【山へ、海へ】

【山へ、海へ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 31 日の日記再掲

JR 東海道本線清水駅。
 
駅舎の高架化が成って嬉しいことのひとつは改札を出た場所からの眺望が良いことであり、晴れた日には真正面に大きく富士山が見える。

このところ実家の片付け帰省時は東側の江尻船溜まりに向かう通路を歩いた場所に立ち、朝の空気を吸いながら北に連なる山間部を眺めるのが好きだ。

10 月 29 日午前 9 時 30 分、清水駅通路から見る甲州へと続く山並み。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F88

清水で雨が降ると海の方から次々に雨雲が平野部に供給され、まるで雑巾を絞り続けるように間断なく雨が降り続くことがある。

その一方で北の山の向こうから湧いてくるように雲が海側の平野部へ供給される光景を見ることも多く、その幽玄でダイナミックな自然現象を見ると身体がぞくぞくする。

「登山」と身構える山歩きはあまり好きではないけれど、ブラブラあの山襞に分け入り、山を越えてどこまでも真っ直ぐに甲州や信州まで突き抜けてみたいなぁと思うことがある。

清水駅午前 8 時 14 分着の普通列車や、午前 9 時 26 分着の特急ワイドビュー東海 1 号で清水駅に着くと、まずこの場所でする深呼吸が何よりの楽しみになっている。

江尻船溜まりに停泊中の漁船で出迎えに出てくれていたカモメ。

 

何とも仕草が馬鹿馬鹿しくていいやつである。


DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

一方清水駅に着く直前、蒲原を過ぎ由比、興津と通過して車窓に駿河湾が広がるとき、湾の向こうに伊豆半島が見えると、清水港から小船を出して真っ直ぐに海を渡って伊豆まで疾走したら気持ちがいいだろうな、と思う。

それをやっていたのが若き日の祖父であり、東向きの風が吹くと船足が速まるので西伊豆土肥から伊豆の物産を積んで清水港まで疾走し、巴川を遡って港橋手前、松井町『川口瓦店』脇に船を泊め、椎茸などを市内の寿司屋に卸し、帰りは瓦焼き用の土と完成品の瓦を積んで再び海路を土肥までひた走ったという。

清水駅に降り立つと山へ行こうか海へ行こうかと迷うような嬉しい衝動がある。迷ったところで結局実家片付けに行くしかないのだけれど、その一瞬のワクワク感が楽しい。 

江尻船溜まりには必ず数羽のカモメがブラブラしながら出迎えに出ていてくれ(たような気がし)、心の中で「ただいま」のかわりに「よっ!」と声がかけられて気持ちがいい。浜田町『かしの木亭』ご主人推奨の食堂『船小屋』で目玉焼き付きカレーを食べてしゃんとし、「(ああ今週も清水に帰ってきた!)」と実感する。

DATA:SONY Cyber-shot DSC-F8

このカレーはなかなか辛い。

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【朝倉屋で傘を買う】

【朝倉屋で傘を買う】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 30 日の日記再掲

「わきゃあない」

突然懐かしい清水の言葉がご主人の口から出て胸が詰まる。

「わきゃあない、はぁ 56 年になるよ」

静岡県清水江尻東、洋傘製造修理の店『朝倉屋』のことが最近気になって日記に書いたら、朝倉屋で傘を買うとご主人が流麗な手さばきで名前や住所を柄に刻印してくださること、子どもの頃からそうやって名入れして貰った傘を大切に使っていた人たちがいること、自分の子どもたちにも朝倉屋のご主人が彫った名入りの傘を持たせたいと思っている人が今もいることを知り、10 月 29 日の帰省時に立ち寄ってみた。

店内に入って雨傘を眺めていたら奥からご主人が顔を出し、
「その上にあるのが一番大きな傘。あんたは大きいから一番大きなやつでもいいかもしれない」
と言う。

親たちの介護が始まると、傘はビーチパラソルでない限り大きければ大きいほど、堅牢なら堅牢であるほど便利なので、一番大きいのと決めて眺めていると
「ひとつひとつぜーんぶ柄が違うから広げてご覧なさい」
と言う。

落ち着いた深緑のストライプ柄に決め、
「あの、名前を刻印してもらえると聞いたんですけど」
と言うと、ここへ名前を書くようにと紙片を手渡される。
「年を取ったから上手く掘れるかどうだか」
とおっしゃるので短く『石原』と掘っていただくことにした。

壁にはご主人自慢の想い出がピンナップされていて説明が聞ける。

刻印してもらった傘の柄。下にあるのは母が愛用していたエプロン。
DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

「いつ頃からこの仕事をされているんですか」

と尋ねたら

「わきゃあない、はぁ56年になるよ」

と言う。『わきゃあない』という言葉は「時の経つのはあっという間ですよ」という意味で、清水の高齢者が良く用いる美しい言葉である。「わきゃあない」には人生が夢のように過ぎ去ていくことへの感慨がこもっている。

年寄りは遠い日を思い浮かべて「わきゃあないだよなぁ」と溜息をつき、友人に久しぶりに会って赤ん坊だった子どもが小学校入学だなどと聞くと「わきゃあないねえ」などと驚いてみたりする。「わきゃあないねえ」と笑う目尻の端にはちょっとだけ涙がある。

朝倉屋のご主人は終戦直後から傘の製造販売一筋に打ち込んでこられたのであり、雨の日に傘をさして傘を買いに来たヘンな男に「いつ頃から」と聞かれて思わず「わきゃあない」が口をついて出たのである。この人もまた風景のいい人間である。

どのように刻印されるのかと思ったら、小刀を手に持って宙であっという間に彫り上げるのであり、刃先が空中に軌跡を描く書道のようである。
「木はカクカクッとしてるもんでちっとがたついちゃうけど」
とおっしゃるので、
「いいえ、素晴らしいです!大切に使います!」
と言ったら
「壊れたらなおすんて持って来なよ」
と言う。

子どもの頃、真新しい傘を買って貰うと嬉しかったが、何歳になっても嬉しいもので、さっそく真新しい傘をさして清水駅前銀座『リビングハウスこまつ』の看板娘に見せびらかしに行く。こういう子どもじみた行為を見た清水の年寄りはよくこういう。

「たわいないだよなぁ」

   ***

余談だが、傘の製造販売と言ってもすべての部品を手作りするわけではなくて、選りすぐった部品を丁寧に組み立てるのである。シャツの店の仕立て名人が糸を撚って布を自分で織らないのと同じである。

朝倉屋で買った傘の刻印が嬉しくて眺めていたら、木製の柄が安部兼章(あべけんしょう)ブランドであるのに気づいた。

ということは清水エスパルスファンは江尻東の朝倉屋で安部兼章の柄に名入れして貰った傘をさすのが一貫性があって良いと思う。安部兼章は清水エスパルスのユニフォームをデザインした人だからである。

