【カボチャ戦争】

【カボチャ戦争】

ハロウィン前日になってカボチャの投げ売り。

馬鹿馬鹿しい喧騒の最終日。

今日は牛にひかれて投票所。

 

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【乾麺始末期】

【乾麺始末期】

義父母の住まいには夏場のもらいものの乾麺が食べきれずに残っており、なぜ食べきれなかったかというと、乾麺を食べるのは意外にめんどくさいからだ。

名古屋の親戚から届いたきしめんなど、5 分ゆでて火を弱めて蓋をし 9 分間蒸らせなどと書かれており、しかも家庭では現実的でない量のお湯でゆでつつ、その 14 分間の間に時々さし水をしろなどとまたまた手のかかることをいう。乾麺をゆでて食べるのは急いでいるときの手っとり早い食事法だと思って育ってきたのでどうにも合点がいかない。
 
おいしいものを食べたかったらその手間と時間を惜しむな、と言われたらわからないでもない。けれど、手間と時間をかけても乾麺が生麺をしのぐほどおいしいわけでもないし、しかも機械製麺による乾麺特有のツルツルとした食感なので、噛んで味わう間もなくあっと言う間に胃袋に落ちてしまう。東海道中膝栗毛の弥次喜多が、鯉の滝登りの絵を見て、鯉がそうめんを食ってるところかと思った、というばかばかしさがよくわかる。


文京区本郷五丁目、本郷通りに面した花屋店頭にて

14 分のあいだ鍋のそばに立っていることの効能はたっぷり手間のかかる作業ができることで、丁寧に薬味の葱を刻んだり、鰹のだしをとったりする。けれど、先日はきしめんをゆでて蒸らしている待ち時間を持て余しすぎてよけいなことを考えてしまい、インスタントのお吸物に『ゆずこしょう』を使った新製品があったのを思い出し、ゆずこしょうを鰹だしに溶いたつゆを作ってみたが失敗だった。入れすぎて辛いこと辛いこと。
 
若いと多少辛すぎたりしてもあっと言う間に食べ終えてしまうので「(まぁ、いいか)」と料理の失敗をなかったことにできるのだけれど、年寄りは亀のようにゆっくりもたもたと食べるので、見ていると申し訳なさでいたたまれない気持ちになった。


文京区本郷二丁目、民家のかわいいハロウィン

今日はきしめんではなくひやむぎなので、正攻法で白醤油だけの透き通ったつゆを作ってみたけれど、鰹のだしが際だってさっぱりとおいしく義母もご機嫌で完食した。やれやれ。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 10 月 31日、13 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【乙姫さまとブヨ女房】

【乙姫さまとブヨ女房】

2009 年 6 月 21 日 10 時 32 分 17 秒に投稿した【乙姫さまとブヨ女房】という日記を閲覧してくれた人がいたとアクセスログに記録があった。

そんなタイトルでどんな日記を書いたんだっけと表示してみたら懐かしい巴川の写真があり、「 5 / 30 、港橋から見る巴川上流。」と「 5 / 30 、港橋から見る巴川下流。」のキャプションが逆になっていたので入れ替えておいた。

【乙姫さまとブヨ女房】

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【夜明けの読書メモ─「閾値の力」】

【夜明けの読書メモ─「閾値の力」】

今朝の朝刊、鷲田清一「折々のことば」に花田春兆さんの言葉がとりあげられていた。

「人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。」花田春兆(俳人)

花田さんにはボランティア向けの広報誌を手がけていたころ何度かお会いした。


DATA : NIKON 1 V1 NIKKOR VR 10-30mm 

懐かしいなと思って検索したら、2017 年 5 月に 91 歳で亡くなられていた。

「自分は自分の想像力の範囲内に収まるものでしか人を評価できない。」と言い換えて戒めとしよう。

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【都市の陰影】

【都市の陰影】

ここ数年、太陽の日差しがどうもおかしい。
秋だというのに、肌を刺すように痛いし、都市の影は毒々しいほどに、くっきりと強い。

その一方で、路上に柔らかく美しい陰影を見る機会が増えてきた。

ビル内の電力消費を押さえるため、強い日差しを遮る硝子壁で覆われた建物が増えてきたせいだろう。
「あっ、綺麗だな」
と立ち止まると影の方向がおかしい。
午後になって日が西に傾きかけているのに、陰影は北東方向から伸びているのである。
よく見れば、若干青みがかっていて、大通りを挟んだ向こう側のビルディングが反射している光であることがわかる。

