由比阿僧―暮らしと歴史

2017年9月26日
僕の寄り道――由比阿僧―暮らしと歴史


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ここは古代より人が暮らし続けた住みよい土地であると言うと、本当にそうだと言うなら証拠を出せと言う。証拠を出せと言われたら遺跡を掘り出して見せるのが手っ取り早いのだけれど、遺跡の一つも出ないところを見ると弥生以前に人が暮らしていたとは考えられないと言う。人の暮らしが営まれなかったと言うなら証拠を出せ言うと、その証拠に遺跡が出ないではないかと言う。遺跡や文献を証文にされるので「ある」という方はいつも分が悪い。だから意地の悪い素人歴史談義は楽しくないのでしたくない。

郷里清水を歩いていて「ああ、ここは暮らしやすそうだな。もう一度人生があるならこんな場所に家を買って暮らしてみたい」と思う場所がある。そういう場所、たとえば市立清水病院近くの天王山あたりも、住宅の下を掘れば古墳、弥生、縄文、旧石器と重層して遺跡や遺物が出てくる。いま住みやすい場所はたいがい大昔から住みやすい。

由比阿僧地区の南面した段丘、日当たりの良い坂道を登りながら、ここで生計が成り立つならば暮らしてみたい場所だなと思う。手島日眞氏が筆を執られていた由比町報をお借りしたので読んでいたら、昭和十年、このあたりの宅地内や畑から石斧(せきふ)、石棒(せきぼう)、石鏃(せきぞく)とともに縄文に分類される土器が見つかり、発見者の学生と教師三名が発掘したと言う。

歴史地理学という学問があるのを初めて知った。遺跡や遺物を探る考古学、古文書や古記録を史料として読み解く歴史学ではなく、地図を地名や行政境界や地表の様子を含めた「景観」として読むことで歴史を探るのだと言う。まさにそういうことを学んでみたかったので講談社学術文庫『地図から読む歴史』足利健亮を読み始めた。

手島氏によれば「あそう」はアイヌの言葉で「ゆたかなみずべ」を意味するのだと言う。大昔から住みやすかった場所に分譲住宅が立ち並び、その斜面をもう少し登った場所に特別養護老人ホームとデイサービスセンターがあるという、現代まで重層した暮らしやすい生活の場になっている。


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坂の上の雲 西山寺阿僧地区

2017年9月26日
僕の寄り道――坂の上の雲 西山寺阿僧地区


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由比の旧東海道、春埜製菓の角から古道に入り、妙栄寺門前を通り、喫茶ねぎほうず脇を通って北上すると阿僧新道の記念碑があり、左に入ると道は東海道新幹線の高架をくぐり、川沿いに進んだ丁字路を右折すると特別養護老人ホーム 浜石の郷になる。その先にある常円寺は、この地を治めた由比氏の居城川入城の跡で、由比川とその支流に挟まれた河岸段丘を利用した平山城である。

坂を登ることは加齢に正比例して辛くなる。辛いけれど我慢して日々登り降りをしていると辛さに正比例して長寿になる。高い場所にある畑に通う石段が、転んでも怪我のないよう丸みを帯び、しっかりした金属製の手すりがつけられているのは、加齢に従って坂や階段がデイサービスの場にもなるという一面もあるだろう。

長い坂道の登りが続いて足が重くなり、見上げる先の青空に白い雲が浮かんでいると、またもや司馬遼太郎の名調子が浮かんでくる。

「上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

坂を登りきった場所には由比八千代という地名が付けられており、西山寺阿僧地区土地改良事業によって拓かれた、平らにならされ、四角く区割りされ、用水や農道の整備された日当たりの良い高台の農地になっている。

後継者をつなぎとめ、新たに育成し、観光も取り入れた新しい農業を目指した高台の農業団地。取り組みが思惑通り実を結んでいるかどうかは知らないけれど、坂の上の青い天に、一朶(いちだ)の白い雲が輝いているならば、人はそれを見つめて、坂を上ってくるだろう。高い場所は気持ちが良いのだ。


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禅の心と入道雲

2017年9月26日
僕の寄り道――禅の心と入道雲


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由比の町を歩いていたら最明寺という寺があり、なんと寧一山による開山だという。別の名を一山一寧(いっさん いちねい)ともいうので、寧一山は「ねいいっさん」と読めばいいのだろうか。