安部兼章を選んだ朝倉屋のご主人もエスパルスファンなのだろうか。

朝倉洋傘製造修理の店
静岡県静岡市清水区江尻東3-5-25

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【終端のジャック&ベティ】

【終端のジャック&ベティ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 24 日の日記再掲

清水義範著『永遠のジャック&ベティ』を読んで懐かしくもほろ苦く笑えるのは何歳くらいまでの世代なのだろう。

と思って中学校の英語教科書『 Jack and Betty 』を知らない友人に尋ねてみたらやっぱり『永遠のジャック&ベティ』は笑えたと言い、しかもなんとそういう名の英語教科書(パスティーシュの種本)があったこと自体を知らないという。

僕が静岡県清水市立第二中学校で使っていた英語の教科書は開隆堂の『 Jack and Betty 』であり、発行部数 4,000 万部を越えるベストセラーだった。で淡島町の『松本英語塾』に通うようになったら「二中の教科書は来年入学する生徒から三省堂の『ニュープリンスリーダー』を使うようになる」と言う。『 Jack and Betty 』より『ニュープリンスリーダー』の方が少し内容が高度なのであり、中学生の英語力を高めるために『ニュープリンスリーダー』に変えるという。

清水市の市立中学全体が翌年から『 Jack and Betty 』を使わなくなったのか、それとも二中だけだったのかがどうしても思い出せない。確か八中に通う1歳年上の従兄に『ニュープリンスリーダー』を見せられた記憶があり「二中はまだ『 Jack and Betty 』を使っているのか」と笑われたような気もするので清水最後の『 Jack and Betty 』を声を揃えて音読していた学校はわが母校だったのかも知れない。おー、それはどーでもいーはなしですね。

朝顔の壁。清水松井町( 10/15 )


キムチの店『八千代亭』。清水浜田町( 10/15 )


DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

パソコンとか電気器具についている差し込み穴を「ジャック」という。電気器具の「さしこみ」だと広辞苑にも載っている。イヤホンジャックとかヘッドホンジャックとか電源ジャックとかいうやつだ。差し込みをどうしてジャック( Jack )と呼ぶのだろう。
 
Jack というのは代表的な男の子の名前であり、Jack and Bettyは日本で言ったら太郎と花子であり、そういうひとつがいの男女が一体になってジャスト・システムになっている。差し込み穴が Jack なら差し込む方は Betty かと思うとそれはプラグと日本では呼ぶ。アメリカでは Jack に差し込む方を Betty と呼ばないのだろうか。
 
仮に Jack and Betty と呼ぶとして、どうして Jack が 凹 で Betty が 凸 なのだろう。不二家のポコちゃんが 凹 でペコちゃんが 凸 みたいだ。どうして英語では差し込み穴= 凹 を Jack と呼ぶのだろう。

最近使い始めたフィンランド製の携帯電話にはコンビニで売られているような緊急用充電器がない。5 ボルトの直流を突っ込むための Jack(凹)があるのでパソコンの USB 端子に出ている 5 ボルトから充電できたら便利だなと思い、口径の合う DC の Betty(凸)と USB の Betty(凸)が両端についたコードがないかと探したら USB 側が Jack(凹)のやつが見つかった。

この Jack(凹)を Betty(凸)に性転換してやれば良いわけで、そういう性転換器がないかと秋葉原で探したら Betty(凸)と Betty(凸)が尻合わせになっている部品を見つけた。こういう性転換器を英語では Gender Changer(ジェンダー・チェンジャー)と呼ぶ。おー、そのまんまのなまえですねー。

英語教科書『 Jack and Betty 』を笑った者も、英語教科書『 Jack and Betty 』を知らない者も、みんな清水義範著『永遠のジャック&ベティ』を読んで笑えるということは、『ニュープリンスリーダー』『ニューホライズン』も目くそと鼻くそくらいの中身の違いしかなかったということなのだろう。おー、ひさんなはなしですねー。

■写真(小)は Jack(凹)を Betty(凸)に変換する性転換器とコード。残念ながら愛用の NOKIA(ボーダフォン702NK)はパソコンの USB からこのコードを使っての直接充電はできないが、汎用充電池から直接、もしくはそれを間に挟むことでパソコンからも充電できている。

清水真砂町、喫茶『かっぱ』のモーニングセット。
おー、いつみてもおいしそーですねー。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

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【ペッパー警部】

【ペッパー警部】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 23 日の日記再掲

ブームに乗り遅れることは子どもの頃からしょっちゅうあった。

乗り遅れたことを笑われるのもまた誇らしかったりするねじれた性格だったので、遅れて乗ることもあれば乗り損ねたままになったこともあるが別段気にならない。

それに対してブーム自体が理解できなくて乗る気にならないし乗っている者の気が知れない思いをしたことは忘れられなかったりする。

昔 NTV に『スター誕生』という番組があり静岡の少女二人組が出てきたときは同郷なので「おっ!」と思ったけれど「(こりゃだめだ)」と思い、合格したので「(あらら…)」と思い、デビューが決まって「(えっ!)」と驚き、デビュー曲をひっさげて登場したときは「(やめてくれ~!)」と叫びたくなった。

3 学年下にあたる郷里の後輩が嫌いだったわけではなく、静岡出身の少女が B 級お色気タレントに変貌していく姿を見たくなかったのである。

清水江尻町『餃子倶楽部』にあったペッパー警部のミーちゃん。

清水江尻町『餃子倶楽部』にあったペッパー警部のケイちゃん。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

それが次々に出す曲出す曲がヒット曲となり空前の大ブームを巻き起こす様子を見て唖然とし、一度も乗る気が起きないままブームは去って行き、今も持っている『スター誕生』出身歌手が世に放った夥しい数のレコードの中にピンク・レディのそれは 1 枚もない。

最近でも時折テレビなどで目にする根本美鶴代さんも増田啓子さんも昔から今日まで一貫して嫌いではないのだけれど(ケイちゃんはけっこう好き)、やっぱり今でもデビュー曲の『ペッパー警部』がかかって最後の「ペッパー警部だよ!」と言うセリフを聞くと両頬にサッと鳥肌が立つ。

しかも正しくは「ペッパー警部だよ!」ではなく「ペッパー警部よ!」だったのだと今調べてわかって、さらに鳥肌が立つ。

友人と飲んだ深夜にラーメンが食べたくなり『餃子倶楽部』に行って「昔ながらのラーメンを二つ」と注文したらおばちゃんは厨房に向かって「むかしふたつ!」と叫んでいた。


DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

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【近道】

【近道】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 21 日の日記再掲

人間、歳を取ったり身体が弱ってくると少しでも近道を通りたくなるのだろうか。

赤信号なのに道路を横断したり、横断歩道でない場所を横切ろうとする人を見ると、
「まーったくしょんないねえ。ああいう人に限って事故に遭うと文句を言うんだから」
などと憤っていたはずの母が、平気でそういうことをするようになり、若い頃から人一倍歩くことが好きだった母が
「近道を通っていこうよ」
としきりに言うようになったと感じる時期があった。

