【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―柳宮通り編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―柳宮通り編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 28 日の日記再掲)

江尻宿『メガネの春田』の角を曲がって旧東海道に別れを告げ、巴川にかかる柳橋を風に吹かれてふらふらと渡る。

老舗割烹『玉川楼』と『巴川製紙』の間の道を進み、左手に『静鉄ストア』を見て浜田踏切を渡り、浜田小学校前を通り、清水次郎長の墓がある梅陰寺門前を通り、清水第三中学横を通り、不二見小学校横を通り、新緑町交差点から広大な日立空調システム脇を流れる大橋川にそって延びる道(かなり長い)は宮加三のT字路まで真っ直ぐ続く。この道を『柳宮通り』という。

確か浜田小学校近くに『柳宮通り』の道標があり、なんと読むのかと気になっていたが『りゅうぐうどおり』で良いのだろうか。いったいどの区間をそう呼ぶのかと『柳宮通り』で検索すると『清水次郎長通り商店街』のサイトがヒットし
「さて、梅蔭寺を観たら梅蔭寺前の柳宮通りを左、港橋方向へと戻ればラーメンの五郎八。もちろんラーメンがオススメ」
と書かれているので、梅陰寺のある南岡町辺りまで来ても『柳宮通り』というらしい。

もう一件、不動産情報がヒットし村松にある 122.97 平米の店舗兼用土地付き住宅が 1,933 万円で売りに出ており『柳宮通り』に面していると書かれているので村松まで来てもこの道は『柳宮通り』である。

 

新緑町交差点を過ぎると、広大な『日立空調システム』の敷地にそって流れる大橋川のほとりを道は並行して進み、ちょっと見には城下町のお堀端のようであり、桜と柳の街路樹が続く。

水は清い方がいい。赤い花が咲けば水面は血を流したように赤く染まり、白い鳥が降り立てば水面は清らかな純白の布を敷いて迎える。

清水は温暖なせいか、自然環境さえ健全であれば生き物は地中から湧いてくるように満ちあふれ、生きることの歓喜を歌い上げる生き物の大合唱となる。

夥しい数の鯉に混じって敏捷に群れ泳ぐ川魚がおり、身体をバネのようにして泳いで方向を変える動作を見ているとウグイ(ハヤ)ではないかと思うが、釣ってみないとわからない。鯉は釣るなと書いてあるがウグイは釣って良いのだろうか。

小魚がたくさんいるので、白鷺や鴨にとっても大橋川は絶好の生活の場になっているらしい。

ところでこの辺りも『柳宮通り』と呼ぶのかしらと宮加三の丁字路まで来たら川の中にカメが泳いでいた。助けても竜宮城まで乗れる大きさはないし、だいいちカメは助けを求めていないのである。

『柳宮通り』脇の川を泳ぐカメを見ながら考えた結論は、柳橋と宮加三をつなぐ道だから『柳宮通り』という安直なものだが、さて、違うだろうか。

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―久能街道編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―久能街道編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 27 日の日記再掲)

清水は古い港町なのにどうして蔵が少ないのだろう、とぼんやりと思い日記に書いたりしたこともある。

このところ帰省するたびに、ああこんなところに蔵がある、あれっこんなところに蔵があったっけ、と改めて蔵の多さに驚く機会が増えてきた。

街に蔵が多いことを観光の目玉にしている地域に旅したりすると、道に面して蔵が並んでいたりするのだが、清水の蔵は家の一番奥まった場所にあって通りからは見えないことが多い。友人に西友の裏手、本郷町から辻町にかけての裏通りを歩くと蔵がたくさんあるのがわかると教えられたけれど、どうやらそういう仕組みになっているのである。

旧東海道を京に向かって進み、稚児橋を渡って『いちろんさんのでっころぼう』 のところの追分を左折し入江岡の方に進む道が旧久能街道で、名のある古道の風情が残っているとは思えなかったのだけれど、いくつも蔵が存在しているのを最近知った。

この旧久能街道を地図で見ると『清水富士宮線』という名前がついており、北上すると稚児橋を渡り、江尻町、宝町、小芝町、二の丸町、大手町を経てそのまま富士宮に繋がっているらしく、県道 75 号線という。

で、その逆方向に南下すると、県道 75 号線は入江岡跨線橋を渡り、入江岡町、浜田町、上清水町と進むのだけれど、なぜか途中で細道に左折し、村上クリニック、鈴木眼科の玄関先をかすめて道なりに右に曲がり、禅叢寺門前を左折し昨日の日記の『萩原商店』の辻に出る。

その先が更に奇妙で上町の專念寺を過ぎ 2004 年 9 月 18 日金曜日の日記【夾竹桃の似合う港町】に出て来る八百屋の所を右折し、どんどん直進して富士見橋の方に左折し、田村歯科のところを右折し、清水蔵談義でお世話になった石野源七商店前を通り、港橋方向に左折し港橋を渡ってさつき通りを北上し入船町の角で尽きている。