寧一山は、二度の元寇に失敗したクビライが日本を属国化しようと画策して派遣した密偵だった。企みが露見して修善寺に幽閉されたあと、執権北条貞時に赦され、再建された建長寺、円覚寺、浄智寺の住職を経て京で南禅寺3世となるまで登りつめた人。生涯、正統臨済禅の興隆に尽力したという。

本堂前に置かれた長椅子に腰掛けさせてもらったら駿河湾と入道雲と幽閉されていた伊豆が見える。寧一山国士もこの景色を感慨深く見たに違いなく、心静かに禅を組んだつもりで座っていたら、誰もいないはずの背後でザザッザザッと音がした。

何だったのだろうと振り返ったら、寺の飼い犬が名を呼ばれて庫裏に引っ込むところだった。見慣れぬ男が境内にいるので何度か駆け寄って威嚇したものの、あまりに集中力のある気高い後ろ姿に気圧され、尻尾を巻いて退散したらしい。


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「電脳六義園通信所」および「清水目玉焼」サイト閉鎖のお知らせ

2017年9月28日
僕の寄り道――「電脳六義園通信所」および「清水目玉焼」サイト閉鎖のお知らせ

1999年に開設した「電脳六義園通信所」および「清水目玉焼」サイトは2017年9月をもって公開を終了いたしました。

人の命には限りがあり、自分がいなくなったあと、何らかの理由で廃墟のようにデータが残存している状態となることが耐え難い、というのが一番の理由です(サーバー使用料などの支払いがとまった時点で消えてしまうはずなのですが)。健康で元気なうちに、きちっと自分で始末と整理をしておきたいと、このところ思うことが多くなりました。

 

 

両サイトに書き続けたコンテンツの中から、高校時代に撮りためた清水の写真は『風に吹かれて清水みなと 1970―1974』、亡き母親の介護日記は『母と歩けば犬にあたる』と題して、電子書籍化してネット上に公開すべく作業をすすめています。公開の暁にはこのブログにてご案内差し上げますのでよろしくお願いいたします。

長いあいだ御覧頂いた皆様に深くお礼申し上げます。どうもありがとうございました。

ブログ版は継続中

新・清水目玉焼き

戸田書店発行『季刊清水』取材日記

 

 

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秋に昇る

2017年9月26日
僕の寄り道――秋に昇る


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夏に何度かかよった由比の町で、一箇所まわり忘れたバス路線があるので、彼岸墓参りの帰りに寄ってみた。見上げるともう空が高い。

清水区由比西山寺。由比川北東岸に東山寺地区があり、南西岸阿僧地区を挟んだ西にに西山寺地区がある。由比川の西を流れる和瀬川水系の山あいにひらけた集落で、見事な石組みのある坂道に沿って立派な農家が並んでいる。

見るからに勤勉そうな人びとが作り上げた集落内を歩いていたら、高台へと登る急峻な石段があり、登った先にある西山神社の参道になっている。抜けるように青い空めざして垂直に近い上昇をしたら、集落内に警報を告げるスピーカーが設置されていた。

まさに地域を守る大切な場所になっており、この場所自体が崩落の危険と背中合わせになっている。昔から災害に対応する土木工事への出費が財政負担であり続ける由比であり、この神社にも度重なる改修があったと思われる。古そうな石灯籠の刻印を見たら天明年間(1782年-1788年)のものだった。

小さな祠(ほこら)脇からさらに高みへ上る道があるので登ってみたら頂上は四等三角点になっており、新しい防災用スピーカーの塔が設置されていた。このあたりからなら海辺の家々まで警報が届きそうだなと眺めると、笠を伏せたような陣笠山越しに駿河湾、その向こうに伊豆の山並み、そして相模湾上に湧き上がる入道雲が見えた。


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墓参り余話

2017年9月26日
僕の寄り道――墓参り余話

秋の彼岸の最終日に静岡県清水へ墓参り帰省した。清水平野の端にある扇山。湧き水をあつめた小川が入り込んだ山ひだに保蟹寺(ほうかいじ)という寺があり、その裏手にわが家の墓がある。

墓参りのたびに裏山を見上げて思うのだけれど。鉄穴流し(かんなながし)などという本格的なものではないにせよ、ここではかつて山の土の中から砂鉄の採集が行われていたのではないかと思ったりする。