「(年寄り臭くなったなぁ)」と感じたし、思えばその頃から病気が進行していたのかも知れない。

久能街道側から見たショートカット
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

静岡県清水新富町、静鉄ストアのある五差路から高良眼科医院前を通って旧東海道いちろんさんのでっころぼう前の四差路に抜ける一方通行の道がある。

母はその道を歩くたびに四差路手前の道を左に折れ
「近道を通っていこうよ」
と言った。10,000 分の 1 の市街地地図には載っていないけれど、蔵のある民家脇を抜けて久能街道に抜ける狭い道があり、母は少しでも早く家に帰りたくてその小路を通りたがった。

小路手前の空き地でエノコログサの生い茂った草むらに入っていくので
「(あらら、そこまで近道がしたいの?)」
と呆れていたけれど、夏が終わって秋が来て、10 月 15 日の帰省時に懐かしい道を歩いてみたら、母が踏み分けた道はたくさんの人が同じコースを辿るらしく、近道へのさらなる「 short-cut(ショートカット)」になっていて呆れた。

高良眼科医院側から見たショートカット
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

道というのは直角な区画割りに沿って作っても許されるなら人は曲線にしたがるのかも知れないし、この地域も驚くほど年寄りと病人の多い町になってしまったので、少しでも近道したい人が多いのかもしれない。

パソコンにもショートカット好きとそうではない人があり、マウスに手を伸ばさずにキーボードだけで済ませたい人と、いちいちマウスでメニューを出して確認しながら操作しないと満足できない人がいる。僕は後者であり、他人から見るとまどろっこしいパソコン操作をしているように見えるらしい。

それでも疲れるとちょろっとショートカットを使ったりし、一刻も早く作業を切り上げたい時の簡単な近道も少しは知っている。それはエノコログサを踏み分けた道に似ているかもしれない。

 

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【さつき通りターミネーター】

【さつき通りターミネーター】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 20 日の日記再掲

わが家のパソコンに接続していた CANON のスキャナがお役御免となり、とうとう最後の外付け SCSI(スカジー)機器が姿を消した。

外付け SCSI(スカジー)機器など知らない世代が次々にパソコンユーザーになっている今日この頃、「いい時代になったねぇ」と笑いあえる友人はみな SCSI(スカジー)接続で泣いたことのある人々である。

要するに今の USBIEEE1394( FireWire )みたいにパソコンにいろいろな機器を繋ぐ方式のひとつなのだけれど、数珠繋ぎの仕方にクセがあって、繋げる機器の台数に制限があり、機器にひとつひとつが重複しないように 1 から 7 までの番号を設定してやらなくてはならず、繋ぐ順番で認識したりしなかったりし、数珠繋ぎの総延長にも制限があり、ちっぽけなパソコンにデリケートな外付けハードディスクを繋ぎ、その先に走査音の喧しいスキャナや轟音を立てる大型プリンタをぶら下げ、しかも狭苦しい場所にかためておかなくてはならなかったりし、そういう苦労をした人は「ああ、外付け SCSI(スカジー)がなくなって良かった~」と心から思うのだろう。

パソコンと他の機器を繋ぐということはそれぞれの間に情報が流れる道を造るということである。その道を流れる電流の電圧が次々に変化し、それがデジタルの信号というもので、喩えれば波に似ている。

波が押し寄せてきて岸にぶつかる時、垂直に切り立ったごついだけの岸壁を作れば波はバッシャ~ンと壁にぶち当たって砕け反動で沖へと跳ね返る波となり、波と波がぶつかって新たな乱れを作る。

SCSI(スカジー)接続というのはそういう終点で跳ね返る波を打ち消すためにターミネーターという器具を取り付ける必要があり、それは海辺に喩えれば波消しブロックのようなものである。

街の構造にも終点にはターミネーターが必要であり、空港ターミナルもターミナルホテルもターミナルデパートも、硬い箱物でありつつも終点に押し寄せるエネルギーを内部に吸収する仕組みを持っているからこそターミネーターでありえるわけで、ターミネーションが有効である都市のさまざまな流れはスムーズになる。

Data:RICOH Caplio R1


Data:SONY Cyber-shot DSC-F88

清水港町、さつき通りの突き当たり、おにぎりの『かどや』のある一角で再開発がすすんでいる。

かつてその場所は清水市内を走る路面電車の終着駅であり、映画館が何軒かあり(羽衣劇場だけでなく港橋を渡った右側にも映画館があったと最近魚屋に教わった)左右には港橋と次郎長通りの商店街があって繁華であり、とてもターミネーションが効いた場所だった。

港橋ターミナル再開発ビルの名前はミナト・ミライ・プロジェクト『キララ・シティ』だというが、当初予定したテナントのあても外れて大変らしい。単に都市の活力が当たって砕ける箱物岸壁になるか、はたまた寂れ行くさつき通りに流れを呼び戻すターミネーターとなり得るか、プロジェクトに関わった人たちのお手並み拝見である。

この地域が有効なターミネーションを必要としていることだけは明らかだ。

次郎長通り『茂知屋』は新蕎麦を打ち始めていた。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

 

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【清水のみせや】

【清水のみせや】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 19 日の日記再掲

わが母は商店のことを「みせ」ではなく「みせや」と呼んでいた。
「パン店」でも「パン屋」でも通じるものを、わざわざ「パン店屋」と呼ぶようで違和感があり、屋上屋を重ねるというか、同義反復であるような気がしてどうしても「みせや」という言葉が気になって仕方なかった。

わが郷土静岡県清水では
「昔ゃあこのあたりにも『みせや』んたぁんとあっただけんね」
とか
「客ん来ないって言うけえが客ん方から見れば『みせや』ん開いてないだもん」
などと年寄りは言い、年寄りが話す「みせや」「店屋」ではなく「見世屋」であってこちらの方なら合点がいく。

写真:次郎長通りから清水総合運動場へと続く道沿いにある酒屋『大黒屋』。かなり昔からある店であることが磁器製酒瓶などからうかがえる。店頭に自家製リキュールのビンを並べて見せていてくれていて楽しく美しい。写真を撮影していたら店のご主人が配達から戻って来られたが《ニッカヒゲのウヰスキー》のラベルから抜け出したような人物であることに感動してしまった。大変な釣り好きだという。
SONY Cyber-shot DSC-F88

友人の魚屋を「魚屋」と呼んだり書いたりするけれど、マスコミではこれを差別的な表現だとして「魚屋さん」と呼んだり書いたりするように取り決めている社が多いらしい。

魚も「魚」で良いような気がするけれど「お魚」と呼んだり書いたりしないと差別に当たるのか「お魚屋さん」という言葉がひどく目や耳につく。店も「店」で良いような気がするけれど「お」「店」「屋」「さん」までつけて「お店屋さん」などと言い、インターネットで「お店屋さん」を検索すると、うんざりするほどヒットする。
 
「お店屋さん」などというのほほんとした暮らしなら良いけれど、人通りが少なくなって青息吐息の商店街を歩き、「(それでも頑張っているなぁ)」と感心する商店は「店」ではなく「見世=見せ」であり続けようと努力していることに感心する。

