【考えてみたら、】

2020年10月30日

【考えてみたら、】

「考えてみたら、」と人は慣用的に前置きして話す。考えてみたら「考えてみたら、」はおもしろい言葉で、その前置きに続いて話されることは、考えてみなければ無かった事になる。「考えてみたら、」を英語では「Come to think of it, 」と言う。やはり英語を話す人々も「考えてみたら、」と慣用的に前置きして言う。

考えてみたら、記憶というのは奇妙なものだ。他人に指摘された途端に忘れていたことを思い出すとき、指摘されなければ記憶は永遠に無かった事になる。覚えていないことは記憶にないが、思い出す手伝いさえあれば記憶は「あ…」と即座にある。

考えてみなくても、「覚えていること」はちゃんと記憶にある。その記憶にある「覚えていること」の間違いを他人から指摘された途端に気づくとき、気づかなければ正しさにおいて記憶は永遠に無かった事になる。

考えてみたら、記憶というのは不思議なものだ。「考えてみたら、(Come to think of it, )」しなければ記憶はない。記憶は三人称的に作られるものであって、一人称の記憶というのは正しさにおいて「ない」のかもしれない。

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【卸しと浚え】

2020年10月30日

【卸しと浚え】

子どもの頃は「たなざらえ」と「たなおろし」の意味がわからず、「本日は棚卸しのため臨時休業」とか「全館大棚ざらえ開催中」などという張り紙は読めても何の意味やらさっぱりわからなかった。

「たなざらえ」は棚浚えまたは店浚えと書いて在庫整理のための安売り、「たなおろし」は棚卸しまたは店卸しと書いて在庫調査のことをいう。

「たなおろし」にはもうひとつ別の意味があって、他者の欠点をあげつらって悪口を言い合うことを「〇〇の棚卸しをする」という。

最近は歳をとったせいか友人と「そろそろ人生のたなおろしをしてもいいんじゃないか」などと言って笑い合っている。その場合の「たなおろし」には色々の意味合いがあって、互いに通じ合えて笑っているのかどうかはわからない。

「そろそろ人生のたなざらえをしてもいいんじゃないか」と言うときの「浚え」はドブ浚いの「浚い」に近いので笑えない。というか他人にそんなことは言えない。

***

写真は閉店した商店のシャッターに書き込まれた感謝の寄せ書き

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【森のめんどくさい人たち】

2020年10月30日

【森のめんどくさい人たち】

子どものころ、なんど読んでも妙に好きな本があって、小学校低学年向けに書かれたと思われるその本に、高学年になってもずっと執着していた。

森に住むリスが主人公で、擬人化されていろいろな動物が登場するのだけれど、その登場人物がみんなめんどくさいのだ。めんどくさい人たちが、次々にめんどくさいことに周りを巻き込んでいくので、森はいつもめんどくさいことで溢れ返っている。森はいつも落ち着きがない。

最後まで読み終え、やれやれと思って最後のページを開くと、そういうめんどくさい人たちが暮らす森を俯瞰した地図が出ていて、ああ、あのめんどくさいことはここで起こったのかと、一つひとつ思い出しながら振り返れるようになっている。

めんどくさい人たちだけでなく、主人公もまためんどくさい生き方をしており、本を閉じるとめんどくさい両親に育てられてめんどくさい思いをしているこの自分も、きっとよそのうちの子どもと同じであって、そもそも世界とはめんどくさいものなのだと思えたから好きだったのだろう。

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【依怙贔屓】

2020年10月29日

【依怙贔屓】

鉢植えにやるアンプル剤型の液肥を、わが家では植木の栄養ドリンクと呼んでいる。このところ夏越をしたシクラメンの元気がいい。「よしよしその調子」とこころで声かけしながら、新しいのを一本さしてやると、横の植木たちが恨めしそうに見ている気がしてついついみんなに一本ずつおごってしまう。依怙贔屓(えこひいき)しているような自分を引け目に感じるのはよい気持ちではない。

老人ホームで暮らすお年寄りも、認知症が深くなると他人を羨むことがなくなるようで、わが子が面会に来たことすらわからなくなり、面会にやってきた他人の子どもに手を振って嬉しそうにしていたりする。おかげで面会に行っても人目が気にならず気が楽だ。人生を思い起こしてみるに、他人から依怙贔屓された記憶などほとんどなくて、依怙贔屓することに対する自己嫌悪と、依怙贔屓されているように見える他人への妬(ねた)みが、依怙贔屓のほとんどだったような気もする。

