【旗と風呂敷】

【旗と風呂敷】

 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 5 月 31 日の日記再掲

住まいというより蔵同様になっていた、ひとり暮らしの母の住まいを片付けている。

ちょうどそういう年齢なのか、同じようなことをしている友人が多く、自分はもう何年も片付け続けている、などと言って励ましてくれたりする。

親とはいえ他人が溜め込んだものを片付けながら、人と物との関係を考える。
 
人の命には必ず限りがあるのに、その虚しさを忘れるための代償とでもしたかのように物を溜め込んでおり、それは一種、自分が不老不死であるようにとの祈りにも似ていたのではないかという気までしてしまう。

果てしない片付けに疲れ果てて夕方となり、えらい学者さんがかわりにこういう状況に関して何か考えてくれていないのかしらと、清水銀座戸田書店 2 階にある思想・哲学・宗教書の棚を探したら、現代人が棚上げにしている死生観のいびつさを 21 世紀に決着を持ち越した課題群のひとつとしてとらえて、人と物との異様な関わり方から説き起こした本があったので買ってみた。やっぱりね。

■芦川商店の風呂敷。
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辛い片付けの中にささやかな楽しみもあり、その一つが、母の荷物の中からたくさんの大風呂敷が出てくることである。

売られている風呂敷がただの布であるのに対して、古い荷物をくるんだ状態で出てくる木綿の大風呂敷には商品名や商家の名前などが染め抜かれており、それはただの布の領域を超えた旗のようなものである。それは、万の単位の数の商工業者が、日本中で自分の屋号や商標を染め抜いた旗を掲げて、一所懸命仕事に励んだ時代があったことの証言になっている。

「高級毛織物卸 芦川商店 清水市江尻柳町 12 電話 699 番」

と染め抜かれた大風呂敷が出てきて、清水の電話が局番なしの 3 桁であった時代はいつ頃なのだろう、今はもうない江尻柳町 12 とはどこだったのだろうと気になる。

どこだったのだろうと考えながら帰京する道すがら、小芝町を歩いていたら旧清水市役所が 1988(昭和 63 )年に設置してくれた「新旧町名町界案内図」を見つけてびっくりした。旧清水市役所に感謝したい。

■静岡県清水江尻東。この道の両側がかつて、今はもうない町名である伝馬町、鋳物師町、鍛冶町、紺屋町などと隣り合う柳町だった。
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■清水消防団第二分団。
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早速調べてみると、巴川にかかる柳橋を渡って柳宮通りを北進し、江浄寺・浄春寺・妙泉寺などの寺が集まる地域から 2 分団前を通り、国道 1 号線にかかる手前までの道の両側をかつて柳町と呼んだことがわかった。柳宮通りの名前は柳橋・宮加三通りの略かと思っていたけれど柳町・宮加三通りが由来なのかなと改めて思う。

■この辺はシート屋さんとか縫製屋さんとかが多いんだなぁと思いながら歩いていたら「芦川商店」がちゃんとあった。
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■芦川商店。風呂敷の文字と再び出会う。
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時代の流れの果てに名前や旗だけ残っているのも辛いなぁと思いつつ歩いていたら、4 階建てのビルに「芦川商店」の名前を見つけて嬉しくなった。

 

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【リトモン】

【リトモン】

このとんかつ屋は母が最期に清水で牡蠣フライを食べた店である。
どんどんものが食べられなくなる病気なのに母は牡蠣フライなら食べられ、順天堂医院の地下食堂の安い牡蠣フライから東京医科歯科大付属病院最上階展望レストラン(ホテルニューオータニ!)の高い牡蠣フライまでよく食べ、母はこの柳橋たもとのとんかつ屋の牡蠣フライがとても気に入り「また来ようね」と言って叶わなかった。



リトモンって何だろうとよく読んだら「清水リトルモンキーズ」という少年野球チームだった。

「練習は毎週火・水・土曜日 桜ヶ丘グランドでやってるよ!」という文章に思わず笑顔になる。

このお店もご不幸があったけれどこういう元気な常連さんが通っているのだろう。
今度帰省したら久しぶりにとんかつでも食べ(毎週じゃん)、桜ヶ丘グランドにでも行ってみようかな。