写真:同じ道沿いにある不思議な八百屋。美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋で買い物をしたついでに、母から頼まれた野菜をここで良く買った。母はスーパーなどの「冷蔵ショーケースで変なランプをあてられてさらし物になっている野菜」をひどく嫌っていた。常温で売られている野菜は日持ちがするし黴びたりしない。このお店はいつもおばちゃんやおばあちゃんでいっぱいで、誰が主人なのかわからない。足の踏み場もないのでうろうろしているとおばあちゃんが「何探してるだね?」と言うので「ひね生姜」と言うと「はい50円」と言ってとってくれる。50 円硬貨を渡すと「はい 50 円」と言って別のおばちゃんに渡していたりするのだ。何という名前なのだろうと思って見上げたら小さな看板があって『スナック・ココ』と書かれていた。『スナック・ココ』という八百屋でもいいかもしれない。
SONY Cyber-shot DSC-F88

そもそも「店」という文字は「广」(=いえ)に音符である「占」(=しめる)をくっつけて「一定の場所を占めて商売する所」という意味を持たせた形声文字であり、露天商や行商人と区別するために用いられるようになったらしい。

「屋」という文字は「尸」(=からだを横にする)に「至」(=室)をくっつけて「人の寝る部屋」の意味である。

商いというのはそもそも「見世=見せ」であって常に露天商や行商人のつもりで人前に出て体をはって生きることであるような気がし、それが「店屋」になるから「一定の場所を占めて商売する所」「人の寝る部屋」にして「見世=見せ」であることを放棄してふて寝するようになるんじゃないか、と歩きながら考えた。

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【巴川の流れのように】

【巴川の流れのように】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 18 日の日記再掲

美空ひばりの『川の流れのように』を初めて聞いたのは山形県社協が主催した障害者月山登山に飛び入り参加した帰りの貸し切りバス内だった。

山交バスの若い女性ガイドが 1 泊 2 日の登山にも泊まりがけで参加し、疲れ果てた顔をして夕暮れの山道で歌ってくれたのだが、なかなか感動的であり覚えやすかったのでその後カラオケに誘われるたびに歌っていた。

大正橋の上から見た藻
DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

何度歌ったか知れないその歌を清水のカラオケでは歌ったことがない。清水の街で「 ♪ あぁ~あ~~川の流れのよぉ~~にぃ~~……」
と口ずさむと巴川を思い浮かべてしまうのであり、その巴川には必ず大きな藻の塊が浮いている。

幼い頃、雨が降って増水した巴川の土手に立つと藻の塊が上流から流れて来た。どこからどのような仕組みで供給されるのかは知らないけれど、今も変わらず雨が降ると巴川には藻の塊が盛大に流れてくるのであり、おそらく太古の昔から雨が降るたびに夥しい量の藻の塊が流れていたのだろう。

港橋の上から見た藻
DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

   ***

昔々、おばあさんが巴川で洗濯をしていると上流から大きな藻の塊が流れてきました。誰も気にとめもしないやくたいもない物になぜか興味を持ってしまうのがおばあさんの愛すべき性格で、今日も今日とてその大きな藻の塊を拾い上げてえっちらおっちら家まで担いで帰りました。

おじいさんは「(わっ、まーたやくてゃあもねゃあもんをひろってきただか)」と一瞬思いましたが、なぜかそんなおばあさんが大好きなのが不思議です。
「おじいさん、おじいさん、雨ん降るたんびにこんな大きな藻の塊ん流れてくるだけえが、いったいぜんたいどけえとこんな藻ん生えててどんなあんびゃあでもって流れてくるずら?」

おばあさんの好奇心旺盛なクリクリした瞳を見ているとおじいさんは何でも教えてあげたくなるほど愛おしいのですが、ちょっと答えに困ったので話題をそらすように
「おや、この藻の真ん中へんに絡まってるのはなんずら?」
と言い、おばあさんも
「おや、なんずらねえ?」
と言いながら二人で力を合わせてかき分けて見ると中から小さな女の赤ちゃんが出てきました。
「も、も、も、藻藻子っ!」

藻から生まれた赤ちゃんは藻藻子と名付けられて大切に育てられ、やがて有名な脱力系漫画家になりましたとさ。

   ***

大好きな巴川が映像として思い浮かぶなら良い気もするが、なぜか清水の街で
「 ♪ あ~あ~~川の流れのよ~~に~~……」
と口ずさむと巴川を緩やかに流れゆく大きな藻の塊が思い浮かんで妙に力が抜けて盛り上がれないのである。

今月に入って東京も清水も雨降りが続き、帰京して橋の上から覗き込んだらやっぱりたくさんの藻の塊が流れている。橋の上に立ち止まって藻の塊を眺めながらシャッターを押していたら「♪あぁ~あ~~」とやっぱりあの歌がやるせなく口をついて出た。

伝言板で巴川を流れてくる藻はアナカリス(オオカナダモ)ではないかと教えていただいた。実験材料として輸入された物が逃げ出して世界各地でも大繁殖し、この現象は《水のペスト》などとも言われているという。日本に帰化して大繁殖が始まったのは大正時代だと言うから僕が幼い頃見たのもやはりアナカリスだったのかも知れない。

【巴川ダイブ】

阪神タイガースが優勝を決め、昨夜は千葉ロッテマリーンズが 31 年振りの優勝を決めた。

今年は道頓堀川への飛び込みを抑止しようとする取り組みのニュースを見た気がするが、猛虎ファンの飛び込みはあったのだろうか。

清水の友人たちと飲んだら、毎年祭りになると巴川に飛び込むおだっくいが一人くらいはいるらしい。巴川を相当愛していなければできないことで、郷土愛、自然愛、環境愛の証に飛び込むとしたら自分はどの橋を選ぶだろう……と真剣に悩んだ清水っ子は多い……かどうかは知らない。

羽衣橋はどうかというと海に近くて深そうで何となくイヤ!、港橋はちょっといいかなと思うけど家から遠いし、富士見橋はちょっと夜になると寂しいし、八千代橋は橋が真新しいので気恥ずかしいし、萬世橋は思い出を汚したくないし、千歳橋は役所に近すぎるし、大正橋は電車や汽車がうるさいし、柳橋は玉川楼の府川さんに笑われそうだし……とあれこれ屁理屈をこねて逃げながら川を遡り、まぁ幼い頃から馴染み深い稚児橋からなら飛び込んでもいいかな……と思って川面を見たら稚児橋の両岸近くは相当に浅い。

写真上:巴川稚児橋東岸
写真下:巴川稚児橋西岸
Data:SONY Cyber-shot DSC-F88

頭から飛び込んだら死ぬ可能性があるし、足から飛び込んだら骨折くらいするかも知れない。

飛び込むつもりにならなければ見えてこない現実が世の中にはたくさんあるので、川に限らず飛び込むつもりになっての下調べは大切だ。

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【ちいちい餅とチャイルドサッカー】

【ちいちい餅とチャイルドサッカー】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 17 日の日記再掲

10 月 15 日、東京駅ホームで午前 7 時 18 分発特急ワイドビュー東海 1 号を待っていたら反対ホームに入線するはずの寝台特急が到着せず、構内アナウンスによれば東海道線清水駅構内での人身事故のため到着が 2 時間以上遅れるという。「東海道線清水駅構内で」と聞いただけでズキンと胸が痛み、人は誰でも生まれ故郷を負の心象として思い描くのを好まないのだろう。

