【道】

【道】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 12 月 13 日の日記再掲)

黄昏どきに清水に着いた 12 月 5 日、ふと清水銀座から左折して旧東海道を歩く。旧街道を地域活性化の手段のひとつになどと考えるとすぐに思いつくのは街並み保存だけれど、残念ながら清水市街地の旧東海道沿いに往時を偲ぶ建造物はほとんどない。戦争で丸焼けになったのだ。

家並みに夜のとばりがおり、店舗に灯りがともされ、街灯が点灯すると、緩やかにカーブしながら興津、由比へと続いていた当時の道が闇に浮かび上がる。旧東海道もほんの少しずつ場所を変えているけれど、それでも膨大な年月を超えた必然の経路がそこにあり、人が往来して道を踏み分けた必然さえ思い浮かべられれば、両側にビルが建ち並ぼうと、一面焼け野原になろうと、道は人の心に深い感慨を呼び覚ますように思えてならない。道はレコード盤になっている。


 

母と愛犬が上京して同居となったので、本当に久し振りに一家勢揃いの年末年始がやってくる。盆と正月、人々が郷里に帰ったり旅行に出たりして、人口が減った山手線内を歩くと、東京という街はこんなに良い土地だったのかと驚くことも多い。ほとんど車の走っていない元日の朝など、本郷通り・旧岩槻街道・日光御成道を散歩してみると、道に思ったより起伏とカーブがあり、その微妙なうねりが美しいことに気付くのだ。道は歴史を再生する。

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【朝市へ行こう】

【朝市へ行こう】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 12 月 9 日の日記再掲)

清水でメールを受信したら貝原浩さんに関する問い合わせが友人から届いていた。

装丁の仕事で何冊か絵を描いていただいたが、1997 年増刊現代農業『朝市大発見』に描いていただいたイラストを懐かしく思い出す。帰京後ぱらぱらと手にとってめくってみる。当時の資料にはまだ “清水市” として郷里の名があり、「ふれあい青空市」と「朝どり市」のふたつが清水で開かれている朝市として紹介されている。

母は朝市が大好きで、清水商業高校脇の公園で毎日曜日に開かれる朝市に出掛けるのを楽しみにしていた。母は 6 時起きして出掛けて行くのであり、僕も眠い目をこすりながら同行することが多かった。もうひとつ、清水幸町、総合運動場駐車場で開かれる朝市には魚屋の友人も出店しており、タイミングが合うと帰省時に訪ねることが多い。

清水商業高校脇と総合運動場駐車場の朝市が「ふれあい青空市」と「朝どり市」に相当するのかよくわからないけれど、清水には他にも朝市の立つ場所がいくつもあるらしい。

12 月 7 日、総合運動場駐車場の朝市めざして自転車を走らせる。萬世橋(よろずよばし)たもとにカモメが行儀よくならんでいた。中学校へ通う3年間、朝夕渡った橋である。架橋に尽力した望月萬太郎町長の名を取って明治 29 年に完成した橋だけれど、現在のものは昭和 10 年に架け替えられたものであり、この橋は清水大空襲を知っている。

巴川の川面にさざ波が立つと一斉に滑空して行くので、カモメたちは川を遡上する小魚の群れを待っているのかもしれなくて、ここにもまた朝の市がある。

『朝市大発見』をめくっていて、いくつかの言葉が引っかかって来た。
 
消費者は意外に売り手の裏事情を知っている。自分たちが日々食するもの、そのものを提供しなければ、消費者はついて来ない。

「わが家で食する農産物と同じものを提供しなければいけない。なぜならば、出荷用の畑と自給用の畑を分けていることにも賢い消費者は気づいているからだ」(塚田猛)
 
「朝市は朝だけ開くから朝市」なのではない。売り手が全身をさらし消費者と青空の下で対面して自身の暮らしを開くことにこそに、人と人とが繋がり合う商いの本質があり、それを心がければいつでも朝市を開催しているに等しいのだという。そうかもしれない。いつでも朝市の幟(のぼり)が誇らしげに立っているような商店街、個人商店もあることに思い当たり、朝市というのは共に暮らす者の心意気そのものなのかもしれないなと思ったりする。
 
