極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ヤマユリと楽市概論

2009年07月05日 | 近江歴史回廊



ヤマユリの甘く濃厚ときとして きみのようだと俯きていう


 

大阪から滋賀に移り住みなんと鄙びたところかと思っては
みたが、何のことはないこんなに素晴らしい自然と歴史に
包まれた『美まし国、美まし湖』(故友岡和雄の言葉、存
命であれば今年で70歳?)なのだとあらためてその豊饒
さに驚嘆する。

沙沙貴神社 

 沙沙貴神社
 
 安土周辺の地理を述べたい。近江は〈回廊の国〉とい
 われ、都から東国に向かう東海道・東山道・北陸道の
 いずれもが近江国を道る。一方、一本の水路が、瀬戸
 内・大坂湾から淀川を潮上し琵琶湖・近江国に連した。
 東山道が近江から美濃に入る関ケ原ではよく雪が降り、
 冬の寒風は伊吹おろしとなり濃尾平野に吹きつけた。



 近江の北半分は北陸道に連なる〈裏日本型気候〉の豪
 雪地帯で、南半分は〈瀬戸内気候〉である。観音寺山
 塊がこの二つの気候帯を分け、この山塊は安上山に連
 なる。つまり安土は、山と湖の接点で、大きくは二つ
 の気候帯の接点にあった。現在では埋め立てが進み、
 昔の面影はないが、安土には「中の湖・伊庭湖・豊浦
 湖・常楽寺湖・浅小井湖・白王湖」と呼ばれる琵琶湖
 最大の内周群があった。内湖の中に抱えられた安土は、
 水陸交通の要衝となる可能性を最初から秘めていた。
 この内周群は魚の産卵場所で、周囲には多くの縄文遺
 跡があった。




 安土城下町の形成された常楽寺・下豊浦・上豊浦の地
 域は、蒲生郡ではただ1ヵ所〈条理地割りのない世界
 〉で、水利の使が悪く、水田ではなく条里制の適応さ
 れない〈畑地〉とした。江戸時代にはここに藍や綿、
 明治時代以降はネギや人参、桑が植えられた。ここに
 常楽寺古墳群や全長162メートルの瓢箪山古墳があ
 る。これらの古墳の多くは朝鮮半島系やその類似様式
 のもので、弥生文化とは別系統の、非水田稲作系文化
 の繁栄を物語っている。この地には「大彦命」の一族
 で蒲生郡や神埼郡の大領となった古代豪族「狭狭城山
 君」に由来する「沙沙貴神社」が立つ。




 「狭狭城山君」が若狭の国造「膳臣」と同族なので、
 古墳の主は海人族の安曇族だとした。対岸の西近江に
 安曇族の活動拠点「安曇川」があり、彼らがこちらの
 岸にも上陸したのは自然である。「狭狭城山君」の名
 前から「山部」「山守部」との関連が考えられる。そ
 れゆえ、この地は「海の民・山の民」の活躍する世界
 だった。小島道裕の作った安土城下町の復元図「安土
 城下跡要脱」には「景清遊」の南、沙沙貴神社の境内
 に接して「鉄砲町」「鍋屋町」があり、少し離れて「
 青屋」がある。


ファイル:Oda-Nobunaga statue Azuchi.jpg

 いつまで遡るかわからないが、神社周辺にはこのよう
 な職人たちがある。いつまという自然環境を背景に、
 常楽寺の村は〈非農業的要素の強い村〉として中世以
 降も存続した。それゆえ、沙沙貴神社の神官出身の国
 人領主、木村次郎左衛門尉は、古代の安曇族や「海の
 民・山の民」の系譜を引くと思われる(中略)この神
 社は、佐々木荘の近江源氏である佐々木氏が近江守護
 となった折、氏神化したという。沙沙貴神社の西北の
 「慈恵寺」もまた佐々木氏の〈菩提寺〉。沙沙貴神社
 の社殿は、守護佐々木氏の氏神化以来、南面化したと
 考えられよう。近江の守護佐々木氏は、東山道を挟ん
 で神社の東南方向の小脇や観音寺城を根拠地とした。
 