その理由は、山から流れ出た土砂で小さな扇状地になっており、そういう意味で水がつきにくい高さを持った斜面なので、かつて村の役場や小学校の前身がここにあったこと。その土が鉄分を含んだ赤土であり字名が赤地原であること。水流を使って砂鉄採集をした場所の下手には水と土がたまって田んぼに適した土地ができ、それが大内村の田んぼであったと思われること。巴川を挟んだ大内田んぼの向かい側にかつて吉川氏の館跡があり、そこに野鑪(のだたら)の遺跡があって自前の製鉄が行われていたこと。ご本尊の蟹に乗った金属製の薬師如来像や、蟹満寺と同じ蟹を名前にもつことが百済など渡来人の文化に関連有りげなこと、などなど。素人インチキ郷土史家になるのは戒めとするところなのでせいぜい日記だけにしておく。

母親にくっついて墓参りしていたころ、本家の墓に参るとトンボやチョウがやってきて墓にとまることがあり、母は
「墓参りしてもらったのが嬉しくてマコトが会いに出てきた」
と喜んでいた。トンボやチョウを早逝した弟に見立てて再会を喜ぶのは良いとして、小さなヘビや大きなムカデが出てきても
「マコトが会いに出てきた」
と喜ぶのは、ちょっとひどいんじゃないかと思ったものだ。叔父もヘビやムカデにたとえられたら不本意だろう。

生い茂った夏草を抜き、墓を掃除していたら墓石にカマキリがでてきてこちらをじっと見ている。あの母親ならカマキリになって出てきてもおかしくない気がし、邪険に追い払うのもためらわれるので無視していたが、花束をまとめて立てようとしたら驚いて飛んでいった。やはり母親ではなかったようなので安心した。



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トンボはなぜ木の枝の先端にとまるのか

2017年9月25日
僕の寄り道――トンボはなぜ木の枝の先端にとまるのか

今年もまた、特養ホームで暮らす義母の三階居室から見えるヒメリンゴのような木の先端にトンボがとまる。居室からベランダに出て眺めていたら、スーッとトンボが飛んできて空中停止するので、きっとあの先端にとまるだろうと思って眺めていたら、やはりその場所にとまってじっとしている。

トンボは物の先端にとまることが多い。「トンボはなぜ木の枝の先端にとまるのか」などと題して何度も日記を書いているのは、物の先端にとまるトンボが好きだからだ。どうして好きなのかをひとことで言えば「わかりやすい」からだ。

なぜ「木の枝の先端にとまる」かの理由はよくわからない。けれど、木の枝に向かって飛来したトンボが、「木の枝の先端にとまる」であろうという予測はたいがい当たる。

今年もまた、特養ホームで暮らす義母の三階居室から見えるヒメリンゴのような木の先端にトンボがとまる。去年見たトンボではないけれど、今年もまた木の先端にとまる。おそらく来年もまた別のトンボがあの木の先端にとまるだろう。


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秋の朝顔

2017年9月25日
僕の寄り道――秋の朝顔

七夕まつりと入谷の朝顔市と夏休みの水やりの記憶が組み合わされて、朝顔といえば七、八月の開花が思い浮かぶのだけれど、義母が暮らす特養ホームのグリーンカーテンは、九月半ばを過ぎてようやく花を咲かせ始めた。

開花時期が遅いのが意外な気がして驚いたのだけれど、初霜の頃まで咲き続けるというので、ノアサガオ(野朝顔)とはそもそもそういうものなのかもしれない。

敬老の日を祝うイベントも無事に終わり、明け方は肌寒いくらいの冷え込みとなり、セミの鳴き声が遠くか細くなって、見上げればもう空がずいぶん高い。

秋の愁いを追い払うように元気よく咲き始めたノアサガオは、老人たちが暮らす施設にとても合っているように思う。



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馬のいた風景

2017年9月24日
僕の寄り道――馬のいた風景

中山道板橋宿を歩いていたら寺のあった場所が更地になっていた。寺の経営が大変な時代であるのは知っているけれど、更地になってしまうのはいたましい。寺があった場所に寂しくのこされた石仏などを眺めていたら、高齢の女性から何を見ているのだと声をかけられた。

この寺は火事でも出したのかと聞いたら、廃寺となって荒れ果てたまま危険になったので引き倒したのだという。江戸時代は街道の馬つなぎ場だったと解説板にあるけれど、馬頭観音の石碑は大正時代のものもあって新しいですねと言うと、昭和の初めころまで馬市が立っていたのだという。板橋宿西端の上宿には沢山の馬喰(ばくろう)が暮らしていたという。

