【ゆく年くる年 5】

【ゆく年くる年 5】

編集委員をしている戸田書店発行『季刊清水』の読者だという清水の方から封書が届き、貴重な資料をいただいた。

開封する前に「あっ!!」と驚いたのは、封筒に貼られているお年玉付き年賀切手が十二枚でぐるりと十二支ひと回りになっていること。こういう愉快な郵便物を受け取るのは一生に一度のことだろう。素晴らしい。

会ったこともない便りの主は八十七歳になられたそうで、身辺整理をはじめたので同封の資料はくださるという。ありがたいことに 2020 年 53 号に書かせていただいた自分の原稿を修正すべき資料も同封されているので、年明けに原稿を書いて【戸田書店発行『季刊清水』取材メモ】にアップしようと思う。

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【ゆく年くる年 4】

【ゆく年くる年 4】

東京・清水間で電話を使った遠隔操作をされたことがある。携帯電話が普及し始めたばかりの頃で、まだカメラを使ったリモートワークのようなことはできず、記憶を映像として思い浮かべている人から言葉によって指示を受けたのだ。

母親が東京の病院に入院してそのまま在京となり、無人となった清水の実家に帰省して探し物をし、目当てのものを持ち帰る役をさせられたのだ。忘れ物探査機はやぶさ。母は異様に記憶力の良い人で、場所と物の位置を恐ろしいほど明瞭に言葉で表現することができ、それはぴったり実家の空間に合致していた。

東京で言葉にしたことが清水の現実とぴったり合っているのが不思議で、
「その上に平べったい箱が三つあるから、上から二つ目の青いのを開けてみて」
などと言う。背後に立って見ているのかと思うほどでゾッとした。

記憶を視覚的に思い出せるとき、映像と言葉はぴったり重なっているので、人間は言語を使って世界を表現できる。

大掃除をしながらそんな年末年始があったことを思い出した。ひとまず窓拭きが終わったのでベランダに出たら富士山が白く冠雪している。

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【ゆく年くる年 3】

【ゆく年くる年 3】

戦後世代としては人生で初めて迎える非日常的な年末年始である。そんなわけで、今年もちゃんとあるに決まっている六義園正門前の門松が、今年もちゃんとあるのを確認して安心した。

それでも今年の門松がひとまわり小さいように見えてしまうのは、やはり心が萎縮傾向であることの証左であるような気もする。

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【ゆく年くる年 2】

【ゆく年くる年 2】

片づけにはいくつか意味があり、育てた娘を嫁がせのちをまかせること、邪魔者を始末してなかったことにすること、散らかる過程を逆に辿って元の場所に戻すことも、みな片づけると言い、時間内に仕事を終えることもまたそう言う。よくよく考えると、人が片づけるのは物ではなく時間を片づけているのだ。

友人は共同作業をすると、始める前にまず計画を立てようと言い、マンション大規模修繕工事の工程表のようなものをつくり、徹夜で間に合うかどうかを確認しようと言う。そして理論上間に合いそうもないと「だめだ、間に合わない、無駄だからやめて寝よう」と言うタイプで、彼はのちに大学教授になった。

自分は計画など立てず先走って始めてしまうタイプで、途中で挫折することもあったけれど、始めてしまうと加速度が付いて理屈に合わないほど早く片付く現実を喜ぶタイプだった。もし二人が軍人になったら、友人は戦略的名参謀となり、自分は玉砕型小隊長か、特別運が良ければ軍神になったかもしれない。

年齢を重ねるほど片づけの個性は極まるのかもしれなくて、自分は自分の「やるか、やめるか」という判断の理性が働く前に、手当たりしだい身体を動かす事を心がけて加速するタイプだが、友人は暮れの片づけなど諦め、棋譜を片手にひとり盤面相手で、のんびり人生の年末をやり過ごしているかも知れない。

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【ゆく年くる年】

【ゆく年くる年】

年賀葉書用の 63 円切手を 100 枚買った連れ合いが
「100 枚も買っていただいたのでお礼です」
と言われて『郵便局長の見つけた日本の風景カレンダー』というものをもらってきた。
「こんなもの、いります?」
と聞かれ「いりません」とも言えないのでもらってきたという。

自分の分の年賀状を書き終えた。
友だち一人ひとりの存在があらためて大切に思える年末になったので、一人ひとりにひとこと書き添えた。切手を貼り終えたら残りわずかになり、連れ合いの使う分が心許ないので投函するついでに 50 枚を追加で買った。

また何か粗品をくれる気配なので、カレンダーだったら「いりません」と断ろうと思ったら、女性局員が苦笑いして
「ティッシュなんですけど」
と言い、ティッシュならもらって困らないので受け取ったら、
「ティッシュの使用後は届いた年賀状整理箱になるんです」
と言うので
「そりゃいい!」
と言ったら笑っていた。よいお年を!

