【北村亝作品集】

2020年8月31日

【北村亝作品集】

小島信夫(1915〜2006)を読んでいたら造形作家の友人として北村亝(ひとし)という人が出てきて、実在の人なのだろうと検索したら、やはり実在しており(1924〜2007)作品がなかなか面白い。まとまった作品を見てみたいので検索したら、1997 年にかねこ・あーとギャラリーが発行した作品集があった。

古書で手に入らないかと検索したら一件ヒットしたが「SOLD」だった。国立国会図書館で検索してみたけれど収蔵されていないので閲覧できない。なんだか寂しい話である。作品集のため小島が解説を書いたことになっているが、たぶんこの本なのだろう。

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【水中毒】

2020年8月31日

【水中毒】

小学校の校舎内に無料の自販機が置かれて冷たいミネラルウォーターが飲めるようになったという夢のような話をニュースで見た。

昭和の時代の体育授業は軍事教練のようで、運動中の水分補給など絶対に許されず、授業が終わると水飲み場に殺到して生暖かい水道水をがぶ飲みした。よく熱中症の死者が出なかったものだと思う。出たら殺人だ。

運動部の友人たちは
「飲みすぎるな、調子が悪くなるぞ」
と言っていたが、確かに死ぬほどがぶ飲みした後は死ぬほど怠くて嘔吐したこともある。水分を大量に摂取し過ぎて血中ナトリウム濃度が低下したときの症状だそうで、水中毒という。

スポーツドリンクがない場合、塩飴を舐めるのも水中毒予防に良いというけれど、そんなものを舐めていたら往復ビンタが飛んできた時代だ。天国のような話題で地獄の夏を思い出した。

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【のさばる】

2020年8月31日

【のさばる】

清水の友人に本を二冊送った。故人となられた静岡市出身の仏教学者三枝充悳(さいぐさみつよし)が遺した随筆集と、彼が薦めていた三浦清宏の芥川賞受賞作『長男の出家』の増補版だ。さっそく後者は読み終えられたそうで、とどいたメールに、若い頃よく読んだという小島信夫への言及があった。「独特の文体です。」という小島信夫はまったく読んだことがないので電子書籍版で手に入る『うるわしき日々』を読み始めた。

読んでいたら「のさばる」という言葉がおもしろい使い方をされていて、そもそも「のさばる」という言葉自体の由来が興味深い。「のさ」という古い言葉があって辞書を引くと「のんびりしているさま。また、間が抜けているさま。」とある。その「のさ」に接尾語「ばる」が付いて、そのことが一段と顕著である、そのことを強く押し通す、という意が加えられている。

老夫婦の外側に置かれた視点から、老妻の「健忘」についておもしろい表現がされているわけで、「そらっとぼけている」といった感じだろうか。以前読んだ大井玄『呆けたカントに「理性」はあるか』を引っ張り出して、やわらかく再読し始めたところなのでちょっと興味深い。

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【八月の断面】

2020年8月30日

【八月の断面】

「ナイフで切ったように、夏が終わる。」というのは長沢岳夫が PARCO のために書いた名コピーだ。朝起きたらナイフで切ったように夏が終わっていてくれたらいいのになと思うけれど、今朝もまた窓を開けた途端に猛烈な熱気が流れ込んでくる。

郷里清水のオルゴールメーカーを取材したいし、さつき通りにある野外彫刻群の撮影もふたつ返事で引き受けてしまったし、八月にスッパリとした断面を残して、九月は涼しくなってくれたらいいなと思う。

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【ガジュマル家の増殖】

2020年8月30日

【ガジュマル家の増殖】

買ってきたガジュマルの小さな鉢植えがどんどん芽を伸ばすので、妻が枝を剪定して切り落とし、捨てずに挿木したら、ちゃんと根を下ろして成長を始めた。愛称「がじゅ子」の妹なので「まる子」と呼んでおり、二本合わせて「がじゅまる子」ちゃんなのだという。(【がじゅ子とまる子】

実は剪定された枝は二本あり、どちらか一本でも挿木に成功すればめっけもんくらいに考えて、二本まとめて挿しておいた。やはり一本だけ元気に芽を出し始めたので、もう一本はそのうち引き抜いて始末しようと思っていた。

ところが成長が遅れていたもう一本も芽を出して伸び始めたので、あわてて動坂下の『園芸と陶器 山竹』で焼物の鉢を追加購入し、「まる子」をふた鉢に分離した。「まる子」がふた鉢になったので「妹の名前はどうする?」と妻に聞いたら、妹ではなく弟で「塩田くん」だという。懐かしい人を思い出した。

昔、塩田丸男(しおだ まるお)という評論家がいて、よくテレビで辛口評論をしていた。口が悪いおじさんだけれど、料理研究家の奥さん塩田ミチルに頭を押さえられている様子に愛嬌があって好きだった。「がじゅ子」「まる子」の姉妹に弟の「まる男」ができたわけだ。

