【 1971 年の清水七夕祭り】

【 1971 年の清水七夕祭り】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 7 月 2 日の日記再掲)

静岡県清水の人々にとって忘れられない七夕祭りといえば 1975 年のそれであり、未曾有の大水害『七夕豪雨』に襲われた年である。

この季節の清水というのは海側から次々に雨雲が流れ込み、つい先日も激しい集中豪雨があったらしいが、七夕前後は清水の気象にとって特異日なのかもしれない。

高校時代に撮影した清水七夕祭りの写真を眺めてみると、1972 年の七夕祭り中にも激しい雨があったらしい。もしかしたら 1971 年の七夕であるような気もして調べてみたが、当時の天候まではわからない。

1971 年 7 月 7 日は水曜日、1972 年 7 月 7 日は金曜日であり、いずれにせよ清水七夕祭り開催中はウイークデイなので、高校に登校する前、早起きしての撮影だろうが、われながらご苦労さまな事である。

駅前銀座は既にアーケードになっているが、「胸で受けて立つバルタン星人に頭から突っ込み、はたき込みで破れる寸前のウルトラマン」の七夕飾りも、そしてアーケード内の舗道もびしょ濡れである。アーケードの天井は自在に開け閉めできるので、閉めることもできないくらい突然に意表を突かれた形で、未明の豪雨があったのかもしれない。リビングハウス『こまつ』のなおさんはどうしていたのだろう。それにしてもこの年の七夕飾りはまばらな気がするが、清水銀座の方では七夕飾りが綺麗に竹ざおから取り外されているので、アーケードのある駅前銀座のはしまい忘れたやつかもしれない。

清水銀座でもしまい忘れた七夕飾りが引きちぎれて落ち、香具師が置いていった屋台も手ひどく壊れていたりするので、そうとう強い風を伴った雨が降ったのだろう。魚町稲荷近くだと思うが、僕の好きな白地に黒の「すしの一二三」の看板がないのが不思議である。

清水銀座の春田眼鏡店などに行くと昔の商店街の写真などが飾られていて、通りに店々の幟が立ち並んで江戸時代の宿場時代もこんな風に客引きが行われていたのかなぁと感慨深く見たりするが、七夕飾りと縁日の屋台が並んだだけで、ずいぶん昔の街並みに見えるのが面白い。清水銀座がひときわ懐かしく思える光景である。

七夕祭り、灯ろう祭り(最近はどうして「灯ろう流し」と呼ばなくなったのだろう)を経て、清水みなと祭りへと続く30年以上も前の夏を振り返ってみた。

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【清水駅前銀座『食事処いとう』】

【清水駅前銀座『食事処いとう』】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 7 月 2 日の日記再掲)

「片付けたらおもちゃ箱じゃなくなっちゃうよ!」

子どもの頃、おもちゃ箱を片付けろと母に口うるさく言われる度に、そう言い返していた記憶があるけれど、われながらよいところを突いていたなぁと今でも思う。おもちゃ箱というのは、片づいていないからこそ下半身の力が抜けておもらしするくらいに嬉しいのである。

おもちゃ箱を前にしたとき以外で、子どもの頃、下半身の力が抜けるように嬉しかった場所といえばデパートのファミリー食堂だったし、商店街なら清水駅前銀座『いとう』のような店の前に立った時だった。

清水駅前銀座『いとう』のような店をひとことで何と呼んだらいいのだろう。
昔は日本全国どこへ行っても繁華な商店街には清水駅前銀座『いとう』のような店があった。ラーメンや焼きそばなどの麺類と焼きめしや親子丼などのご飯もので大人はお腹を膨らませて暖まることができ、子どもはアイスクリームやかき氷やサイダーなどで身体の芯から冷えることもできた、そんな不思議な店があったのである。

父は大衆食堂が好きで大衆嫌いの母とよく喧嘩をしていたけれど、母はこういう暖房と冷房を同時にかけたような店が好きで、そういう店に父と入った記憶がないので、父は嫌いだったのだと思う。母はためらわずに食堂と呼ぶだろうが、父はこういう店を食堂とは呼ばなかっただろうと思う。

チャーシューメンを食べた直後に間髪入れずかき氷を食べるなどという荒技を使えた若々しい頃が母にもあり、母は氷だと水(すい)とか甘露(かんろ)などというさっぱり系のものが好きだった。「おもちゃ箱を片付けろ」などと小言を言ったあとで、真夏に味噌おでんを食べながらかき氷を食べたりする母を思い出すと、清水駅前銀座『いとう』のような店は、母にとってなくてはならない店だったんだなぁと思う。