昔は間口の幅に応じて課税されたそうで、古い商家は間口が狭く奥が深い。清水を歩くと旧街道以外でもそういう土地割りになっていることが多く、なかなか土地の譲渡などによる商業者の新陳代謝が進まない理由のように思える。清水は名を知らないような道にも古くから商家があったようだ。

古い商家が廃業し、廃屋となって細長い土地が更地になり、街並みが櫛の歯状態になってくると、隣接する家々の奥が見渡せるようになって蔵の存在がわかる。本来なら居住者の許可を得なくては見えなかった蔵を近くまで寄って見ることができ、実に様々な意匠の蔵があることが楽しい。

それにしても道に面して店舗があり、その奥に住まいがあり、最も奥まった場所に蔵があるのでは、蔵の中身の出し入れが厄介だったろうなと思うのだけれど、蔵の主でないとその辺の事情はわからない。物資の集散にもっと使い勝手の良い蔵が必要だったのではないかと考えると、港沿いに膨大にある倉庫群がかつては清水の蔵だったのであり、街の中にポツポツとある蔵は商家の金庫みたいなものだったのだろう。

清水町にある珍しいレンガの蔵(写真大上)、幸町にある見事な石の蔵(写真大下)を眺めて清水蔵散歩を終えるけれど、それにしても旧久能街道別名清水富士宮線別名県道 75 号線はどうしてあんなに迷走しているのだろう。

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【おでんのさりげなさに学ぶ】

【おでんのさりげなさに学ぶ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 25 日の日記再掲)

清水市内、母の用事で親戚の家からの帰り際、激しい雨に遭遇する。
 
自転車を置いて帰れと言われたけれど、そうすると次回帰省した際に取りに行くのが面倒であり、ええいままよ、とペダルを踏んで雨の街に飛び出したけれど、すぐにずぶ濡れになるほど雨脚が激しい。徒歩で帰る時のために傘も用意していたのを思い出し、傘をさして自転車に乗ってみた。

雨傘を差して自転車に乗る女子学生やご婦人の姿をよく見かけるけれど、小学生時代に自転車を覚えて以来、傘をさして自転車に乗ったことがない。だが、女こどもにできることが大の男にできないはずはないと思い、挑戦してみたらなかなか調子がいい。
 
調子はいいのだけれど、舗道沿いのガラスに映る自分の姿がひどく気になり、それが滑稽で恥ずかしい。
 
思えば 1992 年のアルベールビルオリンピック、3 回転半ジャンプ「トリプルアクセル」を成功させて銀メダルを獲得した伊藤みどりが、エキジビションで和傘を持って登場し満面の笑みを浮かべてオリエンタルなスケーティングを披露した時の衝撃に似ていて、自分が「ぶんぶくちゃがま」の狸になり、傘をさして自転車の曲乗りをしているように思えてきた。

雨の黄昏時、商店に灯りがともり人恋しい時間帯になる。
むかしは子ども相手に商売する駄菓子屋が路地裏にたくさんあった。郷里静岡県清水のそれがひときわ特色豊かに思い出される理由の一つに、店の隅に必ずといってよいほど、さりげなくおでんの鍋が置かれていて、煮染まった匂いのする茶色い湯気を上げていたことがある。

祖父母や母は駄菓子屋のことを「一文商い(いちもんあきない)」と呼びそれは当然戦前の言葉なのだろう。果たして戦前の「一文商い」にも、片隅にさりげなくおでん鍋が置かれていたのだろうか、それとも清水のおでんは広島のお好み焼きのように戦後の焼け跡に芽生えた食文化なのだろうかと気になり、母に尋ねてみると清水の「一文商い」には戦前もおでん鍋があったという。清水っ子は戦前から「おだっくい」であるとともに「おでんっくい」でもあったらしい。

清水の駄菓子屋も今ではほとんど姿を消してしまったけれど、そういう店で育った世代が働き盛りとして社会に存在するせいか、清水ではバーのカウンタ席に座ると端におでん鍋があったり、中華料理店の土間の真ん中におでん鍋があり、注文した料理ができるまでセルフサービスでおでんをつまみながら一杯飲むなどという、さりげない行為が今でもさりげなくできるのである。

さりげないということは難しい。
 
「さりげ」というのはそうでありそうということだ。そうでありそうでないことが「さりげない」わけで、駄菓子屋やラーメン屋に意表をついてさりげなくおでん鍋があることを咄嗟には真似し難いように、老いた母親の介護をしていて「さりげないやさしさ」などを口に出して求められてもなかなか難しい。汗だくになって頑張れば、
「あんたも大変なんだから無理にやさしくしてくれなくたっていいよ」
などと言われるし、気づかれないところで気を使えば全く気づいてくれない上に、気のつかない息子だと他人に漏らす愚痴を聞くこともあるし、一所懸命介護をしているつもりでも、
「男の子はだめだ、その点女の子はやさしい…」
などと言われたりするのだ。