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【雨のシーサイドデッキ】

【雨のシーサイドデッキ】

清水エスパルスドリームプラザのシーサイドデッキにて。

100円入れて覗き見する双眼鏡はNikon製かな……と思ったら興和製なので嬉しくなる。
確かほんの一時期中古で買ったコーワシックスを持っていたことがあるが本当はコーワSWというカメラを使用してみたかった頃がある。

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Kowaの双眼鏡で清水港を眺めてみたいな…と思ったが小雨そぼ降るシーサイドデッキで双眼鏡を夢中になってのぞいているオヤジの後ろ姿を想像するとひどく興ざめな気もしてやめておいた。

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【鰺・アジ・あじ】

【鰺・アジ・あじ】

興津名物『大和』さんの倉沢鰺の押し寿司を食べたいと思っていたのだけれど、最近JR清水駅のキオスク(改札外とホーム)に並ぶようになったので嬉しい。
鰺の押し寿司は大船でも熱海でも沼津でも売られているけれど、やっぱり他地域のものとは違って、清水で食べる鰺は肉厚で身が締まってていてひと味違うと思う。
リュックサックの中には新生丸がとってきた倉沢鰺を、浜田町のラーメン店ご夫婦がおみやげだと言って、塩焼き用に下ごしらえしてくれたものが4匹入っており、清水の鰺を従えての帰京。

ちょうど興津駅附近を通過中に撮影。

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【巴川の流れのように】

【巴川の流れのように】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 5 月 27 日の日記再掲

川の流れはどんなに遅くとも、たとえ逆流しようとも、山には登らず、必ず河口へたどり着いて海の水とひとつになる。人の命と同じだ。

金曜日の夕暮れ、清水駅に降り立ち、最近覚えたおいしい若鶏唐揚げを買って、浜田町のラーメン屋に手みやげ(持ち込み)にしようと思ったら、鶏肉店はもう閉店準備をされていて唐揚げの「か」の字も見あたらなかった。残念。

しかたなく県道清水富士宮線をとぼとぼと歩き、旧東海道に入り、稚児橋を渡りながら下流を眺め、実家に荷物を置き、ラーメン屋ののれんを手ぶらでくぐったら、常連の女性が興奮して調理場の窓から覗き込み「稚児橋の上流に人の死体が浮いてた!」というのでびっくりした。

わが親戚にも巴川に浮かんで命を落とした者がいるので人ごとと思えない。合掌。

■懐かしい巴のマーク
SONY DSC-W1

合掌と言えばこの建物のこのマーク。

僕が幼い頃から柳橋のたもとにこの建物はあり、巴川製紙と言えばまずこの建物がある巴川風景が思い浮かんだものだけれど、なんと新しい建物が建つようで跡形もなく消え去っていた。

■何度となく見上げたガラス窓。
SONY DSC-W1

■「ああ巴川製紙!」と思わせる部分。
SONY DSC-W1

川の流れが必ず海にたどり着いてしまうように、この懐かしい建物もいつかはなくなると思ってはいたけれど、やはり突然なくなると衝撃的である。

■もう見られない風景。
SONY DSC-W1

■激しい雨が上がったので急いで帰京する途上にて。
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▼計画

仕事で本郷三丁目に行くつもりで都営パスを東大正門前で下車してしまった。
このところボーッとしているので行動に計画性がない。

東大正門前から東大赤門へ向かう本郷通り、
東大の敷地脇を歩いたら本郷通りに面した敷地の樹木が根こそぎ伐採され、
なにか新しい大学の施設ができるらしい。



バブルの頃だったか、大学の敷地が足りないから
東京大学をどっか広い田舎に移転させたいとかぐずぐず言っていたような気がするけど、
広大な一等地に中途半端な校舎群が老朽化して立っているので
きちんと計画を立てて建て直しすれば十分な土地があるじゃないか、
と腹立たしく思った記憶がある。

