◉「という病い」という病い

2018年10月31日(水)
僕の寄り道――◉「という病い」という病い

「老人性の短気」という言葉が精神科医の対話で出て来た。

昔は人間年をとると穏やかになるという印象が社会に共有されていたように思うけれど、最近はキレやすい老人が問題になっているとマスコミが報じている。本当にそうだとしたら「キレやすい老人という病い」は個人的な病いではなく、社会的精神病であるような気もする。

「という病い」とつければなんでも本になりそうで、調べてみるとあるわあるわ『風俗という病い』『民主主義という病い』『サービスマンという病い』などというのもあっていずれも幻冬社から出ている。そして幻冬社創業者の見城徹は『編集者という病い』を出している。

「老人性の短気」は病いではなく、忘れやすくせっかちになる老人的な特性を指している。忘れやすくせっかちになるのは仕方ないとして、社会がどうあろうとキレにくい老人であることを目指したいものである。

(2018/10/31)


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◉邯鄲一炊の夢

2018年10月31日(水)
僕の寄り道――◉邯鄲一炊の夢

山口出身の友人に一遍上人の話をしたら興味がありそうなので、一番いいと思った「解釈」の本を貸そうと言ったら「うれしい!」と言う。「うれしい!」と言われてうれしい。

広島出身の友人に送って、今度彼に会うとき渡して欲しいと頼んだら、パラパラめくってみたのか「一遍上人、おもしろそう」と言う。彼女も好きになるに違いないので「読んで面白かったと言ったらぜひ読んでみてください」とメールしておいた。

あれもこれもみんな「時」とはなにかに収斂していく。
邯鄲一炊の夢の故事について芥川龍之介にも作品があると知ったので読んでみた。なかなか気持ちの良い「解釈」だったのでメモしておく。

「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」(芥川龍之介『黄粱夢』)

(2018/10/31)

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◉飴は飴屋

2018年10月30日(火)
僕の寄り道――◉飴は飴屋

 谷中の老舗飴店で義母が好きだった醤油飴を買おうと思ったら品切れだった。義母は「しょうゆうあめ」と言っていた。お宅の醤油飴が義母の好物でしたと言ったら
「どうしても欲しいならカンロ飴のオリジナルを見つけて買ってみてください。あれが醤油飴ですよ」
と言う。オリジナルとはどういうことなのだろうと調べたら、カンロ飴には新たにキャラメルマキアートカンロやジンジャーカンロなどという変わり玉が用意されているのだった。さすが飴屋さん、よく知ってるなと感心した。

小学生時代に観たカンロ飴の CM を今でも覚えている。まだ白黒テレビの時代だった。

子どもが外から帰って来て
「かあさん、なんかない?」
と聞くと母親が
「あるでしょカンロ飴」
と答える。

ただそれだけのコマーシャルなのだけれど、昭和の時代、それが成り立つほどどこの家庭の茶箪笥にもカンロ飴があった。

ただ甘い飴玉という印象しかなかったけれど、あれが醤油飴だったかなぁと記憶が曖昧なので、近所のスーパーで半世紀ぶりに買ってみたら確かに醤油飴だった。

(2018/10/30)


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◉砂に描いたキャラクター

2018年10月30日(火)
僕の寄り道――◉砂に描いたキャラクター

昼休みに散歩を兼ねて買い物に出た。

帰りに児童公園内を通り抜けたら、ヤンママが幼児を遊ばせていた場所に落書きがあった。

なんのキャラクターか知らないけれど、なかなかうまいもんだなと思う。

(2018/10/30)


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◉秋のまちがいさがし

2018年10月30日(火)
僕の寄り道――◉秋のまちがいさがし

老人ホーム近くにかつてサイゼリアがあって、訪問帰りに一度だけ入ったことがある。テーブルの上にまちがいさがしゲームの印刷物があり、注文した料理を待つ間、妻と二人でやったらなかなか手強い。客を待たせても間がもつようにできていた。

20 年以上同じ窓から同じ景色を見ていると、今年の秋は例年とちょっと違うんじゃないかと気づくことがある。塩害で枯れた葉が多い六義園で真っ赤に紅葉している木があるのだけれど、紅葉しているのは木ではなくて絡みついた蔦だ。

絡みついた蔦だけが赤く色づくことは珍しくないけれど、あんなにてっぺん近くまで紅葉した蔦があるのは珍しいんじゃないかと思う。猛暑で元気づいたとか。

(2018/10/30)


