【しつこい感じ】

【しつこい感じ】

辞書によると「しつこい」を漢字で書くと「執拗い」だというのだけれど、「拗い」の読みは「すねい」で、すねていたり、ひねくれていることをいう。「しつこい」を「執拗い」と書くのはどうも腑に落ちない。

漱石は明治三十四年三月十二日の日記に「西洋人ハ執濃イ事ガスキダ」と書いており、この「執濃イ」を「しつこい」と読んでいいならしっくりきて、しつっこい感じがよく出ている。

執拗(しつこ)いとは執拗に執着して作用しがちな性向(特徴的な性格)のことをいう。そういう人はたいがい頭がいい。「頭がいい」ことの本質を理解する人は「あの人は頭が良すぎる」とも言う。

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【八月の地図】

【八月の地図】

この七月はまるで台風のように迷走して暮らしたなぁ……と八月の声を聞いてあらためて思う。

病気になった郷里清水の友人がいよいよいけなくなり、永遠の別れがあり、そして月末には亡き母の三回忌がやって来た。


伊達家が掘削した神田川。万世橋と和泉橋の中間地点、JRの鉄橋脇にある歩道橋より
DATA:RICOH Caplio GX

2004 年、亡き母の介護の参考になるかもしれないと友人に勧められて購入した「パッチ・アダムス」という映画の DVD が、忙しさに取り紛れて一度も見ないまま引き出しにあり、その 1 年後に母は他界してしまい、その後も何となく見る時間をとる踏ん切りが付かずにいたのだった。

日々の雑記を書きつづるために持ち歩いている Zaurus に入れておいたら見る気になるのではないかと思い、HandBrake と iSquint という Macintosh 用のフリーウェアで iPod 用に変換したら 278MB ほどのサイズになった。七月の晦(つごもり)、未明に目が覚めたので寝転がったままヘッドホンをかけて鑑賞した。


ショーウィンドーいっぱいに拡大された江戸古地図。先ほど渡った神田川も読み取れる。北区田端五丁目、芥川龍之介旧宅近くにて
DATA:RICOH Caplio GX

夜が明け、六義園ではいよいよミンミンゼミが鳴き始め、日付は八月に変わる。

七月の疲れがぼんやりとして残っている気がするので、今年の清水みなと祭り帰省はお休みにしようかと思い、お盆を跨ぐ仕事のスケジュールをパソコンに打ち込みつつ、新しい 八月の地図を開く。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 7 月 31 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夏のさみしさ】

【夏のさみしさ】

ひとりぼっちでいる夏はさみしい。
親の介護が始まると夫婦ふたりで行動する機会は奪われる。夫婦別行動でふたりそれぞれの親たちの看取りが一人またひとりと終わり、妻より一足先にひとりぼっちになったので、無人になった実家の片付けを数年間かけて終わらせた。それでも妻は自分の親の看取りで忙しく、ひとりぼっちの日中はよくひとり都内を散歩した。

もうずいぶん昔だけれど、東京下町夏の昼下がり、商店街でみつけた鰻屋に入ったら吸い物の代わりに鯉コクがついてきたので、蝉の声が一段大きくなったようにびっくりした。あれはユニークな店だったなと今でもときどき思い出し、なんという町のなんという店だったのだろうと気になっていた。

先日届いた荒川・文京・千代田に範囲を絞った小冊子8月号を見ていたらその店が載っており、荒川区のおぐぎんざにある『うなぎ坂田』だった。懐かしくて嬉しくなったけれど、あのころのひとりぼっち散歩自体はいま思い出しても寂しい。

吉本隆明の夏目漱石に関する著書を二冊読み終えたがとてもよかった。
漱石に関する評論はすでに江藤淳さんに優れたものがあるので…と吉本さんが書いていた。癌で奥さんを亡くされてから自らを抜け殻のようだと言って自死されたことだけ知っていた江藤さんの『夏目漱石』講談社文庫を電子書籍で買ってみた。

ページをめくったら冒頭に「山川方夫に捧ぐ」とあってびっくりした。蝉の声が一段大きくなったようで重層的にさみしい。

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【夏の二股】

【夏の二股】

二股(ふたまた)を辞書で引くと「もとが一つで末の二つに分れたもの」と広辞苑にある。

二股というのはぼんやり眺めているだけでもおもしろくて見飽きることがない。topology(トポロジー)とか位相などというむずかしい言葉を知らなくても、人生のさまざまな場面に嫌というほど登場する二股はすべての人にとってきわめて現実的な学問対象になっている。