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【ソラソドソラソ】

【ソラソドソラソ】

♪ ソラソドソラソのメロディでで歌われるのはアマリリス。

去年は見つけられずに断念したヒヤシンスの球根三色寄せ植えを、今年はしもふり銀座商店街の花屋でみつけたので買ってきた。600 円だった。

ちゃんと写真と同じ並びで咲くように植えられているけれど、球根自体の色を見ただけで、それぞれが何色の花を咲かせるかわかる。

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【明け方の読書メモ…6】

2020年12月26日

【明け方の読書メモ…6】

永井均が「信じ込む系のものは何も信じ込まないに限る」という話しをされていて、彼の著作『ルサンチマンの哲学』冒頭にある三人の少女と銀貨の話を思い出し、なぜか急に読んだことのない倉田百三『出家とその弟子』が読んでみたくなった。そして読んでみて読んで良かったと思うことの不思議。

もしそのさびしさが人間の運命ならば、そのさびしさを受け取らねばならぬ。そのさびしさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事を言うのだ。耽溺と信心との別れ道はきわどいところにある。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。(倉田百三『出家とその弟子』)

滅びるものは滅びよ。くずれるものはくずれよ。そして運命にこぼたれぬ確かなものだけ残ってくれ。私はそれをひしとつかんで墓場に行きたいのだ。(倉田百三『出家とその弟子』)

「私は一字ずつ、たまいたまい読みました」(倉田百三『出家とその弟子』)。たまいたまいとは「だいじにだいじに」という意味だけれど、山陰や中国地方でそう言うらしい。

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【明け方の読書メモ…5】

2020年12月26日

【明け方の読書メモ…5】

「すべての歴史は現代史である」(イタリアの哲学者・歴史学者 ベネデット・クローチェ)。歴史というのはその時を生きている人たちが、その時その時の都合に応じてつくっているものだということ。

Uber Eats(ウーバーイーツ)の Uber はドイツ語 über で、なんとニーチェの「超人」(ubermensch ユーバメンシュ)のユーバだった (@_@)。あっそうか。

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【明け方の読書メモ…4】

2020年12月25日

【明け方の読書メモ…4】

「自分」とは自己の分限(ぶんげん)のことで、分限とは可能の限度を言う。「自己の分限である自分」とは英語をたどればわかりやすく「self limited」な「self-limiting」なのだろう。「私」とは「禾」(食べもの)を「ム」(ひとりじめ)する利己的な存在のことで、その利己的なふるまいが許される限度を「自分」という。

第一人称の「 I(アイ)」は自分以外の「他」とかかわることにより、関連的で事後的にあらわれる「主体」のことであって、常になんらかの「他」の下にぶらさがっているときに「ある」ものだ。ということは「ぶらさがってなどいない」と思い込むことによってあらわれる 〈私〉 などは、実在を削った末に現れる地の白が逆に実在に見える、美術の言葉で言う「白色浮出」のようなものであるとこの著者は言っている。「白色浮出」懐かしい言葉を聞いた。前に聞いたのは誰の本だったろう。

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【明け方の読書メモ…3】

2020年12月24日

【明け方の読書メモ…3】

「どうしてこんなことをやり続けなくてはいけないのだろう」と思いながらやり続けることが、「どうしてそんなことをやり続けなくてはいけないのか」という問いの答えになっているのが人生である。

というか、どうしてと問えない、人はそういうふうにしか生きられない。

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【明け方の読書メモ…2】

2020年12月24日

【明け方の読書メモ…2】

ヒトはホモ属だがバラ族ではないと言ったのは呉智英さんだが、ヒトは言語類に属する生物で homo loquens(ホモ・ロクエンス)といい、言語を使うホモ属の言人(げんじん)である。 

「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言ったのは兼好法師だが、「言いたいことも言わずに腹蔵(ふくぞう)するのは心の便秘である」ともとれるし、単に口がひとつしかないので「黙らないと食えない」ともとれる。