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◉尺をとる

2018年10月30日(火)
僕の寄り道――◉尺をとる

尺をとりながら枝の先まで到達した尺とり虫が、その先に枝がないかと立ち上がって空中を探す光景は、ちょっと哀れ味を誘うけれど「かわいい!」などと言われている。

時間が過去現在未来と連なる線であるように感じて生きるとき、人生は枝であり、人は尺とり虫のようだ。尺をとるように年をとる。

枝の先まで到達してしまったら人生の先もないわけで、それはひどく残酷な姿なのだけれど、「かわいい!」と思えればそれで結構ではないかという気もする。

妻が担当医からもらってきたサマリーを読んだら、最後のひとりとなった親のお迎えも近い。本人には天国から、家族には病院から呼び出しがある。

呼び出されて取り乱した中で、速やかにやらなければならないことをまとめた資料をつくってクリアファイルにまとめている。実母の時もそれが役立った。いかめしくない、かわいい見送りのために。

(2018/10/30)


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◉鳩を食った話

2018年10月29日(月)
僕の寄り道――◉鳩を食った話

鳩料理は中東でも地中海沿海地域でもヨーロッパでも、おそらく世界中のあちこちで、しごく当たり前の料理らしい。日本に滞在するイラン人が公園の鳩を捕まえて食べているという話題がテレビで広まり、鳩の糞害で困っている町の住民が、わが町にもぜひイラン人に来て鳩を食べていただきたいなどという笑い話があった。日本人は鳩を食べないという思い込みに立った、鳩食への蔑視が感じられてあまり楽しい笑いではなかった。

早川孝太郎の『猪・鹿・狸』講談社学術文庫を読んでいたら、鳳来寺村の山で杣人が鳩を焼いて食っていた時の話が出てきた。日本人だって鳩を食べていたのだ。

ある夜、仲間が集まって鳩を焼いて食っていたら娘に化けた狸がやってきた。狸が化けているとわかったけれど、面白半分にひと串やったらうまそうに食って帰っていった。翌晩もやって来て食って帰ったので、三日目の晩、小屋の前に鳩の肉を餌につけた虎バサミを仕掛けておいたら、翌朝一匹の古狸がかかっていた。古狸は煮て食ったが固くてうまくなかったという。

(2018/10/29)


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◉意味と時間

2018年10月29日(月)
僕の寄り道――◉意味と時間

父親は幼いころ消えたまま家族でなくなったので、親が死んでいなくなる事態は母親が死ぬという一度の体験しかない。親子であるとは、血の繋がりでも戸籍でもなく、さまざまなものを共有して生きるということだ。

そのたった一度の事態で「これはすごいことだ…」と驚いたのは、亡くなった人との関係によって成り立っていた「意味」が一瞬にして消失するのを体験したことだ。一瞬にして共有していたものが「無意味」になる。

母親が死んで無人になった家でひとりになったとたん、かなりのものが「無意味」になっていた。冷蔵庫を開けてみたら、介護のために用意したあれにもこれにも「無意味」の文字が重なって見えた。親のために用意した食べ物など、ごく日常的な生活に密着したものほど無意味になる。

「時間」とは何かと問うことは「空間」とは何かを問うことになる。「時間」と「空間」は他者との「関係」があるからこそ、あるように感じる「意味」にすぎないのではないかとそのとき思った。他者がいるから「時間」を過去・現在・未来という「空間」のように認識するのではないか。

だが他者との関係がなければ「歴史」も「世界」もない。もし自分が地上にたったひとりで他者との関係がないとしたら、「ここ」はあっても、指し示す「そこ」がない。

(2018/10/29)


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◉二日酔い

2018年10月28日(日)
僕の寄り道――◉二日酔い

他人と外食して深酒をすることがなくなったので二日酔いになることも年に一度あるかないかになった。久しぶりに妻との晩酌で深酒して二日酔いになり、気持ちが悪くて昼食も食べたくない。

病院に面会に行ったらベッド脇の冷蔵庫に、看護師が義母に飲ませたポカリスエットの残りがあった。

妻が古い飲みさしを引き上げて新しいのを補充しているのを見ていたら、無性に飲みたくなったのでもらって飲んだらぐんぐん体調が戻ってびっくりした。そういえば母親が二日酔いになると薄い食塩水をつくって飲んでいたのを思い出した。きっとポカリも二日酔いに向いているのだろう。

(2018/10/28)


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◉熊野町

2018年10月28日(日)
僕の寄り道――◉熊野町

広島県安芸郡熊野町にある特養ホームに遊びに行ったことがある。施設長が広島駅前まで迎えにきてくれたので自動車で行ったけれどずいぶんな山中だった記憶がある。四方を山に囲まれた盆地で、熊野川が流れていた。宮本常一『生きていく民俗 生業の推移』河出文庫を読んでいたらその熊野町の話が出てきた。

