極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

着実な半歩を踏み出す

2013年06月19日 | 現代歌謡

 

 

 

 

 

  その夜につくるは長い奇妙な夢を見た。彼はピアノの前に座って、ソナタを弾いている。巨
 大な新品のグランド・ピアノで、白鍵はどこまでも白く、黒鍵はどこまでも黒い。譜面台には
 大判の楽譜のページが広げられている。艶のないタイトな黒いドレスを着た女が彼の隣に立ち、
 真っ白な長い指で、楽譜のページを彼のために素早くめくってくれた。そのタイミングはきわ
 めて的確だった。彼女の髪は漆黒で、腰までの長さがあった。その場所では、あらゆるものが
 白と黒のグラデーションで構成されているようだった。それ以外の色彩は目につかない。

  誰が作曲したピアノ・ソナタなのか、それはわからない。いずれにせよ長大な曲だ。楽譜は
 電話帳のように分厚い。譜面は音符で埋め尽くされ、文字通り黒々としていた。複雑な構造を
 持ち、高度な演奏テクニックを要求する難曲だ。しかも彼にとってはまったく初見の曲だ。そ
 れでもつくるは譜面を一見するだけで、そこに表現されている世界のあり方を瞬時に理解し、
 それを音に変えることができた。入り組んだ設計図を立体的に読み取るのと同じだ。彼はそう
 いう特別な能力を与えられている。そして彼の訓練された十本の指は、鍵盤の隅から隅までを
 疾風のように駆け巡った。まさに目のくらむような素晴らしい体験だった。自分かそのもつれ
 あった莫大な量の暗号の海を、誰より素早く正確に解読し、そこに正しいかたちを同時的に与
 えていけるということが。

  その音楽を無心に演奏しながら、彼の身体は夏の午後の雷光のような霊感に、鋭く刺し貫か
 れた。大柄なヴィルテュオーゾ的構造を持ちながらも、見事に美しく内省的な音楽だった。そ
 れは人が生きるという行為の有り様をどこまでも率直に、繊細に立体的に表現していた。それ
 は音楽を通してしか表現することのできない種類の、世界の重要な様相だった。彼はそのよう
 な音楽を自らの手で演奏できることに誇りを感じた。激しい喜びが彼の背筋を震わせた。
  しかし残念ながら、彼の前にいる聴衆はそのようには考えていないらしかった。彼らはもじ
 もじと身体を動かし、退屈し苛立っているように見えた。彼らの動かす椅子の音や、咳払いの
 音が彼の耳に届いた。なんということだろう、人々はこの音楽の価値をまったく理解していな
 いのだ

  彼は宮廷の大広間のような場所で演奏していた。床は滑らかな大理石でできていて、天井は
 高かった。中央に美しい明かり取りの窓がついている。人々は優雅な椅子に座ってその音楽を
 聴いていた。人数は五十人ほどだろう。身なりの良い上品な人々だ。おそらく教養もあるのだ
 ろう。しかし彼らは残念ながら、この音楽の優れた本質を読み取る能力を持ち合わせていない。
 時間が経過するにつれ、人々の作り出す騒音はますます大きく、ますます耳障りなものにな
 っていった。やがてそれは歯止めがきかなくなり、音楽の響きそのものを圧倒するほどになっ
 た。そしてとうとう彼自身の耳にさえ、自分の演奏している音楽がほとんど聞き取れないよう
 になった。彼が耳にするのは、グロテスクなまでに増幅され誇張された騒音と咳払いと不満の
 呻きだけだ。それでも彼の目は楽譜を砥めるように読み取り、彼の指は鍵盤の上を憑かれたよ
 
うに激しく駆け巡り続けていた。

  そしてある瞬間彼ははっと気づいた。楽譜をめくる黒衣の女性の手に指が六本あることを。
 その六本目の指は小指とほとんど同じ大きさをしていた。技は息を呑み、胸は激しく震えた。
 技は自分の傍に立つ女の顔を見上げたかった。それはどんな女なのだろう? 技が知っている
 女なのだろうか? しかしその楽章が終わるまでは、一瞬たりとも楽譜から目を離すことはで
 きない。たとえその音楽を聴いている人間がもはや一人も存在しないとしてもだ。
 
  そこでつくるは目を覚ました。枕元の電気時計の緑色の文字は二時三十五分を指していた。
 全身に汗をかいており、心臓はまだ乾いた時を刻んでいた。ベッドから出て、パジャマを脱ぎ、
 タオルで身体を拭き、新しいTシャツとボクサーショーツに着替え、居間のソファに座った。
 そして暗闇の中で沙羅のことを思った。先刻の電話で自分が彼女に向かって口にしたすべての
 言葉を、彼は悔やんだ。あんなことは持ち出すべきではなかったのだ。
  彼はすぐに沙羅に電話をかけて、自分か言ったことを残らず撤回したかった。しかし夜中の
 三時前に誰かに電話をすることはできないし、既に口にされた言葉を相手にそっくり忘れても
 らうことなんて、なおさら不可能だ。おれはこのまま彼女を失ってしまうかもしれない、とつ
 くるは思った。