清水駅前に立ったとたん大粒の雨が降り出し、駅前銀座、清水銀座とたどってなんとか傘をささずに実家に戻る。大量のゴミ出しを済ませ、入江商店会の和菓子屋『竹翁堂』に行く。11 月 12 日(土)、母の百箇日法要と納骨に際して寺に持って行くお菓子をどうしたらよいかと相談したかったのだ。
「積み団子ふたつと焼き饅頭十個とちいちい餅十個を 11 月 12 日の朝 9 時までに御用意します」
と言う。なるほど、百箇日といえば斯く斯く然々と地域の決まり事があり、そこにちいちい餅が入っていて何となく嬉しい。これで一件落着。

清水銀行でお金を引き出し、辻町で実家修理の支払いを済ませ、清水駅前まで歩いていたら空が雲ひとつない快晴になり降水確率 90% がウソのようである。

静鉄ジャストラインのバスに乗って港橋下車、次郎長通り商店街を抜け、美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋で支払いをしようと思ったらまだ計算ができていないという。
「これからサッカー、見に行くですか?」
と聞かれ
「うん、行く」
と答えてしまい、どうしようかと迷っていた清水総合運動場で行われている『 CFS 杯 チャイルドサッカー大会』を見に行く。

DATA:Data:RICOH Caplio R1

清水総合運動場サッカーコートは芝生も綺麗に手入れされており、思いがけない青空の下、色とりどりのユニフォームを着たちいちい餅みたいなちびっ子たちが芝の上を駆け回り、ヤンママ軍団の歓声で沸き返っている。人は誰でも生まれ故郷をポジティブな心象として眺めるのが嬉しいのだろう。

スタジアム最上段のベンチに腰を下ろして 2 時間ほど見物する。

DATA:Data:RICOH Caplio R1

なんとチャイルドたち(チルドレンだ)のサッカーではコートが 6 × 2 の 12 面とれてしまうのであり、同時に 12 試合を見ることになる。どれくらいの年齢なのだろうと観察するに年中さんから年長さんあたりの歳に見え、幼稚園名を冠したチーム名もいくつかあるのでその辺に年齢制限があるのだろう。

DATA:Data:RICOH Caplio R1

年中さんから年長さんだとまだ物心がつききっていない子も多いようで、試合中に自分が何のためにここにいるのかを忘れてしまい、芝の上で横倒しになって「 ♪ いもむしごーろごろ」を始める子どももいる。子どもたちはスローインが大好きらしく、味方同士でスローインのボールを奪い合って喧嘩が始まり、審判が割って入ってジャンケンをさせたりしている。

自分の役割を認識するのもまだ苦手なようでポジション取りができないのはもちろんのこと、飛び出して来た味方キーパーと激しくボールを奪い合ったりする。「ボク」はあっても「ボクたち」という意識は希薄なようで組織プレーがまだ難しく、ゴールを決めてガッツポーズをして目立っている味方選手に口惜しいのかケリを入れていたりもする。

DATA:Data:RICOH Caplio R1 

ボールに 20 名の選手が群がって足で掻き出すような争いに終始し、倒れ込んだちびっ子が思わずボールを手で抱えてしまったりするわけで、英国ラグビー高校でフットボールの試合中にボールを手で抱えて敵陣に突進する選手が現れたという「ラグビー誕生の瞬間」に立ち会っているような興味深い光景も見られる。

それでも園児離れした鋭いドリブルや切り返しでサイドライン沿いを駆け上がるちびっ子が稀にいて、ゴール前で待ちかまえている(チャイルドにはオフサイドがない)もう一人の園児離れした相棒にパスを出してゴールを奪ったりするチームがある。

その二人を見ていたらカズと武田のあんちゃんを思い出し、試合終了後にコートに降りてチーム名を確かめたら『高部(たかべ)チャイルド』というチームだった。

もしかすると高部幼稚園の後輩かもしれない思うと妙に誇らしい。

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【砥鹿(とが)神社のおひまち】

【砥鹿(とが)神社のおひまち】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 16 日の日記再掲

宇宙と地上を頻繁に宇宙船が往復し、有人宇宙船が地球のまわりを周回し、好奇心と健康とケタはずれの財力さえあれば一般人でも宇宙旅行ができる時代になった。

地球の裏側に行ったら秘境があった! などという自慢話はたいがいの場所に人跡が満ちあふれてしまった時代にあっては驚くにあたらない。すでに秘境というのはわたしだけの世界の見方・感じ方というきわめて個人的な体験の中にしか存在しない気がする。そういう意味で、金と時間をかけて遠くへ行くより、思いがけないほど近所で見つける驚きやときめきこそが現代的な秘境らしい秘境であるような気がする。

遙か昔に『六甲山死の彷徨』を書いた筒井康隆や、『近くへ行きたい。秘境としての近所』を書いた久住昌之はえらかったと思う。

静岡県清水原、庵原中学近く、三池平古墳に隣接した砥鹿(とが)神社で行われる秋の祭礼に友人から招かれ、降り出した雨の中を訪ねてみた。友人が運転する自動車の助手席に座り、小芝八幡社、秋葉山神社、西久保を抜けるうちに鹿島神社、三和酒造などが薄暮の中を走馬燈のようによぎり、庵原中学脇の駐車場に着く頃はすっかり暗くなって雨脚が激しさを増している。

写真:砥鹿(とが)神社への参道。「うわ~」と思わず声が出た。美しい。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

外に出るとほんの少し清水市街地を離れただけなのにひんやりとした山里の空気が漂い、遠くから触れ太鼓の音が聞こえる。砥鹿神社の祭礼は相撲を中心に据えた祭りなのである。

長さ 68 メートル、昭和 31 年庵原中学北側のミカン山で偶然発見された前方後円墳三池平古墳に隣接した小高い丘に幟旗(のぼりばた)が立ち、境内に向かう参道に燈(あかり)が灯り、夥しい古墳群や遺跡の発見が相次ぐ不思議な地域への魂の誘導路になっている。

境内にあっと驚く立派な土俵があり、激しい雨を避けるために巨大なビニールシートが天を覆い、滴る雨と相まって、力士の熱気を祓い不浄の塵を払う天然の水引幕(大相撲の吊り天井下に下げられている桜の紋章入りの幕)のようになっている。

写真:雨除けの吊り天井兼水引。紐のようなものは寄贈された仕掛け花火。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

赤ちゃんの泣き相撲、小学生相撲、大人のしょっきり相撲、相撲甚句、砥鹿太鼓、小学生力士引退土俵入りなどが夜が更けるまで繰り広げられる。

写真上:赤ちゃん泣き相撲で赤ちゃんがつけている化粧まわしは、若くして亡くなられたお母さんの帯を友人が処分できずにいたものを地域の女性がリフォームしたもの。
写真下:行司も呼び出しもちゃんと地域の子どもたちがつとめる。
DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

