◉貸し借りあれこれ

2018年5月31日
僕の寄り道――◉貸し借りあれこれ


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この春、田端西台通りの道路拡幅工事現場が遺跡発掘中で、奈良から平安時代にかけての住居跡が見つかっていた。見つかった住居跡は縦穴式の民家で、火災によって地中に取り残されたいわば事故物件であり、事故当時の状況が保存されたタイムカプセルになっているという。

面白いのは、そこから鍬と鋤の刃先が見つかったことで、鉄器を首長が一括管理して統治していたという従来の説を覆す可能性があるという。当時は鉄が貴重だったので、農具は木製で刃先にだけ鉄が取り付けられていた。そういう簡素な農具でさえ首長から貸与され、農民が自前の農具を持てない時代だったとされている。

民俗学者宮本常一によると、新潟県蒲原平野地方には貸鍬(かしくわ)の制度があったという。貸主は鍛冶屋で、農民は鍬を借りて農作業を行い、秋の収穫を終えると鍛冶屋は鍬一丁に対して米一升から二升を取り立てたという。山形県庄内地方には貸鍬以外に貸鎌や貸鋤の制度もあった。

能登半島では揚げ浜による製塩用の貸釜制度もあり、一石焚きの釜の貸料は年米一石だったという。貸主の鋳物師は持っている釜の数だけ所得があるわけで資本家化し、実際に鋳物を鋳造する職人を大工といった。鋳物は冬に鋳られるので夏場は仕事がなく、鋳物の大工たちは東京に出稼ぎして左官をしたという。

郷土史の編集会議で帰省し、郷里の鳶職は東京でも有名だったと言ったら、郷里で有名なのは塗装職人としてだったはずだという。

どこでどう憶え違えたのかと気になっていたら、マンション管理組合の理事長を押し付けられてしまい、大規模修繕の業者を呼んで面接をした。驚いたことに彼らの多くはもともと海辺の塗装会社だった。船や港湾施設の塗装工事をするために高度な足場を組める技能者だったからだ。

能登の鋳物大工がどうして出稼ぎ先の東京では左官職人だったのだろうと思って、そんなことを思い出した。泥や砂やコテを使って鋳型を作るのがお手のものだったからだ。

はて、壊れやすい農機具で、自前の道具を持つことと有償貸与方式を比べて当時の農民はどっちが得だったか、米による支払いが経済の根幹だったから長いこと日本は年末一括払いの掛け売り方式だったのか、資本家というのはそういう貸し借りから生まれるのか、貸借経済が町という仕組みを発生させたのか……などなどあれこれ思うところが多い散歩である。(2018/05/31)

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◉鞄のいろは空のいろ

2018年5月30日
僕の寄り道――◉鞄のいろは空のいろ

関西の実家に帰省した女性編集者から「大阪名物いか焼き」を土産にもらい、その冷凍いか焼きを食べてしまったあとも、お土産セットのクーラーバッグは、保温機能付き買い物バッグとして愛用している。なんとも屈託のない「そらいろ」をしているのが、あまんきみこの童話「車のいろは空のいろ」を思い出させて気に入っている。鞄のいろは空のいろ、である。

老人ホーム食事介助に通う妻に付き添って通う大宮は、駅ビル内の魚屋『魚力』が頑張っており、なぜか肉屋でも豚肉が都内より安い気がするので、生鮮食料品の買い物をして帰る。魚や肉の買い物は氷を貰ってそらいろのいか焼きクーラーバッグに入れている。

週末の老人ホーム訪問に出発するときは
「いか焼きのクーラーバッグを持った?」
と妻が聞く。終点大宮まで京浜東北線に乗って行くので、電車のいろも空のいろである。

人は長い言葉を約(つづ)めてしまいたい欲求に抗い難いようで、〈いか焼きのクーラーバッグ〉 はやがて 〈いか焼きバッグ〉 になり、買い物袋がわりであることと習合して、いまでは 〈いかぶくろ〉 と呼ばれている。出かける時は「♪よるーのいかーぶくろー」などと青江三奈の歌がでて笑ってしまう。