さりげなさは複数の人間による共同制作物である。さりげない行為をする人がいて、それをさりげないと心で受け止めて感じられる人がいて初めて成立するのだ。さりげないやさしさはさりげないが故に、「やさしくしてくれているようではなかったのに実はやさしくしてくれていたんだなぁ」と後になってしみじみ思い出されたりする宿命なのかもしれないと思うことにする。息子のさりげないやさしさなんて、母親には人生の再起動でもしてもらわない限り、わかってもらえないのかもしれないのだと。
 
そんな他愛のない愚痴を心の中で呟きながら傘をさして自転車を漕ぎ、「おでん」の文字を見かけると、さりげなく自転車を停め、さりげなく曲芸用の傘を畳み、さりげなく暖簾をくぐって、さりげなく黒はんぺんやこんにゃくの串をを皿に取り、さりげなく地元生産サッポロ黒ラベルを自分で冷蔵庫から出し、さりげなくカウンタに座って、さりげなく大相撲中継を見ながら飲み、さりげなく酔って勘定を済ませ、外に出るとさりげなく雨が上がっており、常連客が「ありゃあだれだっけか?」などとさりげなく噂している……そんな過去にあったかどうだかわからない暮らしが無性に懐かしくなる。

写真大上:お店の名前は「みく」ではなく「くみ」なのだと思う。入って見たい店の一つ。
写真大下:中華以外に和食も日本蕎麦もフライもおでんもあり、ポーカーならロイヤルストレートフラッシュ。
写真小:清水っ子ならどんなジャンルの料理名に挟まれて「おでん」の3文字を見ても驚かないさりげなさを身につけている。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-W1]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―狐ヶ崎編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―狐ヶ崎編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 23 日の日記再掲)

東海道江尻宿を抜け、巴川にかかる稚児橋を渡り、そのまま府中宿の方に向かう途中に追分があり、東海道本線と静岡鉄道の踏切を渡ると道は登り勾配になる。

この辺りは平川地といい、『平川地一丁目』とかいうまだ十代の兄弟による音楽グループがあるそうで、その名はこの場所にちなむ。

道端に無人売店があるので何を売っているのかと覗いたら、ビニール袋に入れられたメダカだった。この辺りはまだまだメダカのいそうな側溝はあるし、或いはちゃんと水槽で繁殖しているものかもしれないが、いずれにせよメダカの無人販売を見るのは初めてであり、なんとなく「ああ平川地」である。

登り勾配の坂を上りきったあたり、大きな木の根方に古びた石碑があり、「久能寺観音道」と書かれている。旧東海道から左手に道が分かれて行くもう一つの追分、そのまたに当たる場所に大きな農業用水池があり上原堤(うわはらづつみ)と呼ぶ。この上原堤のほとりにかつて遊園地があり、その名を『狐ヶ崎遊園地』といった。

昭和 2 年 4 月 1 日、静岡鉄道により開園された遊園地で、同年清水を訪れた北原白秋作詞による宣伝歌は全国に知られるようになり『ちゃっきりぶし』という。地元に遊園地があるというのは誇らしくもあり、幼い頃は狐ヶ崎遊園地に遊びに行くのが贅沢であり、楽しみでもあった。

静岡鉄道狐ヶ崎遊園地駅からのアプローチにも歓楽地的な猥雑さが溢れており、大人も子どもも日常の暮らしから羽目を外すためのつましい仕掛けがあったことを懐かしく思い出す。
昭和 43 年にはプールやスケート場やボーリング場を備えた『狐ヶ崎ヤングランド』と改称され、平成 5 年に遊園部門が廃止されることによって『狐ヶ崎遊園地』の歴史は終止符を打たれた。

現在はその跡地に大手スーパーによる郊外型複合ショッピングセンターができて大変なにぎわいである。

郊外型複合ショッピングセンター、これもまた一種の歓楽地なのだけれど、『狐ヶ崎遊園地』が純粋な玩具とすれば、玩具に食品が抱き合わせになったおまけ付きグリコのようなものであり、娯楽のおまけとしての安価な食品や衣料雑貨が地域の経済力を収奪するという、全国どこにでもあるポンプ場になっている。

上原堤のほとりを風に吹かれて歩き、思い出の『狐ヶ崎遊園地』入り口はどこだったかしらと記憶を手繰り、狐ヶ崎駅へと向かう。

もつ焼きやカレー煮で一杯飲ませる店(お食事処『いとう』)があったので軽くビールでも引っかけて思い出散歩の仕上げをしようと思ったら、慌てて家を出てきたので財布を持っていないことに気づき、あやうく無銭飲食をして思い出を汚すところだった。