 

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【ならぶ】

2020年8月29日

【ならぶ】

任期途中で辞任する首相が
「国民の皆様ならびに党関係者各位に多大なるご迷惑をおかけして…」
とポキポキ言うときの「ならびに」に、「並びに」ではなく立をふたつ並べた「竝」一文字で「ならび」と読む用例が出てきた。「…自己一身上の事竝に病氣の事…」(森田正馬)の「竝に」が読めないので辞書を引いた。

昔やはり「竝」を辞書で引いたような記憶を頼りに、自分の日記を検索したら大町桂月の文章が出てきた。(◉大町桂月を追う
「…上水に沿うて行くこと數町、上水の兩側に若き竝木を見る…」(『千川の櫻』)
があり、「竝木」が「なみき」と読めずに辞書を引いたのだった。

懐古派の文人で紀行文を多く残した健脚のおっさんである大町桂月が、昨年、雑誌『季刊清水』の編集で資料を見ていたら、蒲原の田中光顕邸まで出掛けて田中とともに写っているのを見て驚いた。いかにも奇人という裸に近い風体で、びしっと正装した明治の大物政治家と並んで写真に収まっていた。

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【他人の趣味の園芸】

2020年8月28日

【他人の趣味の園芸】

他人のマンション脇で他人がやっている趣味の園芸。両端のひょろ長い棒はフチベニベンケイ通称金の成る木。わが家のベランダにもあるけれど元気で成長が早く、ぐんぐん横に伸びて太くなる。

こういう幅数十センチの隙間しかない植え込みで育てるには無理があると思うのだけれど、一本だけ選んで脇に出る枝を剪定し、真っ直ぐに立てた支柱に園芸用針金でグルグル巻きにして固定し、見事な棒状に仕立てている。他人の趣味の園芸なのでとやかく言える筋合いではないけれど、金の成る木も苦しげで「これはユニークだな〜」と思う。

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【雲は湧き…】

2020年8月28日

【雲は湧き…】

この夏は雲の姿形がやけに気になる。大気の状態が不安定なので、湧き上がる雲が躍動感あふれて見えるからだ。

秋刀魚漁が始まり不漁続きでとんでもない値で取引されていると大騒ぎしている。もう鰻は庶民の口に入らないというあの狂乱を思い出す。マスコミが団扇でバタバタ煽る。

朝日に映えて雲が湧き、光あふれ、大気は乱れ、朝刊を開くと世界で人類が咆哮している。「漫才界の大御所 内海桂子さん死去 97歳」という速報が届いた。もうすぐ八月が終わる。

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【記憶は愛である】

2020年8月27日

【記憶は愛である】

2020 年 8 月 22 日土曜日の午後に放送された NHK ETV 特集「記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~」を録画してあったので、晩酌しながら観たがとてもよかった。

ヒトには過去に起こったことの連続した記憶があるから、自分が自分であるという確信が支えられている。映画フィルムはもちろん、電子機器のデジタル映像であっても、動画は一枚いちまい静止画の連続で出来上がっている。

そういう構造で時間はできている。一瞬一瞬を生きる静止画の連続再生が自分であることの確信としてアイデンティティ(自己同一性)を支えている。現実が現実として人間同士の付き合いの保証となっている。そういう現実性を「神」というより「愛」であると捉えて自身の認知症に抗う老映画監督の姿に感心した。2020 年 7 月 16 日に他界された。

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【がじゅ子とまる子】

2020年8月26日

【がじゅ子とまる子】

6 月 7 日に駒込妙義坂下の花屋で小さなガジュマルとテーブルヤシの鉢植えを買ってきた。妻が早速「卓ちゃん」と「がじゅ子」という名をつけたので、男の子と女の子ということになり、その兄妹を毎朝ベランダに出して、水やり担当大臣をしている。プラスチック製の鉢がいかにも頼りなくおまけ的なので、動坂下の『園芸と陶器 山竹』で焼物のやつを買ってきて植え替えをした。

卓ちゃんもがじゅ子もすくすくと伸び、妻が剪定をしながら手入れをしている。伸び盛りのがじゅ子の枝を落として捨てずに水に投げ込んであるので、新しい鉢に土を入れて挿し木した。挿し木用のではなく水捌けのよい園芸用土なので朝夕欠かさず水やりしていたら、根がついたようで新しい芽を吹き出している。

がじゅ子に妹ができたわけで、名前は何だと妻に尋ねたら「まる子」だという。ふた鉢そろってめでたく「がじゅまる子ちゃん」となったわけだ。なるほど。

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【駒込日枝神社脇階段のぼる】

2020年8月25日

【駒込日枝神社脇階段のぼる】

駒込日枝神社朝日山王宮脇の石段を登る。江戸時代、風光明媚な高台に赤坂山王日枝神社を勧請したものだという。

第二次世界大戦前の航空写真にはこの石段が見えないので、空襲で焼失した社殿を再建する際に整備されたように思うが、昭和 30 年ごろの地図にない石段が、その 30 年後である昭和 60 年に出現している。