土俵を中心とした祭りというのは面白い。

祭りの中心である土俵の上に参加者の精神が引きつけられ、見ている方も「おおーっ!」というどよめきに「おおーっ!」と反応してしまうし、まわし姿の子どもたちも熱が入って寒さを忘れて昂揚している。神聖な土俵なので礼を失すれば先輩である地域の大人や仲間から叱声が飛ぶし、地域の人が開いた夜店の食べ物でビールや酒をしたたか呑んでご機嫌な大人たちも、土俵上の子どもたちへの応援を忘れない。当番にあたって裏方を務める人々も緊張感を持って祭りの進行にあたっており、緩みがあるようでいて緩んでおらず、常にひとつの意図を持って均衡を保つような力が場を支配している。

DATA:SONY Cyber-shot DSC-F88

観覧者には『力餅』という白い握り飯が配られる。

「ややっ、これは美味しい!」(篤農家の多い地域だけあって新米の握り飯が飛び切りうまい)と頬張りながら考えるに、この祭りを食べ物に喩えるなら、うん、握り飯に似ているな。握り飯の中心には土俵という梅干しがあり、梅干しの中には児童健全育成という種があり、さらに種の中には地域の結束を大切にするため祖先が伝えてくれた知恵という天神さまが入っている!……うーん、だいぶ酔っぱらってきた。

写真上:かなりの熱戦に見ている方も力が入る。
写真下:砥鹿太鼓。手前の女性が幟旗や化粧まわしの縫子を務めた器用な酒豪。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

豪雨の様相を呈してきた土砂降りの中で子どもたちを見守る消防団の若者がいて、ビニールの吊り屋根に下げられた花火に火がが点火され、土俵上に降りしきる光のしずくを陶然として見つめる少女の姿が浮かび上がり、祭りは大団円を迎える。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX

来年もまた来たいなぁと、丸い土俵を眺めて思う。

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【清水の無意味】

【清水の無意味】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 5 日の日記再掲

静岡県清水浜田町。

県道 407 号通称南幹線から『チャンチャン井戸』方向へ折れたら空き地に奇妙なオブジェ(「シュールレアリスムが無意識に対応するものとして作品化した物体、あるいはその作品。ダダイスムが、がらくたを寄せ集めて作品とした動きの継承」広辞苑第五版より)が置かれていて「ああ清水!」と思う。

表通りにはラーメン屋、静岡おでん屋、寿司屋などが並んでいるその裏手なので、どこかの店の主が使っている道具だと思うのだけれど、どうしてこんな不安定な台にのせてこんな場所で西日にあてているのか、がわからない。

Data:RICOH Caplio R1

清水という街に暮らす人々はその辺にあったものを適当に使って当座の役に立てるというやり方が得意である。そして当座の役のつもりがずっとそのままになっていたりし、ひとことで言えば、いいかげん(標準弁ではいいかげん、清水弁ではええかげん)であることが多い。

誰かが薄い壁に長い八寸の瓦釘を打ち込んで箒(ほうき)をかけたら隣の家では突き出た釘の先にハタキをかけていた、みたいな粗忽(そこつ)者の長屋のような暮らしでありいいかげんと並んで粗忽(「あわただしいこと。あわただしく事を行うこと」広辞苑第五版より)という言葉もよく似合う気がする。

清水の街を歩くといたるところに素人の当座仕事が溢れかえっており、何年か前に聞いた静岡大学の先生の講演で「清水という街は昔から港町であり工業都市であるため手に職を持った人が多く、当座のことは専門家に頼らなくても自分たちで助け合って器用にできてしまう」と説明されていた。

家の修理や、公共物の管理などに器用な素人が大活躍する街であることはもちろんだけれど、暮らしの細部にまで老若男女を問わず見事にいいかげんで粗忽が浸透しているのを微笑ましく思う。そしてそれを好ましく思えるか思えないかが、この街を好きか嫌いかの分かれ目になりそうであり、僕は年を取るほどに好きになっていく。

いい年をした大人までがよく見ているときわめて意味不明なことを真面目くさってやっていることは合理性からも程遠く、無意識から来る無意味、ナンセンスの宝庫だと思う。そして住民は「ええかげんでええよ」「うっちゃっとけ」「とんじゃかないだよ」(ほどほどにして放って置いて気にしない気にしない)という態度を好ましいものとして大切にし楽しんで暮らしているようにも見える。

Data:RICOH Caplio R1

浜田小学校チャンチャン井戸を過ぎて細い路地を直進し、古道『志みづ道(しみずみち)』に入る。

右手には幼い次郎長が通った寺子屋(池の鯉をとって弁当箱に入れていたことで退学になった)のあった禅叢寺がある。都鳥兄弟を討つときはこの寺の竹を切って槍(やり)を作り『志みづ道』を追分までひた走ったという話しもあり、次郎長一家もその辺にあったものを適当に使って当座の役に立てるというきわめて清水っ子らしい粗忽者の集団だったのだろう。

その禅叢寺手前にあるマンションの名が『井柳フラワーハイツ』であることに気づいて「(あっそうか!)」と思わず笑いがこみ上げる。『井柳フラワーハイツ』の意味に「(あっそうか!)」と思わない人は余程の事情通で面白くも何ともないか、この地域のことを全く知らないかのどちらかだろう。
 
フラワーハイツのフラワーは多分 Flower =花であり Flower Heights =花屋敷なのだけれど、フラワーは一方で Flour =メリケン粉にかけられた洒落であり Flour Heights =粉屋敷でもあるのだ。なぜならこの土地は『井柳製粉』のものだったから。その製粉工場脇から近道をして清水市立第二中学に通っていたのだ。

意味がないことも、隠れた意味があることも、ともに楽しいいいかげんな街である。

【先輩の味】

10月1日の日帰り帰省、昼食は清水浜田町『かしの木亭』で『モツ炒め定食』を食べる。
 
『かしの木亭』の入口にはさりげなく手ぬぐいがかけられている日があり、そういう日は店主自ら早朝の漁船に乗り海に出て汗をかいて漁をし、新鮮な駿河湾の生シラスが入っているという合図なのだ。

朝とれの生シラスは午前中に食べるのが美味しい。生臭さが皆無であることに驚き、午後や夜のものは食べられなくなる。

『モツ炒め定食』
右奥が生シラス、真ん中の空いたところには味噌汁が来る。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

大好きな『モツ炒め定食』にも生シラスがたっぷりついてきたが、生シラスの漁があった時はいつでもこうなのか、中学の一年後輩へ先輩からのサービスなのかはわからない。

美味しくて美味しくてどんぶり飯大盛りをおかわりしたら追加分のお金を取らず、「ええよ」と言ったのでご飯は明らかに先輩のオゴリであり、やはり先輩というのは「モツ」べきものである。