見事に育ってきた東大構内の自然を根こそぎ破壊しなくても
「きちんと計画を立てて立て直しすれば十分な土地があるじゃないか」
という思いは今も変わらない。

とうして東大構内の箱物建設には計画性が感じられないのだろう。

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【それぞれのいちばん】

【それぞれのいちばん】

「あなたにとってのいちばんは?」と尋ねて食べ物のお店を教えて貰うのは楽しい。そして「あの店がいちばんと聞いたので行ってみたいのですが……」と別の人に聞いて「ええ~っ!?」と驚かれるのもまた楽しい。


友人が清水でいちばん美味しいと教えてくれた店のロースカツ。

道を見知らぬ人に教えて貰ったら「美味しいけど高くて小さいよ」と笑っていた。

教えられた道を辿って行ってみたら本当に高くて小さかった。

別のお店のご主人がかつてそのとんかつ屋で修行されていたそうで「味はどうでした?」と聞くので「はい、噂通り高くて小さかったですが、久しぶりに美味しいロースらしいロースを食べました」と答えたら「ありがとうございます」と頭を下げられてしまった。

高い安い、量が多い少ない、不味い美味しい、という価値観の尺度が人それぞれのためにくっきりしているのが「いちばんは?」
と聞いて名前の出てくる店の条件かも知れないな、と思う。

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【昭和25年桜橋列車脱線転覆事故】

【昭和25年桜橋列車脱線転覆事故】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 5 月 24 日の日記再掲

 

静岡県清水、県道 197 号入江富士見線が、東海道本線と併走する静岡鉄道を跨ぐ桜橋あたりの風景をを心の中で思い描く時、僕には橋のたもとに植えられた一対のヒマラヤスギ(?)が風景の一部として欠かせない。

そんな話を友人とすると、桜橋と言えばたもとにある美容室が懐かしく思い浮かぶという人もいて、その人にとって桜橋と言えば美容室なのであり、僕もそう言われれば
「ああ、ヒマラヤスギの脇に、昔からかわいらしい美容室がありましたね」
と答え、僕にとって桜橋と言えばヒマラヤスギに次ぐものがかわいい美容室なのである。

静岡鉄道入江岡駅を降りて入江岡跨線橋上に立つとき、虚空蔵さん脇から続く線路沿いの道の向こうに見える桜橋跨線橋は、東の富士山の眺めとともに大好きな清水の景色であり、その上にはやはりヒマラヤスギが欠かせない。

町には固有の匂いがある。

僕の生まれた地区である入江新富町(現入江南町)から淡島町あたりにかけて、幼い頃に嗅いだ駄菓子屋のおでんやツボ(バイ貝を煮たもので今では高級珍味)やキシャゴ(ナガラミを塩ゆでしたもの)の匂いに通じるものが未だかすかに残っているような気がするのが油木(ゆき)神社から線路沿いあたりの町並みで、嗅覚的に懐かしい。

■静岡県清水淡島町。入江岡跨線橋虚空蔵さん脇の石段を下り『めぐみ幼稚園』脇を通り線路端を歩き桜橋跨線橋へ登る石段から振り向いた。
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■桜橋跨線橋に登る石段。
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線路沿いの道を歩き、公園脇の石段を登ると、おじいさんがすがすがしい春の風を受けて体操をしていた。

ネット上にある百科事典には桜橋跨線橋に隣接した静岡鉄道桜橋駅について次のように記述されている。

桜橋駅 (静岡県)
1908年12月9日 - 開業。
1950年(昭和25年)桜橋駅付近で並走している国鉄(現:東海旅客鉄道)東海道本線で貨物列車の脱線事故が発生。脱線した車両で国鉄は上下線が不通となり静岡清水線も下り線が塞がれたが、残った上り線を国鉄の線路と連結して東海道線の長期不通を回避した。この対応に運輸省(現:国土交通省)から静鉄へ感謝状が贈られたという。(Wikipediaより)

入江岡駅手前あたりから静岡鉄道と併走する東海道本線は桜橋を過ぎて狐ヶ崎駅の先で静岡鉄道と分かれた後も、ずっとまっすぐな線路が続くので、昭和二十五年に東海道本線が不通になるような大脱線転覆事故がどうして起こったのだろうと長いこと疑問に思っていた。