OLYMPUS E-410 LEICA D VARIO-ELMARIT 14-50mm F2.8-3.5 ASPH

東京都荒川区西日暮里五丁目。左右に別れた道も、左右に別れた道によって挟まれた空間(家)も、どちらも都市の股である。

二股膏薬(ふたまたごうやく)という言葉があって内股膏薬(うちまたごうやく)とも股倉膏薬(またぐらこうやく)とも言い、「内股に貼った膏薬のように、あちらについたりこちらについたりして、定見・節操のない者」と広辞苑第五版にある。

具体的にどういう膏薬の貼り方なんだろうかと想像するとき、股を「脚の、膝よりも上の部分」(広辞苑第五版)と考えると具体的な股間への貼り方が分かりづらい。股間に限らず一つの領域が二つの領域に別れる分岐点に貼るということなんじゃないだろうか。

ぎっくり腰とまではいかないけれどちょっと腰が怪しいので、親たちが病院でもらって余っている膏薬を貼ってもらうことになり、腰の右と左とどちらに貼ればいいかと聞かれ、
「うーん、わかんないから真ん中に貼っといて」
などと言うのを二股膏薬(ふたまたごうやく)と言うのだろう。

辞書が言わんとするところをさぐれば、股は「脚の、膝よりも上の部分」であり、「脚の、膝よりも上の部分によって挟まれた空間」に広がりを持ち、「一つの領域が二つの領域に別れる分岐点のうちそと」を広汎にさす言葉でもあるのだろう。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 7 月 30 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【赤のある風景】

【赤のある風景】

清水区銀座の写真館に用事があってお邪魔する朝、携帯に
「 11 時 10 分に着くようにしてください」
と電話があったので、頭の中で道順と歩く速度を計算し、ちょうど良い頃合いを見計らって入江南の実家を出る。
 
 
しずてつストア駐車場まで来て時計を見たらちょっと遅すぎたかな、と思いつつ巴川製紙の社名ロゴタイプが新しくなっているのに気づいて写真を撮る。サンセリフのゴシック体の「g」だけがブラシスクリプトで色が赤い。そんなことをしているのでますます遅くなる。
 
 
何としても 11 時 10 分ちょうどに着きたいので、『金田食堂』前を通り大正橋を渡ったところで東海道線線路沿いに折れて近道し、赤い幟のとんかつ屋『よし久』前を通り、生ビールとワインの店『 OUCHI 』前を通り、清水銀座商店街を突っ切り、『甘寅』前を過ぎ、友人が見せてくれた 1959 年の住宅地図に既に載っていて驚き一度寄ってみたいと思っている『小せん』前で写真を撮っていたら赤いシャツの少年が前を横切り、時計を見たら 10 時 58 分。意外にも 10 分ほど早く着きすぎており、心の中に緊急停止信号が点る。
 
故郷を離れて長いとやはり土地勘にそれくらいの誤差が出る。
 
 
仕方がないので同じ 1959 年の住宅地図でローラースケート場になっており、その後スーパーマーケット『主婦の店』だった『稲森パーキング』現在の姿を確かめ、『小林銅鐵店』前あたりまで行ってガレージにあった真っ赤なバイクの写真を撮り、引き返して 11 時 10 分ちょうどに写真館のガラスドアを押して店内に入る。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 7 月 29 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【総排泄腔】

【総排泄腔】

スズメに関する本を買って、拾い読みしただけで最初から最後まで通読していないことに気づいたので、一気に読み通してみたらあらためておもしろかった。

行間を読むことの大切さがしばしば説かれるけれど、行間に何か大切なものが落ちているというわけではなくて、通して流れを読むことの「流れ」こそが大切なのだろう。行間に流れがある。流れさえおもしろく読めてしまえば細部は見落としてしまっても構わない。いちど流れを読めた本は再読が苦にならない。

スズメは一日一個ずつ 4 〜 6 日かけて卵を産み、全部産み終えたところであたためはじめるのだけれど、その最後の一個だけ色が違うのだという。不思議だ。

卵を産む前にはまず雄スズメが雌スズメの背中に乗って交尾をする。あれは総排泄腔(そうはいせつこう)という消化管(腸管)末端の糞管(肛門管)、泌尿器からの輸尿管、生殖器からの生殖輸管(卵管・精管)、それらのすべてが総排出腔としてあつまって開口したものを、ぴったり合わせているのだ。宇宙船のドッキングである。雀の眼からみた宇宙誌のように読んだ。