ファイル:Spacam05s2400.jpg

 佐々木氏がこの神社を氏神化した時、社殿は南面化し、
 常楽寺港との関係は切れたと考えられよう(中略)永
 正11(1514)年と天文23(1554)年の年
 号のある沙沙貴神社の二つの棟札に「造立奉行」三人、
 「修理奉行」二人の後に、「惣官・大神主・大工・同
 棟梁」が並び、この「惣官」に「木村左近太夫古銅」
 「木村左近太夫高重」とあることを明らかにした。つ
 まり木村次郎左衛門尉は代々沙沙貴神社の「惣官」だ
 った。「天皇」に対する「院」のように、「惣斜」は
 神官の「大神主」に対して神社全体の支配を司ってい
 た。沙沙貴神社が職能民を抱えていたとすれば、「惣
 官」が彼らを統轄していたと考えられよう。 




 信長上洛後の湖東平野

 永禄11年(1568)、信長は上洛に際し、浅井の
 勢力圏を愛知川まで、東山道を南下した。一方、六角
 承禎・義治親子は、愛知川以西の観音寺城・箕作城・
 和田山城など18城に阻止線を築き、信長の行く手を
 遮った。信長が9月12日に箕作城を襲撃し、落城さ
 せると、六角氏は観音寺城を棄てて伊賀に逃亡した。
 翌日信長は観音寺城に本陣を移し、降参者からは人質
 を取り、逃散百姓には還往をすすめ、神社仏閣や万民
 を安堵し、事実上の領主支配を始めた。22日には



 かつて足利義晴が「景清遊」に近い桑実寺を御所とし
 た故事を踏まえ、義昭を安土の桑実寺に招いた。この
 地は安全な味方の地だった。この後、信長は上洛の途
 中たびたび常楽寺に立ち寄り、相撲見物などを繰り返
 した。信長は上洛前に、琵琶湖の水運管理権を握る湘
 南の蘆浦観音寺に接触を試みたが、同様なことを常楽
 寺の木村氏にも行なったと思われる。




 信長は、観音寺城をはじめ、六角氏の直轄地を没収し、
 近江の国を事実上制覇しても、支配の正統性までは入
 手できなかったのである。10月畿内を平定し、義昭
 が将軍になった後、近江で信長が入手したものは大津・
 草津の代官職のみである。このことは、当時の物流の
 中心地が琵琶湖と京都を結ぶ坂本だったので、経済的
 には意味が小さかったが、軍事的には、京都から東山
 道・東海道・北陸道への出入口を確保した点に意味が
 あった。


 「平土」/信長の野望

 一揆一斉蜂起後の近江 元亀元年(1570)四月の
 越前遠征失敗の後、近江全体は鼎が沸く戦乱の時代と
 なり、一揆や反乱が起こった。信長はそれを鎮圧し、
 やっとのことで千草峠を越えて尾張に帰るが、直前の
 五月には宿将を近江各地に配置した。越前遠征前の三
 月に森可成を坂本の南「宇佐山城」(志賀郡、現大津
 市)に置いたのが初めで、佐久間信盛を東山道と景清
 道との分岐点近くの「永原城」(野洲郡、現野洲市)
 に、蒲生郡では柴田勝家を「東山道」と「浄厳院道・
 八風街道」の交差する武佐「長光寺城」に、中川重政
 を琵琶湖水運をにらむ「安土城」に置いた。「東山道
 」を通らず領国と京都を結ぶ道を確保することが信長
 の至上命令だった。そのため、「ハ風街道」と琵琶湖



