【暴力の人】

【暴力の人】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 12 月 11 日の日記再掲)

朧げな記憶の中に両親が揃っているので小学校一年生から二年生にかけてのことだろう。木賃アパートでベニヤ板一枚壁を隔てた三畳一間の隣室に暮らす若い夫婦がいて、夫は暴力団員だった。

なにしろ各々の家庭を隔てるものがベニヤ板一枚だからプライバシーなどという洒落たものはなく、互いの夫婦喧嘩の仲裁をしたりしているうちに両親も親しく付き合っていたようだ。

夏休みも近い週末のある日、隣りの「暴力の人」から
「暑いから明日はみんなで海水浴に行こう」
と誘われたことがある。江ノ島は混むから鎌倉にしようということになり、僕も前夜から浮袋を膨らませたりしてかなりはしゃいでいたものだ。

今もあるのかもしれないけれど、当時はかなりおおっぴらに「白タク」というものがあって、行き交う車を見て親たちは「あれは普通のタクシー、あれは白タク」などと話していた時代で、暴力の人は白タクをつかまえて来て一日丸抱えで東京・鎌倉を往復させたのだ。マイ・カーなどという言葉も聞いた事の無い時代だから、贅沢な海水浴だったんだなぁと思う。どんな値段でどんな交渉をしたのかは暴力の人だから推して知るべしという気がしないでもないけれど、道路もがら空きだし、まだ物価も安かった時代だから、白タクの運ちゃんもそれなりに楽しんで折り合いをつけたのかもしれない。

そんな豪遊をする余裕があるなら妻に与える幸せもたやすく見つかるのに、と今では思うけれど、美しい「暴力の人の妻」は健気に貧しい暮らしに耐えており、ガラスケースに入った日本人形を風呂敷に包んで質屋通いする姿も見かけた。羞恥心というものに耐えなければ金を借りられない時代だった。僕も父が質入れした扇風機を請け出すのに同行した記憶があり、母は恥ずかしいと泣いていた。そういう時代だったのだ。

何故か小学生時代を皮切りに高校を卒業するまで、隣人には必ず暴力団員がいた。そして常に不思議に思ったのは、この人たちはなぜ人の道に外れた生き方を選んだのかという事ではなくて、どうして僕にはこんなによい人に見えるのだろう、ということだった。住民総出のドブ掃除にもすすんで参加するし、朝夕の挨拶は礼儀正しいし、雨どいなどが壊れると家の修繕もしてくれるし、ひとりで退屈しているいると遊んでくれるのも彼らだった。

思うに、近所の人に礼を尽くしておくことで、自分がブタ箱に入れられ臭い飯を食わなければならない事態に至ったとき、残された妻子がつらい目に会わないようにとの、せめてもの思いやりだったのかもしれないし、実際、亭主不在の期間が長く続くと近所の者は何かと妻子の世話を焼いていた。

ご近所を離れれば極悪非道な人となるわけで、それはそれでいけない生き方には違いないけれど、高度成長の掛け声のもと、しだいに堅気の人々が忘れて行った仁義を最後まで持ち続けようとしたのは、意外にもあの人たちだったのかもしれないし、隣近所の家族意識が強い、愛すべきおとな像であったようにも思えてならない。

   ***

三畳一間で暮らしていた夫婦が晴れて高台にある新築アパートに引越すことになり、家族全員で引っ越しの手伝いをした。他人の幸せをわが事のように喜べる両親だった。三畳一間分の引っ越しなど夕方までに片づいてしまい、引っ越し先で夕食を兼ねた宴会になった。僕は「綺麗な部屋だなぁ、広いなぁ、部屋に台所がついているのは羨ましいなぁ」などとぼんやりと考え事にふけっていたのだけれど、そのとき思いがけない事が起こった。

引越し荷物から食器類など当座の荷物を取り出そうとしていた奥さんの目の前で、重いものを包んでいたタオルがはだけ、黒っぽいものが畳の上に転がり出た。僕はあまりに驚いて呆然としていたのだけれど、今でもその瞬間の映像は鮮明に思い出す。それは本物の拳銃のように見えた。