〈いかぶくろ〉 で思い出す池袋。北池袋の編集事務所で打ち合わせをした帰りは、池袋駅西口から電車に乗る前に、東武百貨店地下食料品売場の魚屋をのぞいている。なかなか元気が良くて安いので気になるのだけれど、先日やっと大宮と同じ『魚力』であることに気付いた。池袋は大宮よりはるかに近いので 〈いかぶくろ〉 は持参しない。(2018/05/30)


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◉山の日

2018年5月29日
僕の寄り道――◉山の日

夢の中でエレベーターに乗ったら B5 サイズの手描きポスターが掲示されており、「 6 月 11 日は山の日ですよ!」という標語が、素朴な山の絵を添えて大書されていた。

山田妙音という個人名入りの意見広告のようなもので、この人は何を住民にアピールしたいのだろうと考えながら目が覚めた。だいいち山の日は 8 月 11 日である。(2018/05/29)


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◉ガス抜きと気力

2018年5月29日
僕の寄り道――◉ガス抜きと気力

ちょっと面白い本を何年か前に読んだ。中年のポッコリお腹を凹ませるための本で、ダイエットや運動なしでお腹を凹ませる方法が書かれている。買って、読んで、書いてあることを試してみたら本当にお腹が凹んだ。

その本が言うには、人は筋肉の力でお腹がポッコリ出ないように凹ませているだけで、その筋力が衰えるからお腹が出る。だから筋肉に力を込めてお腹を凹ませる運動を繰り返していると筋力が復活強化され、意識せずとも自然にお腹が凹んでいるようになるという。

ちょっと続ければベルトの穴の一つや二つ分くらいすぐに凹むというので試してみたら本当に凹んだ。なるほどと思ったらなんだか飽きてしまい、またポッコリお腹に戻っていたら、たいへんな風邪を引いた。長いこと熱が下がらず、食欲不振が2週間も続いたらげっそり痩せ、げっそり痩せたらお腹が自然に凹んだ。

痩せたこともあるけれど飛び出そうとするお腹の重みがある閾値(しきいち)以内に収まっていると、凹ませようとする筋力の方が優勢になって自然に凹んでいるものらしい。その証拠に意図的にお腹の筋肉を緩めてやると、ポッコリお腹を出すことができる。

ようは筋肉がお腹の飛び出しを抑えられる限界点である閾値を超えなければ、お腹はポッコリ飛び出さないのだと思う。ということを学んだので、そういう状態が保てる範囲内に収まるよう暴飲暴食を抑えている。

人の気力にも似たところがある。心のガス抜きなどというけれど、たまった思いを言葉にして放出してみると心が軽くなった気がする。

昔の人はガス抜き話を聞いてくれる人を探すのに苦労したけれど、インターネットの時代になって、不特定多数の他人を相手にそれが手軽にできるようになった。

インターネットを相手にした心のガス抜きには、匿名でやるか実名でやるかのふた通りがある。匿名なら愚痴から、文句から、差別発言やヘイトスピーチまで、なんでも手軽にできてしまう。匿名でなら容易にできるガス抜きだが実名では難しい。実名を名乗ると抜けるガスの質に制限がある。

他人に手厳しい批判を加えたり、誹謗中傷するのに都合の良いのが匿名であると同時に、絵に描いたような語る資格のない「正義」を振りかざすこともまた匿名者にはたやすい。自問する必要がないからだ。不正義は当然として、自問しないクソ正義もまた恐ろしい。

実名で語ることには、他人の不正義を糾弾するにも、理想的な正義を主張するにも、「自分の手もまた汚れていることを隠しての嘘」がつきにくいという閾値が存在し、心のガスが過剰に抜けないためのつっかえ棒になっている。(2018/05/29)