激しい夕立となり、一文無しの旅人の涙雨となる。司馬遼太郎の『箱根の坂』に太田道灌が狐ヶ崎まで来て陣を張る話が出て来るが、その狐ヶ崎はもう少し別の地点になる。

写真小上:平川地とメダカ。
写真大上:狐ヶ崎遊園地入口前あたり。
写真大下:上原堤。切なさで胸が一杯になる。
写真小下:狐ヶ崎駅前の往時の喧騒が夢のよう。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-W1]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―追分編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―追分編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 22 日の日記再掲)

東海道江尻宿を抜け、巴川にかかる稚児橋を渡り、そのまま府中宿の方に向かう途中に追分がある。

追分というのは道がふたつに分かれる分岐点なのだけれど、どうふたつに分かれるかというと、東海道から清水湊への道が分岐するのであり、「是より志三づ道」と刻まれた道標があることで、辛うじてそれとわかる。

追分というと追分節を思い出し、幼い頃は素人が民謡の腕前を競うテレビ番組なども多かったので、その長く尾を引くような哀調を帯びた歌声を聞くたびに、追分という言葉の意味は知らなくても、追分というのは哀愁のこもった場所なのだろうと思ったものだった。

別れというのは哀しいもので、人の別れはもちろんのこと、道が分かれていくのも哀しいし、考えようによってはズボンが左右二股に分かれていることさえ哀しいといえば哀しい気もするのだ。


春夏冬の休みの間、郷里静岡県清水の祖父母の元に預けられて過ごした小学生時代、清水から東京に戻る際に必ず買い求めたのが 1695(元禄 8 )年創業の老舗菓子店が販売する銘菓『追分羊羹』である。竹の皮に包んで蒸した羊羹は独特の風味があって僕は大好きなのだけれど、そのパッケージの赤から白へ長く尾を引くようなグラデーションがいかにも追分風で、昔も今も見ただけで切なくなり、口の中に竹の香りが広がったりする。

清水市内を歩くと追分羊羹の長く尾を引くようなグラデーションがあちらこちらで目につき、とくに本店のある東海道追分付近にはそれが多い。

追分羊羹の本店を過ぎて少し行くと「春まだ浅き文久元年( 1861 )正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った…」と解説板を添えられた都田吉兵衛供養塔がある。

「その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ…」と続くように、この場所が都田吉兵衛にとってこの世とあの世の追分だったのである。

大沢川にかかる金谷橋を渡り真っ直ぐに進むと JR 東海道線と静岡鉄道を横切る踏切がある。静岡鉄道入江岡駅付近から並行して仲良く走るふたつの鉄道路線が、この踏切の先、静岡鉄道狐ヶ崎駅を過ぎると二手に分かれていくわけで、ここにもまた追分があるという多重構造になっている。

写真小上:東海道に追分ムードを醸し出す電柱の看板。その先は国道1号線大曲交差点。
写真小下:追分羊羹本店。
写真大上:さくら幼稚園向かいあたりに手作りの草履や箒を作っているお店がある。
写真大下:追分の先の踏み切り。住所は清水有東坂になる。
写真小下:都田吉兵衛供養塔。

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【タイムスリップ江尻町】

【タイムスリップ江尻町】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 21 日の日記再掲)

9 月 19 日、東京へ戻るため清水駅まで歩いたら、創業明治 30 年、栗田せんべい本舗前の道の表皮が剥がされ、アスファルト舗装工事中だった。

土の道の感触を足の裏に感じながら町を歩いて懐かしいと思う世代は、僕の年齢くらいが最後かもしれない。東京オリンピックに前後して道路の舗装が急速に進展したような気がし、それ以前は舗装道路など表通りの主要道に限られ、一歩路地に入れば未舗装のどろんこ道だった。

清水市内で通い詰めた駄菓子屋の前には、バイやナガラミ(キシャゴ)の貝殻が落ちて足で踏まれ地面にめり込んでおり、モースが通りかかったら貝塚と間違えたかもしれない。清水の駄菓子屋は子ども相手に貝を煮て商っていたのである。

未舗装の道というのは雨が降るとぬかるみ、自動車の轍が通る部分は深くえぐれ、タイヤが嵌ってスリップし、麻袋や藁ござ、板きれなどをタイヤの下に敷き、通りかかった人々が手を貸してウンウン唸りながら押す、などという光景がよく見られた。

地面にはビー玉やベーゴマなどの宝物がめり込んでいたりしたこともあるし、馬蹄形の磁石に紐を付けて引き摺って歩くと驚くほどの古釘が付いて来たりした。

自動車は砂利を踏んで走るので、家の前にクルマが停まるとすぐにわかったし、通過する車が跳ね飛ばした小石が壁に当たったりしたし、水跳ねが飛んで塀の下半分が泥だらけだったりもした。晴れの日が続いて乾燥すれば土埃が舞い、夏は水撒きが欠かせなかったし、夕立が来ると何とも言えない土の匂いがして「雨だ!」とわかったりしたものだった。

