【夜明けの読書メモ─「存在と重さ」】

【夜明けの読書メモ─「存在と重さ」】

一太郎 Pad というアプリがよくできていて、読書の友として欠かせなくなっている。今朝も豆腐のように分厚い文庫本を読みながら、撮って文字認識してテキストにメモを添える、という面倒な作業がこんなふうにスマホで簡単にできてしまう。

存在は災厄だが、それでも存在しないよりは善いことなのだから。老人が、痛ましげに眉をひそめた。(笠井潔『哲学者の密室』)

作中の老人の名はエマニュエル・ガドナスでルヴィナス、同様にマルティン・ハルバッハはハイデガー。

呆れるほど分厚い文庫本を実際この手で持ってみたいという単純な動機で適当に注文したけれど、中身も相応に重く読んでいて楽しい。

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【夜明けの読書メモ―「サンヤツ」】

【夜明けの読書メモ―「サンヤツ」】

妻や自分が装幀を手がけた本がときどき載ることもあって朝日新聞朝刊一面下のサンヤツ広告欄は、「しつもんドラえもん」「折々のことば」に続いてざっと横に目を通す。


DATA : Nikon COOLPIX P7800

目を通してもそれがきっかけで本を買うことはないのだけれど、今朝はちょっと気になったので斎藤環『コロナ・アンビバレンスの憂鬱――健やかに引きこもるために』晶文社を Kindle 版で買って、はじめてのサンヤツ購入をした。

コロナ禍を生き延びるためのサバイバル指南書
コロナが投げかけた「人は人と出会うべきなのか」という根源的な問い。ひきこもり問題の第一人者だからこそ語れる、コロナ禍での貴重なな論考集。1870円(サンヤツ広告の惹句より)

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【夜明けの読書メモ─「これはこれ」】

【夜明けの読書メモ─「これはこれ」】

「これはこれ、それはそれ」と日本語で言う。英語で「 This is this, it is it 」と言って、論理のことばの国の人に意味が通じるのだろうか。

米国のジャズバンドであるウェザー・リポート 1986 年のアルバムに『ディス・イズ・ディス』( This Is This! )があるので、アメリカ人には「 This is this 」が通じるのだろう。けれど「 This Is This! 」のキャピタライズでエクスクラメーションマークつきの表記をみると、あまり論理的ではない奇矯な言い方なのかもしれない。

「これは実際に何であるか」と問われて「これはこれ」で話が通じるのはきわめて日本人的なんじゃないだろうかと考えていたら、ふと人生で「ご遺体との対面」をするたびに、故人を悼む気持ちとは別に「これはこれにすぎない物体を見てるだけ」と感じる居心地の悪さを思い出した。


〒162-0802 東京都新宿区改代町27
DATA : SONY Cyber-shot DSC-W170

Amazon のポイントがたまっていたので、これはこれ的になんとなく養老孟司『解剖学教室へようこそ』 (ちくまプリマーブックス)を注文してみた。

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【夜明けの読書メモ─「メモと OCR 」】

【夜明けの読書メモ─「メモと OCR 」】

本を読んでいると文章をテキスト入力してメモしたいときがある。iOS でも Android でも『一太郎 Pad 』というアプリを使っていて非常によくできている。OCR 用に重宝しているのだけれど残念ながら古い OS では動かない。なにか代わりになるアプリを探しているけれどいいものがない。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-L1

世間の人たちはそれで困らないのかしら、困らないはずはないと思って検索したら、なんと画像を Googleドライブに保存して Google ドキュメントで開けば、開くとき自動で文字認識してテキスト化されるという。なーんだと感心したので適当なページで試してみた。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. SI)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。

西田幾多郎『善の研究』の、縦書き欧文まじりのページだけれど見事にテキスト化されていた。こりゃいい。

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【夜明けの読書メモ―「楽しい早起き」】

【夜明けの読書メモ―「楽しい早起き」】

『楽しいそり遊び』じゃなくて『楽しい夜更し』という歌をうたったのは誰だっけと、思い出せないので検索したら大滝詠一だった。

夜更しが楽しい時期を過ぎて、早起きが楽しい年齢になった。早起きも楽しいし早寝も楽しい。早寝早起きを提案すると「異議なし!」と嬉しそうに尻尾を振る犬のような生活である