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【18時過ぎの魔界】

2020年10月29日

【18時過ぎの魔界】

18 時をすぎたら世界は魔の時間帯になると決めているので電話はマナーモードにしている。なにをおいても会いに駆けつけなければならない人も、もういなくなったからだ。寝る前に着信記録を見て、この人がこの時間帯に電話をかけてくるのはただ事ではない、と思った時にだけこちらからかけ直すことにしているけれど、まだそういうことはない。

何の用件だったんだろうと気になる人には、昨晩お電話をいただいたようですが気づかずに失礼しましたとショートメッセージを入れておく。大切な用事の人がそれを見たら、あらためてかけなおしてくると思うのだけれど、まだそういうことはない。18 時をすぎたら世界は魔の時間帯であると思うゆえんである。

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【がんばれゴンベ】

2020年10月29日

【がんばれゴンベ】

早起きして歩くと家々の新聞受けに朝刊が届いていて、だいたい新聞の種類がわかる。そうか、あの人は自己紹介で「そう」言っていたから「こう」いう新聞を読むんだな、とわかって面白い。新聞の購読は自由である。

そういうご近所さんの中で、一風変わった新聞をとられているお宅がある。新聞はたいがい紙名がわからないようくるっと丸めて入れられており、それは配達員のマナーなのだろう。そうやって丸められた部分に漫画が見えており、漫画が一面にある新聞ってあったかなあと思う。

今朝も気になったのでちょっと屈んで近くで見たら漢字にみんなふりがながふってあり、そうかこれは子ども向け新聞なのだとやっと気づいた。自分も小学生時代『毎日小学生新聞』をとってもらっており、連載漫画の『がんばれゴンベ』が楽しみで、作者の園山俊二が大好きだった。たしか同級生の友人が園山俊二さんの息子で、遊びに行くとお父さんが一緒に酒を飲んでくれて、楽しいから一緒に行こうと誘われていたのを思い出した。肝臓癌で亡くなられたのが 1993 年になる。お会いできなくて残念。

最近は新聞をとらなくてもネット閲覧で時事の情報は事足りてしまうので、普通紙はとらずにみんなで子ども向け新聞をとって、子育て家庭の子ども向け新聞購読料引き下げに協力するのもいいかもしれない。子ども向け新聞を読む子ども時代っていいものなのだ。

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【姫栗】

2020年10月28日

【姫栗】

日めくり式の暦を辞書で引くと「毎日1枚ずつはぎとっていく暦」などと書かれていて、時代劇で盗賊に襲われ「あ〜れ〜〜」と逃げ惑う旅の姫君の危難を想像してしまう。

スマホでめくれるかわいい姫栗を探したら仏教書籍出版社サンガが『日めくりブッダの教え』というカレンダーアプリを出していたのでダウンロードしたらなかなかいい。スリランカ上座部仏教のスマナサーラ長老と郷里静岡市出身のしりあがり寿という組み合わせもよくて、かわいい姫栗になっている。

興津の旧東海道に面した家並みを歩いていたら、どの家も玄関先に小さな茅の輪(ちのわ)をぶら下げているのがかわいく、地元の人はこれをなんと呼ぶのかと玄関先にいた女性に聞いたら「若栗さん」だと言うので「え、若栗?」と聞き直したら「あ、まちがえた、輪くぐりさん」と笑う。

語尾に栗のつく言葉はかわいい。片栗もうつむき加減に咲く恥じらいの花が思い浮かんでかわいいく、若栗も片栗もそういう姫栗の仲間だ。

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【歌のある街角】

2020年10月27日

【歌のある街角】

今朝は繰り返しこの歌詞が出てくるボブ・ディランを聴いている。

When you go your way and I'll go mine

なんど聴いてもいい。中学時代に清水の『あかほり』で買ったレコードで、どんな角を曲がる時でも元気になる。

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【寝て起きる】

2020年10月26日

【寝て起きる】

一日を大過なく過ごすことで経験した膨大で凡庸な出来事の中から、長期間保存されるための記憶づくりが寝ている間に行われ、その結果として嫌な記憶が固着してしまうと、翌朝起きた時の寝覚めが悪くなる。