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【乙鳥】

【乙鳥】

「鴻雁の北に去りて乙鳥の南に来るさえ、鳥の身になっては相当の弁解があるはず」(漱石『野分』)とあった。

鴻雁(こうがん)は鴻と雁なので鳥の種類は字から推しはかれるけれど、乙鳥ってなんだろう、乙な鳥だから人が食べて食味のよい鳥のことだろうかと調べたら、「おつどり」などとは読まなくて「いっちょう」と読みツバメのことだという。

仕事をしながら夏空を見ていると、ときおり鳥が一羽また一羽と、思い思いの方角に急ぎの用事を思い出したような羽ばたきかたですっ飛んでいくのが見え、鳥の身になっては相当の弁解があるのだろなあと漱石を読みながら思いつつ辞書に寄り道した。

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【眼下の芝生】

【眼下の芝生】

車窓を一瞬過ぎて消え去る景色が眼に焼き付いて忘れられないことがある。

そういう場所を何度も通ることがあるとその瞬間を心待ちするようになり、一度でいいからあの場所に行ってみたいと思い、カメラを手にその一瞬を待ちかまえ、せめて写真くらい撮っておきたいと思ったりする。

そして写真撮影に成功すると一瞬の出会いを静止させて眺められるようになり、地形の詳細を手がかりに地図上でその場所を探してみたりする。

東名高速道路下り、清水ライナー折戸車庫行きから眺めていたこの場所は、おそらく神奈川県足柄上郡山北町谷ヶ(やが)ではないかと思う。川は酒匂川、鉄道線路はJR御殿場線、並行して走る道路は国道 246 号線だと思われ、だとすれば何のことはない、あの場所はかつて何度か通過したことがある場所なのだった。

東京の大学に入学が決まり、北区西ヶ原にアパートを借り、若干の荷物を清水から持って行ってひとり暮らしを始めることになった春、母が営んでいた飲み屋の常連だったトラック運転手が東京に荷を積みに行くついでにその運搬を引き受けてくれることになった。大型トラックの片隅にちょこんと荷物を載せ助手席に母とふたり並んで腰掛け、国道 246 号線を東京に向かう際、あの場所を手前から向こうに向かって通過したのだった。

それから三十数年が経過し、母は重い病気になり、御殿場線長泉なめり駅が最寄り駅となる県立静岡がんセンターで薬をもらって清水に向かうため、新宿発の電車に乗ってこの場所を向こうからこちらに向かって通過したこともあった。

「一度でいいからあの場所に行ってみたい」どころか何度か通過したことがあるあの場所、「あの場所」が美しく見えるのはいま「この場所」から見ているからであり、正確に言えば「あの場所をこの場所から見ると綺麗だなぁ」と思っているだけなのだ。

となりの芝が青く見えるように、眼下の水田も通りすがりの旅人には芝生のように青いのかもしれなくて、おそらく御殿場線谷峨(やが)駅で下車してあの場所に立ってみることはないと思う。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 7 月 28 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【民家の品格】

【民家の品格】

 

司馬遼太郎が新聞社文化部の記者だった頃、当時気象庁課長をしていた人物に連載小説の依頼をするため上京し、ものの見事に断られたという話なのだけれど、司馬遼太郎がその後も一愛読者であり続けたその人とは新田次郎のことだった。

新田次郎と妻藤原ていの間に赤ちゃんが生まれ、自分の生まれたばかりの息子が力強く乳を吸うのを見て赤ちゃんは舌で乳房の乳頭を巻いて真空(バキュウム)を作っているのではないかと仮説を立てる話を、司馬遼太郎は印象深く読んだことを記憶していたという。

70 歳を過ぎた頃のこと、司馬遼太郎はある優れた著者による新刊書を感心して読みながら、突然この著者こそあの新田次郎の赤ちゃんではないかと気づき、調べてみたらその通りである奇遇に驚いたという。その人とは数学者藤原正彦のことだった。

この話を書いた数ヶ月後に吐血して倒れそのまま亡くなられているので、司馬遼太郎は新田次郎の息子の藤原正彦が 10 年後に『国家の品格』という大ベストセラーで名をはせることを当然のことながら知らない。