アスファルトやコンクリートの道より、土や砂利の道は足裏に気持ちがよく、その触覚もさることながら、何十年ぶりに現れた土の道の両脇に続く郷里の町並みを見ていると遠い昔にタイムスリップしたような気分になり、ステテコ姿のお父さんたちが縁台を持ち出し、割烹着姿のお母さんたちが水撒きをし、半ズボンでランニングシャツ姿の子どもたちが走り出してきそうな気がしたりする。

家の前の道がアスファルトやコンクリート舗装ではなく、土や砂利道だったら良いと思う人の数を尋ねたら、100人中何人居るだろうか。僕も通りに面した一軒家で暮らしていたら舗装してもらう方を選ぶとは思うけれど、便利な暮らしを選択することで失うものもあった、ということをふっと再確認したりする。

写真小上:清水江尻町、きんつば屋の前にも昭和三十年代が戻って来た。
写真大上下:清水江尻町、栗田せんべい本舗前。

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【ヤマチョーとカネチョー】

【ヤマチョーとカネチョー】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 20 日の日記再掲)

清水の町を歩くと気のせいかもしれないけれど、ヤマにチョーの屋号(屋号紋)を見ることが多い。

清水在住の骨董市好きの従兄に頼んで買ってもらった前掛けにヤマにチョーの屋号が染め抜かれていて驚いたし、八百屋にも海苔屋にもヤマにチョーの屋号を見かける。

次郎長さんについて詳しい魚屋さんに、
「清水にヤマにチョーの屋号をつけた店が多いのは、やっぱり海道一の大親分、清水の次郎長さんにあやかりたいという願いがあるのかな」
と言ったら、
「次郎長の屋号はヤマにチョーじゃなくてカネにチョーですよ」
などとびっくりするようなことを言う。
「えっ、だって次郎長生家の暖簾にもヤマにチョーって染め抜かれてるよ」
と反論すると、
「カネにチョーが正しいんです。復元された末廣(晩年の次郎長が営んだ船宿)を見てください」
と笑うので帰りに港橋を渡って見に行ったら確かにカネにチョーだった。

次郎長ものの時代劇に登場するのはたいがいヤマにチョーの屋号だったこともあり、てっきり山本の長五郎だからそうなのかと思っていたのだけれど、半世紀近くも勘違いしていたらしい。

東京に帰って来てつらつら考えるに、山本の長五郎だからヤマにチョーだったと勘違いしていたとするならば、どうして次郎長はヤマにチョーではなくてカネにチョーだったのかと気になって仕方なくなって来た。

午前中の暇そうな時間帯を狙って魚屋さんに電話し、
「カネにチョーのカネはどう次郎長に関係あるの」
と質問してみたら、「調べてみますよ」との返事だった。

仕事をしながら考えてみたら、ひどい愚問で働き者の仕事の邪魔をしたかもしれないと反省する。他人のせいにするわけではないけれど(と言いつつ他人のせいにするのだけれど)だいたい屋号の付け方の説明に、
「山下さんちの大輔さんだからヤマにダイでヤマダイさんと付けたりしたのです」
という説明が世間に多いのが間違いなのかもしれない。
 
もしそういうルールで屋号を付けると決まっているのなら、カネを冠した屋号は金子さん、金田さん、金森さんちの誰それでなくてはならないし、マルを冠した屋号だと丸山さん、丸井さん,丸木さんちの誰それでなくてはならず、だったらキッコーを冠した屋号の人は亀甲さんという苗字(あるのか?)、たとえばキッコーマンさんは亀甲家の万太郎さんが創業者でなくてはならない。

第一、江戸時代の庶民には苗字なんてなかったのであり、長介とか、六蔵とか、八兵衛とかのどこにでもあるような名前の頭に、文字の読めない者でもそれぞれを区別し覚えやすくするための記号としてヤマやカネやマルやキッコーなどを冠しただけではないかという気がして来た。
 
そんなわけで次郎長が屋号を付けようとしたときにはすでにヤマチョーがたくさんあったのかもしれない、あるいは次郎長さんはヤマチョーよりカネチョーの方が好きだったから適当にカネチョーにしただけかもしれないなと思いつつ、それでもカネチョーの屋号と次郎長さんの意外な関係でもネット上で見つからないかと「カネチョー」で検索したら「オカネチョーダイ」がたくさんヒットし夢を壊しそうなのでやめにする。