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◉間投助詞と語尾上げ

2018年5月28日
僕の寄り道――◉間投助詞と語尾上げ

宮本常一『民俗のふるさと』を読んでいたら昭和 36 年 3 月に発生した幼児誘拐殺人事件に関する記述があった。当時としては大変衝撃的な事件で、連日テレビ・ラジオで報じられたので子ども心にも印象深い。

唯一の手がかりだった犯人からの脅迫電話録音テープは、当時の記憶とのちの回顧番組で聴いた記憶が合わさって、生々しく思い出すことができる。宮本常一を要約すれば、実体験を通して身についたお国言葉に、実体験から遊離した「標準弁」として獲得した東京弁が継ぎ足された、典型的な地方出身者の話し方が録音されている。その継ぎ足された言葉のぎこちなさを補い、自信の持てない伝達を強化しようという意図が、短い電話での会話の中に「ね」という間投助詞を 138 回も挿入させているという。

確かな記憶ではないけれど、たとえば身近なことをその方法で再現するなら
「ええと JR 山手線ね、その駒込駅南口を出たところにある駅前ロータリーね、そこから交差点越しに見える木がいっぱいある庭園ね、六義園入口ね……」
というような『ね」が非常に気になる話し方というのがそれにあたる。

本郷通り、六義園染井門近くの紫陽花

そういう間投助詞が多い話し方から犯人は東京在住の地方出身者、そしてイントネーションから福島あたりの出身者と学者は推論していたという。

もし話者が、間投助詞を多く挟みたがる自分の話し方まるだしではなく、なんとか癖を抑えようとして、間投助詞「ね」をこらえて話したら、
「ええと JR 山手線↑、その駒込駅南口を出たところにある駅前広場↑、そこから交差点越しに見える木がいっぱい生えた庭園↑、六義園入口↑……」
という語尾上げ言葉になりそうな気がする。間投助詞が多い話し方は、語尾上げ表現に似ている。(2018/05/28)


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◉漢字崩壊

2018年5月27日
僕の寄り道――◉漢字崩壊

パソコンを使うようになって文字を書かないので、いざ書かなくてはいけない時になって、知っていたはずの字が思い出せなくて恥ずかしい、ということはほとんどの人が言う。もはや文明病だ。

ありがたいことにカナ文字を知っているので自分用のメモ書きには困らない。パソコン慣れして漢字を忘れた中国人は「大変」なのではないか。急ぎのメモは dabian などとローマ字で書いてその場しのぎしたりするのだろうか。

小学生時代、漢字書き取りの宿題で同じ漢字を 100 個ずつノートに書いて来いなどと言われ、同じ字をずっと書いて眺めていると、文字がただの図形としか見えなくなり、意味も、読みも、書き順までわからなくなった。それを漢字のゲシュタルト崩壊という。

最近、9ヶ月年下という意味で同い年の妻が
「わたし最近、ありえない漢字を書いていて笑っちゃう」
と言う。あえて同い年と書いたのは、パソコンのせいだけではない年齢的な衰えもあるかなと思うからだ。実は自分も最近ありえない漢字を書いている。

毎年本郷通り沿いの荒れ果てたプランターで忘れられたように咲くミニバラ

漢字の類似によるゲシュタルト崩壊は偏(へん)と旁(つくり)の組み合わせが類似した文字同士で起こりやすいという。これは面白い指摘で、自分に起きている「ありえない漢字を書いてしまう現象」は、文字の偏と旁のゲシュタルト崩壊とも言えそうに思う。

たとえば「助詞」と書こうとしたのに「助」を「力且」、「詞」を「司言」と左右逆に書いているのに気づき、心の中で「(偏と旁が逆だろう)」などと笑ってしまう。妻の「ありえない漢字を書いてしまう現象」がそういうものなのか確かめてみよう、といまこれを書いていて思う。

宮本常一がむかし書いた本を読んでいたら、「間投助詞」の使い方について面白いことを書いており、それを手帳にメモし「助詞」と書くべきところで「ありえない漢字を書いてしまう現象」が出て思い出した。(2018/05/27)

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◉中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫

2018年5月26日
僕の寄り道――◉中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫


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 恩師であり仲人でもある中学社会科の先生にはずいぶんご無沙汰している。お訪ねするたびに危なっかしい運転で駅まで送ってやるというのを断るのに四苦八苦し、免許証を返納されたと聞いて安心したら、最近は
「編集会議前にちょっと寄るんじゃなくて、編集会議後に寄って泊まっていけ」
などとおっしゃり、言い出したら人の言うことをお聞きにならないので、ついつい足が遠のいている。

そういう年老いた恩師を訪ねて郷土史の話をし、
「えーーっと承久の乱だから……」
と恩師が言葉に詰まられ、
「えーーい、くそっ、うん、そうだ、鎌倉時代の 1221 年!、そのあたりだ」
などと正解を絞り出されるのを見ていると、教師というのは大したものだなあ、こういう膨大な知識をもとに生徒を指導しておられたのだなぁと感心してしまう。

感心しながらいたたまれないのが、なかなか記憶の引き出せない恩師を補うように、先回りして合いの手を入れると、
「おーー、お前はよく勉強してる、よくそんなことを知っているなぁ!」
と驚かれることだ。ワープロが精一杯、パソコンはさわれなくて、インターネットもメールも使えない恩師に比べ、こちらは知りたいことがあればインターネットで答えを見つけられてしまうのだ。調べやすかっただけで勉強の質が違う。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そんなわけで、最近はインターネットで調べられないことを見つけて国会図書館に行くのが楽しいし、昔の地味な本こそ読んで面白いし、インターネットに載っていないような事柄をコツコツ調べられたお年寄りの書かれたものが楽しい。

郷里静岡の小島藩は二万石以下の小藩で築城が許されず陣屋を構えていた。移封され上総国金ヶ崎藩、のちに櫻井藩に改称、櫻井県となったのち合併して木更津県となった。

中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫、発行福祉新聞社という本作りの手伝いをして完成本が送られて来た。同様に、小藩ゆえ陣屋しか構えられなかった一宮藩は廃藩となって一宮県となり、木更津県を経て立派に千葉県となった。最後の藩主加納久宜の子、加納久朗は千葉県知事まで務めている。木更津県を経ることにより小島藩とともに千葉県の母体となったわけだ。

雑誌『季刊清水』編集長に献本したが、そうだ、ご機嫌伺いを兼ねて恩師にも送ろう。(2018/05/26)

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◉魚の話あれこれ

2018年5月25日
僕の寄り道――◉魚の話あれこれ


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ひどく幼い頃だから昭和三十年代始めころ、巴川でいとこたちと川遊びしたことがある。堀込橋上流は幼児でも背が立つほど浅く、水が透き通って川底の小石が手に取るように見えた。足を突かれ、怖くて泣きべそをかくほど様々な生き物で満ち満ちていた。

昭和初年から終戦までの郷土について書かれた市史を読むと、当時巴川で獲れた魚としてウナギ、フナ、コイ、ボラ(イナ)、ハゼ、エビ、ハヤ、ウグイ、セイゴなどの名前が挙げられている。関東ではハヤとウグイは同じ魚をいうので、ハヤ、ウグイのどちらかは関東でヤマベやオイカワにあたる魚を指しているのではないかと思う。小学生時代は支流の塩田川でよくヤマベをとった。

九十歳を過ぎ、かつて渋川でウナギの稚魚をとった頃をご存知の方がいるというので、女性編集委員のお供をして訪ねてみたいと思っている。戸籍を取り寄せてみると、わが祖父重太郎の父親は國太郎といい、江戸時代の平民なので居住地を冠して「渋川の國太郎」と呼ばれていた。おじいちゃんである渋川の國太郎は何をしていたのかと叔父に聞いたら川魚漁師だったという。

戦時中も川魚漁が盛んだったらしいが、清水市が勝手に静岡市の汚水巴川放出を承認したので漁民が反発し、巴川漁協設立の動きもあると記録に見える。巴川下流域の製紙工場から出る汚水も問題となり、折戸湾では海苔や牡蠣の養殖に問題が出ている。