東京都北区中里を散歩していたら中里親睦会館という小さな二階屋があった。
司馬遼太郎風に書けば、こういう建物を見ると風景のいい民家としてこのもしくおもう。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 7 月 27 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ゟ(より)とヿ(こと)】

【ゟ(より)とヿ(こと)】

清水市史を読み通したら古い資料内に「ゟ」という文字がよく出てきて、しらべたら「より」と読む。


DATA : RICOH PX  1 : 1 format

漱石が手書きしたメモを読むと「ヿ」という文字がたびたび登場し、
「独立スルノ法ハ自己ノ作物ヲヨク売レル様ニスルヿナリ。」
などと用いる。調べたら「こと」と読み、一字一音ではない仮名なのだ。

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【扉の教え】

【扉の教え】

義父母と暮らす共同住宅。その 1 階脇にある共同ゴミ集積所への扉は、中からは鍵なしで開けられるけれど外からは鍵がないと開けられないようになっている。外部から侵入する不審者を防ぐ防犯のためだ。

エレベーターに乗ってゴミ捨てに来て、ゴミを捨て終えた後、鍵を出して解錠するのが面倒くさい居住者はそのへんにあったものをドアの隙間に挟んで開けたままゴミ捨てをし、鍵を使わずにマンション内に戻っていく。そこまでは誰でも考えそうでやってしまいがちななことなのだけれど、こういう事を厳に慎まなくてはいけないのは、鍵を取り出していちいち解錠することを面倒くさがるような人は、ドアの隙間に挟んだ物を取り外してドアを再び施錠しておくのも面倒なので、そのまま開けっ放しにして立ち去ってしまうのである。

さらによくないのは、きちっと自分で開けたドアは自分で閉めておくという常識を身につけた人でも、他人が開けたドアまでは閉めないので、結局誰かが開けっ放すとずっと開けっ放しになってしまうということが起こるのである。頭に来るのでドアに物を挟んでゴミ捨てをしているのを見つけると、足で蹴飛ばしてドアを閉めておくことにしている。

豊島区駒込。
買い物に出た帰りに脇道を歩いていたらマンション通用口のドアに注意書きがあった。このマンションも同じ悩みをか抱えているのだろう。


DATA:RICOH Caplio R2

「開けたら閉める」
こういう事を教えるのは教育の基本の「き」であり、幼い頃は、おもちゃを出したら元の場所にしまいなさい、本を読み終えたら本棚に戻しなさい、新聞を読んだらちゃんとたたみなさい、などと親から口を酸っぱくして教えられたものだった。

「あいていてもしめる」
素晴らしい。たとえ他人が開けたドアでもあいているのを見つけたらしめてあげるのが道徳の原点であり、他人が出したおもちゃでも元の場所に戻してあげる、他人が読んだ本でも本棚に戻してあげる、他人が読みちらした新聞でもちゃんとたたんであげるという高度な態度が身についてこそ、はじめて真の教育の成果が身についたと言えるのだろう。

「開けたら閉める あいていてもしめる」
簡潔で素晴らしい教えだなぁと感心するけれど、そう書かれたマンションのドアがやっぱり開けっ放しになっていることで、なんとなく教育の虚しさという一面も見せられたような気がする。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 7 月 26 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夏の地鳴り】

【夏の地鳴り】

7 月 20 日早朝、郷里静岡県清水に実家片付け帰省して目覚めた朝、近所の八幡神社でクマゼミが鳴いており、それが今年聞いたセミの初鳴きとなった。

その前日、JR 草薙駅に到着し、静岡鉄道草薙駅まで歩いたいたら街路樹から虫の声が聞こえ、日暮れの空を見上げて耳を澄ましたけれどどう考えてもアオマツムシの声であり、東京では夏の終わりを感じさせる風物詩であるアオマツムシの合唱が、郷里では梅雨明けと共に始まるのかしらと首をかしげたのだった。

東京に戻ったらまだ蝉は鳴き始めていなかったけれど、24 日早朝、六義園内からかすかにアブラゼミとミンミンゼミの鳴き声が聞こえた。「(清水より 4 日遅れの初鳴きか、これから賑やかになるぞ)」と嬉しくなったのだけれど午前 9 時近くになったらまたひっそりしてしまった。