   ***

17 年ぶりに魚屋さんに答えを確認してみた。
屋号のカネは、単純に縁起の良い「金」にかけたものと、曲尺の様に真っ直ぐ=正直に因んだものがあるそうだが、次郎長が屋号に用いたのか意図はわからない。明治 17 年の博徒一斉刈込で投獄され翌年仮釈放後に鉄舟らに「正業を持て」と勧められて船宿商売をすることとなったようなので、曲尺の方かもしれない。
港橋傍に復元された末廣のカネチョーの文字は、次郎長研究家田口英爾さんの判断によって配したもの。根拠は戸田書店の「人間次郎長」の末廣の事を記したページにも写真掲載されているように「清水港船宿末廣カネ長」の印鑑が存在する事と、小笠原長生の「大豪清水次郎長」の中で、末廣の横壁に白塗りで屋号が描いてあったという懐古録を元にしたものである。
次郎長生家は本来は高木家で「薪三」が屋号。「生家」として一般公開した際に、映画のシーンで次郎長一家が「ヤマ長」法被で勢揃いがお決まりだったので生家の演出に用いたらしい。

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【三盛楼の人々】

【三盛楼の人々】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 19 日の日記再掲)

帰郷して一人暮らしに戻ってみたものの、全く外出をしていないという母を誘って『三盛楼』に行ってみた。中高生時代、何度暖簾をくぐったかわからない懐かしい店である。

モノにはいろんなモノがこもる。どんなモノにも例外なくこもってしまうモノがあって、それを思い出と呼ぶ。それはモノの中にこもっているように見えて実は感じる人の心にこもっているに過ぎないので非常にいかがわしいモノなのだけれど、モノ自体にこもっているように感じられる人が集まると、集団でかかる催眠術のように現実味を帯びてしまう。

暖簾をくぐって店内に入ると胸が詰まる。テレビ下のビニール製長椅子が向かい合わせになったボックス席など、中学生時代のままである。この店は僕の学区内にあり、近所にとても美しい級友が住んでいた。母と二人昼食に立ち寄ったら彼女もまたお母さんと二人でこの席に座って食事中であり、親同士も参観日などに会って顔見知りなので挨拶をし、隣に座って一緒にラーメンをすすった。思春期の男女が一緒に麺をすするという行為にはエロスがあると確信したのはこの時であり、中学三年生だった。

懐かしい席に座って、母と向き合ってラーメンをすするがそこにあるエロスはきわめて希薄である。ぼんやり遠い日の思い出を麺に絡めながらチビチビすすっていたら、母が笑顔になって輝く。万世町の通りでかつて行きつけだった居酒屋のご夫婦が、お孫さんを伴い暖簾をくぐって入ってきたのである。

勘定を済ませての出がけに横に立って挨拶をした。
「郷里清水で一人暮らしをする母がいることで頻繁に大好きな町に帰ってこられることに感謝しているんです」
と言ったら、「がんばれ」と握手をしてくれた居酒屋のかあさんである。
母が倒れて以来ご無沙汰だったのであり、
「どうした?」
と聞くので
「母はすい臓がんになっちゃいました」
とひとこと言ったら目に涙を浮かべて
「がんばれ」
とまたひとこと言った。地域で頑張るという言葉に含まれる胸の詰まるような思いを、多くを語らずともわかり合える大好きなかあさんなのだ。

清水で懐かしい店に入ると、思い出などよりもっと確かな逢いたい人がこもっていることが多く、いつも得した気分になる。

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【夾竹桃の似合う港町】

【夾竹桃の似合う港町】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 18 日の日記再掲)

清水旧市街を自転車で走ったら満開の夾竹桃の花が目につく。花は 6 月頃から開花し 9 月頃まで咲くそうで、事典で開花時期を調べたら「晩夏」という言葉が目にしみる。

夾竹桃には猛毒があるので地域によっては屋敷内に植えない、などという話を聞くけれど、なぜか美しい夾竹桃は人の暮らしに寄り添っていることが多く、公害に強いという理由で街路樹や公園樹にされた姿を見るより、人と共棲する姿こそが印象的である。

病いを得た母は、人の「生=死」に手で触れるような職業の人に接する機会が増え、それは医師や看護師であったり福祉職員あることが多く、来週は市の高齢福祉課職員の訪問を受けるらしい。そういう人たちがする人の生死に手で触れるような行為、言動は傍で見聞きしていると非常に面白く、対象者の生死に触れているつもりで、実は自分自身の死生観に触れていたりするわけで、母を触媒としてさまざまな人の人間性が露わになるようで興味深い。

人の数だけ、その死生観も様々であり、接する人によっては元気づけられることもあればその逆もあるわけで、
「嫌なことを言われたことは忘れて前向きに生きよう!なるようにしかならない」
と母を励まして、ひとり美濃輪町の魚屋まで買い物に出る。

