【清水で清水を考える……4】

【清水で清水を考える……4】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 8 月 5 日の日記再掲)

二の丸の人々

城下町とはよいものだと思う。
 
堀があり城が残っているからどうなんだ、という気もしないでもないけれど、たとえ存在価値が空疎であったとしても、中心と周縁を持つ町の活力は、情緒的な側面からも、ちょっと羨ましい。
 
清水にも戦国時代にはいくつか城があった。
その最大のものが江尻城であり、永禄 12( 1569 )年、駿河に進出した武田信玄が、三ヶ月という突貫工事で完成させたものだった。その 10 年後の天正 6( 1578 )年、一年余のの工期で改築されるのだけれど、こちらは東海の名城と呼ぶにふさわしい秀麗なものであったらしい。本能寺の変で命を落とす直前、武田氏を滅ぼした戦の帰り、徳川家康の接待で観光をした織田信長が一泊した城が、この江尻城だった。武田氏滅亡の後、徳川家康の手に渡り、東海道五十三次の宿駅制度が整う頃には廃城となり、現在では往時をしのぶ遺構はほとんど残されていない。
 
清水市二の丸町、年寄りたちが「二の丸」と呼ぶ地域がある。
旧東海道を駿府側から江戸を目指して進み、巴川にかかる稚児橋を渡り、左手に魚町稲荷を見て右折し、清水銀座商店街に入ると、そこが東海道五十三次 19 番目の宿場「江尻宿」なのだけれど、そのまま右折せずに直進し、左手小芝八幡宮の手前で左折したあたりが二の丸町ということになる。

わけもなく気になる地域だったので、散歩してみた。
右手の中華麺飯「三徳」という店が何とも気になる。その斜め向かい「長沢米穀店」という米屋さんは、母が清水市内におにぎり・お茶漬けの店を開店した際、米を配達してくれた店だ。「米は二の丸からとることに決めた」と聞いた記憶がある。

さらに進むと、右手に「濱格打刃物店」という、鋤や鍬などの農機具を扱うお店がある。
江尻城下には鋳物師町、鍛治町、紺屋町、魚町などわずか三十年の間に城下町が形成され、そういえば、この通りは蕎麦屋、割烹材料品店、石材店、薬局などもあって、ちょっとした商業地域になっているようだ。

この通りはそのまま直進すると高橋町で北街道と交差する。
陽炎立ち上るアスファルトの彼方から子供御輿がやってきて小路を入っていくので、行ってみるとそこには「二の丸稲荷」という小さな社があった。まさに江尻城の二の丸があった場所で、城の鬼門よけに建立された神社が「二の丸稲荷」なのである。

この地域は明治時代になっても独立した自治組織を持ち、「二の丸」と名乗ったまま、現在に至っている。静岡市に吸収合併された揚げ句、消え行く清水の地名も噂される今日この頃だけれど、「名こそ惜しけれ」鎌倉武士の心意気を引くまでも無く、強い「自治」の心で守る「地域」。これこそ、小さくても立派な城下町かもしれない。

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【清水で清水を考える……3】

【清水で清水を考える……3】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 8 月 4 日の日記再掲)

清水おでんをもう一度

時折、雑誌などで紹介されることもあるけれど、静岡県清水市にはちょっと変わったおでんがある。

子どもの頃、僕の親の世代が「一文商い」などと呼ぶいわゆる駄菓子屋では、どの店でもこの独特のおでんを食べることができた。「静岡おでん」などと紹介されることもあり、静岡市内にもよく似たおでんを食べさせる店があるのだけれど、どういうわけか幼い頃清水市内で食べたおでんとのギャップが埋まらず、ああ「清水おでん」が食べたいと思うことが多かった。

清水市内、浜田小学校近く、南幹線沿いに懐かしい店構えの「清水おでん」の店があり、以前から気になっていたので清水みなと祭りに帰省したついでに立ち寄ってみた。

鍋の中で煮えているのは、黒はんぺん、じゃがいも、薩摩揚げ、コンニャク、モツなど。
いわゆる関東炊きで、そのままでも十分に味がしみているのだけれど、さらに真ん中の八丁味噌を主体にした甘だれをつけていただくのである。さらに、「だし粉」と地元で呼ぶ鯵節、鯖節などの粉に青海苔を混ぜたものを付けて食べるのが「正統派清水おでん」なのだが、このお店では「だし粉」のかわりに和がらしを付けることになっているようだ。