現代のハンバーガーショップもまたおもちゃ箱に近いのだけれど、あちらは客寄せに本物のおもちゃを配ったりする反則技を使うので粋(いき)ではないし、アルバイトの店員には汗だくで髪を振り乱すような生活感がないし、合理化の末のレパートリーの少なさを低価格であがなったりしているだけで、
「片付けたらおもちゃ箱じゃなくなっちゃうよ!」
と言いたいくらいに、清水駅前銀座『いとう』のような店を知っている世代には物足りないのである。

母が通う大学病院の地下食堂に行ったら、醤油ラーメンとホットケーキと緑色のクリームソーダを前に置いて嬉しそうに一人で食事する六十代のオジサンを見て嬉しくなった。母も「困ったオジサンだねぇ」と言いたげに苦笑いしながら、少し羨ましそうでもあった。温かいものと冷たいもの、甘いものとしょっぱいものが交互に通過していくオジサンの体内を想像すると、腸というのは祭りの屋台が並んだ神社の参道に似ているなぁと思う。

そういう祭りの屋台が並んだ神社の参道に似た長い腸のようなものが、商店街の一角でとぐろを巻いて狭い場所に収まったものが清水駅前銀座『いとう』のような店なのであり、それは食のおもちゃ箱をもっと大きくした、食のジェットコースターや観覧車やビックリハウスもある食の遊園地なのかもしれないと思う。

蒸し暑い日本の夏がやってくると、片付けたら遊園地じゃなくなっちゃう清水駅前銀座『いとう』のような店が恋しくてたまらなくなる。

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【渚にて――三保真崎海水浴場】

【渚にて――三保真崎海水浴場】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 7 月 1 日の日記再掲)

図書印刷株式会社という大きな印刷会社があり、沼津市大塚に工場がある。

昔、仕事でお付き合いした図書印刷株式会社の営業マン氏は紙幣の肖像画から抜け出した人のように折り目が正しく、いつもビシッとダークスーツを着込み、語尾を濁さずにきちっと話す人で、仕事先の出版社では、あの人に任せておけば間違いがないと編集者折り紙付きの人だった。

デザインを手掛けた本が校正刷りの段階になって、沼津工場で出張校正を兼ねた印刷立ち会いがあり、郷里清水に近いことから僕も一緒にと編集者に誘われたが、諸々の都合で行けなかったことがある。もう20年近く前の話だ。

で、校正刷りが出る時刻が遅れ、ちょっと時間をもてあまし気味になったら、ダークスーツの営業マン氏がおもむろに、
「海岸に出て石でも拾いましょうか」
と言ったのだと、帰京した友人の編集者が笑っていた。

ダークスーツの営業マン氏と、同じくダークスーツの編集者が海岸を歩きながら石を拾う様子を想像しただけで可笑しくてたまらず、それでどうしたのかと尋ねたら、
「もちろん二人で石を拾いましたよ」
と笑っていた。石も拾ったし、波に向かって石投げもしたという。

郷里清水に帰省し、午後の新幹線で東京に帰る朝、ちょっと時間が余ったので、親戚から借りた自動車に母を乗せて、三保の先端真崎海水浴場に行ってみた。裸になって海に入っている子どもまでいて、真っ白なオチンチンとともに若々しい夏が既にある。

松林の日陰に車を止め、準備中の浜茶屋あたりから駿河湾を見渡す。真夏を思わせる猛暑なのだけれど、裸になって泳ぐわけにも行かないので、
「海岸に出て石でも拾おうか」
と母に言ってみる。

真崎海水浴場に打ち寄せられた小石は丸くて、さざ波にコロコロと転がり、それは波打ち際ではしゃぐおさなごのようである。寄せる波の向こうに靄に煙った対岸が見え、二人のダークスーツの男が石を拾った海岸はあの辺りだなぁと遠い目で眺める。その二人も間もなく停年退職となる。

   ***

毎年夏になるたびに「ああ清水の夏祭りにあわせて帰省したい」と思いつつ、どうしても叶わないのが『巴川灯ろうまつり』見物である。むかしは稚児橋あたりがもの凄い混雑で、灯ろうを流すために水際まで下りることができず、伯父は清水港岸壁の釣りで用いる「てじ」と呼ばれる仕掛けを使って、稚児橋の上から川面へ灯ろうを下ろしていた。

巴川の川面を渡る風に揺られながら「大瀬大明神」と書かれた灯ろうが、ゆっくり海に向かって流れていく様をもういちど見たいと思うのだけれどなかなか望みが叶わない、ある意味遠い夏の思い出である。

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