 への出日常楽寺港の確保が必要だった。この当時、六
 角氏は伊賀・甲賀を根拠に「東海道」から北上を狙っ
 ており、一方、愛知川以北は浅井氏の勢力圈だった。
 観音寺城のある湖東地域は、永禄十一年の上洛の際、
 六角氏と戦った場所で、六角氏からの没収地もあり、
 各地の国人領主から人質を取っていたので、近江では
 大津・草津を除けば、信長の強固な支配地域だった。
 それゆえ湖東地域の三城への諸将配置は、京都へのア
 クセス、港町常楽寺を通じての琵琶湖の水運、伊勢か
 ら琵琶湖に通じる「浄厳院道・ハ風街道」や、両街道
 以西の「東山道」「景清道」の確保が目的だった。



 永原の永原氏は永禄十一年の信長上洛前から信長と連
 絡のある国人領主で、この時佐久間氏の寄子になった。
 日野の領主蒲生氏は柴田氏の寄子に、常楽寺の領主木
 村氏は中川重政の寄子になったと思われる。同年六月
 に織田軍が野洲川表で六角軍を破り、対浅井戦も有利
 に展開すると、信長は東山道を確保し、木下秀吉を「
 横山城」(坂田郡、現長浜市)に、元亀二年二月には
 丹羽長秀を「佐和山城」(犬上郡、現彦根市)に配置
 し、琵琶湖両岸一帯への宿将配置を完成した。木下・
 丹羽両氏の領地は浅井の領国を切り取って形成された
 ので、これ以降反乱地域を鎮圧・征服すれば、そこは
 各武将の領地になる〈切り取り自由〉体制となった。


       第10章 安土市令-大坂並体制の克服
      安野眞幸著『楽市論-初期信長の流通政策』




『楽市』を考えることで、「琵琶湖/滋賀」の前者として
の世界遺産としての内実の深耕と後者の「政治/社会」の
現在的な内実、分かり安く言えば、広域観光産業の内実の
深耕(MB『富貴桜と狼煙台』の対平安京としてのテーマ・
パーク「戦国絵巻」)にあり、挫けかけたがなんとかたど
り着けた。信長の「楽市楽座」とは、武家集団による専制
体制下での(1)関所の撤廃、座の廃止(フェーデに対抗
するフリーデ)による経済の発展と(2)政教分離による
中世からの脱却、(3)門閥、本籍に拘らない人材登用等
にあり、手段/「天下布武」から目的/「平安楽土」にい
たる道筋を確認した。現在の日本政治課題の地方分権推進
は、肥大化した官僚主義のからの脱却であること。そして、
わが国における『楽市楽座』の内実の模索の契機が、近著
『楽市論-初期信長の流通政策』の偶然的な出逢いであっ
たことに改めて感謝したい。




ヤマユリ(山百合、学名:Lilium auratum)とはユリ科ユリ
属の球根植物。日本特産のユリ。草丈は1~1.5m。花期は
7~8月頃。花は、花弁が外に弧を描きながら広がって、1
~10個程度を咲かせる。その重みで全体が傾くほど。花の
色は白色で花弁の内側中心には黄色の筋、紅色の斑点があ
る。花の香りは日本自生の花の中では甘く濃厚でとても強
い。発芽から開花までには少なくとも5年以上かかり、風
貌が豪華で華麗であることから、『ユリの王様』と呼ばれ
る。多糖類の一種であるグルコマンナン(コンニャクにも
多く含まれる)を多量に含み、縄文時代には食用にされた。



朝、ユリの薫りを巡り意見がわかれた。濃厚すぎるのも嫌
われるということでふたりとも一致する。1873年、ウィー
ン万博で日本の他のユリと共に紹介され、ヨーロッパで注
目を浴びる。神奈川県の県の花に指定されている大輪の花
「ヤマユリ」。花言葉は「純潔」「荘厳」。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松葉菊と楽市概論 | トップ | 鋸草と石田三成 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

近江歴史回廊」カテゴリの最新記事