【車の犬】

【車の犬】

柳田國男を読んでいたら「車の犬が叢を踏む」という文があって、そのおもしろい表現に引き止められ、そこでしばらくつっかえた。原文を長く引けば、

最初の晩は土々呂の海浜の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつゝ、延岡へと車を走らせた。次の朝早天に出て見たら、薄雪ほどな霜が降つて居た。車の犬が叢を踏むと、それが煙のやうに散るのである。(柳田國男「ひじりの家」)

わざわざ朝露や霜の降りた叢(くさむら)を踏んで歩きたがる犬の習性が眼に浮かび、自動車の轍をそれにたとえているのだろう。狸や狢(むじな)が機関車に化けて夜な夜な線路を疾駆するなどという不気味な噂話が日本各地にあって採集された、という話も聞く民俗学の世界らしい柔軟で美しい表現に感心した。

自分は旅人だから、勿論ずんずん往つてしまふ。しかもこの閑かな山の寺の人々とても、やはり亦世中の道をあるいて居て、一つ処に永くたゝずんでは居られぬのである。(柳田國男「ひじりの家」)

「ずん」は小さなヤ行拗音がついた「じゅん」を大きな仮名の直音に置き換えて表記したものだろう。

往こう、往こう、わたしは元気、歩くのだいすき、ずんずん往こう。

 

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【カモメも何かを待っている】

【カモメも何かを待っている】

Android と iOS で使える SideBooks という PDF ビュアーがあるのは知っていたけれど、久しぶりにいじってみたらとてもいい。スマートフォンやタブレットにアプリをインストールして、自宅や出先や会議の席での PDF 書類検索や閲覧にとても便利なことがわかった。

溜め込んだ郷土資料が 9.5GB ほどあり、ストレージ容量に余裕のあるデバイスには全体を保存し、そうでないもののためには Google ドライブに全体をアップし随時 SideBooks に読み込むことにした。重たい『清水市史』三巻をいつも持ち歩いて本文が検索可能になった。なんで今までそうしなかったのだろうと不思議に思う。

待っているだけではだめで、やってみなければ何も始まらない。


🎶世界は日の出を待っている

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【習い性】

【習い性】

読んでいた本に「習い、性となっている」とあって「習い性となる」のことかなと思う。習慣を続けると生まれつきそうであったかのように自然にできるようになる、それを「習い性となる」という、と覚えていた。

習いと性のあいだに点が入る用例をはじめて見たので辞書を引いたら「習い、性となる」と点で区切って書くほうが正しく、読み方も「ならいせいとなる」は正しくないし、慣用読みで「ならいしょうとなる」と読むのは二重の間違いらしい。自分も後者で読んでいた。「ならい、せいとなる」が正しいという。なーる。

2023/04/27 本駒込
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習い、性となってしまった現代社会の生活習慣は、ふたたび習い、性となるまでの努力をして改めるしかないのだろう。今朝も朝食準備で出る山ほどのゴミを見ながら思う。

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【考えない人】

【考えない人】

ロダンが製作したブロンズ像『考える人』の名称は、没後に鋳造した鋳造職人が命名したといわれているらしい。ブロンズ像がほんとうに考えているかどうかはわからないけれど、顎に手の甲をあて肘を膝に置いて腰掛けたポーズは、たしかに思索に耽る人という記号になっている。

「下手の考え休むに似たり」というけれど、難しく考えることをはなからいやがるタイプの人たちにとっては、生きている今この現実にくみこまれうる知識だけが知恵なのである。顎に手の甲をあて肘を膝に置き腰掛けて考え事をするなどという行為はあきらかに無益なのであって、『考える人』は人生の「無駄」という記号になっている。

駿府公園にて

「考えない人」の記号となりうるブロンズ像はどんなポーズをしているだろう。言葉で平易に書けば「事前に考える必要のないことについて事前に考えない人」ということになる。

