【ねこふんじゃった】

2020年1月31日
【ねこふんじゃった】

妻が 20 弁ロール式オルゴール用に「ねこふんじゃった」を編曲している。なんとか半音なしの 20 音階内におさめようとキーボードをポロンポロン打って格闘しているので耳にタコができかけている。阪田寛夫作詞のユーモラスな歌詞がついた歌だが、漱石『硝子戸の中』を読んでから、ちょっと陰惨な印象がこびりついてしまい、心の中で「ねこふんずけちゃったらとんでった」が「しんじゃった」になってしまう。

気になって仕方ないので、布団の中にいる仔猫(二代目)を漱石先生がふんずけて死なせてしまった箇所を探して再読してみたら、思い違いでふんずけちゃったのは「家の者」ということになっていた。濡れ衣で申し訳ない。とはいえ、阪田のねこをふんずけちゃったらおそらへとんじゃってグッバイバイというのも、しんじゃったに近い不思議な歌詞ではある。

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【ネコとノミ】

2020年1月31日
【ネコとノミ】

毎日スマホアプリの更新通知があって内容はたいがい細かいバグの修正と書かれている。プログラムエラーであるバグとは虫(bug)の意味で、プログラマの友人は「今日も一日バグ潰しした」などと言っていた。

バグは修正するものではなく潰すものだ。そういう言い方がしっくりきてなじみ深い。日当たりの良い縁側で、猫をつかまえ膝にのせてひっくり返し、おなかの皮をつまんで毛をササラのように順送りし、あわてて逃げるノミを両手親指の爪で挟んでプチンと潰していた祖母や伯母の姿を思い出すからだ。ときどきノミと一緒に柔らかい腹の皮を爪で挟まれた猫が「ニャッ!」と鳴いて暴れ、「バカ!ノミを取ってやってるんじゃないか!」と頭を叩かれて目が > < になっている、のんびりとしてバカバカしい風景が目に浮かぶ。

ソフトウェアの更新がありますという表示を見つけて、ひとつひとつ内容確認しながら「更新」ボタンを押すとき、プチン!とノミが潰れる音がする気がして気持ちいい。

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【魔性の花】

2020年1月30日
【魔性の花】

録画しておいた NHK プロフェッショナル 仕事の流儀「魔性の花に、魅せられて~育種家・鷲澤幸治~」を観た。「秋田市の郊外にあるダリア園で、花業界に衝撃を与える斬新な新品種を次々と生み出し、かつては地味な存在だったダリアをハレの日を彩る人気の花へと押し上げた」という 72 歳になる男性のドキュメンタリーだった。義父母がお世話になった秋田県出身の特養ホーム施設長に言葉のイントネーションが見事に一致するので驚いた。

ダリアが “魔性の花” というのもなるほどと感心した。のめり込む育種家にとって掛け合わせの万華鏡はまさにあの花の魔性なのだろう。俺が魔性の花にのめり込むことで最愛の妻を酒に溺れさせ認知症にしてしまったという慟哭の家族物語も切ない。本郷通りに咲くバラの花を見て、これもまた魔性の花なのだろうなと思う。

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【暗算筆算】

2020年1月30日
【暗算筆算】

会社員時代に使っていてほとんど休眠中の口座に少額の振り込みがあったので、朝一番で本郷三丁目まで記帳に行った。清水の実家片付け中に出てきた古い硬貨・記念硬貨が真っ黒けになっていたのでクエン酸で洗浄し、ついでにその口座に預金して使えるよう再洗浄することにした。10,000円から5円までさまざまな額面の硬貨があるので数えながら分類し、袋に小分けして総額をメモして行った。

「たくさんの古いお金を預金したいんです」
と言ったら
「数え直しますのでお時間をいただきます」
と若い女性行員が言う。しばらく待たされて呼び出され、なぜかパーティションで仕切られたブースにいざなわれる。
「申し訳ありません。私どもが数えさせていただいた金額と、お客様がお書きになった伝票の金額が一致しません。正確な金額をお教えするわけにはいかないのでもう一度数え直して正しい金額をお書きください」
と言う。「えーーーっ!」と思ったが気を取り直して数え直し、枚数と金額を並べて暗算したら違う金額が出た。
「〇〇〇〇〇円ですか?」
と聞いたら、
「違いますね、もう一度お願いします」
と言う。

仕方がないのでメモの余白で筆算したらまた違う数字が出た。
「〇〇〇〇〇円」
と言ってみたら
「うーーーん、ちょっと違いますね」
と言うのでどっと汗が出てきた。数え直す気力が出ないので計算結果を眺めていたらさすがに見兼ねたらしく、
「お客様が数えた枚数は合っています。足し算が違いますね。電卓をお貸ししましょう」
と言う。