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【西日の似合う季節】

【西日の似合う季節】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 4 日の日記再掲

久能海岸から久能山東照宮の石段に向かう道の右側に徳音院という小さな寺がある。

東京都台東区谷中に観音寺という寺があり、寺の周囲には土を盛り上げて塀にし屋根を葺いたいわゆる築地塀(ついじべい)があるのだけれど、土を盛るときに間に古い屋根瓦を重層的に挟み込んでおり、そういう塀を瓦塀(かわらべい)という。京都だと大徳寺、天竜寺などの禅寺の土塀にこの形式が見られるらしい。

瓦塀というのはたいそう美しく、谷中の観音寺の瓦塀前は時代劇撮影の背景に使われることが多く、テレビを見ていると呆れるほど頻繁に出てくるので笑ってしまう。

久能山徳音院前にも見事な瓦塀があるけれど痛みが激しく、このまま放置したらいずれは土に還ってしまうのではないかと心配になる。

谷中の観音寺もそうだけれど瓦塀というのは寺院が移転などで取り壊された際に屋根瓦を捨てずに再利用したものであることが多く、久能山徳音院の瓦塀はどこから持ってきたのだろうかと気になった。

境内に徳川の紋が用いられた小さな本堂がありそこに縁起が書かれていた。

なんと徳音院の開祖は家康以来三代将軍に仕えた南光坊天海(慈顔大師)なのだという。天海という人は仰天するほど長生きで生年が 1536 年で没年が 1643 年というから 100 歳以上( 108 歳で入寂説が有力)も生きたことになる。隆慶一郎の『影武者徳川家康』では天海は明智光秀だったことになっており、「天海=光秀説」というのは江戸時代からあり、非常に謎の多い人物である。

Data:RICOH Caplio R1

天海創建による久能山徳音院は江戸時代にはたいそう栄えたらしい。それがどうしてこんなに寂れてしまったのだろうと縁起を読んでいたらこんな風に書かれていた。
「家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました」
瓦塀の瓦は取り壊された山上の寺院のものかもしれなくて、何とも無念の思いが込められているようなすっきりしない文章である。

   ***

清水の街を歩いているとあちらこちらに彼岸花の赤が目に痛い季節である。

入院した母を静岡県立総合病院に見舞う道すがら、駿府城のお堀端に真っ赤な彼岸花が咲いているのを見て溜息をついたのが 2003 年の秋であり、県立静岡がんセンターに母を連れて行く自動車を借りるため宮加三に向かう柳宮通り大橋川端で彼岸花を見たのが 2004 年の秋である。

そして 2005 年の秋が来て、母の骨を納める墓が出来上がったので清水大内の保蟹寺に見に行ったら墓地の脇にも彼岸花が咲いていた。

Data:RICOH Caplio R1

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に向かうため、柳宮通りを歩いていたら梅田町の商家店先に貼り紙があった。

Data:RICOH Caplio R1

「長い間氷を買っていただきありがとうございました」

閉店の挨拶というのは切ないものだけれど、この最初のひと言に万感の思いが込められているようで胸に迫るものがある。

西日が眩しくて夕暮れに気づくようになり、ちょっとしたことで胸と目頭が熱くなる、困った季節の始まりである。

【清水駅】

清水駅は見事に真西に向いている。

興津を発車した東海道線は袖師を過ぎるあたりまで南西に走り藍染川を渡ったところで左にカーブし真南に進路を変えて清水駅ホームに入線する。

エスカレーターを上って清水を立ち去る者は背中に、エスカレーターを下って清水に帰ってきた者は真正面に西日を受ける季節になった。

Data:RICOH Caplio R1

10 月 1 日、日帰りで帰省して用事を済ませ清水駅ホームへ向かうためエスカレーターに乗りながら、とんぼ返りに西日はよく似合う、と妙に可笑しかった。

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【高い所で考える】

【高い所で考える】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 3 日の日記再掲

久能山東照宮へと久能海岸側から登る石段は 1159 段あり「いちいちごくろうさん」のねぎらいの言葉をかけたものだと地元のひとは言っているが真偽のほどは知らない。

くのう‐ざん【久能山】
静岡市東部、有度山南麓の山。標高 216 メートル。1616 年(元和 2 )徳川家康を葬る(翌年日光に改葬)。山頂に東照宮があり、南斜面は石垣イチゴの栽培で有名。補陀落(ふだらく)山。(広辞苑第五版より)

清水で生まれ育ったひとが久能山の 1159 段を上り下りする平均回数は一生のうちで何回くらいになるのだろう。

中学一年生の時に東京から遊びに来た小学校時代の同級生を案内して 1 回、高校一年生の時に写真部の撮影会で 1 回、そして今回が 3 回目であり、このあと余程のことがないと登りそうもないので一生に 3 回くらいかな、と思う。
 
他の地域から人を招待し、それが春だと久能海岸沿いのビニールハウスで栽培されている石垣いちご摘みに案内することもあるけれど、海岸から久能山を見上げ、
「あれが久能山、登り切ったところが徳川家康が葬られた東照宮。石段が 1159 段あってきついけど登る?」
と誘導尋問のように「きついけど登る?」を強調して聞くとたいがい
「登らない」
と言うのでホッとしたりするからだ。

石段の登りにかかる直前に案内板がある。

「ご参拝の皆様へ ここより当宮をご参拝の方は石段、一一五九段をお登り下さい。ロープウェイにてご参拝の方は日本平山頂へお廻り下さい。」

ここにもまた「きついけど登る?」を強調したニュアンスがある。

写真上:大鳥居下の石段の始まり。

写真下:中学生の時も高校生の時も 1159 段あるか数えてみようと思いつつ忘れた。今回は忘れなかったけれど息が上がってそれどころじゃない。

Data:RICOH Caplio R1

きついけど登ってみると良いこともあり、たかだか標高 200 メートルちょっとの高みへ登るだけだがなかなかの絶景である。

子どもの頃、東京タワーの大展望台に上り、目も眩むような絶景に歓声を上げたことがあるけれど、あそこの高さは 150 メートルである。通天閣展望台に立って「お金払ってでも登って良かった、大阪の街が一望だもんなぁ」と感動しても高さは 91 メートルだった。

武田信玄が敵の水軍の動きを見張らせるために古刹を移転させて築城したという動機も頷けるし、死んだら久能山山頂に立った状態で埋葬しろという家康の遺言は、立っていた方が景色がよく見えると思ったからだろうと思う(本人は見張って守るためだと言っていたらしい)。

写真上:雨の日と夜間でなければ沖を行く船を見張るには最高だ。

写真下:1159 段はきついけれど、あまりの絶景に立ち止まることが多いので、意外に高齢者も登れてしまうのかもしれない。

Data:RICOH Caplio R1

ひどい閉所恐怖症なので狭い場所に閉じこめられるのは死ぬより辛いと思うのだけれど、高い場所に登ってみたら高所恐怖症でもあることを実感した。

写真上:大手門から先は海への絶壁であり、走って飛び出す気にはなれない。

写真下:柵に寄りかかる自分を想像しただけで鳥肌が立って足がすくむ。

Data:RICOH Caplio R1

1159 段の石段には絶景の眺望ポイントがいくつもあるのだけれど、そういう場所には必ず「危険!」の注意書きがあって見た途端に足がすくんでしまい石段の山側を歩いたりする。