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【明け方の読書メモ…1】

2020年12月24日

【明け方の読書メモ…1】

信仰は、人間が自分で選ぶのではなく、自分という人間に選ばされる、そういう仕組みとしてあるのだろう。船が大海に漂い出ないよう海底に降ろす錨(アンカー)であり、船である人間がみずからすすんで繋留されるのだ。その繋留場所が信仰のありかであり、人間としての存在の船底になる。

ただ強くあることを求めてありもしない狂信に囚われたりせず、すすんで「弱さを受け入れる強さ」をめざすという戦略。退却しつつ攻めてしんがりを生ききる。加齢とともにそういう意思をもって揺るがないことが大切になるだろう。

 
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【サンタの性別】

2020年12月22日

【サンタの性別】

今年最期の読書会が終った。12 月の読書会はクリスマス近くになるので、終了後の飲み会では大きなピザを取り、毎年若い女性がサンタの格好で配達に来る。「可愛い!」と言うとサンタの配達員はうれしそうにしている。

今年も 21 時半を指定して待っていたらインターホンに映る配達員は男性で、「なんだ今年は男だ」と一同落胆する。「2枚ご注文いただいたのに1枚しか持って来なかったのでもう1枚取りに行ってきます」と忘れん坊のサンタ君は引き返して行った。

しばらくしてまたインターホンが鳴り、映像を見たら今度は女性のサンタなので「女だ、女だ」と男たちは玄関にあつまり、ドアが開いたら「女の子だ、かわいい」と言い、女性がスマホのカメラを向けたら、「ちょっと待ってください、前をちゃんと閉めます」と赤い上着のボタンをかけている。その様子を見ていたら男の子のようで「なんだ男の子か」という声がもれる。

結局サンタの性別は分からず「まあ男でも女でもいい、ともかくかわいいサンタだった」という話に落着した。白い髭を生やしているから男の子だったのだろうと思うが、「コロナ対策で髭みたいなマスクをしてま〜す」と髭型マスクを外して女の子があらわれたら可愛い。

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【勧請と遥拝】

2020年12月21日

【勧請と遥拝】

四半世紀のうちにビルが建て込み、仕事場から見える山並みの眺望も絶滅に近い。今では富士山の先っぽがほんのちょっと西に見え、ビルの向こうに目を凝らすと、かすかに奥多摩の山々が見えるだけになった。

そのうちのひとつが標高 929m の御岳山(みたけさん)らしい。武蔵御岳山とも呼ばれ、古くから山岳信仰の対象となっていて、山上に武蔵御嶽神社が建立されている。

都区内の御嶽神社

今もビルの隙間からしぶとく顔をのぞかせているけれど、江戸時代は市中からよく見えたからこそ山岳信仰の山として人々を惹きつけたのだろう。都区内の御嶽神社を検索するとけっこうな数があり、全国各地の熊野神社がそうであるように御嶽神社に行けない人々の遥拝所的性格を持っていたのかもしれない。合掌(がっしょう)と礼拝(らいはい)のように、勧請(かんじょう)と遥拝(ようはい)はセットになっている。

荒川区にある富士山遥拝所

郷里静岡市内の神社を歩くと、明らかに山岳信仰の遥拝所的な配置になっている境内をもつものが多く、神社縁起にちゃんとそう記されているものもある。そういう神社は社殿から鳥居越しに対象の山が見える。

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【スケスケコンパス】

2020年12月20日

【スケスケコンパス】

年上の友人たちがどんどん暇になっているらしい。日本の男は歳をとって暇になるとなぜ蕎麦打ちを始めるのだろうと、面白おかしく書いたり笑ったりしていた彼らが、自分もその年齢に達したら、いったい何を始めるのだろうと楽しみに見ていたら、同年輩で誘い合って山歩きを始めている。

先日も読書会に参加しているそのうちの一人が、明日は山歩きなので二日酔いにならない程度にして今夜は帰ると、読書会後の飲み会で言う。山は雪が降ってるし、危ないんじゃないかと言ったら、たいした山じゃなくて奥多摩の御岳山(みたけさん)だという。

太平洋岸は乾いた北西の季節風が吹き、空気が澄んで遠くの見通しが良くなった。仕事場の窓からビルの隙間にちょっとだけ山の頂きが見える。あの山はなんだろう、スマホのカメラを向けるとコンパスで方位がわかるアプリがあれば地図で確かめやすいのにと思い、検索したらちゃんとあった。

早速インストールして撮影し、地図に重ねてみたら雲取山よりちょっと左にずれていて、まさに御岳山か三頭山(みとうさん)だと思われる。彼らはあそこに登ったのだな、ご苦労さまと遠い山を眺めて思う。

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