  それから彼はエリのことを思った。エリ・クロノ・ハアタイネン。二人の小さな娘の母親。
 白樺の木立の向こうに広がる青い湖のことを彼は思い、突堤にぶつかる小さなボートのかたか
 たという音のことを思った。美しい模様のついた陶器、小鳥たちのさえずり、犬の吠える声。
 そしてアルフレート・ブレンデルが端正に演奏する『巡礼の年』。彼の身体にそっと押しつけ
 られたエリの豊かな乳房の感触。温かい吐息と、涙で湿った頬。失われてしまったいくつもの
 可能性と、もう戻ってくることのない時間。

  あるとき二人はテーブルを間にはさんで、しばらく何も言わず、あえて言葉を探し求めるこ
 ともなく、窓の外の小鳥のさえずりにただ耳を澄ませていた。それは独特の不思議なメロディ
 ーを持つ啼き声だった。その同じメロディーが林の中で何度も繰り返された。
 「親鳥が子供たちにああやって啼き方を教えているんだよ」とエリは言った。そして微笑んだ。
 「ここに来るまで私は知らなかった。鳥たちがいちいち啼き方を教わらなくちゃならないなん
 て」
  人生は複雑な楽譜のようだ、とつくるは思う。十六分音符と三十二分音符と、たくさんの奇
 妙な記号と、意味不明な書き込みとで満ちている。それを正しく読み取ることは至難の業だし、
 たとえ正しく読み取れたとしても、またそれを正しい音に置き換えられたとしても、そこに込
 められた意味が人々に正しく理解され、評価されるとは限らない。それが人を幸福にするとは
 限らない。人の営みはなぜそこまで入り組んだものでなくてはならないのだろう?
 「沙羅さんをしっかりと手に入れなさい。君には彼女が必要なんだよ。どんなことがあっても
 手放しちゃいけない。私はそう思う」とエリは言った。「君に欠けているものは何もない。
 信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ」

  そして悪いこびとたちにつかまらないように
  彼は沙羅のことを思い、彼女が誰かの裸の腕に抱かれているかもしれないことを思った。い
 や、誰かじゃない。彼はその人物の姿を実際に目にしたのだ。そこで沙羅はとても幸福そうな
 顔をしていた。きれいな歯並びが笑顔の中からこぼれていた。彼は暗闇の中で目を閉じ、指先
 で両方のこめかみを押さえた。こんな気持ちを抱えたまま生きていくわけにはいかない、と彼
 は思った。たとえそれがあと三日のことであったとしても。

 

                                       PP.340-344                         
                村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 

 

 

今朝は、理髪店へ行くこともあり、太陽光発電と量子ドットに関するの棚卸し作業 の低負荷で終え
ることに。
その余力をB'zとコブクロの最新の歌を試聴に当てる。二組ともそれぞれの活動を着実
にこなしていることを確認し時間を過ごしていたが、例の霧のいけうち(『壺の中の霧』)の「アキ
ミスト」(加湿器)を使いクリーンルームで加湿効率が100%冷房効果が上がったとの記事が飛び込
む。



 

それによると、ミヨシ電子は2008年頃から噴霧式の加湿器をテスト的に導入。当初、クリーンルーム
内で霧を吹かすことへの抵抗感はあったが、噴霧による製品への異常はなく、加湿量も十分であったこ
とから組立工場全体への導入に踏み切った。採用した加湿器はノズルメーカーである「霧のいけうち」
のドライフォグ加湿器「アキミスト」。超微粒子の霧で、噴霧に手をかざしても濡れないのが特長。従
来型の蒸気式加湿器23台に対し、新しい噴霧式加湿器を60台設置。「台数を増やしたのは、加湿エリア
を重視し、効率を上げることが目的。メンテナンス性、万が一水が漏れた場合の安全性を考慮し、全
ての加湿器は通路上や生産設備のない位置へ配置し、レイアウトした結果、電気ヒーターを使用しな
いことによる加湿動力の大幅な削減と、水の蒸発熱による冷却効果での空調負荷低減を実現。半導体
工場のクリーンルームにおける噴霧式加湿器の採用は全国的にも事例がなく、他社にさきがけた先進
的な取り組みとして、高い評価を得たが、クリーンルームの温度湿度が安定すれば不良品の発生率も
減り、省エネ活動は、品質と価格双方において、製品自体の総合的な品質向上に繋がっているという
ことだ。などほど、ここにも着実な半歩が存在していたということかと感心する。

 

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