新しい道路も作られており、このあたりはその 30 年間に大規模な開発が行われたらしい。おそらく駒込日枝神社脇の坂道が急峻なので角度を変えて人専用の石段にし、新たに現在の豊島区立駒込東公園を作り、その脇に車も通れる坂道を拓き、その坂もまた急峻なので滑り止め舗装をし、坂下を丁字路ではなく Y 字路にして三角形の分離帯を作り、坂下に突っ込まないよう車止めにしたのだろう。

自転車の人は担いで降りてくる

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【運動あれこれ】

2020年8月25日

【運動あれこれ】

6 月 23 日から毎朝仕事場でラジオ体操をし、自分でつくったプログラムに従ってダンベル運動をしている。そしてちょうどまる二ヶ月が経過した。

血圧の薬をもらいに行ったら医者が
「コロナ太りで悪くなってる人が多いけど、このところ血圧の数値がすごく良くなってるよ」
と言う。
「何かやってるの?」
と聞くので、
「6 月から毎朝欠かさず運動してます」
と答えた。

テレビのインタビューに答える具志堅用高が
「子どもの頃は日が暮れると提灯ともして運動したもんです」
と言うので、インタビュアーが
「なんの運動ですか?」
と聞いたら、当然だろうという顔をして
「もちろん沖縄の本土復帰運動ですよ」
と答えるのでしみじみ感動した。

「なんの運動ですか?」
と医者が聞くので
「我流のダンベル運動です」
と答えたらちょっと恥ずかしい。

 

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【駒込妙義坂下る】

2020年8月24日

【駒込妙義坂下る】

本郷通り(岩槻街道日光御成道)がJR駒込駅前から女子栄養大学入口あたりまで下る坂を妙義坂(みょうぎざか)という。

坂の西方駒込 3 丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、『これよりみょうぎみち、やしろまで半丁』と記せし石標を建つ。

と東京都の案内板にある。

駒込駅前から緩やかに北北西に下り、途中「くの字」に曲がって北北東に下る長さ 260 メートルを歩きながら、高低差 3 メートルという数字は実感より小さいな、などと思う猛暑の昼下がりである。

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【落雷と自意識】

2020年8月23日

【落雷と自意識】

郷里静岡県清水は空が広い。東海道新幹線が清見寺のトンネルを抜けて清水平野に出るときはとくにそう感じるし、東海道本線や静岡鉄道に乗って清水の市街地に降り立つと「ああ空が広いなあ」とさらに実感する。狭苦しい東京暮らしが長い者に特有な感想かもしれない。

その空が広い平野の真ん中を、巴川という驚くほど流れの遅い川が流れている。川というのは全長が短くなるほど流れが速くなるものだが、短いのに遅い特異な二級河川である。そののんびりした川が市街地の真ん中でのたくっているので町中の移動にはたいがい橋を渡らなくてはならない。

空の広い平野をのんびり流れる川に架かる橋を渡りながら見上げると、空がいっそう広い。その空が鉛色に曇って冷たい風が吹き、稲光と雷鳴が聞こえると脚がすくむ。幼い頃から雷が怖いのは清水生まれだからかもしれない。


清水でもらった飾り南瓜

そういう日に母親に連れられて橋を渡りながら怖いと言うと
「あんたは自意識過剰。雷があんたに落ちるなんて宝くじで一等が当たるより確率が低い。あんたに雷なんか落ちないよ」
と笑われたものだ。

朝一番でニュースを見たら長野県小諸市の畑で男女2人が雷に打たれて意識不明だという。外国人らしいとあるので農業技能実習生だろうか。だとしたら不安定な気象下で畑に出なくてはいけない事情によって確率が高かったわけで、気の毒に自意識が働き得なかったのだ。自意識は避雷針である。

 

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【助詞の苦労】

2020年8月22日

【助詞の苦労】

「自分は自分は知りえない。」という文章は、助詞「は」が重複していて良い文章とされないけれど、「自分は自分を知りえない。」と書いたのでは抜け落ちてしまう、もっと深い意味を含んでいる。助詞は苦労している。

「自分は自分を知りえない。」には頑張れば自分で自分を知りうる可能性が含まれていそうだけれど、「自分は自分は知りえない。」は可能性をきっぱり否定している。「自分だけは自分だけは知り得る」も変な文章だけれどキッパリ言いえている。こういう良い文章とされない文章を書く人を文章が下手だ、内容も読むに値しないだろうと断じてしまうと大切なことを読み損ねる。書き手も苦労している。

本当に、本当に大切なことを言葉にしようとすると、一般的に良いとされる文章になりにくい。といったぐあいに助詞「に」の連続技になる。だが、そもそも上手いことを言う体裁の整った言葉遣いこそアヤシイ。ストップ詐欺被害。「良い」文章は内容的に悪文かもしれない。

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