清水上町の懐かしい八百屋脇にも、清水本町の清水保育園園内にも、良く似たピンクの夾竹桃が満開である。八百屋にも保育園にも夾竹桃がよく似合う。

裏通りにある酒屋の店頭に張り紙があり、生ピールの立ち飲みができるらしい。「ジョッキ」ではなく「ジョーキー」というのが冗談めいていて楽しいし、気分も高揚して上気したり、上機嫌になれそうな気もする。「 1 人 2 はいまで」という注意書きにも何とも言えない味わいがあって清水らしいなぁと思い、思わず自転車を止めて「 2 はい」引っかけたくなるが今日のところは我慢する。
 
人が昼間から飲酒する隙間のある町というのは、人と夾竹桃が寄り添って生きる姿に似ているような気がして好きだ。

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【角丸派のいま】

【角丸派のいま】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 13 日の日記再掲)

清水のきんつばは丸い。

清水のきんつばが丸いと教えると、普通きんつばは四角いもので、清水のそれは異端であっていわば「丸きんつば」だなどと笑われることが多い。広辞苑第五版には、

きんつば‐やき【金鍔焼】
水でこねた小麦粉を薄くのばして小豆餡(あずきあん)を包み、刀の鍔のように円く平たくし、油をひいた金属板の上で焼いた菓子。文化・文政( 1804~1830 )の頃江戸で流行。今は、四角く切った餡を、小麦粉を薄く溶いた液につけ、平鍋で焼く。きんつば。

とあり、そもそも丸いのが普通だったようなのだけれど、四角いきんつばが普通だと主張する人が多くてびっくりする。

スーパーマーケットのパンや総菜売り場の近くにはパック入りの和菓子などが売られていることが多く、大手製パンメーカー製でなければ地元の和菓子屋が納品しているはずだと思いつき、ご先祖の墓参りついでに通りかかった北街道沿いの農協ストアを覗いたらやっぱりきんつばが売られていて見事に丸かった。

ひょっとすると清水の正統派和菓子店の中には丸いきんつばをきんつばとして商っている店があるのかもしれないので、帰省のたびにシラミつぶししてみようかと思い、まず手始めに実家に最も近い入江商店街、旧東海道沿いにある老舗和菓子店『竹翁堂』さんを覗いたら売られているのは四角いきんつばだった。

だが、ちゃんと「角きんつば」と書いてあるのが嬉しい。

普通きんつばは丸いものだったのであり、全国的に普及した四角いきんつばこそ異端であって、いわば「角きんつば」とでも呼ぶべきものなのだと『竹翁堂』さんは教えている……ような気がする。

写真大上:農協で売られていたきんつば。この製造メーカーの草小饅頭も美味しかった。
写真大下:竹翁堂さんの角きんつば。第24回くまもと菓子博2002金賞受賞。
写真下:いちろんさんのでっころぼう、その右隣が竹翁堂。「サッカー必勝最中」と書かれている。

 
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【巴川とボラ】

【巴川とボラ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 8 日の日記再掲)

清水みなと祭りで踊られる『次郎長踊り』という歌に登場する「ほてっぱら」という言葉、満腹状態のおなかのことであり、『大言海』によれば腹の太いことを意味する「ぼら」と同義である。

「ほてっぱら」を叩いてご機嫌に『次郎長踊り』を踊る清水っ子に相応しいのか、昔から巴川はボラの宝庫だった。とはいえ、僕が学校に上がる頃の巴川は思いっきり汚くて、今は驚くほどに綺麗になったので、安心して世界の中心で真実を叫べば「高度成長期の巴川は地獄のようなドブ川!」だった。

それでもそのドブ川をボラは元気に遡上し、万世橋の上から竿を振る人の足元には釣り上げられた大きなボラがゴロゴロ転がっていたものだけれど、
「これ、食べるの?」
と聞くと、
「臭くて人ん食えるわけんないじゃん、犬にくれるだよ」
などと笑われたりしたものである。

稚児橋たもとから柳橋まで、巴川沿いを歩いていたらボラが群れをなして川を回遊しながら、コンクリート護岸に生えた苔を囓っていた。ボラは海底や川底の泥を食べて餌だけ体内に残し、泥を排泄する、そのために胃の出口である幽門部が発達して「へそ」とか「そろばん」などと呼ばれ、漱石の『吾輩は猫である』にも登場するのだけれど、たいへんな珍味なのだそうだ。というわけで、泥を食べる魚と記憶していたボラが、鮎のように苔を囓り取るのは初めて見た。

食べているものが食べているものだけに、相当綺麗な棲息場所でないと、ボラは食べる気にならないのだけれど、僕がよちよち歩きだった頃の巴川は驚くほど綺麗だったし、戦前はもっともっと綺麗だったらしい。

坂政合板脇の清水水道橋が漏水し、その下に小さなボラが集まり、それを網ですくい取った祖父はよく田楽焼きにして母に食べさせてくれたと言う。コハダのそれと同様できっと美味しかったのだと思う。

