河町にある779mの女王卑弥呼の陵墓からそれは出土します。

他国へ持って行かれるようなことあらば、それはそれは大変なことが・・、日月神示はそのことを告げています。

  

 

2013年1月23日(水)

国生み神話の淡路島。 その淡路島を囲むカゴメ紋(ダビデの星)の中心ポイントの山の形が気になり、「何の形なんだろう!? 何なんだ!?」と見つめていて、・・ハッと気がつきました。いつも私がキーケースに下げている、石上神宮でいただいた勾玉(まがたま)の形でした。

中心ポイントには、天皇家の三種の神器の一つの勾玉が、山で1,2kmの大きさで造られていました。

さぁ大変です、神様の神様、大の主(ス)の神様、天照主日大神様(男)がいよいよお出ましになられる気配です。 

ところで、淡路島に洲本(スモト)という地名がありますが、このことをキッチリと教えているのでしょう。

いや~~ここも、見事に守られてきました。 川で二重に取り囲み、難攻不落の山城のようでもあります。この場所から神河町にある卑弥呼の墓をキッチリと眺め、拝むことができます。又、福山の大門も見通せます。

でももっと不思議の一致と言いますか、この勾玉が指し示す方角にキッチリと熊山遺跡(岡山県)があり、その延長線上には、1996年に加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が発掘されたことで有名になった島根県安来市加茂町にある貴船神社や賀茂神社がある城山に行き着きます。

賀茂族とヒスイの勾玉と、女王卑弥呼と淡路のシオン山とに、大いに関係がありそうです。

出雲と卑弥呼と伊勢神宮の関係、邪馬壹国の真相を、天照主日大神様がキッチリと教えています。

もう天皇家も含めて、この我が国の本当の歴史を国民に、そして全世界に知らしめなくてはなりません。 我が一国の天皇という認識を改め、我が国の天皇は世界人類のスメラミコト(天皇)であると言わなければなりません。

天照主日大神様も天照大神様もそう言っておられます。

そして・・「整えよ!」 との御神託です。

そうそう、昨年の5月のことですが、「胎児が生れようとしているけど、死にかかっている」と神様が私に言われるので、飛んで行って、「おお・・これが代代受け継がれてきた王権の印、勾玉かぁ」と見つめ、白っぽくカサカサに見えた八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)に、丁寧に丁寧にピンクのテラファイトでパワーを与えると、白っぱかった勾玉がみるみる深みのある濃いグリーンに生き返りました。いつも鈍感な私ですが、この時だけは、テラファイトをかざした後に、そ~~っと両手を勾玉に近づけると、ビリビリジリジリと手のひらに伝わってきました。 それはそれは見事な大きな勾玉でした

「この三種の神器と全く同じものが卑弥呼の墓の中にもう一組みありますわよ」と、昨年6月に生れ出た卑弥呼おばさんの御霊が私に言うのですが、そんな気がしてきましたぁ

ああ・・、この情報を世間が黙って無視し続けて行くと、男神、女神、両方の天照大神様が、ちゃぶ台をひっくり返すような気もするこの頃ですが・・、そうなるともう手が付けられなくなるんですがぁ・・・

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Img1231725190001元ひとつ 安藤妍雪著

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残念ながら・・

2016-02-21 14:51:43 | かごめかごめの真実とは

2016年2月21日(日)

地上絵の発見から、生命の樹(カバラ)の発見。

そしてそれらから、邪馬壹国(邪馬台国)の女王卑弥呼の陵墓やイエス・キリストの墓やモーセの陵墓などの発見からその位置情報を記載し、

卑弥呼が暮らした都への航海航路や陸路1ヶ月のルートを記した「魏志倭人伝」についてや、

銅鐸は測量の道具だったを、補遺1 補遺2としてまとめた 秘密NIPPONの《超建国》裏返史 の著書を私は、一般社団法人日本考古学協会へ昨年12月に送付しました。

その内容を考古学協会の方々へ知ってもらうことが先ずの目的であり、その発表の場が得られるのであればとの思いで、学会への入会申し込みを申請していましたが、

 

一般社団法人日本考古学協会

入会資格審査委員会

委員長 山和巳

 

入会資格審査の結果について(通知)

 

 当委員会において審査いたしましたが、残念ながら・・・という結果通知が届きました。

学会の方に報告して読んでもらった事実を私の思い出としてここに記録しておきましょう。

いつの日かこのことがきっと大事なステージで、集まられた来賓の方々の面前で、面白いエピソードとして語っている私の姿が観えてきます。

考古学とは一般的には有史以前には踏み込まない、いえいえ踏み込んだら組織に留まれない空気があるような気がします。

有史以前の日本に輝ける素晴らしい文明文化と和の心があったように私は今、思っています。

少なくとも、記紀には我が国の創建に命をささげた、モーセやイエス・キリストや卑弥呼のことは一切語られていません。

この方々と、この方々のDNAを色濃く受け継いだ人達が、本来、王家の御霊である倉稲魂であり、部族で言えば、蘇我氏、物部氏です。

その彼らは、この日本列島と言う大地に重要な証拠となる陵墓やその位置情報を教えるベンチマークとなる山や磐座を残しました。

もうその方々の陵墓の位置情報も詳しく著書として世に出た訳ですから、必ずそれらが立証される日はそう遠くはないことでしょう。

そういえば以前、考古学の学芸員の方に卑弥呼の墓が779mの場所にあると説明したとき、「779mの山頂に墓があると言うだけであなたの話はそれだけで聞いてもらえません。カラスは黒いに決まってるでしょう。あなたの話は白いカラスが居てますというのと同じで、白いカラスでも現れたら考えますけどね・・」と一笑されて「そうですかぁ・・」と帰ってきたことがありましたが、それから一ヶ月ほどして、なんと島根県の大田市で白いカラスが見つかったというニュースがあったりもしたものでした

日本の考古学が、一気に少なくとも紀元前後までは詳しくたどらなければならないところに来ているようです。

小さな嘘はすぐにバレルが、大きな嘘は時間がかかって必ずバレル! と、神様は言って居られますよ。

 


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