きっと高い場所と人の上に立つことの、どちらにも向いていないのだろう。

【ドキッの理由】

突然人に出くわし、その人が何をしているかわからないことは、人を一瞬ドキッとさせる。

だから「ドキッ」とされたくないときは「私は○○をしてるんですよ」とわかるような仕草をしたり服装をしたり小道具を持ったりするのだと思う。

山奥の登山道を歩いていて登山者や木こりや山伏の格好をした人にあっても驚かないけれど、礼服を着た男や海水パンツ姿の男が突然現れたらドキッとするのは当然として、登山者や木こりや山伏の格好以外の人に出会うとやっぱりびっくりする。

山道は上るか下るかに使うものなので、上ったり下ったりする人とすれ違っても驚かないけれど、立ち止まったりうずくまったり寝ころんだりしている人に出くわすとやっぱりびっくりすると思うのだ。

1159 段の石段を下っていたら巨大な古木が生えている場所があり、そこからの眺めは高所恐怖症者は目が眩み足がすくむような絶景なのだけれど、崩落の危険のある石の柵近くのベンチの上に立ち、向こうを向いたままじっとして何をしているのかわからない男がいてドキッ!とした。

ドキッ!とさせられて腹が立つので、後ろからそっと近づいて

 

「ワッ!」

 

と大声で怒鳴ってやったらきっとドキッ!とする間も無く谷底に落ちていくと思う。

そういう「してはいけないこと」をする自分を想像してしまうのも「ドキッ!」とする理由のひとつであるような気がし、だからドキッ!とさせないように気をつけながら人は生きるのだ。

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【勘介井戸】

【勘介井戸】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 2 日の日記再掲

本名山本晴幸、通称山本勘介は勘助とも菅介とも書き、「かんすけ」という名前の読みこそが重要だった時代の人なので、あちらこちらで異なった表記に出会う。

2007 年(平成 19 )放送予定の NHK 大河ドラマは井上靖生誕 100 年を記念して山本勘介を主人公にした歴史小説『風林火山』が原作となる。

郷里の久能山に『勘介井戸』という古井戸があり、武田氏が水防の要とした天然の要害の地である久能城に勘介が掘ったとされている。

「永禄十一年十二月( 1568 )武田信玄は当山が要害の地であることを知って寺院を清水北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。天正十年( 1582 )武田氏が滅亡したので徳川の有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである」(久能山解説板より)

写真上:1159 段の石段を登り切ったあたり。勘介井戸はこんな高所にある。駿河湾越しに伊豆半島の先端が見える。

写真下:勘介井戸全景。
Data:RICOH Caplio R1

10 月 1 日、母の骨を納める墓が出来上がるというので朝一番の特急ワイドビュー東海 1 号で帰省し、あれこれ用事を済ませてちょっと時間があったので気になっていた久能城跡に登ってみた。母の介護帰省のついでに自転車を漕いで寄り道というにはちょっと遠すぎて、だいいち海岸から 1159 段の石段を上り下りしなくてはいけないのである。

1159 段の石段を登り、大手門をくぐり左手に隠し郭跡を見てちょっと登ると左手が二の丸(現ロープウェイ発着場あたり)、右手の高台に勘介井戸がある。

山本勘介の顔を想像すると僕はすぐに NHK 大河ドラマ『武田信玄』( 1988 年)で西田敏行が名演した勘介を思い出してしまい、西田敏行のシリアスな演技者の一面は今でも好きだ。

『勘介井戸』は深さ 108 尺( 33 メートル)もある。
その奈落の底を井戸端から身を乗り出して覗いてみたいのが人の情だが、覗き込む振りをして敵の間者に毒などを投げ入れられては困るので、知略に富んだ軍師だった山本勘介は井戸を石垣積みとし、分厚い板で覆いをし、鋼鉄製の格子をかぶせ、さらにその上に小さなガラス張りの有料覗き窓を作って井戸の中を覗けるようにした。33 メートルもある深井戸に覆いをしてしまい、しかも覗き窓は人ひとりの両眼で覗ける程度の大きさしかないので、ただ覗き込んでも漆黒の闇が見えるだけである。

写真上:軍資金収集機。手前の長方形の四角い硝子が覗き窓。右に銃弾の痕が生々しい。

写真下:タダ見の結末。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

見えそうでいて見えないと見たくてたまらなくなるのが人にとりついて離れない《覗きの魔》というものであり、そういう人のために 100 円硬貨投入口があって、100 円玉を入れるとちょっとの間だけ内部に照明が灯るようになっている。

そのような誘惑に負けて投入された 100 円玉は、武田軍の貴重な軍資金となるという勘介らしい仕掛けになっている。100 円の軍資金が惜しい敵の間者はストロボ付きのカメラを硝子窓に押し当て、発光させてシャッターを切り「国元に帰ってあとでゆっくりと見よう」などと考え、仕上がったサービス判の写真に井戸の内部構造が写っていないのを確認して地団駄踏んだのかもしれない。

デジカメの時代なので「あとで」などと言わずにすぐに見られるので試してみたら、コンパクトカメラ程度のストロボでは到達距離が足りないのか井戸の縁とクモの巣程度しか写らないことがわかった。

写らないとどうしても撮影したくてたまらなくなるのも人の情であり《覗き撮りの魔》なので、まんまと術中にはまって 100 円玉を投入してしまう。内部で明かりが灯った気配がするので覗いたら確かに奥まで見えた。

写真:100円投入後。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

「(だからどうなんだ!?)」
と自問自答するとき、背中の方であまり好きではないコミカルな演技の西田敏行が、山本勘介の扮装をしてニヤッと笑った気がした。

【風林火岩】

武田信玄の軍旗に書かれた孫子の「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」の略であるところの「風林火山」のパロディで、「動かざること仏壇の如し」とした「風林火壇」が可笑しいと日記に書いた。確かに仏壇は重くて動かすのが容易でないが、墓石というのも相当重いことをあらめて知って驚いた。

写真:清水大内。曹洞宗保蟹寺(ほうかいじ)の墓地に続く道。振り向くと真南に日本平のテレビ等が見え、その裏側に久能城跡があり、その向こうが駿河湾、その向こうに母の生まれた伊豆半島がある。

そろそろ母の墓石の設置が終わった頃かしらと寺に行ってみたら大の男が 4 人がかりで「ウンウン」唸りながら設置している最中だった。小型のクレーンや、キャタピラ付き運搬車も動員し、最後は丸太のコロを並べて男たちが怒鳴りあうようにして汗だくの作業をしている。

写真:大男なら一抱えにできそうな大きさの墓石だが、岡山産の火成岩は大人 4 人がかりでも持ち上がらないほどに重い。
Data:RICOH Caplio R1

「動かざること仏壇の如し」は「動かざること墓石の如し」とも言い換え可能であると知り、「ありがとうございます、お疲れ様でした」と設置を終えた興津甲州街道沿いからやってきた石屋と墓石に深く頭を垂れてお礼する。

 

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