清水区万世町にて。

市史編纂担当編集委員の聞き間違いか、清水湾でクロダイ釣りが盛んだがクロダイは悪食(あくじき)なので泥団子やスイカの皮でも釣れると書かれている。

清水湾では今でもクロダイ(チヌ)のダンゴ釣りが盛んだが、米ぬかに様々な工夫を加えており、ただの泥団子で釣っているわけではないと思う。団子は針につけた餌が沈んでゆく途中で他の魚に奪われないよう保護する工夫なのだけれど、物資の乏しい戦時中は本当に泥団子だったのかもしれない。針にはアミやエビなどの餌をつけて団子で包むが、やはり戦時中はスイカの皮で疑似餌をつくる工夫があったのかもしれない。

ただクロダイは悪食なので泥団子でもスイカの皮でも釣れるというのは、ちょっと違うのではないかと妙におかしい。(2018年5月25日)

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◉昼寝とヒメヒオウギ

2018年5月24日
僕の寄り道――◉昼寝とヒメヒオウギ

春だからか無性に眠い。おそらくみんな眠いに違いないと思い、昼の買い物散歩で近所の公園をのぞいたら、ワイシャツにネクタイしめた男性が五人ほど昼寝しており、そのうち二人はベンチを独占して横になっている。女性も一人いたが、さすがに姿勢を正して座った状態でこっくりこっくりしている。

公園脇に停車した自動車内でもみな昼寝中なので、小さな公園のエリアで十人以上が昼寝していることになる。ちょっと面白い風景だけれど写真に撮るのも申し訳ないので、公園の鉄柵からのぞいている可憐な姫檜扇 (ヒメヒオウギ)を撮って来た。南アフリカ原産で日本には大正時代に入り、強いのでこぼれた種から増えているといい、眠気に弱い人たちの周りでぱっちり咲いていた。(2018/05/24)


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◉ドクダミとササグモ

2018年5月24日
僕の寄り道――◉ドクダミとササグモ

昼休みに散歩を兼ねて近所のスーパーまで買い物に出た。道端の花壇に繁茂したドクダミに顔を近づけて見たが、残念ながら八重ではない。

花の脇にササグモがとまって獲物を待ち受けている。徘徊性なので、網を張って獲物を待ち受けることがない。卓越したジャンプ力があり、そばに獲物が来ると飛びついて捕獲するのだという。

頭部に八つの眼があるというので、帰宅後に写真を拡大したら、左右対称に並んで確かに八つある。この季節のドクダミを好むのか、よく葉っぱにとまっているのを見かける。(2018/05/24)


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◉松原入口と和田英作

2018年5月24日
僕の寄り道――◉松原入口と和田英作


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高校時代はよく三保松原入口まで歩いてから清水駅行きバスに乗った。たしかバス停前に商店があり、そこで漫画や成人向け雑誌を買い、友人たちと車内で回し読みしたものだった。

県道 199 号線三保松原入口交差点から折れて松原へと向かう道は、当時ずいぶん細い道だったように覚えているが、最近拡幅されたようで見違えるほど道路も空も広くなった。

洋画家和田英作(わだ えいさく)が静岡県清水市三保に移り住んだのは 1951 年 8 月で、1959 年 1 月 に亡くなるまでこの地に住んでいた。

広くなった松原入口の道沿いに和田英作邸跡の案内板があり、まさかこの場所とは知らなかったのでちょっと驚いた。道は和田邸の反対側に拡幅されたのだろう。

写真も文学も音楽も「制作者の人間が好きだからその人の作品が好き」ということがない。創作の対象や、結果としての作品について好き嫌いがあるだけだ。有名無名は関係ないし、人柄など知りようがないし、たとえ作者が死刑囚だと聞かされたとしても作品の評価は変わらない。とくに絵画作品についてはそういう接し方が多い。