ああそうかと、いろいろ考えていたことの合点がいった。板橋宿の次は蕨宿で、その手前には荒川の川越えがある。街道の川越え地点は水運の基点として賑わう。水運の担い手が船であり、そこから陸運の担い手となるのが馬である。網野善彦的に言えば「馬と船」は「トラックとフェリー」である。川越え地点はフェリーターミナルだったのであり、その近くには馬をあつかうトラックヤードが必要になる。

住んでいる駒込も、同じような地名を持つ馬込も、荒川や多摩川の川越え場所に隣り合う街道筋で板橋宿に似ている。東征に向かう日本武尊が多くの馬を見たという駒込の地名由来も、馬を養った土地であったことの証しだろう。

駒込から岩渕宿に向かう街道沿いの西ヶ原に大蔵省の工場があり、その辺りが律令国家時代の豊島国衙(こくが)で豊島駅もあった。続日本紀(しょくにほんぎ)には東山道と東海道が通って賑わう豊島駅に馬増強を求める嘆願書が見える。

 

街道の馬つなぎ場はどんなだったのだろう、見てみたかったなと思っていたら、友人が毎日更新しているブログに、東海道五拾三次39番目の池鯉鮒(ちりゅう)宿(愛知県知立市)を描いた広重の絵が掲げられていてびっくりした。

池鯉鮒宿もまた水運と陸運の結節点であり、宿場近くの馬つなぎ場が詳細に描かれている。のちに近所の寺に場所を移して昭和の初めまで馬市が立っていたというのも板橋宿と同じで、そのころ馬は役目を終えたのだろう。この夏に何度か訪ねた静岡の由比宿でも、広重は川の「かちわたり」を丹念に描きのこしており、ちゃんと街道の民俗学になっていて感心する。


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星座はめぐる

2017年9月23日
僕の寄り道――星座はめぐる

文部省唱歌『冬の星座』の歌詞はこんなふうになっている。

木枯らしとだえて
さゆる空より
地上に降りしく
奇しき光よ
ものみないこえる
しじまの中に
きらめき揺れつつ
星座はめぐる

幼い子どもには難しい歌詞で、「奇しき」が「くすしき」と読んで、神秘的であることを言い表していると理解したのは、歌を覚えてからかなりの年月が経ってからだった。同じように「しじま」が「静寂」であることを理解したのも、歌をよほど歌ったのちのことだ。

子どもにとって散文よりリズムで覚える韻文は覚えやすい。脳に損傷を受けたり、歳をとったりしても、韻文は散文より忘れにくい。高次脳機能に障害を負って言葉をうまく話せなくなった人が、突然すらすらと歌をうたって家族を驚かせたりするのもそういう理由による。

「ものみないこえる」が「もの / みな / いこえる」で「人が / 皆 / 休息している」という意味であるとわかったのちも、どうしても「もの / みない / こえる」という区切りで聴こえてしまうのがとめられない。おそらく幼い頃にそう聴いてしまったのだろう。

「ものみないこえる」は「人が 皆 休息している」という意味ですと説明できても、歌うときは「もの / みない / こえる」と歌っている。そう話すと笑われるのだけれど、バカだからではない。子どもっぽいのも、韻文的記憶が消せないのも、バカだからではないんだよ、ということを言いたくて仕方ない。

満天の星を見上げ、その中から選んだ星をつないで具象的な形を見つけ、それを忘れずに記憶し、子から孫へと語り伝え、他地域の人とも共有できてしまう、人間の不思議な能力の秘密を示しながら、いまもきらめき揺れつつ星座はめぐる。


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はしっこのことば

2017年9月22日
僕の寄り道――はしっこのことば

このところ山の暮らしに関わる本ばかり読んでおり、出版のきっかけが柳田國男にすすめられて、というのが気になって山川菊栄『わが住む村』岩波文庫に寄り道している。はしがきが昭和十八年の日付になっている戦前に書かれた本である。

山川菊栄がというより時代の言葉が美しいのかもしれない。

「畑のへりで煙草休みしているお爺さん」

などという一行を読んだだけでしみじみとした味わいがある。農作業の鍬を置き、畑のクネに腰を下ろし、煙草を取り出して一服しているお爺さんの姿は思い出せるのだけれど、《煙草休み》というのはいい言葉だなあと思う。