■静岡県清水桜橋町。桜橋たもとに立つヒマラヤスギ。こちら側と向こう側で一対になっている。
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■ヒマラヤスギ端にある『ルビー美容室』。これもまた大好きな風景。
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友人から借りている入江小学校百年記念誌『入江の里』に次のような記述があった。

 昭和二十五年のことである。国鉄線が貨車に積んであった玉ねぎが原因して桜橋附近で大脱線転覆した大事故があった。これが為この区間が不通となって混乱に陥った。当時は大坂よりクレン車をもって来なければ復旧の見通しはたたず、しかも時間は深夜であり上り下り列車がのきなみに立往生となり収拾のつかない程の大混乱であった。この時幸いにも電車軌道が国道沿いであったのと巾が同じであるので大英断というか電鉄は犠牲的に全線をストップさし国鉄線を電車軌道へと切り替え工事をなし乗り入れさして長時間の不通を食い止めた。これを見たが、長い列車が電車軌道を通る姿には思はず喝采を覚えた。(静鉄誕生史一部と古老の話を参照)(入江小学校百年記念誌『入江の里』入江小学校PTA発行より)

「玉ねぎが原因して…」とあるのは貨車の床が抜けて積み荷の玉ねぎが線路上に落ちその上で車輪が滑った……とは考えにくいので、貨車内で積み荷の玉ねぎが荷崩れしバランスを崩して横転したのではないか。

当時のことを回想した話の中に玉ねぎの名が鮮明に残っているのは、その人にとって記憶の鍵となるのが桜橋脱線転覆事故と言えば玉ねぎなのだろう。けれど、列車を転覆させるほどの玉ねぎをどこから積んでどこへ運ぼうとしていたのか、そしてどうして桜橋駅付近で急に脱線転覆事故の原因となったのかがやっぱり不思議で、桜橋脱線転覆事故と言えば玉ねぎの謎は僕にとっても忘れられそうにない組み合わせである。

■右の写真、左手の木立が文殊さんで矢印の木が若き日のヒマラヤスギではないかと思う(入江小学校百年記念誌『入江の里』入江小学校PTA発行より)。

上記資料には桜橋脱線転覆事故の写真が掲載されており、左の写真は桜橋上から見下ろしたもののようで左隅に静岡鉄道桜橋駅が写っている。

右の写真はその桜橋駅から脱線転覆現場を写したもののようだが「(あっ!)」と心の中で叫んで思わず笑顔になるのは、画面右端に、桜橋たもと『ルビー美容室』前のヒマラヤスギがこちらを見ていることである。このヒマラヤスギは現存する数少ない桜橋脱線転覆事故発生瞬間目撃者なのかもしれない。

ヒマラヤスギが喋れるなら小鳥にでもなって、玉ねぎが原因という事故発生当時の詳細を、桜橋駅辺りの景色を眺めながらのんびり聞いてみたいものである。

   ***

※引用文中で「幸いにも電車軌道が国道沿い」とあるのは「幸いにも電車軌道が国鉄沿い」の間違いではないかと思うのだが原文のままにした。

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【沼津食わず】

【沼津食わず】

沼津駅で途中下車して日吉廃寺を訪ねたあと昼時なので朝食を兼ねた昼食にしようと思ったが、沼津は一歩裏通りにはいると飲食店が少ない気がする。

清水に他地域から友人を招くとなんと飲食店が多い町かと驚かれる。
一歩裏通りどころではなく、何本裏道の住宅地に入っても、おでんと焼きそばとラーメンの店くらいなら見つけるのは容易である。



普通の住宅街に普通のラーメン屋をやっと見つけたので入ってみたら限りなく普通のラーメンが出てきた。

清水は港町で船員が多かったから飲食店が多かったのではないかと友人は言うが、船員なんか行きっこないような場所にも飲食店があるので清水ではふとなんか食いたいと思ったらすぐその場で食べたいといういわば町全体祭りの縁日みたいなニーズが満ちあふれているのではないだろうか。