友人の出店(でみせ)裏にいると、隣り合わせた出店者同士の会話も耳に入り、売り手もまた生活者として重い荷を負っていることを実感し、互いに励まし合う会話に心の中でエールを送りつつ、蒲原町から来ている元気なお姉さんの手作りドーナツを一袋買って帰京の途につく。

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【番外地の午前9時】

【番外地の午前9時】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 12 月 8 日の日記再掲)

港橋たもとにあるおにぎりの店『かどや』の朝は早い。前日も早朝に出掛けて、話題の『ラーハンおにぎり』が出来上がるのを待って買って来たばかりなのである。おにぎりを三個買って、巴川沿いに自転車のペダルを漕ぐ。厳しい残暑の中、木陰で男たちが将棋を打っていた松井町公園の樹木はすっかり紅葉し、間もなく落葉が完了する。

常念川河口、常念川水門脇、巴川のコンクリート護岸に腰を下ろし、何やら食べていた地元の人々のまねがしたくて同じ場所に腰を下ろす。あと 3 週間ちょっとで大晦日になり、除夜の鐘を聞くことになるのだけれど、この街は川辺で朝食がとれるほどに暖かい。

手で握られるので不揃いな大きさの、おにぎりを食べながら、清水の街を眺める。
あの橋の上、あの山の頂き、あの雲の下にも行ったことがあるなぁと、川辺にあぐらをかきながら、山・川・海の思い出を手元に引き寄せて味わえること、それがこの街の最大の良さなのだと思う。

背後から声をかけられ、振り向くと
「今朝は白鳥がいなくて残念だねぇ」
と散歩のおじさんがいう。地元のおばあさんたちが餌をやるので、この辺りに白鳥が一羽住み着いているのだというが、白鳥にとってもここは住みやすい場所のひとつなのである。

真正面にある富士山に、最後のひとつになったおにぎりの頂点を重ねて見る。真っ白な頂きを、大きなくちをあけて頬張るとガキッと音がする。そう、『かどや』の梅干しおにぎりには種があるのを忘れていた。
口から取り出した小さな種を、巴川護岸の角に置いてみた。

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【古びるということ】

【古びるということ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 12 月 7 日の日記再掲)

古くて年季の入った店が好きだ。そういう店は存在自体が書物のようであり、店の歴史に思いを馳せるうちに、勝手に自身の過去を重ね合わせたりして、ひとり飲むには良いつまみにもなるのである。

東京も郷里清水も、ともに空襲で焼け野原になったので、きっと同程度に年季の入った飲み屋があるに違いないと思い、ひとり帰省したのを良いことに以前から目を付けていた巴町の焼鳥屋に入ってみた。

飲食店には調理師免許証を額に入れて掲示されていることが多いので、経営者のことを知る手がかりになるのだけれど、どうも親の店を息子さんが継がれたらしい。炭と練炭を火力として焼き鳥を焼いたり酒の燗をしたりしているので、室内の調度という調度、テレビ受像機まで黒い煤に覆われていて壮観である。

おそらくお父様のものと思われる調理師免許証の額だけが煤を払って奇麗に磨かれていてホッと暖かい。焼き鳥はどれを頼んでも手に持つ串の付け根に 1 センチ四方程度に切ったタマネギが刺されており、客の手にタレや脂が付かないようにするためか、焦げた肉でやけどをしないようにという心配りか、はたまた肉を食べたあとの口直しのためか、いずれにしてもこのお店で頑固に守られている特徴らしく、先代から引き継がれた伝統なのかもしれない。

煮込みを頼んでみたが、モツを丁寧に掃除して煮込んだもので、野菜などで臭み隠しをしなくても、さっぱりとしていておいしかった。ごちそうさまをするとカウンターにメモ用紙を置いて、鉛筆で計算式を書きながら会計をしてくれ、明朗でとても安い。古びていても良い居酒屋というのは客に対して折り目正しいものなのだな、と思う。

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