室内撮影にしろ、屋外撮影にしろ、レフ板を上手に使うと、モノを美しく撮影することができるけれど、ビル街外壁の反射が織りなす路上の陰影は、さながら照明技術の学校のようでもある。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 10 月 30日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夜明けの読書メモ―「ばと場」】

【夜明けの読書メモ―「ばと場」】

言葉で論理立てて言えない領域のことについて「あえて言うなら僕がそう思ってるだけだけどさ。」と、あえて言わなければ自分がなくなる。「あえて言うなら」を短くすると「言わば」となる。

無理を承知で思い切って極端に結論めいた言葉にしてみることを「言わば」という。「言わ」は未然形で「ば」は接続助詞。言葉にした途端、言いたいことがするりと抜け落ちてしまうのも詮無いことと知りつつ、あえて言ってみること。


DATA : NIKON 1 V1 NIKKOR VR 10-30mm 

「言わば」を知って極論を言わない。「寄らば」を知って大樹の陰に寄らない。「欲せば」を知って利益を欲しない。あえてやらないことによって、かえって「場」としての「自分」に近づく。「自分」とはそういう接続助詞のようなものである。あえて言うなら僕がそう思ってるだけだけどさ。

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【お箸の国の人だもの。】

【お箸の国の人だもの。】

終日事務所で仕事をし、仕事をしながら小さなコンピュータをいじって仕事からの逃避をしている。逃避したままにならないよう自分で自分の管理者になるのが難しい。
 
アメリカ人の自己管理法はボスとアシスタントが一人二役で演じる劇にたとえられるらしい。けれど、真似しようと思ってもなぜか悪代官と水呑百姓みたいな善悪紋切り型時代劇風になってしまうのは日本人だからだろうか。ついつい自分で自分に「遊んでいたいぞ!」と書いたむしろ旗を立てて反逆したくなるので日本人の自己管理は難しい。


10月26日の朝、清水区入江南にて

義父がデイサービスセンターで食べ物を喉に詰まらせてちょっとした騒ぎがあったという。
 
義父は病気(パーキンソン病)に加齢による衰えが加わったせいか、ひとりふた役のマルチタスクな動作が苦手になり、手を使って食べ物を口に運ぶ人と、食べさせてもらった食べ物を噛んで飲み込む人とを同時に演じることがうまくできず、手がどんどん食べさせているのに噛んで飲み込まないので口の中が食べ物でいっぱいになって怒ったフグみたいな顔になっていることがある。そういうときには上手に声かけをしないと危ない。

巣鴨地蔵通り商店街にある漬物屋は商品を店頭の皿にならべて年寄りに試食させているけれど、手でつまもうとするたびに、おばちゃんが、
「はい、五本箸はだめ、ちゃんとお箸でつまんでね!」
と声を張り上げている。
 
お箸は食をめぐるひとり芝居にわって入って邪魔をする他者かもしれない。
手と口という一人二役の演者の間にお箸が登場することの意味は意外に大きくて、義父のひとりふた役がうまく行かないのは、間にお箸という邪魔者が登場するからかもしれない。
 
義父は最近ご飯ではなくパンにしてくれと言い、たとえおかずがお刺身であってもパンがいいそうで、それは味覚的好みによるわがままではなく、パンなら手づかみで食べられるかららしい。


10月26日の朝、清水区入江南にて

喉に食べものを詰まらせかけた義父は最近ご飯をいやがってパンにしたがるのだと言ったら、デイサービスセンターでもカレーライスのようなセットメニューの時を除いて、なるべくパン食にしてくれるという。

カレーライスの日はスプーンというこれまた義父が好きではない食器が介入するわけで、
「はい、今日はカレーなのでターバンを巻いてインド人になりましょうね」
ということになったら義父も嬉しいかも知れない。
 
両親のご飯をつくっている妻は夫の郷里静岡県清水から取り寄せているマグロの刺身をパンで食べるという自分の父親に落胆しているけれど、
「はい、今日はお刺身なので鉢巻きをしてお寿司屋さんになりましょうね」
と言ったら、88歳で握力が30キロ以上もある義父はマグロをにぎり鮨にして食べてくれるかも知れない。
 