件(くだん)の歌で大滝詠一も最後は、

外ぢゃニワトリ コケコッコー
新聞少年 朝刊太郎

と夜更しを、早起きの楽しさとともに「明日は休む」とうれしそうに締めくくっている。

夜更しの結果であっても早起きして活動的であれば早寝が待ち遠しくなる。好循環への分岐点である。一種の悟りに近い。


DATA : Nikon COOLPIX P7800

まぶたが重くなれば即就寝、軽くなれば即起床、西田幾多郎ふうに言えば「知即行(ちそくぎょう)」こそが楽しい「私」をつくる。

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【夜明けの読書メモ─「ステロとアンドロ」】

【夜明けの読書メモ─「ステロとアンドロ」】

学生時代に読んだ本にステロタイプということばがあったので「ステロタイプ」と言ったら「それはステレオタイプ」と同級生だった妻に笑われたので「印刷の授業で出てきたステロ版のステロに接尾辞のタイプをつけたんだからステロタイプだろう」と言い返すのも面倒なのでステロタイプもステレオタイプも口にしなくなった。夫婦とはそういうものだ。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-W120

口にしなくなった言葉のかわりに「タブロイド思考」があって、それはこころの中のつぶやきの役に立っている。圧縮して固めた錠剤を意味するタブレットのタブルに接尾辞オイドをつけたのがタブロイドで、タブロイド判新聞が話題にする程度の閾値(しきいち)で世界を固めてみることをタブロイド思考という。

妻が使っているらくらくフォンは人間を意味するアンドロに接尾辞オイドをつけたアンドロイド OS を簡単な使い勝手に固めた糖衣錠「のようなもの」になっている。

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【夜明けの読書メモ─「フリンジ」】

【夜明けの読書メモ─「フリンジ」】

フリンジ(fringe)という言葉があって、高校時代に読んだ写真雑誌でその言葉を知った。レンズの倍率色収差によって輝度の境界に色が現れて見える現象で、サービス版のカラー写真でも青空を背景にした針葉樹の梢などに観察できた。偽色ともいう。

写真好きの男性に限らず女性もまたフリンジという言葉をよく使い、洋裁でショール、マフラー、カーテン、テーブル掛けなどの縁に飾りつけることをいう。


DATA : Nikon COOLPIX P7800

写真好きや裁縫好きな一般男女だけでなく、明治生まれの哲学者も fringe という言葉を用い、西田幾多郎『善の研究』に「意識の縁暈 fringe なるもの」と書かれてあった。

縁暈(えんうん)とはうまい日本語をあてるもので、暈は「灯(とう)暈(うん)を生ず」の暈で、明るい光が闇に対してつくる境界で明暗のぼかされた領域をいう。

レンズは像を結ぶ位置が色によって異なるため倍率色収差が生じ、それは画像の周縁部で顕著になる。「意識の縁暈 fringe なるもの」は意識することによって生じる感情的な気分(偽色)にすぎない。論理的であるつもりが暴力的であることと容易につながってしまうのは、それが「感情的な」意識から生じた縁暈(フリンジ)だからだ。

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【夜明けの読書メモ─「上手い言い方列伝」】

【夜明けの読書メモ─「上手い言い方列伝」】

本を読んでいると「上手い言い方をするなあ」と感心し、「そうか、こう言葉で表現すればいいのか」と目を見開かされることがある。それはとびきり頭のいい人が思いもかけない教えを披瀝しているわけではなくて、人があまりにも日常的にやっている当たり前のことであるのにうまく言葉で表現できないことを、ちゃんと言葉で言い得ている技芸に感心するのだ。そういう箇所に出会うたびに「上手い言い方列伝」という名前でつくったオンラインノートにメモしている。

こねくりまわした難しい考えではなく、凡人があたりまえにやっているのに言葉にできない気持ちを、どううまく言い得るかが学者に必要な技芸だろう。上手く言い得る学者の「言葉力」こそが尊敬に値する。問題は考えの優劣というより、言い方の優劣にすぎなくて、求める究極のテーマは古代から変わらない。学者は凡人中の大凡人(こだわりの化け物)である。言葉でうまく言えないけれど、あまりにあたりまえな凡人の日常的おこないのなかに、言葉にしなくてはいけない大切なことが含まれている。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-W1

分厚い文庫本で思い出したので、はるか昔に若死にしたパスカル(1623~1662)の『パンセ』をパラパラとめくったら、やはりそういう意味の(と読める)ことを書いていた。それも「上手い言い方列伝」に書き写しておこう。たとえば「ところが繊細の精神(※凡人の実生活)においては、原理(※科学ここでは幾何学)は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし、無理をする必要もない。ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそはよくなければならない。」(※はボク注)など。よき智恵とは凡人のよい目のことだ。

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【夜明けの読書メモ─「朝の金、夜の金」】

【夜明けの読書メモ─「朝の金、夜の金」】

「朝のりんごは金、昼のりんごは銀、夜のりんごは銅の味がする」というのは祖母の口ぐせで、とくに歳をとって認知症の傾向、昔風に言えば耄碌(もうろく)してきてからよく聞かされた。

英国の古いことわざだという説が人口に膾炙(かいしゃ)しているけれど詳しいことは知らない。膾炙の膾(かい)はなますで生肉、炙(しゃ)はあぶるで焼肉。夜のりんごは銅の味なのですりおろして焼肉のタレに加えるとおいしい。