広島の熊野には樽づくりに用いる樽板を切り出す技能者が多く暮らしていて樽丸師といった。樽板は人力で山中から運び出すので、それを背負う若い女連れで樽丸師たちは紀州熊野まで出稼ぎをしていた。それが縁で熊野の地名が広島にあるらしい。なるほど。

(2018/10/28)


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◉コスモス

2018年10月27日(土)
僕の寄り道――◉コスモス

まいにち埼玉の病院まで母親の様子を見に行く妻が、入院病棟の窓から見える畑にコスモスが咲いたと携帯メールしてきた。

週末の訪問時に見るのを楽しみにしていたけれど、想像していたより大規模だったのでびっくりした。

入院患者が少しでも心和むように、などという目的ならなかなかの美談だけれど本当のことは知らない。

車椅子で窓際に連れてこられたおばあさんが息子さんと眺めながら
「ああ、畑がやりたい…」
とひとりごとを言っていた。

(2018/10/27)


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◉えじこぶくろ

2018年10月27日(土)
僕の寄り道――
◉えじこぶくろ

早川孝太郎の『猪・鹿・狸』講談社学術文庫を読むと猟師はえじこぶくろを背負っていたという。えじこは嬰児籠と書き、むかし農村で赤ん坊を入れておくのに用いた容器のことだ。藁で作られることが多く新潟の山間地域で猫用につくられる猫つぐらの人間用だ。

そのえじこの袋とはどういうものだろうと調べてみたがわからない。そうしたら著者が描いたらしい猟師のタッツケ姿があった。タッツケとは労働用の山袴だがそのタッツケをはいた猟師が紐付きのナップサックのようなものを背負っている。赤ん坊を背負うための袋をえじこぶくろと言ったのではないか。

   ***

今日は土曜日なので埼玉の病院まで義母の様子を見に行く。

(2018/10/27)


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◉薪(もや)

2018年10月26日(金)
僕の寄り道――◉薪(もや)

早川孝太郎『猪・鹿・狸』講談社学術文庫を読んでいたら薪に「もや」というルビが振られていてびっくりした。瓦職人だった祖父は窯焚きに使う薪を「もや」と呼んでいた。静岡方言だろうかと聞いてみたけれど知っている人に出会ったことがなかった。

どうも祖父の先祖は三河方面から駿河に移り住んだ瓦工らしいので、薪をもやと呼ぶのはやはり三州方面の言葉遣いなのだろうか。薪といっても拾い集めたり刈り取ったりした柴木をもやと言わないか、焚き付け用の薪を「もやし」とか言わないかなどと調べてみたけれどわからない。

(2018/10/26)


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◉用いられたる言葉

2018年10月26日(金)
僕の寄り道――◉用いられたる言葉

本棚にあった早川孝太郎の『猪・鹿・狸』を読み始めた。1889 年生まれ、柳田國男に師事した民俗学者で 1956 年に亡くなっている。愛知県設楽郡ということでわが家のご先祖とも出身地域が近いかもしれない。書かれている風土的背景も静岡と似通っていて懐かしさを感じる。

興津川上流の山梨県境に樽峠があり、タワと呼ばれる地形の特徴からついた呼び名ではないかという説を読んだことがある。隣県の猟師聞き書きにその「山のタワ」が出てきた。

そういう山の人の言葉が面白い。ボローという言葉がわからないので何だろうと思っていたら漢字では藪叢と書いて「ぼろう」とルビがある。やぶのことだ。山のタワのボローに猪がヨキをつくる。ヨキは子育てをする寝ぐらでゴが敷き詰められている。ゴは落ち葉である。

猪は身体が火照るのでグシャッタレというぬかるんだ湿地に転がって冷やす、それをノタを打つという。のたうちまわるとはノタを打って転がりまわることなのだな。

食べもの欲しさに山の草刈場も掘り返すそうで、そういう山の平坦な峰をツルネという。地中の虫を掘って食べるわけで、民家のゴットウまで掘り返しに来たという。ゴットウとは床下のことである。

こういう知らない実用の言葉が出てくるたびにワクワクするのはなぜか。用いられたる言葉の美かもしれない。

(2018/10/26)


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◉藤を略す

2018年10月26日(金)
僕の寄り道――◉藤を略す

藤の字は「くさかんむり(艹)+月+𣳾」なのだけれど、知り合いの近藤さんが「近」+「くさかんむり(艹)ド」とサインするのを面白いと思ったことがある。

藤を「くさかんむり(艹)+ト」と書いたものは見たことがあるけれど、藤(どう)を「くさかんむり(艹)+ド」という略し方は独創だろうか。

(2018/10/26)


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