ボラといえば唐墨が有名だけれど、活きが良ければ刺身や湯にくぐらせて酢醤油で、さらに塩焼き、味噌焼き田楽、味噌煮、ムニエル、バター焼き、唐揚げなどでも食べるらしい。そして、20cm 弱のボラ(オボコ・イナッコ・スバシリ・イナ)の腹に酢飯を詰めてほてっぱらにさせた「雀鮨」(大阪)、ジャガイモと一緒にすり下ろして団子にした甲州揚げ(山梨)、照り焼きをご飯に載せてお茶を掛けた「ぼらちゃず」(石川)、腹に八丁みそ・ネギ・ゴボウショウガ・味醂・酒を混ぜたものを詰めて串焼きにした「イナ饅頭」(愛知)など、様々な郷土料理も伝承されているわけで、素性さえよければ美味しい魚らしい。

夕暮れ時になるとボラが水面からジャンプする姿を見るのも、最近は巴川名物になりつつある気もするけれど、昔からボラのジャンプは有名で、1.5m も飛び上がって反転し、頭から着水するのだという。巴川のボラは水深が浅いせいか、はたまた栄養豊富な川なので「ほてっぱら」になっているせいか、着水は見事に腹打ちしていてボラも痛そうである。

柳橋橋上駐車場に帰省時は自動車を置いているのだけれど、リール竿を欄干に何本も立ててボラを真剣に釣り上げているご夫婦がいた。ワンボックスカーで乗りつけ、駐車場の駐車料金を払ってまでして真剣に釣っている姿を見て、
「これ、食べるの?」
と聞いてみたい衝動に駆られる。

写真小上:巴川製紙工場。
写真大上:ボラはハク→オボッコ(イナッコ)→スバシリ→イナ→ボラ→トドと出世するが、ちゃんと所属階層ごとに群れている。これは若衆。
写真大下:これくらいの大きさになると、そろそろ湾内に下る。
写真小下:雨上がりの巴川。対岸にあるのは庵原屋。

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【誕生日の夜】

【誕生日の夜】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 4 日の日記再掲)

滝のような汗をかく外国人野球選手がいて、投手としてマウンドに立ち帽子の庇に水道の蛇口でもついているかのように水をしたたらせるさまを見て「やっぱり外人はダイナミックに汗をかくね~」と家族でテレビを見ながら感心したりするのだけれど、郷里清水の実家で大工仕事をしたら、額に蛇口があるかのように汗をかき、外人並みな自分を発見してちょっと嬉しい。

大工仕事が終わる頃を見計らって友人が寄ってくださると言い、ビールを冷やして待っていたら 6 時過ぎから雨になった。

懇意にしていただいている市内の魚屋さんからも電話が入り、子どもや奥さんも連れて寄ってくれると言うので、母と二人で過ごす誕生日の夜が思いがけなくも賑やかな夜になる。

他人のために「 ♪Happy Birthday To You 」を唄い、ケーキを用意したことはあるけれど、こんなに大勢の人に囲まれて自分の誕生祝いケーキの蝋燭を吹き消すなどと言う晴れがましい体験は初めてだし、ましてや母と一緒に過ごす賑やかな誕生日は生まれて初めてである。

子どもたちの歌が終わり、ろうそくを吹き消せというので、母に消してごらんと言うと一本しか消えないので残りを僕が吹き消してケーキ入刀となる。
「 ♪ Happy Birthday To You 」と大勢の人に唄って貰える誕生日など、まさに外人並みだなあと感動する。

雨がますます激しくなり、1974(昭和 49 )年 7 月 7 日に清水市を襲った七夕豪雨を彷彿するような状況になり、町内のスピーカーから流れる防災放送も大雨洪水警報発令を告げるので、友人たちも自動車が動けるうちにと早々に帰って行き、母は「楽しかった」と満足しつつも倒れるように眠ってしまう。

台所に立ち、洗い物をしながら雨音と防災放送に耳を澄ます。
結局 12 時近くまで雨の勢いは弱まらず、市内でも床上浸水の被害が出たという。駅前銀座の友人の店も半地下のフロアに浸水したと言うが、深夜のアーケード内に押し寄せた雨水を使って店頭のシャッターをブラシで洗う呑気な商店主もいたと言うし、1 時間あたり 120mm を超える降雨は七夕豪雨並みだったかと聞いたら、
「んなもん、七夕ん時のたあ、くらべもんになんないだよ」
などと笑われてしまった。清水っ子は豪雨慣れしているのだ。

それでも久し振りに体験する、海から次々に湿った雨雲が供給されて間断なく降り注ぐ郷里清水怒濤の集中豪雨は、空に水道の蛇口があるようでやっぱり外人並みだなあと、妙に誇らしかったりもして、人生で一番幸せだったかもしれない誕生日とともに思い出の一夜となる。

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