 もう二十年以上前になるけれど、親に借金をしてマンションを購入し、不動産屋の紹介で年を取った棟梁にリフォームをお願いしたことがある。昼休みに仕事の進み具合を見に行ったら、六義園が見える窓際にあぐらをかいておられ、

「ここで弁当をつかわせていただいてよろしいですか」

と言う。《弁当をつかう》という言葉を、今でも使われるのだなあと感動したことがある。

 

神奈川県の村に移り住んだ山川菊栄が、近所の年寄りを訪ね、縁側に腰を下ろして昔話を聞く光景が目に浮かぶ部分。

「…お婆さんはそういって笑うと、針のめどを通してくれといいます。ついでに縫物をひきとって衿をくけ始めますと…」

なんて日本語は美しいのだろうと思う。


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じぶんのはじまり

2017年9月21日
僕の寄り道――じぶんのはじまり

マンション内で隔月開催している住民交流会に、住民のお友達として飛び入り参加された言語学者の田中克彦さんが、楽しい飲み会だと気に入ってくださり、今週の土曜日もまた来てくださると言う。

ということもあり、田中先生の本は何冊か読ませていただき、そのうちの一冊は装幀を担当したこともある。先生の自伝が出ているというので友人から拝借し、読んでみたらとてもいい。

自分が存在しはじめるきっかけとなった出来事の話など素晴らしくおもしろい。
おばあちゃんの背中におぶさって桑畑を歩いていたら、おばあちゃんが突然
「あんた、どこから生まれてきたか知っとるか」
と聞き、
「知らん」
と答えたら、おばあちゃんは
「それはなあ、おばあちゃんのこの背中から生まれたんだぞ」
と言い、その証拠として桑の木の根本にある背中が割れたセミの抜け殻を見せてくれたという。三、四歳ころの話だという。

僕にもまた三、四歳ころに《自分が存在しはじめるきっかけとなった出来事》がある。
ひとり留守番をしていたら、口の中につばがたまったのでごくんと飲み込んだらまたつばが湧いてくる。飲んでも飲んでもキリがないのでこれは病気だと思い、母が帰宅したので
「お母さん、ぼく病気になった。飲んでも飲んでもつばが出てくる」
と言ったら、母が笑って
「それはね人間みんなそうなの。出てきたらつばを飲むことを繰り返してみんな生きているのよ」
と言う。

子どもにとっては衝撃である。永遠につばが出てきて、それを飲むことを永遠に繰り返していたら、ほかになにもできないではないか、これは地獄だ、生きていることは苦しみでしかない、そう子どもながらに絶望した。たぶん《じぶん》が存在し始めたのはその時からだと思う。

ところが《じぶん》というものを忘れて何かに夢中になると、つばが出てくることも、つばを飲み込むことも忘れていることに気づいた。《じぶん》があることが地獄なのであり、楽しいことをしたり眠っていたりして《じぶん》がないことが天国なのだと幼心に悟った。

子どものころ、人がかならず死ぬということを考えすぎて怖くて眠れなくなると、《じぶん》の地獄にいるより眠って《じぶん》のいない天国に行こうと目を閉じたものだ。そんなことを思い出した。


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ひと皿の秋

2017年9月20日
僕の寄り道――ひと皿の秋

義母が暮らす特養ホームのユニットは最も認知の力が衰えたお年寄りばかりが集まっているので、食事は全介助状態になっている人が多い。それでもわずかに自分の手で食べる力が残っている人たちはなるべく自力で食べており、それはそれで良いことなのだけれど、落とした食べものがトレイやテーブルや床にこぼれて大変なことになっている。

そういうお年寄りたちが、なぜかみんな見事に食べている日があり、そういう日の昼食メニューはカレーライス、ハヤシライス、五目ちらし寿司など、いわゆるワンディッシュ・メニューになっている。

おかず、ごはん、おかず、ごはんという循環で口に運び、口の中で混ぜ合わせて食べるという《手続き》が、歳をとって苦手になったということもあるだろう。スプーン一本あれば食べられるワンディッシュは楽なのだ。

それとは別に、年をとるとだんだん味がわからなくなるという現象もある。それもひとつの認知力の衰えである。味を感じる味蕾(みらい)が、赤ちゃん返りを飛び越して新生児の半分以下に減少してしまうので、味覚《障害》ではなく加齢に伴う自然な老化現象なのだ。わが義父もそうだった。