使い慣れない電卓をたたいて計算したらまた違う数字が出たので
「〇〇〇〇〇円じゃないですか?」
と聞いたら
「正解です!」
と言う。子どもの頃から暗算と筆算は得意だったが面目丸潰れである。

汗をかいたので頭を冷却しながら本郷通りを歩いて帰ってきた。

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【ノード】

2020年1月30日
【ノード】

時事ニュースを見ていたら観光バスが映り、車体に大書された文字を見て
「TOTO はバスもやってるの?」
と妻が聞く。
「これは ToTo って書いてあるから東都、TOTO の方は東陶」
と笑いながら説明しつつ、トートーで同義反復のトートロジーを思い出した。トートロジーのロジーは接尾辞 logy だとすぐにわかるけれど、トートの方はなんだろうと辞書を引くと tautology と書いて tauto はギリシャ語で「同じ」を意味するのだという。トートバッグのトートは tauto じゃないだろうと思ったらやはり tote でその語源的由来はわからない。

辞書に糸を垂れての語源釣りは楽しい。受験勉強で英単語をせっせと記憶に詰め込みながら、ひとつの単語はいくつかの意味をつなぎ合わせ、ノード(node)によってできているのだと仕組みを理解し、のちにパソコンを使うようになったら、そもそも記憶の仕組み自体が意味と意味、点と点をつなぐ配線、すなわちノードなのだなと思う。そして日本語の哲学書を読んでも読んでも内面化しにくいのは漢字化された術語が難解かつ曖昧で、明確な点となってノード化されにくいのだと思う。実在とか本質とか実体とかより、和訳せず existence とか essence とか substance とかのままの方がわかりやすく、ちゃんと論脈がノードのまま繋がれて記憶におさまる。

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【風邪と神風】

2020年1月29日
【風邪と神風】

買い物に出たらドラッグストアでも大型スーパーでも使い捨てのサージカルマスクが売り切れていてびっくりした。お一人さま 3 パックまでと書かれた棚もすでに空っぽになっていて、小さいサイズと子ども用だけがわずかに売れ残っていた。高価な防塵マスクでもコロナウィルスの吸引は防げないとテレビで盛んに報じられており、使い方によっては害の方が多いという。それでも皆が争って買っていくのは疫病除けのお守りとしてのご利益を期待しているのかもしれない。

おまじないでも倒れぬための突っ支い棒になる。疫病払い祈祷済みマスクを神社で売ったらうけるんじゃないだろうか。風と桶屋の関係を超えるような、意外な心理的効能だってあり得るかもしれない。0・1 マイクロメートルの新型ウィルスに対抗できるのはうがいと手洗いと神頼みである。

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【たてよこと正方形】

2020年1月29日
【たてよこと正方形】

夜中に体温が上がって暑いと上掛けを跳ね除けて放熱し、熱を発散して寒くなると寝ぼけまなこで揃えて潜り込む。そうやって毎晩ほとんど無意識に上掛けの跳ね除けたり掛け直したりをくりかえしている。上掛けを整えなおして身体を伸ばしたとき、長辺と短辺と身体のたてよこを取り違えて、布団から足の先が出てしまうとがっかりする。がっかりしたせいでもう少し目が覚めてしまい、90 度くるっと回転させて掛け直す。

子どもの頃、他所の家に泊まりに行くと来客が多くて寝具が足りなくなり、子どもはこたつがけ布団をかけて寝ろなどと言われることがあった。こたつがけ布団は正方形なので寝相が悪くて 90 度回転してもノープロブレムであり、安眠の友である。デジタルカメラもセンサーを正方形にしてミラーレスのようにビューファインダー付きのカメラは構図のたてよこを構えなおさず切り替えられるようにすればいいのにと思う。

六義園上空、今朝は気持ちよく晴れた。

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【ジンテーゼ】

2020年1月29日
【ジンテーゼ】

第二外国語を受講しなくてはいけなくなり、人気のあるフランス語ではなくドイツ語を選んで受講票を出し、初回の授業に出たら学生は自分だけだった。「受講するのは君一人だ」と講師に言われ、怖気付いてフランス語に逃げた。若かった、馬鹿だった、先生に申し訳ないことをした、惜しい機会を逸したと思う。

テーゼがあってアンチテーゼがある。その二項対立を脱して考える第三の選択肢をジンテーゼという。幼いころから子どもにとって手に負えない難題、たとえば
「おとうさんとおかあさん、お前はどっちについて来る?」
などという親の別れ話などに巻き込まれることが多かった。どちらも選べなければ第三の選択肢による返事を探すしかないと思い、そういうときの工夫を「斜め横前にずらして考える」と自分で名付けた。将棋の桂馬やチェスのナイトの動き方である。ある知恵をかき集めてヘーゲル的にアウフヘーベンを試みていたのだ。痛ましい。