歳をとった日本人はお箸の国の人から、五本箸の国の人に戻るのかもしれない。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 10 月 29日、13 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夜明けの読書メモ―「出たり入ったり」】

【夜明けの読書メモ―「出たり入ったり」】

布団をを跳ねのけて寝ている人に上掛けを掛けてやろうとすると手で払い除け「暑いから涼んでる…」のだと寝言のように言う。たしかに自分も寝ながら布団に潜り込んだり跳ねのけたりして体温調整している。人間サーモスタット。記憶という意識が無いという意味での無意識でそれをやっている。布団という膜を通して内部と外部を無意識に行き来している。

「私は寝ているとき、暑くなると上掛けを跳ねのけ、寒くなると上掛けを引き寄せて潜り込むということを、無意識にやっているのだと思います」という自白を自覚と言う。

「布団を跳ね除けたり引っ被ったりする私」を「布団を跳ね除けたり引っ被ったりする私」であると認めますと言い「誰が?」と聞かれて「私が」と答えるときの「私」とい場所があり、自覚の有無は内部と外部を隔てる膜の有無を認識できるか否かを指している。

   ***

「自覚とは「私が私に於いて私を知ること」である。」
「私は、私自身について自覚するとき、私を主語かつ目的語として知るだけではなく、そのうえ私に於いても、知るのでなければならない。」(永井 均『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』)

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【夜明けの読書メモ―「与格と与作」】

【夜明けの読書メモ―「与格と与作」】

与格ってなんだろうと考えてもわからないと、北島三郎の与作みたいなもんかなと茶化したくなる。手元の電子辞書で串刺し検索してみると広辞苑にだけ項目があった。

大相撲千秋楽三役揃い踏みで勝って行司から「役相撲にかの〜〜〜」と勝ち名乗りを受けるときの「に」による間接目的語化が与格で、授受の対象を指し示す。さらに相撲から例をひけば、「懸賞の金一封が土俵溜会(たまりかい)より与作に贈られます」の「に」である。

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【トンネルと物忘れ】

【トンネルと物忘れ】

事務所で終日仕事。おおきな出版企画の基本フォーマットづくりをやりかけていたのだけれど、あらかたできて最初のプレゼンテーションをしたら安心したのか 3 週間以上も忘れたままになっており、編集者から「そろそろ」というメールを貰って慌てて修正と仕上げに取りかかったけれど仕上がらないうちに夕暮れになった。


気になる円筒形のビル。喫茶室なのか打ち合わせ室なのか知らないけれど、いつも忘れ去られたように人の姿がない。

人の顔を見てもの忘れを笑う友人がもの忘れをするようになり、
「会ったら何か言おうと思ってたんだけどなあ」
などと言うので顔を見ながら笑ってしまう。そのあげくに
「何か話さなくちゃいけない大事なことがあったんだけどなんだっけ?」
などと聞く。そんなに大事なことを忘れたあげくに相手に聞くなと言いたい。

電子の手帳にはたいてい「To Do」とか「Task」という機能がついていて外人はこういう仕組みが好きらしい。自分に命じた仕事のリストを自分がこなしていくわけで、ボスとアシスタントというひとり芝居の自作自演だ。
 
「会ったら何か言おうと思ってた」こととか「何か話さなくちゃいけない大事なこと」とかを列挙し、ちゃんとやったかどうかを確認するためのチェック欄がつき、完了すべき期日を設定しておき、その日が近づくと教えてくれたり、アラームが鳴ったりし、完了しないと翌日また翌日へと繰り越してくれたりする。


木の葉は物忘れをしないかのように秋になると色づいては散ってゆく

よくできているのでそういう機能を使って、これからはやるべきことをきちっと期日を決めてやろうと一念発起し、「To Do」や「Task」を列記してみるのだけれど、列記したものを見ただけで気が重くなってしまい、さらにアラームが鳴ったり期限を何日超過しているかまでご親切に表示されたりすると、親切が脅迫のように思えてしまう。