清水は他地域に比べてへんぴな場所でも筋さえ良ければ飲食店として当たりがとれる確率が高いような気がする。

清水では立地条件の悪い「えっ!こんな場所に?」と思うような店が満員の人気店だったりする。



普通のラーメンを食べながら店内を見回すと清水なら日本平から見た市街地と港の写真があるべき場所にこんな写真が架けられていて「ああ、沼津にいるんだなぁ…」と思う。

沼津って食べ物が甘口の傾向がないだろうか。

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【うさぎやのトランジスタラジオ】

【うさぎやのトランジスタラジオ】

静岡県清水港町。
「うさぎや」さんの店内に懐かしいソニー製「ソリッドステート・イレブン」を見つけて嬉しくなった。

母が清水で開いた居酒屋というのは、丹下健三設計の旧清水市役所、その隣に燃料販売の神戸さんのビルがありその向かいに清水商工会議所やシャンゼリゼのビルがあったりし、ともかくビルに囲まれた場所に安普請の鉄骨とコンクリートブロックを積んで新設された飲食街なのでとびきりテレビ・ラジオの受信状態が悪かった。


当時はテレビ放送にオールナイトなどはなく、テレビ放送終了後はラジオを聞きたいという客のために母はトランジスタラジオを買ったのだった。

出入りの電気屋が様々なメーカーのトランジスタラジオを持ってきて僕はデザインばかりに目がいって騙されそうになったが母は実際に電池を入れて受信してみてくれと言い、どれも雑音ばかりでちゃんと受信できないのでいらないと言った。

そうしたら、「あまり値引きできないんて売りたくないだけえが…」と言って電気屋が持ってきたのが「ソリッドステート・イレブン」だった。これは他社のラジオが何だったのだと思うほど良好に受信できた。

そんなことがあったので「やっぱソリッドステート・イレブンは港町に似合うなぁ」などとしみじみ感動したりする。

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【旧巴川】

【旧巴川】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 5 月 21 日の日記再掲

母親が何でも捨てずに取っておく人だったので、実家は住まいを兼ねた蔵とも呼べそうな状態になっていて片づけが大変だ。けれど、思いがけないものが出てきてありがたいと思うことも多い。

原本が手に入らないと思っていた静岡県清水市発行『まちの思い出』、入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』が出てきたこともそのひとつであり、物を捨てずに溜め込むことに徹した母に感謝する。

後者は入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会が『入江小百年史』(友人より拝借中)に掲載されなかった部分を補う意味で、コミュニティ誌『入江』に掲載したものを、入江保健委員会の希望もあって、手に持って史跡めぐりのできる小冊子にまとめたものだという。小学校  4年生でも読めるように企画されたこのガイドを持って、実家片づけ帰省の帰りに母の暮らした町の今を、これから一つずつ歩いてみたい。そういう心境になってすぐに実行できる日々も、入江の生家を引き払ってしまったら、残り少ない気がするからである。

   ***

(1)旧巴川(東大曲)
 この巴川は現在はほぼ直線になっていますが、昔は其の名の通り巴の如くに蛇行していました。度々の水害に悩まされていたのを、明治三十九年~大正元年にかけて現在のようになりました。入江地区ではこの大曲、坂政(さかまさ)合板の貯木場と、北脇新田から新幹線鉄橋下手に至る暗渠が其の跡になります。
 この貯木場はカニダと呼ばれ、国道一号線の江尻中電事務所付近から江尻小学校の所へと流れ、幾つも分流していたのを利用して、小柴城が築かれたのはよく知られています。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

■静岡県清水東大曲町。国道1号線巴川橋端水門から見た巴川蛇行跡。木材は消えてしまったのでもう貯木場ではない。
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■自動車学校裏手から逆に国道1号線巴川橋端水門方向を見る。
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坂政合板の貯木場として利用されている巴川の蛇行跡を見に行く。坂政合板工場取り壊しの話をだいぶ前に聞いていたからだ。

国道 1 号線巴川端から見る坂政合板貯木場は、浮かべられた木材が見当たらない以外はいつもと変わらないけれど、自動車学校前の巴川端を進むと、坂政合板の工場が跡形もなく取り壊され、広大なさら地になっていて唖然とする。

名物の水管橋とトロッコ橋がなかったら、かつてそこに坂政合板の工場があったことを思い出すよすがもなくなるのかもしれない。

なんとも寂しいけれど、工場が取り壊されてさら地になることで、巴川蛇行跡を利用した貯木場がどのように工場内に引き込まれていたかを知る機会をいただいたことになるのでじっくり見せていただいた。