坂下の商店街に買い物に出ると好物のトウガンが八百屋の店頭に並んでいる季節になっていた。

丸いトウガンの 1/4 カットが 150 円くらいであり、郷里清水の友人が聞いたら「いや高い!」と呆れそうな値段だけれど東京価格はそんなもので、150 円で一家四人の食卓に夏が来るのが嬉しい。今年は枝豆が高いような気がしてまだ一袋 500 円近くする。枝豆の名産地に生まれたせいか枝豆にはけちくさくて、晩酌時の「とりあえず枝豆」には贅沢すぎるのでまだ買えずにいる。八百屋が昔懐かしいアルマイト製の蒸し器で今年もトウモロコシをふかし始め、茹でたものより滋味があって 1 本 100 円なのでそちらを買って帰る。

断続的にセミの大合唱が勢いを増し、店頭にトウガンが無造作に転がされるようになり、高下しながら枝豆の価格が安値安定し、どこをどう切っても同じ夏の断面が現れるような日々が続くようになるなるまで、町を歩くと微かな夏の地鳴りがきこえている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 7 月 25 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ばらす】

【ばらす】

若い女性たちが
「あ〜あ、ばらしちゃった」
と言うと
「あ〜あ、ほんとのこといっちゃった」
であり、ヤクザ映画で
「てめ〜ばらすぞ」
と言えば
「てめ〜ころされたいのか」
であり、研究者が
「ここはいったんばらそう」
と言うと
「いったんぶんかいしてやりなおそう」
ということになる。

「きばらし」という言葉は「気を晴らす」なのだけれど、三番目の「ばらす」を適用して偏執的(へんしゅうてき)になった気分をいったんばらすことと考えると、うまく言い得ているような気がする。漱石も東京高等師範の教職をなげうって自分の偏執的気分をばらしに松山中学へ赴任したのだと。

まあ偏執している自分の気持ちを消すために二番目の意味で「ばらす」のも、がまんせず本当のことを言って一番目の意味で「ばらす」のも、時と場合によってベストな選択であるだろう。

ということはなんだ、「ばらす」という言葉は意外によい言葉かもしれない。

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【バスを待つ間にオンリーユー】

【バスを待つ間にオンリーユー】

本郷郵便局に用事があって出掛ける往路、駒込発秋葉原行きの都営バス茶 51 系統を待つ間にふと平浩二 1972 年のヒット曲「バスストップ」を口ずさんだらプラターズの「オンリーユー」に似ている。

バスを待つ間にすることがないので上富士バス停脇で見かけた草花の写真を撮る。

バスの運行時刻表とというのはまったくあてにならなくて、時刻表を真に受けて油断していると思いがけないタイミングでやって来るので、バス停をちょっと離れたすきに乗り遅れたりする。

かつてザ・キングトーンズが出した「家に帰ろう」という曲がプラターズの「オンリーユー」に似ていると思っていた時期があるのだけれど、サム・クックの古いレコードを聴いていたらまさにザ・キングトーンズの「家に帰ろう」にそっくりな曲があってでびっくりしたことがある。

サム・クックの CD を何枚か買ってみたのだけれどザ・キングトーンズの「家に帰ろう」に良く似たその曲が見つからず、朧気に覚えている歌詞の「 hallelujah 」「 I'm goin’ home 」「 anyday 」などをキーワードにして検索してもどうしてもわからない。同じ歌詞が登場するアップテンポな曲は YouTube にあるのだけれどかなり違う。

そんなことを考えながら平浩二とプラターズとサム・クックの鼻歌を交互に歌ううちに待っていたバスが来た。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 7 月 24 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ちいさな訪問者】

【ちいさな訪問者】

仕事場がある8階ベランダにときどき虫がやってくる。
「小さなセミが仰向けでひっくり返ってもがいてる」
と妻が言うので見たらカナブンの一種だった。ベランダ箒を差し出してやったらつかまって起き上がる。カナブンはどうしたと聞くので
「起こしてやったら飛んでった」
と言ったら
「きっといいことあるよ」
と笑っていた。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-WX300

まだ生まれて間もないカマキリが雨に濡れながらベランダの手すり上を歩いていた。
「かわいい!どうしてあげたらいい?」
と妻が聞くので
「雨上がりまでそっとしておいてやればいい」
と答えたけれど、小さな勇者は高所を恐れず階下に向かって降りていった。

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