六義園内から本郷通りに風にのって噴き出す枯葉
DATA : SONY Cyber-shot DSC-W1

朝の読書の理解力が目覚ましいのは、昨日の余計な思い出が整理されて容量を回復した金の脳だからだろう。夜が近づくと飲み食いのことばかり考えて本など読む気にならないのは銅の脳になるだからだろう。

いっぽう負けん気の強い女房相手に朝・昼・夕と三回やる仕事場のミニピンポンは、終業前の夕方になるといわゆる「きれっきれ」で「れべち」で「かみってる」プレイが続出する。一日うごいたので金の身体になっているのだろう。

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【夜明けの読書メモ─「本の厚さ」】

【夜明けの読書メモ─「本の厚さ」】

いちばんページ数が多くて厚い文庫本ってなんだろうと思って調べるうちに、かなり厚い文庫本列伝中に読んでみたいと思う本があったので注文した。笠井 潔『哲学者の密室 』創元推理文庫 2002 年 4 月発行で 1182 ページあるという。


牛乳を買いに早朝の本郷通りに出たらマグリットの「光の帝国」になっていた

DATA : SONY Xperia XZ1 SO-01K 

持っている文庫本ではパスカルの『パンセ』中公文庫が 648 ページと分厚いけれど、その倍近くある。郵便受けに入らないかもしれない。注文したあとで、どうして厚い文庫本に興味が湧いたんだっけと読んでいた本に戻って、考えのあみだくじを逆にたどってみたけれど思い出せない。

2021年11月11日追記

レターパックで到着。やはり郵便受けに入らなかったそうで玄関先で受け取った。製本は本間製本。

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【夜明けの読書メモ─「絶対無」】

【夜明けの読書メモ─「絶対無」】

私は私を思うとき私に於いて「ある」。私を思わないとき私は「ない」のだけれど、そのとき私は何に於いて「ない」のか。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-W1

「我思う故に我あり」に「我思わない故に我なし」が対置できるなら、その「故に」ってなに?と問うことが要点であり、あえて問えばそこは絶対無の「場所」だ。

 

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【夜明けの読書メモ─「版行」】

【夜明けの読書メモ─「版行」】

ウィキペディアを読んでいたら、
「ハンコの語原は『版行』で、後に当て字で『判子』とも表記されるようになった」
と書かれていた。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-W1

えっそうなの?と思って版行を国語辞典で引いたら
「書籍を印刷して売り出すこと。 →はんこ(判子)」
と書かれていた。えっそうなのか。

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【夜明けの読書メモ─「述語と鉄道」】

【夜明けの読書メモ─「述語と鉄道」】

「なんとか鉄」などと呼ばれる趣味に熱中する人々も、頻発する身勝手で陰惨な事件も、ますます増えていく夥しい自死も、出会いによって紡ぎ出された数々の文学も、過去の時刻表に埋め込まれた近代の歴史も、どれも鉄路の上を舞台にしている。

主語になりえない者たちが主語になろうと永遠にもがく「述語は続くよどこまでも」が世界のあり方なので、それは「線路は続くよどこまでも」と同じ果てのない響きを持っている。なぜ「鉄道」なのか。「ただある」としか言えない自身の分節化装置としての「世界」、そういう場所に「鉄道」が似ているからだろう。世界の中の世界劇場なのだ。


DATA : OLYMPUS E-PM1 SIGMA 60mm F2.8DN

そんなことを思ったついでに、土曜朝の新聞連載を楽しく読んでいる原武史『歴史のダイヤグラム─鉄道で見る日本近現代史』 (朝日新書)を電子書籍でダウンロードした。思ったより安くて ¥594 だった。

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【夜明けの読書メモ─「種差と等類」】

【夜明けの読書メモ─「種差と等類」】

物のあり方は「種差(ちがう)」と「等類(おなじ)」が両端にあるスライド式の可変抵抗器のようになっている。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-TX7

左の「種差」方向「+」にスライドすれば差別が深化して物はこれしかない「真の個物」に近づき、右の「等類」方向「ー」にスライドすれば包含の範囲が広まり物はひとつの「存在者一般」に近づく。人の認識というのはスライド式の閾値(しきいち)調整装置だ。

しかもその両端はどこまでも果てがない「超越的」になっている。

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【夜明けの読書メモ─「間接代弁」】

【夜明けの読書メモ─「間接代弁」】

「母はイヌの気持ちを代弁した」は、
「イヌは母に気持ちを代弁された」とも、
「母はイヌに自分の気持ちを代弁させた」とも、
「私は母にイヌの気持ちを代弁された」とも言える。

「母の長い代弁を聞き終えると犬だった」と主語のない川端康成風に言ってみる。

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