■さら地になった坂政合板工場跡。右に水管橋が見える。
RICOH Caplio GX 

■蛇行跡の工場敷地内部分はすでに埋め立てられたのだろう。地図で貯木池のように記載された部分はへこんでいるのでわかる。
RICOH Caplio GX 

巴川橋端の水門から右にカーブした蛇行跡は工場近くになるとコンクリートの護岸で遮られ、水面近くまでへこんだ場所があるので、ここで木材を工場内に引き上げていたのかもしれない。水門あたりから見ると右カーブしてその先が見えない蛇行跡も程なく工場に突き当たって尽きていたのである。

工場跡はすっかりさら地になったけれど、この蛇行跡は埋め立ててしまうのだろうか。
利用しないで貯めておくだけでは水門のポンプを定期的に稼働して水の入れ替えもしなくてはならず、早晩埋め立てられてしまいそうな気もし、これが見納めかなぁという気もする。

■坂政合板工場跡地から見た巴川蛇行跡。
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■自動車学校対岸から見た巴川蛇行跡。
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工場の輸送用として架けられたが年寄りと子どもと緊急用件者だけに通行が許可されていた人情味あるトロッコ橋「坂政合板専用橋梁」を生まれて初めて渡らせていただいた。蛇行跡利用貯木場のあった時代の思い出の1ページである。

■清水江尻台町側から見たトロッコ橋「坂政合板専用橋梁」。
★画像またはここをクリックすれば実際に渡れます。
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【うさぎやまの話】

【うさぎやまの話】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 5 月 20 日の日記再掲

「昔郵便局の近くに『うさぎ山』があって……」
という話しは母から聞いたことがあるが、どうして『うさぎ山』なのかは母も知らないと言っていた。

 今の清水郵便局の南側に、うさぎ山と呼んだ小高い丘が、以前ありましたね。
 うさぎがたんといたので、その名が付いたんですが、あそこら一帯、元は入江町の地所だったのを、清水の八木町長さんが、網干し場にって、漁師のために借りてくれたんです。
(清水市発行『まちの思い出』より「うさぎ山のいるか松」南岡町宮本庄蔵さん)

「今の清水郵便局」とあるのは万世町にかつてあった本局のことであり、その南側さつき通りに面した辺りに『うさぎ山』という小高い丘があったというのだ。

たぶん地震の際に隆起してできたのではないかという話しを『うさぎ山』を知る人に聞いたことがあるけれど、何年頃にできたのかはわからない。「うさぎがたんといた」ような時代が本当にあったのだろうか。
 
うさぎ山という呼び名は調べてみると全国にとても多く、丘や山の形がうさぎのうずくまった姿に似ていることからとられていることも多いようだ。

 山の松林の松に、いるか松という名の、一際大きな松がありましてね、一説に、大津波があって、その時打ち上げられた、いるかが引っ掛かったからだと言われています。
 それよりも、枝が二またに分かれている形が、いるかのしっぽに似ているからだと言う、親父の話を信じますね。
(清水市発行『まちの思い出』より「うさぎ山のいるか松」南岡町宮本庄蔵さん)

いるか松の名が「いるかのしっぽに似ているから」ともいわれるように、うさぎ山の名がうさぎの形に似ていたからという説もありそうな気もするけれど、うさぎ山はもう無いし、うさぎ山を知る人も年々少なくなっていく。

■静岡県清水港町。『うさぎや』に明かりがともる。
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■静岡県清水港町。『うさぎや』店内にて。
Panasonic DMC-FX8

静岡県清水港町。
「港橋たもとにある『うさぎや』に行こう」
と友人たちが言い、『うさぎや』を知らないと言うとそれは清水っ子としてはもぐりだという。

タクシーを呼んで男 5 人の押し寿司状態で港橋に繰り出したら何度も前を通ったことのある不思議な店だった。

初めてお会いするご主人は僕にとっては初対面だったけれど、ご主人はネットを通じて僕を知っており、二晩続けてお邪魔したら常連に次々に紹介してくださり、その中に母の店の常連だった遠い親戚がいたりして、
「ほらね、悪いことはできないよ」
とご主人に笑われてしまった。35 年近く飲み屋を営んでいた母のおかげで清水という「世の中」は狭く、息子がどこにいても悪いことができないようにできている。

■静岡県清水港町。『うさぎや』のトマトのサラダ。美味しい。
Panasonic DMC-FX8

■静岡県清水港町。『うさぎや』の大葉のスパゲティ。美味しい。
Panasonic DMC-FX8

『うさぎや』の店名の由来を聞いたら、まさにうさぎ山のあった辺り、さつき通り松坂屋配送センター前にもお店があり、うさぎ山に因んで『うさぎや』なのだという。

僕より 9 歳ほど年上のご主人はうさぎ山を覚えておられ、様々な催し物や野外シアター化されたりもする、ちょっとしたイベント広場的な公園であったらしい。ご主人の懐かしい昔話と『うさぎや』の店名が、かつて清水にうさぎ山があったという確かな証になっている。

またひとつ、「ただいま~」と言って帰って行ける店が清水にできたし、それはまた息子に悪いことをさせまいとする母の仕掛けにまんまとはまっているような気もする。

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【望月金庫堂】

【望月金庫堂】

静岡県清水巴町の『望月金庫堂』。
僕が中学に入学した年にすでにこの場所にあった。
もっともっと古くからあるお店だと思う。

母は清水で商売を始めるときこの店で大きめの手提げ金庫を買った。
そしてガンで長くないとわかったとき、「お母さんが死んだらすぐにこの金庫を開けなさい」と言った。


母が死んで大変なことに気づいたのだが、僕はダイアル解錠のための番号を聞いていなかったのである。
親より金庫の中身が気になっているみたいで、そんなことを親に聞けるものではない。

で、咄嗟にその金庫を買った『望月金庫堂』さんで開けて貰おうかとも思ったが、きっと盗品であると思われる可能性が高いし、そもそも親が死んで自分の持ち物になったという証明を警察署に行って立証するところから始めなければならないに違いないと思え、それは気の遠くなるような作業に違いないし、「…すぐにこの金庫を開けなさい」という遺言が気になってニュースでよく聞く手口を真似してみた。

バールでこじ開けたのである。

親が死んだ翌日に金庫破りをするというのは最高に嫌な気分のものである。
もう二度と嫌だ。

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▼キツネいろいろ

東京で過ごした小学生時代、
そば屋でキツネを頼むと油揚げは味が付いていない
「そのまんま」のあぶらげがのっていた記憶があり、
大阪の名店と呼ばれる店をテレビで見て
実際に行ってみたら煮たあぶらげがのっていてビックリした。

その後、キツネを頼むと関東でも決まって煮たあぶらげに遭遇することが多く、
僕は煮たあぶらげが妙に甘じょっぱいのが好きではない。
関西の悪影響だと思っていた。



大阪環状線天王寺駅の立ち食いうどん屋に入ったら
煮てないあぶらげ入りのうどんを食べているおっちゃんがいたので、おばちゃんに
「あれなに?」
と聞いたら
「あれはキザミ!」
と教えてくれた。顔が
「(そんなことええ年して知らんのかいな)」
と言っていた。

なんだ、大阪人も昔っから煮てないキツネを食ってたのか。

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【山下天どん店とハマクラ】

【山下天どん店とハマクラ】

山下の前に立って天を仰いだら曇天だった……

なんていう寒いオヤジギャグがでてしまうのも山下に続く「ん、ん、ん」、「○ん○ん○ん」のリズムが妙に陽気だからではないだろうか。



「○ん○ん○ん」のリズムというと「ちんとんしゃん」とか「とんちんかん」とか「まんきんたん」とか「はんごんたん」とか「あんぽんたん」とかあってみんな明るくて浜口庫之介みたいだ。

そういえばハマクラはサントリーのCMソングを数多く手がけていたけど「♪せ~いしゅ~ん さんさんさん~」という妙に調子の良いビールのコマーシャルもハマクラだったんじゃないかな。

なんだか山下の鰻が食べたくなってきた。

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