当時の清水の駄菓子屋では、バイ(ツボ)やナガラミ(キシャゴ)という巻き貝を塩ゆでにしたものも売られており、さながら今のファーストフード店のようだった。どれも大人の酒の肴になるものばかりで(現在は高価になって、本当に酒の肴化している)、清水っ子は群を抜いて酒飲みに育つ率が高かったのかもしれない。


真ん中の味噌壺に浸ける際、おでん種を取り落としてしまう者も多く、味噌を付ける振りをして、竹串で壺の中をかき回し、拾い物をするなどといういじましいことをしたのも懐かしい。おでん種取り落とし防止のため、薩摩揚げの先に小さく切ったコンニャクで滑落防止策を施してあるのにも、このお店を経営する老夫婦の思いやりがうかがえる。

店に入った瞬間、鼻を突く懐かしい「清水おでん」の匂い。綺麗に並べられた丸イス。アルコール類を置かない店内。年季の入った鍋の付着物。レトロファンなら涎の出そうな、懐かしい飲みものたち。三人で好きなだけ食べて串を数えてもらっても500円ポッキリというリーズナブルな価格。そしてお勘定を済ませて出ようとする瞬間、おばちゃんがにっこり笑って、
「ありがとうっけねぇ」
と言う清水弁まで、相変わらずの味で相変わらずの誠実な商売、そのすべてを含めた総体こそ、「清水おでん」が「清水おでん」である、真骨頂なのかもしれない。

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【清水で清水を考える……2】

【清水で清水を考える……2】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 8 月3 日の日記再掲)

市民総踊り

郷里静岡県清水市に友人が増えてからは、清水みなと祭りを目指して帰省するのが楽しい。


昨年は、清水市内を練り歩く次郎長道中を追いかけたり、先回りしたりして、中央集権的になりがちな祭りのトリック・スターを演ずるボランティアたちに快哉をおくったのだけれど、今年はその火付け役を演じてくれた次郎長通りの魚屋さんが、市民総踊りの連に加わって家族全員で踊るというので、もっぱらさつき通りを通行止めにして繰り広げられる狂乱の踊りの波間を漂ってみた。

かつての清水市の賑わいを知る者から見れば、灯の消えたような寂しさが漂う街なのだけれど、午後 6 時の総踊り開始時にどこからともなく突如集まる大群衆と、その熱気を目の当たりにして唖然とするのは去年と変わらない。1年間溜め込んだ鬱憤を晴らすかのような狂乱振りは「呆れる」を通り越して「痴れることの美」を感じるし、この歳になると熱狂する郷里の若者たちがたまらなく愛おしかったりする。今年は思いきり仰々しいカメラを下げて行ったので、カメラを向けると晴れがましい笑顔で一層踊りに熱が入る若者たちもいて、年に一度の晴れ舞台に、「私を見て」と咲く花の美しさに感動する。

宇崎竜童によるカッポレ三部作を日本中から苦情が出そうな大音響でぶちかまし、狂乱の祭りとして定着させた関係者に敬意を表したい。

清水駅前から港橋まで、メインストリートを通行止めにして練り歩く踊りの輪の中に、仲間達の姿を探して歩く。

懐かしい清水橋跨線橋を上ると、踊り手も観客も渾然として観客席が無いことが楽しく、今から三十年前、近道をするために清水橋を渡るお婆さんを撮影した場所であることにも感慨深いものがある。

遠い日の思い出に浸っていたら、清水のオダックイ仲間に橋上で遭遇。早速記念撮影となった。

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【清水で清水を考える……1】

【清水で清水を考える……1】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 8 月 2 日の日記再掲)