和田英作の作品を見て好きな作品はほとんどないけれど、戦時中、愛知県知立市に疎開していた時に描いた『夏雲』(佐野美術館蔵)は何度見てもいいなぁと思う。作品を見て作者が好きになるということはある。

こういう景色が好きだったのなら、おそらく三保松原入口で没して本望だったろうと思う。和田邸があったあたりはかつて宮方という地名だったらしい。(2018/05/24)

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◉瀬織戸と折戸

2018年5月23日
僕の寄り道――◉瀬織戸と折戸


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 2009 年 11 月 10 日に「折戸でござる」と題して日記を書いた。「折戸でござる」はかつての NHK で放送されていた公開歴史バラエティ「お江戸でござる」を、次郎長通りの魚屋がもじって言った駄洒落の盗用である。

かつて三保は海によって隔てられた島だった、と「瀬織戸(せおりど)の渡し跡の案内板に書かれている。他所で削りとられた土砂が海流で運ばれて堆積し、三保半島がつくられる過程で、なぜかこの場所で陸続きにならなかった何らかの物理的作用があったのだろう。

陸続きになった後も、この瀬織戸の沖は魚が集まる良い漁場なのだそうで、網の入れ方などをめぐって漁師の争いが絶えなかったらしい。瀬織戸神社境内の松は樹齢 400 年以上というけれど、漁師たちのよい目印でもあったらしい。

昭和 5 年 12 月 20 日にわが母は西伊豆土肥(とい)で生まれた。そのひと月前、昭和 5 年 11 月 26 日にマグニチュード 7 の「北伊豆地震」があった。工事中だった丹那トンネル内で断層が動き、2.7 メートルのズレが生じたあの地震である。

県内で 259 人の死者を出したその地震は 26 日の午前 4 時 3 分に発生した。その翌日 27 日午後から折戸湾内にイワシの大群が押し寄せ、清水で 30 艘、興津で 5 艘分の漁獲があったと記録にある。

さらにその翌日も異常な豊漁が続き、海岸にはイワシの山ができたという。山になるほどとらなくてもいいではないかと思うけれど、地震前は不漁続きだったそうで、ずいぶんと漁民を喜ばせたらしい。不漁も大漁も、地殻変動が影響しているかもしれない。(2018/05/23)

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◉土俵

2018年5月22日
僕の寄り道――◉土俵


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現在の三保街道、県道 199 号線、折戸三保真崎線が竣工したのはいつだったのかという興味で、昭和初年頃からの『清水市史』吉川弘文館を読み始め、昭和 9 年に着工予定というところまで読んだあたりから戦局に暗雲が垂れこめ、いよいよ昭和 16 年には英米と戦端を開いて破局へと突き進んでいく。

1940(昭和15)年、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)一行が清水市訪問、栄寿座でベルリンオリンピック記録映画『民族の祭典』上映、などの話題を織り込みながら『清水市史』は数十ページの戦時記録が続く。折戸三保真崎線が竣工したのかしないのかなどの記述はみあたらない。

ただ昭和 14 年あたりで、売れなかった清水港埋立地が完売し、清静工業用水道計画が加速し、日本軽金属清水工場建設の地鎮祭が行われ、上水道を三保まで延長する工事が進み、清水港の追加埋め立て分譲計画がスタートし、市長が静岡鉄道の延伸三保本村乗り入れを要請したりしているので、この辺りで道も竣工したのかもしれない。

御穂神社から羽衣の松方向へ伸びる神の道を通り、境内裏手に回ったら土俵があって、忘れていたことを思い出した。旧清水市の巴川右岸には土俵のある神社が多く、昔から相撲が盛んで、現在も祭礼に相撲が欠かせない地域が多い。巴川左岸には土俵を見ないと言ったら、御穂神社にはあると教えてもらったことがある。あれがこれだったのかと思う。

巴川右岸は長尾川から東、興津川を越えて阿曽あたりまで、土地は荘園として伊勢神宮に寄進され高部御厨(たかべのみくり)だった。それゆえ吉川氏の祖となった入江氏は駿河守となっても巴川右岸に手が出せず、有度側の左岸を拓かなくてはならなかった。