ジンテーゼという言葉が聴き慣れないので辞書を引いたらドイツ語で Synthese と書く。「Syn はジンと読むのか、このジンの語源はなんだろう」とさらに辞書を引いたら Synonym があり、「そうか同義語のシノニムか、シノニムにも Syn がつくのか」と読みを調べたら「ズィノニーム」だった。Syn は合一を意味するらしい。いまごろになって学生時代に買って習い損ねたドイツ語辞書をひとりで引いている。

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【討ち入り】

2020年1月28日
【討ち入り】

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは 1703 年 1 月 30 日(元禄 15 年 12 月 14 日)だった。明日 1 月 28 日は雪の予報が出ており、雪の平日なら人目につきそうにないので、かねてより計画していた討ち入り決行をしようと妻が言う。

仕事場の打ち合わせテーブルを使ってミニピンポンを始めて半年過ぎ、驚くほど上達したのでちゃんと国際規格の正式な卓球台でやってみたいというのだ。正式な卓球台は 1525mm × 2740mm だが、わが家の打ち合わせテーブルは 810mm × 1780mm しかなくて、そこに公式ネットを貼って公式球を公式ラケットで打ち合っている。狭苦しい箱庭ピンポンだけれど驚くほど高速でラリーが続くようになってきた。

池袋に個室でピンポンができる施設があると教えてもらったのでマイラケット、マイボールを持って昼休みに出かけてみた。なんて公式卓上コートが広大なのだろうと驚いた。最初はちょっと戸惑ってサーブが短かったりしたけれど、ちからいっぱい振り抜いてもオーバーにならず、かなり乱暴に打っても入ってしまうので、小さな卓球台より大きな卓球代は楽だと意見が一致した。これからも箱庭練習場でちまちまと技術を磨き、月一回だけ国際規格の競技場に出てのびのび欲求不満解消をすることにした。

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【しわと高低】

2020年1月27日
【しわと高低】

東京の山手線内側とその周縁部は土地の高低差があって坂が多い。世界中どこでも高低によってアップタウンとダウンタウンができている。土地の狭い日本の、その一地域である東京の、さらにその一区画である東京山の手は、高低がちりめんじわ状になって密集している。だから高いところにある高貴や富裕を自認する人々の豪邸と、貧しい人びとがからだを寄せ合って暮らす「ウサギ小屋」が背中合わせになっていて、高低が作る貧富のコントラストが強い。東京はそういう意味で眩しい街である。

西池袋にある自由学園明日館で妻の仕事ともだちが作品展を開いているのでお供をして見に行った。その前に大好きな讃岐うどん河野で昼食を済ませ、フランク・ロイド・ライト設計の建物に久しぶりに入り、そのあと坂のある街を散歩しながら目白のお屋敷街へ出た。

徳川ビレッジ前のブティックを出て妻と立ち話をし、ここは尾張徳川家の屋敷跡だと説明したがちょっと違っていた。もとは麻布にあった屋敷のまわりにダウンタウンの煙突が景観を損ねるように林立し始めたので、昭和五年に土地を購入して移ってきたのだという。狭隘なちりめんじわ都市ならではの歴史である。

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【七七日】

2020年1月26日
【七七日】

初七日(しょなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)、五七日(いつなのか)、六七日(むなのか)と数えて、早いものでもう七七日(なななのか)がやってくる。二月二日の日曜日、清水梅ヶ谷の真珠院で亡き叔母の四十九日法要を営むと従弟から電話があった。清水での法事は檀家である保蟹寺(ほうかいじ)はちろんのこと、梅ヶ谷の真珠院や、高橋の高源寺で参列する機会が多く、それらは徳川時代の東海道ではなく鎌倉時代にひらけた古道沿いにあって、みな禅宗である。法事があるたびに近いので能島の叔父叔母宅に寄って顔を見るのを楽しみにしていたが、その叔母もとうとう浄土の人となる。

最後に顔を見たのは雑誌『季刊清水』の編集会議帰省をしたときで、いとま乞いをしたあとも家の外までとことこついてくるので、なんだか大袈裟な別れをするようで奇妙な気がしたものだ。「子どものころ遊びに行くとまぁちゃん泣きながら追いかけて来てこまったっけ」と笑っていた叔母である。その叔母がなごり惜しそうに追いかけてきた。