だが人間には舌で感じる味がなくなっても《経験》が感じさせる味覚があるだろう。テレビのドキュメンタリー番組を見ていたら、一度炊いたご飯を何日間にも分け、毎食、市販のちらし寿司の素を混ぜて食べている一人暮らしのお爺さんがいた。宅配弁当を届けてもらっても口にあわないと言い、醤油をかけまくってみたが殆ど食べられなかった。

そのお爺さんが、住民手づくりの地区祭りに出てきて、屋台で売られている焼きそばを買って食べていた。ちらし寿司や焼きそばが、醤油をたっぷりかけた宅配弁当より、舌に味覚を強く感じるというわけではないだろう。そうではなくて《経験》が感じさせる見かけの味覚が《口にあっている》のだと思う。つづめていえば《経験が口にあう》のである。

老人ホームでカレーライスやハヤシライス、ピンク・緑・黄色で彩られたちらし寿司、その見かけと経験がお年寄りたちの食を弾ませている。せめて昼食くらい栄養バランスではなく、そういうポイントを抑えた懐かしい《ひと皿》が目の前にあれば、たとえ認知力の衰えたお年寄りでも、もっと食べてもらえるのではないか、そう思うことが多い秋である。


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並行加速器

2017年9月19日
僕の寄り道――並行加速器

R.A.ハインラインのSFではなかったかと思うのだけれど、高速で動く歩道というのが出てきた。動く歩道は都内でときどき乗って歩くけれど、歩道がもっと高速で動いていたら乗り移るのが難しい。どうしてもそうしなければならないとしたら、自分が高速で走って歩道との速度差を減少させて、飛び移るしかない。

SFの世界の動く歩道はうまくできていて、普通の速度で動く歩道の隣りにもうちょっと早い歩道があり、さらにその隣りにはもっと早い歩道と言う具合に、速度の違う歩道が平行している。人は横へ順に乗り移って加速したり減速したりできるわけだ。高速道路に加速しながら合流する自動車にも似ている。

中山道板橋宿。旧街道の町並みから脇へ入る路地の向こうに新中山道が見える。100m足らずの距離を置いて平行に走るこの道は、関東大震災直前の地図を見ると影も形もないので、その復興のころに作られ、85年前の地図には姿が見え、60年前の地図には路面電車も走っている。

今はさらにその上に首都高速5号池袋線が走っていて、こちらは上下になっているので簡単には乗り移れない。路地を挟んで低・中・高速の道路が平行して走る風景を見て、高校時代に読んだSF小説を思い出した。


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昇り降りの理論と体感

2017年9月18日
僕の寄り道――昇り降りの理論と体感

最寄駅のホームは台地と低地の中間から直角に突き出た長い舞台のようになっており、ホーム西端の階段を昇れば高台へ、東端の階段を降りれば下町への改札口がある。

駅がそういう構造なので、町自体も台地と低地を隔てる崖線で仕切られており、両者を昇り降りして行き来するための坂や階段が多い。坂と階段はたいがい隣り合わせでひと組の夫婦(めおと)になっている。神社でいえば男坂と女坂である。

男坂である階段は急角度を一段ずつ登るので、一歩一歩はきついけれど水平移動距離が短い。女坂である坂道は緩やかになっており、一歩一歩踏ん張らずに歩を進められるかわりに平行移動距離が長い。

どちらを登った方が楽かは、理論的な証明ではなく、気分に重点を置いた体感によって決定されると言った方が実用的である。元気溌剌なときはふんふん息を荒げて短期決着の方が、倦怠感いっぱいの状態ではだらだら決着を引き延ばしつつ頂上を目指す方が楽に感じる。

郷里静岡県清水の山間部に四十坂という人が歩けるだけの山道がある。伝承では甲斐の武田が駿河の今川を侵略するために開いた軍用道路だと言われている。軍団が夏でも汗ひとつかかずに山越えできたのだという。

実際に夏の四十坂を大汗かきながら越えてみたけれど、あの場所とこの場所との間が想像したより楽に移動できたように感じる、という意味で大変よくできたルートになっている。

最近の大型歩道橋は自転車を押しても渡れる構造になっており、昇り降りするたびに郷里の山越え道を思い出す。そのだらだらした昇り降りが、これはこれで楽でありがたいと感じる年齢と残暑である。


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