昔よく観た米国製ホームドラマで、よい子たちはベッドに入る前にお祈りをさせられていた。あれは何を唱えていたんだろうと調べて典型的なお祈りの言葉を読んでみた。入眠後に行われる記憶の仕分け作業をしているみたいだ。寝覚めを悪くする記憶が固着しないよう、膨大な経験の除染と処分と整頓に祈りは資するだろう。ネット検索すると、キリスト教徒でもイスラム教徒でも仏教徒でもなくて、まったく宗教を持たない人でも、自分なりのお祈りをして一日を閉じている人たちがいるようだ。

米国製ホームドラマのよい子もお姉さんになると個室が与えられ、眠る前に日記帳をひらき「日記さん(Dear diary)、わたしは今日……」という書き出しで、一日の棚卸し的告解をしていた。あれも国の成り立ちからして寝覚めが悪そうな米国人的工夫だったのだろう。

記憶を反芻してぐずぐず考えがちな子どもというのがいて、自分もそうだったが、不機嫌な顔をしているとおとなたちに「寝て起きろ」と言われた。「寝ろ」ではなく「寝て起きろ」というところがポイントで、パソコンにたとえたら、再起動して、デフラグして、もう一度リセットしてやることで、お前の心の余裕である空きメモリを増やせと言われていたのだ。考えすぎて嫌な記憶の積み増しをするくらいなら、さっさと寝てしまうというのもある種のお祈りだろう。

 
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【明日は咲こう花咲こう】

2020年10月24日

【明日は咲こう花咲こう】

手拍子を打ちながら「♪ 暮しの中に根をはろう あなたもわたしもみんなみな 明日は咲こう花咲こう」と歌ったら妻は知らないと言う。『明日は咲こう花咲こう』は、吉永小百合と三田明がデュエットしたヒット曲で小学生時代によく歌い、遠足の観光バス車内で男子と女子が一緒に歌える貴重な歌だった。「暮しの中に根をはろう」、いい歌詞だ。

土足禁止の立て看板に脚下照顧(きゃっかしょうこ)とあって感心した。このビルはインテリ中国人か禅宗僧侶が出入りするのだろうか。脚下照顧はもともと禅語で、脚下とは自分自身のことなので、悟りたかったら他人を見ないで自分を見ろ、正しいことはまず自身で実践せよということだ。「土足禁止脚下照顧」、いい標語だ。

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【ひとりの悲しみ】

2020年10月24日

【ひとりの悲しみ】

中井貴一『サラメシ』のナレーションにのって仕事場に昼が来る。昼食は打ち合わせテーブルで自家製のお弁当を食べている。今年に入ってずっとそうしているのは、コロナのせいではなく、ラジオがわりの iPad で昼の NHK ニュースを聴き、食事が終わると『ひるのいこい』を聴きながら、ネットを張った打ち合わせテーブルでピンポンをするのが楽しいからだ。

作曲家筒美京平氏が亡くなられたのでこのところ彼のヒット曲が流されており、「次の曲はズー・ニー・ヴー(Zoo Nee Voo)で『ひとりの悲しみ』です」とアナウンサーが言う。ヒットした『白いサンゴ礁』以外は知らないなあぁと思いながら聴いていたら、尾崎紀世彦が歌った『また逢う日まで 』の替え歌になっている。

ピンポンをしながら変な歌だなあと思って聴き、最近の替え歌にしては妙に時代を感じさせるので調べたら、『ひとりの悲しみ』の方が古くて 1969 年の発売。売れなかったので同じ曲に阿久悠が歌詞を書き直し、『また逢う日まで 』として尾崎紀世彦の歌で発売になったのが 1971 年だという。初めて聴いたのでびっくりした。

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【予期せぬ出来事】

2020年10月24日

【予期せぬ出来事】

予期せぬ出来事は有名な映画だけれど観たことがない。映画は観たことはないけれど、予期せぬ出来事にはときどき遭遇しながら生きてきた。遭遇する頻度が人それぞれで異なるのは、出来事が「予期」によって生じるからだろう。

予期せぬ出来事に似たことばに不測の事態があり、出来事があることが計測不能だったことを表している。計測不能なものは計測可能なものより多いだろう。世界は計測不能なもので満ちている。

世界がほとんど計測不能であることを認めてしまうと人間の社会が成り立たないので、計測可能なことだけを寄せ集め、社会通念や、一般常識や、既成概念といった合理性に基づくものを作って維持に努めている。その道具として言語が生まれた。

