【染井通り脇の発掘現場】

【染井通り脇の発掘現場】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 10 月 29 日の日記再掲)

本郷通り(岩槻街道)を東大方面から駒込駅方向に進み、JR 山手線を渡る手前、六義園染井門前から左斜めに入っていく道があって染井通りといい、その突き当たりが染井霊園になっている。染井霊園入口ちょっと手前左側で大きな建物の建設計画があるらしくて地面を掘り返していた。日当たりの良い高台なので「ここは出るな」と思ってフェンスの中を覗いたら、案の定遺跡を掘り返していた。

遺跡は地中から掘り出され、現代の人間は掘った穴の中を眺めて、過去の出来事を類推する。大昔から暮らしやすい場所は決まっているので、郷里静岡県清水市にある天王山遺跡などは、さまざまな時代の人びとの住居跡が折り重なって出土したらしい。縄文時代人の住居跡の上に土砂が堆積し、弥生時代人の住居跡の上に土砂が堆積し、古墳時代人の…というように住居跡・土砂・住居跡・土砂…という具合にサンドイッチ状になっているわけだ。

(写真は 2001 年 10 月 27 日 撮影)

過去の遺構がどうして地中に埋まったかというと、火山噴火による火山灰の堆積、河川の氾濫などにより運ばれて来た土砂の堆積、落ち葉や枯れ木など植物の残骸の堆積が理由にあげられるのだけれど、そうだとすると各時代時代の間に土砂の堆積する長い年月が挟まっていたことになるのだろうか。なんか腑に落ちない。この江戸時代あたりと思われる遺構にしたってどうして地中に埋まったのだろう。地中に埋まるまで人々はじっと次の使用をひかえたのだろうか?

田んぼを潰して宅地化する現場を眺めていると、よそから運んできた土を盛り上げて建築ができる地盤を作っているのだけれど、それは自然作用による土砂の堆積を待てないからだ。だとすると、縄文時代人の住居跡に弥生時代人が盛り土し、弥生時代人の住居跡に古墳時代人が盛り土し、この江戸時代の遺構が火事か何かで焼失し、焼け跡が忌まわしいので誰かが盛り土したといった具合にサンドイッチが出来たのだろうか。そんなことを素人考えで勝手にシツコク考えながら、ただの穴好きはこうしてデジカメで撮影してホームページに載せたりするわけだ。

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