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【黄金週間と花粉】

【黄金週間と花粉】

毎年、連休近くになると花粉症が始まり、苦沙弥百発洟一斗(くしゃみひゃっぱつはないっと)の惨状になる。世間がスギ花粉情報で大騒ぎしている頃は何ともなくて、この時期になってから辛い症状が出て騒いで笑われる。

「今どきの花粉症」で検索すると、どうやらヒノキ花粉なのかもしれない。今朝も午前3時すぎに目が覚めてしまったらもう眠れない。眼の奥から耳の後ろあたりが熱っぽくてボーッとし、連休前に終わらせる仕事に身が入らないのでアレルギー専用鼻炎薬でも飲んでみようかと思う。

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【旅は文体をつれて】

【旅は文体をつれて】

吉田健一訳によるスティヴンソン『旅は驢馬をつれて』(岩波文庫)が好きで何度も読み返している。どうしてこんなに惹かれるんだろうと思う。

原作 "Travels with a Donkey in the Cevennes"(1879 明治十二年)もいいのだけれど訳文も素晴らしい。吉田健一訳の岩波文庫発売は昭和二十六(1951)年になっている。

いま読んでいる福田定良『めもらびりあ』(1948 昭和二十三年)の文体は吉田訳の『旅は驢馬をつれて』のそれによく似ていて、まるでスティヴンソンが書いた太平洋戦争従軍記を読んでいるような気分になる。

子供時代からのひとつの習癖が私に新しい思索の方法を教えてくれた。つまり、それは、ひとりごとによって私が自分の話相手の役までつとめ、たがいの言葉を吟味しながら話しあう、という方法であった。さいわい、あたりには人がいないので、私がむきになって自分の言葉を反駁したり是認したりしても、狂人扱いにされる心配はなかったのである。(『めもらびりあ』)

これがそのヒントであるような気がし、一人二役、「私」と「驢馬のモデスティイヌ」による、対話と思索の旅のように読んでいる。

福田定良の著書を古書でかき集めたので、「文体の不思議」を考えながら読み進めるのが楽しみになっている。

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【光と消しゴム】

【光と消しゴム】

区立図書館から借り出した鶴見俊輔の本に鉛筆で書き込みしながら読んだ人がいるので、消しゴムで消しながら読み終えて返却した。

福田定良の本(『めもらびりあ 〈 戦争と哲学と私 〉 』法政大学出版局・1967 )を借り出して読み始めたら、「あ!」と目をひく同じ人によると思われる鉛筆書き込みがあってびっくりした。

自分と同じような興味をたどって同じ本を読んでいる人がいたからといって別段不思議でもない、と思いながら消しゴムを用意した。

2023年4月23日 東洋文庫にて
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文京区長および区議会議員選挙の投票帰りに、
「東洋文庫脇できれいなものを見つけた」
妻が言うので行ってみたら、水面で反射された光が天井に映り、消えゆくがゆえに美しい遊びをしていた。

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【活版の時代】

【活版の時代】

鶴見俊輔の本で福田定良(ふくださだよし 1917−2002)のことを知り興味が湧いたので著書を検索し、手はじめに柏樹新書『「ひとり」の人間学』を読んでいる。とてもいい。人間として「『ひとりでできること』ができる人」について自己対話形式で話されている。著者はそうすることで狂気の戦中を生き抜かれた人なのだ。

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古書で探したこの古びた本をめくると、昭和 50 年 11 月 25 日第一刷印刷と奥付にある。軽くて束厚の出る本文用紙を使っているので活版印刷の印圧による凸凹が美しい。読みながらきれいだなと思う。昭和 50 年といえば文京区内の大学に在学中だったが、書籍の多くはまだ活版印刷の時代だったのだ。

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年に一冊だけ福祉系の本を出版し続けている友人がいて今年もまた装幀の依頼があり、連休前の入稿日が近づいた。年一冊のミニマルな出版社は、今はもうない柏樹社から出た編集者がおこした会社であり、偶然その柏樹新書を読んでいたのだ。印刷をされた船舶印刷という社名が面白いので調べたら台東区東上野にある。