そうなってしまうと「To Do」や「Task」など見たくもないわけで、しまいには開いてみるのも怖くなって中身を見ずにデータごと削除してすっきりしたりする。

データごと削除してすっきりしたのはいいけれど
「何かやらなくちゃいけない大事なことが書いてなかったっけ」
などと思うここともあり、そんなに大事なものを捨てたあげくに自分に聞くなと自分に言いたい。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と書いてあるのを読んで「トンネルを抜けるって誰が?」と聞かない国の人に、「To Do」や「Task」の仕組みは合わないのかもしれない。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 10 月 28日、13 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【日本の本】

【日本の本】

仕事中、聞くともなく国会中継のラジオ放送を付けっぱなしにしていたら小泉総理が「 Book 」という英語の意味を問われて「本」だと答え、「英語の Book の意味するものは本だけではないんですよ」とやりこめられていた。

装丁した本は必ず一冊寄贈を受けるので、あらためて通読するようにしている。著者と仕事以外の付き合いがある場合はなおさらで、お会いすれば新しい本を上梓されたお祝いぐらい言わなければならないのだけれど、できあがった本を読んで「よい本ができましたね!」という感慨の湧かない「本」があるのが不思議だ。

そういう本はたいがい、さまざまな雑誌や新聞等に書かれた原稿を寄せ集めて単行本化したもので、本のあちらこちらに隙間風が吹き、国産大豆を使ってしっかり固めた豆腐みたいな持ち重りのする物質感がなく、要するに「本の力」が感じられない、「本の体裁はとっていても本とは思えない紙束」にしか思えないことが多い。こういう紙束も英語では「 Book 」と呼ぶのだろうか。

「本」を読んでいたら面白い記述を見つけた。

ところが、イギリスなどでは、こういう寄せ集めの本は本(ブック)とは言わない。T.S. エリオットと言えば、二十世紀イギリス文壇の大立者で、われわれから見れば著書もたくさんある。ところが、イギリス人からは「エリオットは一冊も本を書かなかった」と言われた。エリオットは珍しく日本流の書きためたものを集めて本にすることを一生続けていたのである。(『日本語の個性』外山滋比古著、中公新書433)

なるほど。だけど、こういう「書き下ろし至上主義」的な見方をされると日本人はつらい。著者は「日本語の特性」から日本人にとっての「書き下ろし至上主義」の困難さを説かれている。けれど、物書きの友人を見ていて、余程のベストセラー作家でない限り、書き下ろしのみで食べて行くのは、日本じゃ無理だよなと思う。あちらの雑誌、こちらの新聞に小文を発表し、講演もテープ起こしし、それなりの稿料や講演料をいただきながら名を売り、ファンをつかみ、単行本にまとめてもう一度金を稼ぐくらいのことをしないと「日本語で文章を書いて」ペン一本で身を立てることなど不可能に思えるのだ。

反面、一冊読み終えて感慨深くあとがきから奥付、巻末広告まで読み進めると、初出一覧で様々な雑誌や新聞に掲載された原稿の寄せ集めであることを知って感心させられ本もある。「本」全体の主張が首尾一貫し、文体にもしっかり骨格があるのは、著者の力量によるところも大きいけれど、編集者の助力によるところがかなりあるのではないか。

親しくさせていただいている編集者に赤字を入れた原稿の山を見せていただいたけれど、よほどの自信とそれを支える集中力がなければできることではない。

この編集者に原稿を渡すとどんな文章も〇〇さん流に料理され、たとえ寄せ集めであっても首尾一貫した体裁をもって文章が立ち現れて来るので面白いし、それもまたひとつの才能だと思う。この編集者に揉まれた書き手が「あれはもう〇〇さんの文章ですよ」などと泣き言を言うのを聞かされると、「私は本を書く力がありません」と白状しているに過ぎないので哀れだ。おそらく寄せ集めた原稿に「本の力」を再注入し「本」として再構築する日本の優れた編集者は、少なくともイギリスのそれの比ではない資質が求められる職業なのではないだろうか。まさに著者との協同作業なのだけれど、給与の面でそれに見合った報酬を受けていない事も容易に想像できるので、著者共々お気の毒なことである。

今夜は家内が留守なので、缶ビール片手に酔っ払って好き勝手なことを書きちらしてみた。写真はお気に入りの恵比寿さま。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2001 年 10 月 27日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夜明けの読書メモ―「感覚質」】