鰻の寝床丼

故郷は母親に似ている。
「母親っていうやつはさぁ…」
などと、大のおとなが郷里の母親のことを、たいしてうまくもない肴にして酒を飲んだりすることがある。そうやって親元を離れているときは、わかったような口をたたいていっちょまえのつもりでいるのだけれど、実際、母親を前にして小一時間も話をしていたりすると、いつの間にやら抜き差しならない親子の関係という寝技に持ち込まれている自分に気付いて唖然とする。中年になろうが、白髪頭になろうが、息子にとって母はいつまでも母なのである。
 
「ふるさと」も似たようなものだ。東京暮らしをしていると、えらそうに衰退する故郷の地域経済のこと、地方自治のことなどに、きいた風な口をたたいたりしてしまうのだけれど、実家に里帰りして数時間、セミの鳴き声を聞きながらだらしなく寝転がっていると、バカが大所高所から物事を論ずるような都会人病が癒えて、懐かしい田舎暮らしのスローな思考の心地よさに気づいたりするのだ。母親にも故郷にも似たような「魔」があり、それこそがありがたい長所であることも事実なのである。
 
スロー・バラードを口ずさみながら、スローな頭に帽子もかぶらず、炎天下の清水をカメラ片手に散歩してみる。

生家から 100 メートルも歩き、さくらももこの実家前を過ぎると旧東海道になる。江尻宿のはずれ、稚児橋まで至る途中に入江町商店街というのがある。立ち並ぶ商家のうちの1件に「深沢時計店」があり、どこにでもある小さな時計屋さんなのだけれど、時計修理の腕前を活かして、壊れた中古カメラを買ってきては修理し、コレクションされている。そのリストを拝見しながら、自慢話を聞いたりするのが楽しいのだけれど、今回の帰省時、更地になっているのを見て唖然とした。


日本中どこでもそうであるように、シャッターを下ろしたまま「しもたや」になっている店が清水にも多く、廃業された上に更地になってしまったのかしらと寂しさが胸に込み上げたのだけれど、隣りの空き店舗を仮営業所にされていたので一安心。どうやら、店舗兼住宅の建て直しらしい。

建て直しに際して更地になった場所を拝見すると興味深い。店舗の間口は狭いけれど、驚くほど奥行きのある町屋風の建築物だったのである。旧東海道に面しているのだから、当然といえば当然だけれど、清水の町というのは旧街道に面していなくても、町屋風の細長い区画になっている場所が多く、帰省するたびに飲みに行く万世町の「みき」さんですら、お手洗いを借りに店の奥に入ると同様の構造になっていて驚く。

こういう町屋風の建築物が多いと、「しもたや」になっても、店を貸店舗にしたり、売却したりして商業の新陳代謝が起こるのが困難なわけで、店は貸すけれど、奥に大家の老夫婦が起居するなどという条件で借り手も付きにくい。このような細長い土地に現代風の快適な住環境を構築する設計者も大変だろうなぁと思ったりするのだ。
 
友人の設計家、T 設計室の谷川さんが、清水市美濃輪町の次郎長生家の構造を褒めていたのを思い出したが、鰻の寝床式の商家にはその奥の辺りに明かり採りが設けられているケースも多いようで、同じく次郎長通り商店街で名高い練り物屋さんの内部も、意外に明るかったりして驚く。

鰻の寝床式の区画を有効活用する方法のひとつかもしれないなぁと思われたのが、旧東海道稚児橋を渡り、旧江尻宿、清水銀座商店街に折れずに小芝八幡宮方向に進んだ右手にある飲食店街「小芝小路」だ。母親が清水に帰って始めた飲食店もこの方式で新たにつくられた袋小路だった。今は市役所になってしまって残っていないけれど、新たに小路を作る面白さというのも、小路暮らしをしたものにとっては古いようでいて新しさも感じたりする。小路=歓楽街という発想を改めたら面白いような気もするのだ。


静岡の町で買い物をしていたら面白いものを見つけた。
細長い矩形の容器にご飯を敷き詰め、白いベッドの上に鰻の蒲焼きを1本寝かせ、名付けて「鰻の寝床丼」というのだけれど、細長いことを面白がる良い例かもしれない。

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