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【三上】

【三上】

モンテーニュ(フランスの思想家 1533~1592)の城の便所をのぞいたら『エセー』( Les Essais モラリスト文学)の著者の「三上の一つ」は甚だ粗末だったという。この紀行文(桑原武夫)からの引用にある三上とは「みかみ」ではなく「さんじょう」なのだろう。この「三上の一つ」ってなんだろうと気になる。

気になるので三上(さんじょう)とはなにかと辞書を引いたら、欧陽脩(おうよう・しゅう 北宋の文学者 1007~1072 )が、文章を考えるのにもっとも都合がよい場所は馬に乗っているときの馬上(ばじょう)、寝床に入っているときの枕上(ちんじょう)、便所に入っているときの厠上(しじょう)の三上だと「帰田録」に書いているのだという。

紀行文の筆者はのぞいた便所の粗末さと、厠上(しじょう)の産物である名著がまとうあざやかな対比を思って愉快だったのだろう。

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【元気を出せよ】

【元気を出せよ】

図書館から借りだした本に、フランス語で元気を出せよは「 Du courage! (デュ・クーラージュ)」だと書かれていたのでスマホで OCR してメモした。

読書の友 OCR 付きエディタ『一太郎 Pad 』

元気がないわけではなく、どちらかというと無駄が出るほど元気な自分に、あえて「デュ・クーラージュ!」と心のなかで言ってみると気持ちがいい。そもそも「元気を出せよ」は元気な者ににこそ有効な掛け声なのだ。今朝も無駄に元気な清水の友人に朝一番で電話した。「頑張って!」も頑張れる人にだけ、あなたなら頑張れると私は思う、と言うべきなのだろう。

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【忘れ物】

【忘れ物】

雑誌の編集会議で清水へ日帰り出張した。友人宅で昼食をいただきながら人生の作戦会議的雑談をし、静鉄で新静岡に出てオープンしたての静岡市歴史博物館に行ってみた。

遠出をする際に妻が送ってくるショートメッセージには「転ぶな」と「忘れ物をするな」というふたつの注意が必ず書き添えられている。

帰京後、博物館に忘れ物をしたことに気づいたので今朝一番で電話し、来月取りに行くから保管してくれるよう頼んだ。妻に話したらやっぱり叱られた。

留守中に文京区の図書館からメールが届いており、貸し出し予約した山田稔『生命の酒樽』筑摩書房の準備ができたという。

どうしてその本が読みたくなったのか思い出せないので検索したら、鶴見俊輔が老いの準備の手控えとして編んだ本に収められ、もっと読んでみたくなったけれど古書で手に入らないのを図書館で見つけ出したのだった。

あちこちに自分の忘れ物が転がっているようになった。

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【イロハモミジ】

【イロハモミジ】

2022 年 6 月 8 日に【まにあうかもしれない今なら】と題して日記を書いた。

昨年の秋から冬にかけて六義園内から飛んできた樹木の種子がベランダの排水溝に吹き溜まり、黒く腐蝕した枯れ葉の中から発芽している。最初はどれも可愛らしい双葉を開き、次に伸ばす個性的な葉っぱで樹種がわかる。最初に見つけたのはケヤキだと思い、よろこびいさんで鉢に移植したら枯らしてしまった。なにしろブロッコリのスプラウトよりか弱くて、上から水やりしただけで倒れてしまうのだ。同じ実生が仕事場のベランダにも発芽していたのでよく観察したら、先日枯らしたのも含めて、ケヤキではなくイロハモミジらしい。植え替えを急いで枯らしたので、今度はもう少し様子を見て太くなってからと思ったのだけれど、このところの雨に打たれて力なく倒れ伏している。何しろ生えている場所にはふんばる土がないのだ。こらえきれず「♪まにあうかもしれない今なら まにあうかもしれない今すぐ…」となつかしい吉田拓郎の歌を口ずさみながら思い切って移植してみた。衰えて立っていられない様子なので園芸用針金で「 y 字型」の松葉杖をそれぞれの株に添えてやった。ひと株くらいぶじに育つといいのだけれど。