【夜明けの読書メモ―「感覚質」】

クオリアということばの解説によくある「秋空の青くすがすがしい感じ」という例は「感じ」を「感じ」が感じる「感じ」という「私」だけの果てしない自己言及だ。

もっと純粋な「感じ」とは「思わず」起こるもので、「思わず駆け出したくなる」とか「思わず触りたくなる」といった実際の行動を伴うものだ。

なぜ「思わず」に起こり得るかといえば、じかに体験されたことにより意識される生々しい「感じ」だからで、体験された「質」が「感」と一体になったものが「感覚質(クオリア)」でなければならない。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-L1

西田幾多郎がいう「直接経験」は「行動即認識」であり、「実感」という言葉も「実即感」なのだろう。「即」によって互いに裏打ちされたものであり、裏打ちされていなければあると言えない。

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【穴あきの理由】

【穴があいた理由】

虫に食われた葉を見ない樹木は、自身で防虫効果のある物質を分泌しているという話を聞いたことがある。そういえばイチョウも病葉(わくらば)を見ないなと思い、検索したらイチョウの葉を使った衣類の防虫剤代用品が手づくりできるらしい。やっぱり。


DATA : FUJIFILM FinePix Z2

足元を見たら、めずらしくひどい虫食いとなったイチョウの葉があるので、どんな虫にやられたのだろうとよく見たら、交差点を行き交う自動車のタイヤでくりかえし踏みしだかれたらしい。一種の文明病葉(ぶんめいわくらば)ともいえる。

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【ユズリハ】

【ユズリハ】

ユズリハは譲葉と書く。新しい葉が出てくるのを見届けるかのように、いっせいに古い葉が落ちて新旧交代がはっきりしていることから、譲る葉が譲葉(ゆずりは)になったという。親子草(おやこぐさ)の別名もあり、次世代へ命が受け継がれてゆくさまを親子に見立て、家系永続を象徴するめでたい木でもあるという。
 
秋葉原のジャンクショップを歩いていたら可愛い筐体のパソコンを見つけた。RICOH 製で型番は FC1000 、インターネット上でなぜか仕様を知ることのできない不思議な機種で、店先に数台置かれているのが気になっていた。とうとう最後の 2 台になったところで我慢できずに買ってきた。

お店の人によれば、
PentiumIII 600MHz
RAM256MB
HD10GB、FD、CD/DVD
LAN、USB装備
…で、「ちゃんと動きますよ」と言う。とにかく小さくて、店頭で見た瞬間 Macintosh の G4 Cube を思い出したけれど、持ち帰って並べてみるとそれほど小さくはない。

ビジネスマン向けのグレーやベージュのパソコンが嫌いではない。最近の意味不明な曲面を用いて、けばけばしく彩色されたパソコンにうんざりすると、ウォーム・グレーのシンプルなパソコンって綺麗だなと思う。
 
持ち帰って開けてみると、簡単に両側面が開き、ケーブル類がコンパクトに整理されており、拡張性もあるし取り付けもしやすそうで感心した、友人によれば、各種大型機器のコントローラー用途にオーダーメイドで供給された物ではないかという。

Windows2000Professional をインストールして使い始め、DreamWeaver や FireWorks などをインストールしてみたけれど、決して遅くないし快適に使える。
 
まだまだ使えるパソコンが二束三文で叩き売られていることを憂いつつ、ひと昔前に比べたらただ同然の値段でパソコンが手に入る事実と遊んでいる。

   ***

若い失語症者のための共同作業所「パソコン工房ゆずりは」のためロゴタイプをデザインしたときに書いた日記。あれから 18 年の歳月が流れ、関係者の遠藤尚志先生も森田恵子さんも故人となられたけれど、ロゴタイプは今も使われているようで嬉しい( 2021 年 10 月 26 日追記)。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 10 月 26日、18 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夜明けの読書メモ―「日本語の横組み」】

【夜明けの読書メモ―「日本語の横組み」】

注文した新書が届いたら左綴じ右開きの横組みだったのでびっくりした。ブルーバックスなどは読まないので横組みの新書本は新鮮だ。


DATA : iPhone SE

金谷武洋『日本語文法の謎を解く――「ある」日本語と「する」英語』(ちくま新書)で、注文するとき『日本語に主語はいらない』(講談社メチエ)にしようかと迷ったのだけれど、後者の「…レベルを落とさずに、さらにわかりやすい文章で」書いたと「はじめに」にあるので安心した。

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