「まだこんなことを……!」と言ってわっと泣き伏した奥さんの黒髪がはらりと畳に落ちる様はスローモーションのように記憶している。元警察官だった父と、後に女次郎長と酔客に恐れられた母が諭すように説教し、泣きじゃくる若妻の横で首をうなだれたままの暴力の人がいて、その上でボッと灯っていた裸電球の黄ばんだ光を、今でもスチール写真のように思い出す。

もう四十年以上も昔の話なので書いてみる気になった。あのご夫婦が今でも仲睦まじく暮らしていたらもう七十歳に近いはずだ。幸せに人生をまっとうされつつある事を祈らずにはいられない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【親子尺】

【親子尺】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 12 月 7 日の日記再掲)

親の年齢引く子の年齢イコール親子の歳の差、これを親子尺と言う。今、僕がそう決めた。

親子尺を自分の年齢に足してやれば「お母さまは何歳におなりですか?」と聞かれてもとっさに答えられるのが第一の効用。そして親子尺を加算した自分の年齢には、皮膚が弛み、背が縮み、背中が丸くなり、がに股になって親と同じ姿になる自分の未来が隠されている。かつて天と地ほどの隔たりもあるように感じられた親子の歳の差が、このちっぽけな親子尺程度のものであったことに今さらながら唖然とする。親子尺分生きたら僕も爺さんなのだ。

母は午年生まれで、二度目の年女の午年に僕を生んだから、僕も当然午年生まれ、十二支二周遅れで親子尺は「 24 」ということになる。その僕が二度目の年男の午年に郷里に帰省した時のこと。

日暮れて、母が営む飲み屋の暖簾がかけられるのを見届けてから、清水駅発東京行きの在来線に乗って故郷を後にする習慣にしていたのだけれど、ふと思い立って
「好きな人がいて結婚したいと話し合ってる」
と言ってみた。母は驚き、やがて怒り出し、
「どうしてそういう大切な事を帰る間際に言う、次に帰ってくるときにはその娘さんを連れておいで」
と僕に言い含めた。娘を嫁に出す父親は、他の男に愛する人を奪われる心境になるというけれど、愛する男を奪われる心境だったと母は笑いながら後に述懐していた。

そして再来年、妻はその時の母と同い年になる。一歳年下だから親子尺は+1なのだ。母は若い母親だったのだなぁと妻の横顔を見てつくづく思う。妻は妻で、僕の親子尺を利用して、母が東京を引き払い清水で飲食店を開いた歳、親子尺+ 12 イコール 36 歳に驚嘆し、
「お母さん、頑張ったねぇ。36 歳で自分の人生を大転換したんだね。凄いなぁ」
と事あるごとに話題にし、母も
「無我夢中だったんだねぇ、よく借金する勇気があったもんだと感心するよ」
などと語り合っている。

精神看護関係の書籍の仕事で新宿の職安通りへ。ファックスで送られて来た地図には、JR 新大久保駅から線路づたいの道を辿ると近道とある。懐かしい、四十数年前と何も変わっていない風景がそこにはあった。新大久保近くの和菓子店で職人をしていた父、そこで住み込み職人のまかないをしていた母と三人でよく通った道なのだ。

その頃から父母の間には喧嘩が絶えなかった。喧嘩の末、家を飛び出す母は
「何かあったらこれをお金に替えなさい」
と結婚指輪を指から抜いて僕に握らせたものだ。何度母の指と僕の手のひらを往復したかわからない思い出の結婚指輪である。

そんな両親でも、週末の夜、新宿コマ劇場界隈に深夜興業の映画を見に行く時だけは仲が良く、夜更けの線路ぎわをを歩いて帰る時、両親と手を繋いで宙に持ち上げてもらうのが大好きで、
「高い高いして!」
と、よくねだったものである。やがて和菓子店は駒場の松見坂に移り、両親の引っ越しに伴い、僕も目黒の幼稚園に通うようになった。その頃にはもう「高い高い」してもらった記憶は無くて、僕が間に入ってもすでに修復不能なほどに、両親の仲は冷え切っていたのだと思う。