土俵のある神社分布もそれに関係あると思うのだけれど「(なんだ三保にもあるのか)」と思ったのを思い出した。(2018/05/22)

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◉日本史と市史

2018年5月21日
僕の寄り道――◉日本史と市史


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2018 年 5 月 19 日の日記で折戸の柴田家について書き、その中で「柴田家が建てられた時代に現在の三保街道、県道 199 号線などなかった」と書いた。それでは県道 199 号線はいつできたのだろうと思って、昭和初年頃からの『清水市史』吉川弘文館を読んでいる。

内閣認可済み「昭和 2 年決定の都市計画街路網』を見ると、折戸から真崎までの「折戸三保真崎線」は地図で「II・I・10」と番号が振られ「2 番大路・第 1 類・10 号線」ということになっている。幅員は 10.5 間で昭和 3 年度施行予定とある。

世界大恐慌(1929-33)の最中であり、日本も昭和恐慌の真っ只中で、清水はさらに風土病的に金欠だった。それでもこの大不況の中で数々の大工事が行われている。

不況による失業者対策とも言われるし、昭和 3 年の御大典に合わせるためというのもあるし、昭和 5 年の天皇行幸に間に合わせたいという思惑もあるし、欠食児童すら急増する中で権力者と欲望家の「なんたらミクス」的なばら撒き事業でもあった。

昭和一桁の時代に、こんなこともあんなことも郷里で起こっていたのかというメモを、一回り大きい日本史の中にメモして流れを掴むため、格好の書籍を近所の書店で見つけたので買ってみた。

石黒拡親(いしぐろひろちか)という予備校講師が書かれた『2時間でおさらいできる 日本史』大和書房で、文庫本なのでポケットに入るメモ帳にちょうどいい。市史を大日本史に書き込むためのメモ帳として、これこそ求めていたものである。とてもいい。

折戸三保真崎線のほうは財源不足で手がつかず、昭和 9 年に着工予定というところまで市史を読み進めてきたきた。まだ本当に着工して竣工がいつになるかはわからない。このあと静岡地震もあるし、戦局も暗雲垂れ込めてきた。(2018/05/21)


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◉大きな古時計

2018年5月20日
僕の寄り道――◉大きな古時計

老人ホームの集会室兼食堂にある、高さ2メートル近い大きな置き時計は、かつてここで介護を受けていた利用者の遺族が、世話になった礼として寄贈したのではないかと思われる。

そういう故人の形見分け的な貰い物を施設内で時折見かける。大きな時計や泰西名画などはもらって迷惑でもないようで、〇〇 様寄贈などと添え書きされて、ありがたそうに飾られている。ひな祭り頃、施設内に飾られる骨董品的に立派な雛人形もそうなのではないかと思う。

集会室兼食堂にある立派な置き時計は分銅式で、中で大きな振り子が揺れている。義母の昼食介助中に時計の針が午後 1 時を指すと、低音の時報が鳴るのだけれど「ボーン、ボーン、ボーン、ボーン」と 4 つ鳴る。それでは四時なのでケアワーカーが時々ずっこけて苦笑いしている。

義母が暮らしているユニットは認知症の症状が深い重介護のお年寄りばかりなので、1 時に時報が 4 つ鳴ることに気づいて文句を言う人はいない。若い男性ケアワーカーが気づいて苦笑いしているけれど、忙しくて直す時間がない、というより、数を合わせる部品の調整法を知らないのだろう。

「大きな古時計(My Grandfather's Clock)」という、1800 年代のアメリカ合衆国で流行った歌がある。2000 年代はじめの日本では平井堅が歌って大ヒットした。おじいさんが生まれた時から 100 年近く時を刻み続けてきた「大きなのっぽの古時計」も、おじいさんが亡くなった今では、もう動かなくなっていると歌われる。

老人ホームの古時計は今も達者に時を刻み続けているけれど、今日もまた間違った時を報せ続けている。(2018/05/20)



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