人が確かに「いる」という感覚は当の本人が生きて目の前にいると切実には感じにくい。死なれてみるとしばらくの間は「あの人が手の届くところにいたことがあったんだなぁ」と悔恨とともに過去に向かって「いた」ことが意識されている。そして忌明けのころになるとようやく「いない」ことに対する気持ちが定まって、「いないことによっていまもいる」というもうすこしひねった浄土にちかい心持ちになり、その頃を見計るように七七日がやってくる。よくできている。

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【トロンプ・ルイユ的な現実】

2020年1月25日
【トロンプ・ルイユ的な現実】

塀のこちら側では桜の切り株だが塀の向こう側では毎年見事な花を咲かせる大木になっている。そういう不思議な世界を精密描写で描く技法をトロンプ・ルイユという。

フランス語で Trompe-l’œil と書いて「眼を騙す」という意味であり、眼を騙す意図をもって描かれた非現実をだまし絵という。これは絵のようなだまし現実、いわば現実の逆襲である。

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【ヘソのあるなし】

2020年1月24日
【ヘソのあるなし】

今場所の大相撲は録画して夕食時に観ている。横綱大関陣の新旧交代が鮮明になっていて面白い。中継開始時点から早送りなしで見ているので、画面の時刻表示を見た妻が「わあ、うれしい!まだ五時だ!」などととぼけたことを言っている。確かに五時から呑んでいる気分になって嬉しいが、本当の時刻は午後七時を過ぎている。

女性というのは男と違う視点から相撲を見ているようで
「あっ!このお相撲さんおヘソがない!」
などという。

「哺乳類だから誰にもヘソはあるだろう」
と笑いながら腹部に着目して見ていると、確かにまわしの上にヘソが出ている力士は少ない。呼び出しに呼ばれて土俵に上がる力士を
「これはヘソがない」
「これはヘソがある」
と分別作業すると哺乳類は少数派だ。たしかに吊り天井から真下に向けられたカメラで仕切の様子を見ると両生類の睨み合いに見える。

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【忍耐と忘却と背のび】

2020年1月24日
【忍耐と忘却と背のび】

嫌なことは思い出さない、嫌なことはさっさと忘れる、そういう技術が身についたら人生はずいぶん楽になる。

そう考える人は多いらしく、調べるとたくさんの研究報告がある。笑ってしまうのが、脳の中で、嫌なことは思い出さない、嫌なことはさっさと忘れるという働きが認められたとき、何らかのご褒美がもらえるようにすると、だんだん、嫌なことは思い出さない、嫌なことはさっさと忘れる、そういう能力が身につくというものだ。

今日 24 日は給料日だと喜んでいる友人がいて、当座に用立てた金も返してくれるという。自分もまた月末にもらうご褒美としての給料が嬉しくて、仕事だからと我慢した嫌なことは思い出さない、嫌なことはさっさと忘れる、そういう習慣づけの強化子(自発性を促す刺激)となっていたサラリーマン時代がある。

ネットでブログを書いたり SNS で喋り続けるのは、こうだったらいいなと多少粉飾した自分を提示して、言葉で褒められたりフォローされた数字で「自分が認められた」と思い込み、そういう粉飾した自分に実際になりたがることだ。難しい言葉で「自己提示の内面化」という。悪いというわけではなくて、そういう仕組みになっている。

中村雄二郎を Kindle で読んでいて、知の内面化の話が出てきたところでそんなことを思い出した。尊敬するえらい哲学者でもちゃんと内面化された知とそうでないものとがあり、そういうことをきちんと整理されていた。先生は 1925 年生まれで藤枝にいる伯母と同い年だけれどお元気だろうかと検索したら 2017 年に亡くなられていた。

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【校合摺】

2020年1月23日
【校合摺】

馬琴の日記に表紙の校合摺(きょうごうずり)が届いたと書かれており、ああこれは現代でいう校正刷(こうせいずり)のことだなと思う。色版づくりのための墨摺りというより、彫り間違いがないか確かめる校正のためだろう。この頃の馬琴は視力を失って、亡き息子の嫁である瀧澤(土岐村)路(みち)による口述筆記で書いていた。校正もみちのたすけが必要だった。「こうごうずり」と読んでもいいらしい。

立川昭二『この生この死 江戸人の死生観』(現・『江戸人の生と死』ちくま文庫)を読み終えた。高度化した医療や薬がない江戸中期から末期の人びとが、「死もまた自然のひとつの出来事として自分でかたをつけて」いった記録を辿ったもの。
「[…]はたして江戸の病人と現代の病人とどちらが苦痛がひどかったのであろうか。また江戸の老人とこんにちの老人とどちらが幸せであったのであろうか。そして、死に顔はどちらに笑顔が多かったのであろうか」(「おわりに」より)

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