予(あらかじ)め「こうなるであろうから安心せよ」という計測に基づく一般論が、「こうしたい」や「こうあるべき」というみなの期待に応えるため用意されている。そういう予測の「予」と、期待の「期」が裏切られて、思いもかけない出来事が目の前にポンと放り出されることを予期せぬ出来事という。人は予期せぬ出来事に苦笑いすることもあれば、あえなくそれで命を落とすこともある。

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【メモを笑う】

2020年10月23日

【メモを笑う】

メモは書き捨て自在な小さなブロックメモにとるのがいちばんと思って最近そうしているけれど、とりっぱなしで整理をしていないので、なにが「いちばん」と思ってそうしているかがわからなくなっている。とくに酔っ払って書いたようなやつは、読み返しても何を言っているのかかわからないので意味がない。

もったいないので捨てる前に読み返してみる。
「偶然はあり得ないことが生じて起こるわけではない」
と書いてある。あり得ないことが起きた! などというけれど、そういうことはあり得ないのだと言っている。
「真にあるとは、ないことはありえないということである」
なるほど。で、その下に
「棚の上に前もってぼた餅がのっていなければ口を開けて待っていても永遠に落ちてくることはない」
と書いていて笑ってしまう。そりゃそうだ。

次のメモには
「有が無になる、無が有になるなどというのは、理性的には矛盾している」
「人間が有無を繰り返して点滅しているような存在であることを、『生きている』すなわち生成流転というのであって(生生流転の字を間違っている)、だから世界がチカチカして見えるのでそんな気がするだけだ」
と書いてある。なんだかよくわからない自分は面白いことを言う。読み返して面白いという意味ではメモも役に立つ。あとで読み返した自分が笑えるメモは良いメモである。

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【整理するひと、されるもの】

2020年10月23日

【整理するひと、されるもの】

散歩コースにある区の屋外掲示板を見たら「今すぐ始める生前整理」の無料講習会があるという。タイトルを見てすぐに思い浮かぶのは、老いを迎える自分が身体の動くうちに自分の荷物を片付けはじめる姿だ。それは大切な仕事で、主語述語をととのえてやれば「私が今すぐ始める私の生前整理」というのがていねいなタイトルになる。

けれどよく読むと「高齢の親の片付け問題!」などとも書かれている。「高齢になった親自体をどう片付けるか教える教室」と解釈したらブラックなお笑いになってしまうので、親の持ち物整理ともとれるけれど、それを親が生きている「生前」に親の意向を確かめながら生前整理するのか、親が他界したのち子どもがまだ生きている「生前」にやるのか定かではない。子どもが親の荷物を片付けるのは大問題とはいえ世間的には当たり前とされているので、おそらく前者だと思われるが、末期癌になった親の介護と看取りをした経験からいえば、親が生きているうちは親の目の前で片付けなど始められるものではない。

自分の整理と親の遺品整理とに講習会の射程を広げすぎているのかもしれないし、「私が今すぐ始める私の生前整理」ではあまり人が集まりそうもない。主語述語をカオスにして「これならラクラク! ひまな時間を活かしてやる死後整理教室」などとしたら満員になるかもしれない。

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【コロナが流行るとカメムシとクマが出る】

2020年10月22日

【コロナが流行るとカメムシとクマが出る】

新型コロナウイルスの大流行と、カメムシの大発生と、クマの人里出没には、風が吹けば桶屋が儲かる程度の因果関係はあるだろう。人が外に出ないせいか、あちこちで草が生え放題になっている。

窓辺に置いた机に向かって仕事をしながら、ふと外を見るとベランダフェンスにしがみついたままでいるカメムシが目に入る。目に入れたくはないけれど妙に気になり、昨日と同じ場所にしがみついたままなので死んではいないらしい。あの場所で越冬できるのだろうか。

じっと動かないカメムシを眺めているのも気分が良くないので、視線を上げて空を見たら大きな緑色の鳥が三羽ならんで六義園の木立に吸い込まれて行くのでギョッとした。やはり日本の秋にあの緑は派手すぎる。都内各地で繁殖しているというワカケホンセイインコを久しぶりに見た。六義園では初めてかもしれないけれど、コロナとインコの繁殖は関係のこじつけがしにくい。

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