2023年4月19日のイロハモミジ。三株とも元気に育っている。今日は雑誌『季刊清水』編集会議で清水へ。

 

 

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【サヨナラ サヨナラ】

【サヨナラ サヨナラ】

子どもの頃に聞き覚えた意味不明なことばは、意味不明であるがゆえに純潔を保ったまま耳にこびりついて忘れがたい。とくにリズムとメロディを伴って入ってきたものは記憶に居座ったまま消えようとしない。

忘れられない歌たちの中にあった意味不明、「クイカイマニマニ」は南米、「サラスポンダ」はオランダ、「ラササヤン」はマレーシアあたりのことばだった。

そういう忘れがたい歌のフレーズに「サンパイブジュパブラ」があって耳鳴りのようにいまも気になり続けている。「サヨナラサヨナラ」という日本語の連呼に続く「サンパイブジュパブラ」。そう入力しても見つからないので、推測のインドネシアと歌詞のサヨナラを組み合わせて検索したらやっと見つけた。

やはりインドネシアの歌だそうで、「Sayonara Sayonara」に続く「サンパイブジュパブラ」は「 Sampai berjumpa pula 」と綴り「サンパイ ブージュンパ プラ」と言っているようにに聞こえる。「また会う日まで」という意味らしい。日本語混じりということもあって、なんだか曰く因縁がありそうな歌である。

YouTubeで歌を聴く

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【三本脚】

【三本脚】

学校で「三つの点をつなぐと平面になる」と教わったと、例外を排除して簡潔かつ実用的に理解してから、この世界における自分の存在がとても安定して感じられるようになった。子ども時代、人生の最初で最後と言ってもよいくらいに実用的な知恵の伝授だった。

人間の足は二本しかないけれど、歩きながら次々に片足がつく位置を移動させることで仮想三本脚になって転ばないようにしている。そういう仕組みもそれでよくわかった。

イヌもイスも四本脚である

ブレずに動画を撮るための携帯しやすい簡易三脚が欲しくなり、二脚はすでに自分の足があるので、伸縮式の軽量一脚を買ってみた。人間は知恵を一本の杖として人生を二本足で歩む。

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【なんとなく草枕】

【なんとなく草枕】

「静これを性となせば心其中にあり、動これを心となせば性其中にあり、心生ずれば性滅し、心滅すれば性生ず」

漱石を読んでいて「なーる」と思ったらしく難しいことがメモしてあった。

灯りが点いているからこんなに明るいのだとわかると消灯スイッチが欲しくなり、灯りが消えているからこんなに暗いのだとわかると点灯スイッチが欲しくなる。スイッチはひとつなので消灯釦(ボタン)が引っ込むと点灯釦が出っ張り、点灯釦が出っ張ると消灯釦が引っ込む。

理性が勝れば野性が引っ込み、野生が勝れば理性が引っ込み、我を忘れれば恥も忘れて外向し、我に返れば行いを恥じて内向する。人間はそういうふうにできている。

「元来は静であるべき大地の一角に陥欠(かんけつ)が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背くと悟って、力(つと)めて往昔(むかし)の姿にもどろうとしたのを、平衡を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日(こんにち)は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。
 それだから軽侮(けいぶ)の裏に、何となく人に縋(すが)りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎(つつし)み深い分別(ふんべつ)がほのめいている。」(夏目漱石『草枕』)

形而上即是形而下
形而下即是形而上

ない「と思う」からある、ある「と思う」からない、と揺蕩(たゆた)いながら動的に「ありつづける」漱石の実用主義(pragmatism)である。

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