写真は 2001 年 12 月 7 日 新大久保

バブル経済と呼ばれた時代、東京中オフィスビルとマンションで埋め尽くされてしまうのかとも思われたけれど、今こうして歩いてみると何も変わっていない。更地には雑草が生え、コンクリートの階段はあちこち欠けても昔のままで、新宿西口を体よく追い払われたホームレスたちが寒風に身を丸くしてうずくまっている。遠いあの日、三、四歳だった僕に親子尺を足してみると二十七、八歳の両親ができ上がる。ふたりとも若かったんだなぁと思う。喧嘩に明け暮れる日々にポッカリ空いたしばしの安らぎの夜、僕の手を引いた両親はどんな思いでこの道を歩いていたのだろう。

親の年齢引く子の年齢、親子の物差しで時代を計測し噛み締めるように線路づたいを歩く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【思い出の捨て方】

【思い出の捨て方】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 12 月 5 日の日記再掲)

ものを捨てる時に、燃える・燃えない、普通・粗大、無料・有料などと、多少の常識とモラルさえあれば容易に捨てられる時代になったけれど、昔の人の捨て方にはもう少し痛みがあったように思う。仏壇や神棚、位牌や人形までゴミ収集所に打ち捨てられている昨今の光景には目を被いたくなる。

昔の人はよく手紙を焼いていた。
火に葉書や封書をくべていた年寄りの横顔を、自身のそれと近しいものとして思い出す年頃になってきた。冬の日の夕暮れ時、庭に小さな火をおこし手紙をくべている自分を想像するとちょっといいなぁなどと思ったりするのだけれど、くべるべき手紙ほもうない。思い出を慈しみたい手紙もまったくないわけではないけれど、それはみなパソコンの中にあり、捨て方はゴミ箱に放り込んで空にするだけだから昨今のゴミ処理と変わりがない。捨てると言わず、
「今日は思うところあって日がな一日メールを燃やしておりました」
などと言ってみても、デジタルの世界に人間くさい風情はもうない。

小学生時代、近所によく手紙を燃やす老人がいて、木賃アパート二階の窓から「ああ、今日も手紙を燃やしてるな」と頬杖ついてぼんやり眺めていた頃がある。なぜ燃やしていたものが手紙と知っているかというと、その家に二歳年下の友だちがいて
「爺ちゃんはいつも手紙燃やしてる」
と聞いていたのである。よほど多くの手紙をやり取りした人生だったのか、はたまた丹念に読み返して少しずつ燃やしていたのか、今となってはわからない。その老人が、手紙を焼く以外に思いがけない物を思いがけない捨て方で処分していた。

写真は旧江戸川町、撮影は 2001 年 3 月 23 日

「爺ちゃんが庭にお金をたくさん埋めた」
と友だちから聞いていたので、老人が外出して一日帰らない日を見はからい二人で掘ってみた。大きな穴を掘り、少しずつ埋め戻しながらお金を捨てたらしく、潮干狩りのように一枚また一枚とたくさんの硬貨が出て来る。明治以降、戦前までの頃のお金だろう。新円に切り替わった時に小銭すぎて換金し忘れたのかとも思うのだけれど、亡き妻が暮らしの中でこつこつ箪笥貯金したへそくりが出て来たのではないかと今では思っている。

なぜならわれわれが一円、五円、十円などという小銭を引き出しの隅に溜め込んでいるのとは違い、ドロを拭って現れるのは、ピカピカ光りずっしりと持ち重りのする立派な硬貨ばかりだったのである。妻の遺品から出て来た家計への備えを、新円に換金せず、思い出とともに晩年まで持っていた、そう思えてならないし、そういうことにしておきたい気もする。

少しぼけ始めていたのかもしれないその「爺ちゃん」は、庭の片隅の塀際に茗荷を一列植え、リンゴ箱に入っていた籾殻を敷いて丹念に世話していた。夏になると採れたてをいただくことがあり、母が胡瓜と一緒に小口切りし塩で揉んでキュッと絞り、食卓にのせたのを記憶している。手紙を燃やし、お金を埋めた場所はもう更地になってコンクリートの駐車場になってしまったけれど、その庭から生えた茗荷のほろ苦くも爽やかな味を今でもしっかりと思い出す。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )