【地縁】

【地縁】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 29 日の日記再掲)

地縁血縁とのつながりを嫌って東京暮らしをしている親戚や友人もいるけれど、僕はさほど「地縁血縁シガラミ田舎暮らし」が嫌いではないし、東京周縁部で一見小洒落た「無味乾燥漂流者社会」を形成している「地縁血縁嫌悪型東京移住者」たちが嫌う「東京下町的地縁血縁社会」も嫌いではない。

毎週末の介護帰省というリズムができてくると、実家の近所でも、週末になると現れるヘンな息子が目につくらしく、近所のご主人が意を決したように声をかけてきた。
「どうしていつもカメラを下げてるの?」
インターネット云々の説明が面倒なので、
「あ、これ?写真撮るのが大好きだから」
と当たり障りのない返事をしておいた。

そうしたら今度は実家に訪ねてきてドアを叩き、
「鳥は嫌い?鳥の写真を撮らない?」
と聞く。ご主人は町内でも評判の野鳥好きであり、週末になると山に入り、元気な頃は母もよく連れて行ってもらったらしい。一緒に山に行き、あなたは野鳥の写真を撮らないかと言うのだ。

思いがけず、野鳥の先生とともに『清水野鳥ノート』がインターネットで綴れるチャンスであり、母の介護帰省でなかったら大喜びでついていきたいところだけれど、事情が事情なのでやんわりと辞退する。

地縁の輪に加わるのは転校に似ている。
東京の小学校を卒業して生まれ故郷静岡県清水の中学に入学したら、クラスは清水で生まれ育った浜田小学校と岡小学校の卒業生で二分されており、誰も友達のいない不安な登校初日を迎えた。

 

放課後船越方面から通っている二人組に声をかけられ、
「山に芋を掘りに行かないか?」
と言う。ゲームセンターに行かないか、ではなく山芋掘りというのが「ああ清水!」で嬉しく、生まれて初めての芋掘り体験をさせてもらった。それをきっかけに地域を引き回され、友達も増え、13 校連合運動会の応援団にも入れられ、あっという間にばりばりの清水弁を話す清水っ子になっていった。

地域で暮らせば、山に鳥の写真を撮りに行くなどという思いもかけない誘いで親しくなり、一緒に隣組や町内会の活動にも加わり、地域の運動会にも参加し、廃品回収を手伝い、ドブ掃除をし、消防団や自警団に加わって夜回りもしたりして、やがて地縁社会に加わっていくのだろう。

ああ、そういうのも悪くないな、と思える年齢になってきた。

帰省するたびに久能街道沿いのお気に入り農家でみかんを買い、最近はお世話になっている方々への地方発送もお願いしているので、農家の家族とも気脈が通じてきた。
「どこからいらっしゃる?」
「東京から」
「毎週帰って来られる?」
「母が末期がんでひとり暮らしなので」
「お母さん何歳になられる?」
母の病気のおかげでできた友人も多い。

東京へ戻る土曜日の朝、自転車で立ち寄ったら、
「今日東京へ帰られる?」
「午後1番で」
「自動車で帰られる?」
「最近は疲れ気味なのでもっぱら電車で」
「だったら東京に大根を持っていって」
「だったら」の理由が逆のような気もするけれど有り難く頂戴する。

これで大根をリュックサックに入れての帰京になってしまったけれど、自転車の籠に入れた大根が妙に嬉しく、少し遠回りして実家に戻る。

風を切る大根の葉は、ささやかではあるけれど地縁社会の小旗のようにも見える。

写真上段:自転車を走らせていったら川があらわれ親水公園になっていた。美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋が面白いと言っていた常念川上流かと思ったら、白貝谷に源を発する大橋川であり、住所は沼田町になる。
写真下段上:大橋川の水面にも落ち葉が降りしきる。
写真下段下:久能街道沿いの農家でいただいた大根。
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【曽祖母の菓子櫃―8の字―】

【曽祖母の菓子櫃―8の字―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 28 日の日記再掲)

全国どこでも、いや全国などと欲張らずともせめて生まれ育った地域で、当然のように通用すると思いこんでいた言葉が通じないと知った時は、びっくりするし少し寂しかったりもする。

わが家では幼い頃からお菓子を入れる蓋付きの容器を菓子櫃(かしびつ)(※)と呼び、それは漆塗り菓子器のの模造品だったり、時には蓋付きの一斗缶だったり、後年は大きめのタッパーウェアだったりした。

お菓子は菓子櫃にしまうものと思いこんで育ったので、僕にとって菓子を入れる容器はみな菓子櫃なのだけれど、菓子櫃という言葉を使うと笑われたりし、ほとんど通じないことに驚く。インターネットで菓子櫃を検索してもほんの数件しかヒットせず( 2004 年当時)、そのひとつは自分の日記である。伝統工芸品に「菓子櫃」の名があるので、そういう言葉がないわけではなさそうなのだけれど。

いまは亡きわが祖父は、事情があって親にうっちゃられた(捨てられた)という哀しみを一生持ち続けた人で、生母は近所で 100 歳近くまで健在でひとり暮らししていたが、息子として会いに行くことはついになかった。

祖父の生母、僕にとっての曾祖母になるわけだが、90 歳を過ぎてのひとり暮らしともなると家も人も老朽化するわけで、祖父母が住む家を継いだ叔父が出掛けていっては何かと世話をしていた。祖父が命じたのかどうかはわからないけれど、曾祖母の援助をしていることは当然祖父の耳に入っていたと考えるのが自然で、息子を通じて間接的に一応の孝を尽くしていたのかも知れない。

曾祖母の家を訪ねる叔父についていくのが幼い頃の僕の楽しみで、曾祖母は曾孫の顔を見るとたいそう喜んで、暗い奥の間から菓子櫃を持ってきて菓子皿に干菓子を入れてくれた。僕はそれが何より楽しみだったのである。

曾祖母が菓子櫃に入れていたお菓子で懐かしいものの一つに『8の字(はちのじ)』というものがある。小麦粉・砂糖・卵・植物油脂を原材料にした焼き菓子で、「まるぼうろ」や「玉子パン」にも似ている。ほのかに甘く、年寄りは噛まないで口の中でふやかして食べられると喜んでいたものだった。清水の友人たちには当たり前のように『8の字』で話が通じるのに、東京暮らしになったら昔懐かしい思い出話の場で『8の字』の話しが通じなくて不思議に思っていた。

母の介護帰省をしてまず最初にする片付けものの一つに頂き物のチェックがあり、母が食べるか食べないか、とっておくことで母の心の負担になるかならないかを確認するのだけれど、お見舞い品の中に昔懐かしい『8の字』の袋を見つけて驚いた。なんと『8の字』は静岡銘菓だったのであり、静岡市にある『カクゼン桑名屋』(※)の登録商標だったのだ。ということは静岡県外では余程の物知りでないと通じないローカルなお菓子だったということになる。

しみじみと『8の字』の袋に見入っていたら母が「食べたいか?」と聞くので、貰えそうとわかって思わず笑顔で「食べたい」と言うと「あげるよ」と母も笑顔になる。

実の息子である祖父が会いに来ない寂しさもきっと曾祖母にはあったのであり、かわりに孫と曾孫が訪ねて来て菓子皿の『8の字』に微笑む顔を見て心和み、いつも「菓子櫃」を干菓子で満たして心待ちにしていたに違いないと今になってみればしみじみ思う。

丸い小さな背中で「菓子櫃」を抱えてくる曾祖母の姿が目に浮かぶと、祖父の分だと思って、もっと何度も会いに行ってやれば良かったなと思う。そして母が年老いてひとり暮らしになった今、いい年をしたオヤジになっても母親に菓子をねだるというのは小さな親孝行なのかも知れないな、と母の「菓子櫃」を見て思ったりする。

干菓子の入った「菓子櫃」はしわくちゃになった乳房に似ている。

※ひつ【櫃】:什器の一。大形の匣(はこ)の類で、上に向かって蓋の開くもの。長櫃・韓櫃(からびつ)・折櫃(おりびつ)・小櫃・飯櫃などがある。(広辞苑第5版より)
※『カクゼン桑名屋』
静岡県静岡市森下町1-39
Tel. 054-285-7668
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【東海3号】

息を切らして飛び乗った『特急ワイドビュー東海3号』静岡行き。
前席シートカバーにあるポケットはキップ入れだと教えてもらったので早速入れてみる。特急券が買えなかったので 130 円のキップで乗車し清算用の 5,000 円札も一緒に入れる。「東京山手線内→清水」が 2,810 円、特急券「東京→清水」が 2,100 円であり、10 円を添えると 100 円おつりが来る。

東京駅を出た東海3号静岡行きは “ Ambitious Japan ” と書かれた新幹線のぞみ号を抜き去る。「(おっ、早いぞ東海 3 号!)」と嬉しくなるが、のぞみ号は品川の車庫に向かう回送列車なのであり、霜月の東海3号は夕日を追うように西へ向かう。

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【街の化石】

【街の化石】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 27 日の日記再掲)

週末介護帰省帰りに、清水銀座、中央銀座と抜けて国道 149 号線さつき通りに折れたら、工事現場で化石が出土していた。

昭和 8 年、路面電車が東海道線を跨ぐ跨線橋として架橋された清水橋は、昭和 30 年に拡幅されて自動車も通れる橋になった。東海道本線下り列車が清水駅ホームを離れるとすぐに、橋の上を路面電車が轟々たる音を立てて渡って行く、奇妙に美しい景色を記憶している人も多い。

その清水橋の架け替え工事が始まり、片側2車線を確保して半分ずつ行われる架け替え作業も後半に入り、いよいよ海側に残された“路面電車が走っていた頃の清水橋”が完全に姿を消すことになった。

思えば 1974(昭和 49 )年 7 月 7 日、台風 8 号に刺激された梅雨前線による七夕豪雨で大水害が発生し、路面電車が廃線になった時点で、僕にとっての清水橋との長いお別れが始まったのであり、今こうして完全に姿を消そうとする姿を見ても、胸にこみ上げるような哀切の念はもう残り少ない。

それでも重機で粉砕されていく清水橋を見た瞬間に、枯れ果てたかに思えた哀しみで胸が痛むのは、物心ついてから親子で、親類縁者とともに、そして夏の清水みなと祭りでは大勢の清水っ子とともに、何度となく渡った思い出があるからである。

母と清水橋を徒歩で渡った最後のみなと祭りの夜、ちょうどこの辺りで美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋や辻町の女性建築士達が加わった市民総踊りの連と遭遇し、ビールで乾杯し、記念写真を撮った思い出もある。

昭和 30 年に拡幅された際に、セメントとともに封印された小石たちが、路面電車と自動車と無数の清水っ子の足という暮らしのの歴史で踏み固められ、いま化石となってぼろぼろと足元に落ちていく。

大きめのやつを拾い上げてリュックサックに入れるとずしりと重い。

これから運良く数十年も生き延びられたら、きっと改めて胸にこみ上げるような哀切の念とともに見つめるかも知れない、小さな個人的文化遺産である。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

【鯛の化石】

友人のサイトでで紹介されていた鯛焼きを買いに行く。食欲のない母も、そういう鯛焼きなら食べてみたいという、有り難い逸品である。

岡小の校庭脇を抜け、 わが母校二中の校庭裏を抜け、友人のサイトを読んでいなければ、この先で鯛焼きが焼かれているなどと思いもしない場所に『大塚ストアー』はあった。

鯛焼き器の横にはおでんの鍋もあり、昼時だったので少女を連れたお母さんがやってきて、「お昼はおでんでいいよね」と少女に言い、「おでん、ここで食べていきます」とおばあちゃんに声をかけた。

「合わせ」が緩んでしまって衣がはみ出してしまう焼き型も、おでんの前の長いすに腰掛けて嬉しそうな母娘も、おばあちゃんの働く姿も写真に撮って来たけれど、インターネットなどに貼りつけられない、他人の干渉を許さない各個人の私生活上の自由 が横溢する美しい光景だった。

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【ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード】

【ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 26 日の日記再掲)

道、とくに思い出の中の道は伸縮自在で、短かったり長かったり、真っ直ぐだったり曲がりくねっていたりする。
 
それはとてもありがたいことで、毎週末母の介護帰省をし、隔週ごとに静岡県立がんセンターに付き添い、いつ果てるともない曲がりくねった道の先を思って暗澹とするとき、これまでの長い苦闘の歳月が振り返れば瞬く間に過ぎ去り真っ直ぐここに繋がっていたように思えることで励まされたりするのだ。歴史は振り返るその人が個人的につくるものだ。

清水港波止場近くに「CAN」のマーク、東洋製罐の工場がある。
僕にとって「ああ清水!」と思えるランドマークの一つが東海道本線の上を路面電車が渡っていた旧清水橋だったのだけれど、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋にとって「ああ清水!」のひとつは、波止場から見える東洋製罐の工場なのだという。

相良工場への移転準備も整い、完了後は早晩消えゆくかもしれない東洋製罐の工場を、記録しておいてくれと頼まれた。あまりなじみのない東洋製罐清水工場の場所を魚屋に確認し、波止場に向かって歩くとき、このあたりで少年時代を過ごした人たちにとって、いつか建物が失われても、長く曲がりくねった永遠に続くアプローチのように見える道はどれかしらと、ゆっくり行きつ戻りつし、一番好きなアングルでシャッターを切った。

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【チャンチャン井戸】

【チャンチャン井戸】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 24 日の日記再掲)

水事情、とくに水道水に関する事情は複雑で、
「東京の水道水は飲めたもんじゃない!」
などと言うのは無礼なことであり、
「○○区○○町○丁目○○番地○○号に建つ築 30 年のマンションで地下貯水槽に溜めた水を、古びたモーターと錆びたパイプを使って屋上の 2 次タンクに汲み上げ、再び錆びたパイプを使って各部屋に配水している水道水は飲めたもんじゃありません」
と言わないと厳密性に欠ける。

同じ地域の一軒家では、地下に埋設された水道管の事情によっては、同じ東京の水道水かと驚くほど味に差があったりするのであり、ある人が「飲めたもんじゃない」という水を「飲めている」人もいるのである。おそらく同じ地域で 10 軒の家庭の水道水を持ち寄って飲み比べたら、サントリー『南アルプスの天然水』とサッポロビール『谷川連峰の天然水』の飲み比べ以上に歴然とした差が出ると思う。

清水浜田町。浜田小学校校庭脇の細道にひっそりと古井戸があり、その名を『チャンチャン井戸』という。あまりひっそりとあるのでなかなか気づかず、僕も美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋も、浜田小学校脇の菜園内にあるコンクリート製モニュメントを『チャンチャン井戸』と間違えたりするのだ。

浜田地区町づくり推進委員会が昭和 58 年 3 月『チャンチャン井戸』脇に設置した解説板には次のように記されている。

「このあたり(旧上清水村)は、昔から水の少ないところで、掘井戸にしても、しぶみがあって飲み水には適しませんでした。今からおよそ八百年ほど前に、この地に流れついたひとりの旅の僧が、疲労で倒れていたのを村人が助けました。僧は恩返しにとチャンチャンかねをたたき経を唱え、村人が困っている水を探し歩きました。ある日、僧が示した場所をみんなで掘ると、突然その穴から水がわき出しました。喜んだ村人はこれを「チャンチャン井戸」と呼ぶようになりました。この井戸の水は清く飲み水によいため、遠くからも水くみにきました。「清水」という地名も、これから起こったとも伝えられています。」

弘法大師空海はどこへ行くにも独鈷(どっこ)を持っていたそうで、全国には弘法大師が独鈷の先で地面を突いたら湧出したという説話を持つ清水や温泉(ドッコの水・ドッコの湯)が膨大にあり、もしかすると『チャンチャン井戸』を発見した際の音は鐘ではなく独鈷で地を突く音であり、旅の僧は弘法大師だったのではないか、などと思いたいところだが、浜田地区町づくり推進委員会の記述は「八百年ほど前」になっているのでその可能性は薄い。

「掘井戸にしても、しぶみがあって飲み水には適しませんでした」とあるが、800 年も昔、人類によるひどい環境破壊もなかった時代、同じ地域の井戸水にそんなに差があったのかというと、たぶん確実にあった。
 
祖父母の営む瓦工場は能島(大内と書いても郵便物は届いた)の巴川沿いの低湿地にあり、水道は引かれていなかったので井戸を掘ってモーターで水を汲み上げていたのだけれど、その井戸水がひどかった。冬場はまだしも、夏は一旦湧かした湯冷ましでないと飲ませて貰えなかったし、東京に戻ると「なんて水道の水は美味しいのだろう」と小学生が歴然たる差を感じて感動するほど不味かったのである。

清水の海側市街地から西へ向かうと必ず緩やかな坂を上る。海側を「浜清水」、西側の小高い地域を「岡清水」と呼ぶ。

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋で買い物をして入江南町の生家に帰るにはどこかで坂を上らなくてはならず、矢通りから梅陰寺門前をかすめて一気に久能道に出ることが多かったのだけれど、最近は魚屋に教えて貰った『江川歯科医院』脇を抜けて福厳院、禅叢寺門前を通る『志みず道』を通ることが多い。昔の人が踏み分けたルートは今も一番楽なのだ。

この福厳院、禅叢寺と上清水八幡神社にそれぞれ井戸があって「元井戸」と言い、そこに湧き出る水を「岡水」と呼んだ。『志みず道』が禅叢寺山門にぶつかって右折し、ちょっと進んで上清水八幡神社方向へ左折するのだが、直進する細道があって浜田小学校脇に出る。その道沿いに『チャンチャン井戸』がある。

浜の人たちは桶持参で汲みに行ってまでして美味しい水を「岡水」に求めたのであり、それはサントリー『南アルプスの天然水』とサッポロビール『谷川連峰の天然水』を飲み比べるような贅沢だったわけではなく、「飲めたもんじゃない!」という水を飲んだ者にしかわからない、つましいけれど切実な願望だったのかも知れない。

写真小:禅叢寺門前を右折した『志みず道』。この道は緩やかに「岡清水」への登りになる。先の角で左折すると上清水八幡。細道を直進すると『チャンチャン井戸』がある。
写真大上:道と民家をつなぐように残っているのも微笑ましい。
写真大下:『チャンチャン井戸』には花が似合う。ベゴニア・センパフローレンスだが、自然に生えたのだろうか。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

【禅叢寺】

元井戸の一つがある禅叢寺山門。この日は剪定の庭師が入っており緑が『志みず道』まで薫る。

幼い頃の次郎長がここの寺子屋に入れられ、元井戸の水を使ってかどうかは知らないが、池で住職が飼っていた金魚に悪さをしたことにより退学処分になっている。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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【くだらなさ礼賛】

【くだらなさ礼賛】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 22 日の日記再掲)

「くだらない」は大切だ。

漢文の授業で「読み下し文」というものを初めて知ったが、声に出して読んでも意味を解せなければ「下す=通じる」ことにならず、「読み」そして「下す」からそこに意味が生じる。読んでも下せないものが「くだらない」の語源であり、「くだらない」はパソコンの喩えで言ったらフリーズ、どちらかというと時計が回りっぱなしの無限ループに似ているような気もする。

期せずしてそうなってしまうことはあっても、くだらない状態を意図して作り出すのはなかなかに難しいので、本当にくだらないものは良質のナンセンスとして非常に高度な状態にあるのだと思う。

下り東海道本線、特急ワイドビュー東海1号の自由席には真白い座席カバーが掛けられている。

前席から折り返されたカバーを見ると左端に小さなポケットがあり、以前から何のためのポケットか気になっていたのだが、通路を挟んで反対側の席に座ったいかにも旅慣れた女性が、切符と千円札を折りたたんだものを入れていて、見た瞬間に感心した。

感心はしてみたものの、何のためにそうしているのかなぁと、ぼんやり考えていたら馬鹿馬鹿しくなって、くだらなくていいなぁと心安らぐ。なんとなく、次回の帰省では真似をしてみたい不思議な行為である。

ポカポカと暖かいJR清水駅に降り立ち、駅前ロータリーを歩いていたら、まだ 10 時前なので「 ORIENTAL 書店」もシャッターを下ろしていたが、シャッターに自動販売機の原寸大の絵が描かれているのに初めて気づき、くだらなくていいなぁと感心する。しばらく写真を撮ったりして細部を眺めていたけれど、「だからなんなんだ」という気がして実にくだらなくていい。

わが郷土清水には「オダックイ」という言葉があり、こういうくだらないことをする人間をオダックイというのだけれど、どちらかというと褒め言葉に近い。くだらないことを尊ぶ町というのは緩みがあって良い町だ。

「くだらない」は判断中止であり、断定の保留であり、あらゆる意味からの自由であって、カタカナ言葉で言えばエポケーであり、そんな難しい言葉を使わなくても、清水には昔から「うっちゃっとく」「とんじゃかない」という同義語が宝物として存在するのだ。

この異様に風光明媚な郷里に何かを望めるとしたら、永遠に良い意味でくだらない街であって欲しかったりする。

[Data:KONIKA MINOLTA DiMAGE Xg]

【本日のまとめ】

▼ 電車座席カバーのポケットはそもそも切符を入れるためにある。
▼ ORIENTAL ビルの上にはかつて『スカイルーム』という海の見える喫茶店、そしてビアホールもあった。
▼ この書店のシャッターの絵を描いたのは清水東高校の生徒たちである。
▼ ORIENTAL ビル裏(脇)にある居酒屋『正雪』は蔵本直営ではない。
▼『正雪』の上にある中華料理『珍華楼』のラーメンはさっぱり系細麺の絶品である。

●教えてくれたオダックイで物知りで親切な友人たちに感謝。
2004 年 11 月 23 日 火曜日 5:52:28 PM 追記

【この街のかたち】

「下北半島は、斧のかたちをしている。斧は、津軽一帯に向けてふりあげられている」(寺山修司)

「三保半島は、ゲンコツのかたちをしている。ゲンコツは、清水一帯に向けてふりあげられている」(石原雅彦)

[Data:KONIKA MINOLTA DiMAGE Xg]

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【「はい」のある倉庫街】

【「はい」のある倉庫街】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 21 日の日記再掲)

清水日の出町。東洋製罐の工場が移転するそうで、「いずれ工場の姿も見られなくなるかも」と聞いたので介護帰省の合間を利用して写真撮影に出掛ける。

何よりもコストが重視される時代になり、とにかく 1 円でも安いことを競うようになったので、市町村合併の末に政令指定都市への移行が決まる裏側で、事業所税が上がることをきっかけに、清水古参の企業が消えていく。

製品のストックに倉庫は欠かせないわけで、倉庫代を安くするために効率重視が求められるのか、最近の倉庫は味気ない箱形が多い。巴川河口へ向かう倉庫街を歩いていたら、瓦屋根の懐かしい倉庫群があり、昔から何度も見ているはずなのに、切なくも美しく見えてきて、時代がそうさせるのか、単に自分が年をとったせいなのか、と考え込んでしまう。

富士ロジテックの所有する倉庫群らしいのだが、ひとつひとつに「はい作業主任者の職務」と書かれた小さな注意書きが掲示され、その古びた板に書かれた内容に興味を引かれる。

ここでは「はい作業」というものが行われ、それを「はいくづし」と呼ぶらしい。「はい」には崩落の危険があり、作業箇所が 1.5 メートルを超える場合「はい作業主任者」は安全確保の職務を的確に果たさなければいけないという。

撮影を終え、巴川河口にかかる羽衣橋を渡り、幸町、松井町を経て美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋へ。
「日の出町に昔ながら瓦葺きの倉庫群があって、あそこでは『はいくづし』という作業をしてるらしいけど『はい』って何?」
と尋ねると、
「ハエ作業?」
などという空っとぼけた答えが返ってくる。この魚屋は学生時代優秀なサッカー選手だったので、話をかわすフェイントも巧みで侮れない。博識の魚屋も『はい作業』を知らないらしい。

知らないらしいので、
「思うに、昔は畑に『灰』を土壌改良の肥料として撒いたので、大量に輸入した灰を倉庫に積んでおいて、少しずつ取り崩しては出荷してたんじゃないかな」
などといい加減な仮説を立て、
「誰かに聞いておいてね」
などと頼んでみた。

かつて電器メーカーに勤めていた時、輸出用コンテナの資料を読んでいたら「さいすう」という聞き慣れない言葉が出てきて、「さいすうを決めよ」などと書かれていて首をかしげ、積載するわけだから積荷の数で「載数」なのかなぁと調べてみたら、「さいすう」は昔の人が Size(サイズ)を日本語として取り入れたものらしいことがわかった。

どうも物流用語は一筋縄でいかないので気になって仕方なく、帰京後インターネットで検索し、「はいくづし」ではヒットしないので「はいくずし」で調べたら「はい作業」とともに膨大にヒットした。

「はい」というのは、袋物、箱物、木材等の「倉庫や空き地に積み重ねられた荷の集団」を指し、「はい作業」とは、荷を一定の方法で積み上げたり(「はい付け」)、積み上げられた荷を移動するために、荷をくずしたり(「はいくずし」)する作業なのだそうで、現在でも物流業界では当たり前に使う言葉らしい。

なるほど、倉庫街でフォークリフトを使い、バレット上にのせた荷をトラックに積み下ろししているが、あの仕事を「はい作業」というのかと胸のつかえがちょっとだけおりた。

最後に残る疑問、「はい」は「ハエ」であるという魚屋のフェイントはかわすとして、「はい作業」の「はい」の語源は何なのだろう。

写真上段上:巴川河口を羽衣橋から眺める。黄昏時が近づき沖から釣り舟がひかれて戻る。
写真上段下:日の出町の瓦葺き倉庫群。
写真中段:「はい作業主任者の職務」
写真小:通りを挟んで両側に瓦葺き倉庫群はある。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

【はい】

「はい」はおそらく英語で High もしくは Height ではないかというアドバイスをいただいた。建築で「たっぱ」といえば Top なのだそうだ。また、友人が不知火海で乗せてもらった漁船では、前進を「ごへい」、後退を「ごすたん」と呼んでいたそうだ。その時は方言だと思って気にも留めなかったのだけれど、後年北陸のダム工事現場で、土木関係者が「ごへい」「ごすたん」を使っていて驚いたという。どういう意味かと尋ねたら、昔からそう言うが、多分「 Go Ahead 」と「 Go Astern 」ではないかと言っていたそうだ。海事用語と土木用語が重なるのも面白い。
2004 年 11 月 23 日 火曜日 追記

「はい」は「はえ」であり、「掽」と書いて動詞「はえる (掽)」の連用形が名詞化したもの、木材や米俵などを積み上げた山、またそれを数えるのにいうのだそうだ。「はい」は日本語だった。
2021 年 5 月 20 日 水曜日 追記

【船とカモメと富士山と】

波止場に港内遊覧船が戻る。家族を捨てて船で海外に逃亡するような気分で港内遊覧船に乗って見たくなる。

雲の合間から富士山の先っぽだけ見えているというのも、何となく恥ずかしくて照れ臭い。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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【清水でゴミを考える】

【清水でゴミを考える】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 19 日の日記再掲)

ゴミ問題は大問題だと身にしみて思う。

地球環境規模の話しではなくて母の広告折り紙ゴミ箱を見て思う。

母の介護帰省時に家事をしていて困るのは、母の暮らしの中にゴミ箱が少ない事だ。これも捨てよう、あれも捨てようとゴミ箱を探すと、母は折り紙のゴミ箱や、小さなビニール袋に細々とゴミを捨てているのである。
「もうっ、この家はゴミ箱が少ない家だね!」
と言うと、なるべくゴミを出さないようにしているのだそうだ。

それでも否応なしに消費生活をしているので、それ相応にゴミは出るわけで、ゴミを出さないようにしているということはゴミが家の中に溜まっていく事なのである。「(どうしてこんなものとっておくの)」と聞きたいようなものも多く、聞けばどういう答えが返ってくるかもわかったし、さらに聞くまで本人も存在すら忘れているゴミも多いので、この頃は気になったらさっさと捨てることにしている。

どうして母がゴミを溜め込むかというと、清水は東京よりゴミを捨て難いようにルールができている。

東京よりルールが甘い点もあるけれど、清水は全般的にゴミ捨てに厳密であり、新聞紙はビニール紐ではなく紙の細紐で縛らなくてはならないし、ペットボトルはきれいに中身を洗い流し、ラミネートシールを剥がして資源ゴミにしなくてはならない。

資源ゴミ、大型ゴミ、ビン・缶の回収など、町内会や隣組が当番でルール遵守に厳しく目を光らせているので、非常に模範的なゴミ捨てが行われているように見える。

だが年を取り病を得てひとり暮らしをしていたりするとゴミ捨てが大問題になるほどに辛い負担となり、新聞紙は愛犬イビのトイレ用に使って可燃ゴミとし、広告類は暇な時にそのまま捨てられる折り紙ゴミ箱にし、その他は小さく千切って可燃ゴミに混ぜ、可燃ゴミを出すのも辛い時は玄関先に出しておくと、親切なご近所の方が出してくれるという創意と好意で凌いでいたのだ。

そして、あれこれ買い物して帰ると、ゴミが出るからあまり買って来ないでくれなどと言う。

ゴミが捨てやすくなると消費がだらしなく増大するという一面がある。その一方でわが母のように、ゴミを捨てるのが面倒なので、最近益々、消費を極力ひかえる老人もいるのだ。そういう意味で、ゴミ問題は消費と怠惰を美徳とするような社会の仕組みの脇腹に突きつけられた匕首(あいくち)なのかもしれない。

帰省中は夕飯時に飲むビールが数少ない楽しみだし、夏場はペットボトルの冷たい飲み物も欲しい夜があり、それらの空き容器回収の負担を母にかけるのも嫌なのだが、だからといって消費を控える気にもなれず、最近は店頭に回収用のゴミ箱を用意している酒屋を選んで買い、帰京する日にその店のゴミ箱に捨てて帰ることにしている。

考えてみると非常にまともなゴミ対策であり、東京でも近所のスーパーに自主的にペットボトルと発泡スチロールトレイの回収ボックスを設置している店がある。熱心な家族が時折利用しているのを見かけるけれど、行政がペットボトルと発泡スチロールトレイの回収を始めるようになったら(今は不燃ゴミの中に捨てても良い)、嵩張るゴミなので収集日を待てず、ゴミ捨てついでにスーパーへ足を運ぶ人がもっと増えるのかもしれない。

ゴミを持って帰京する清水の朝、可燃ゴミの日だったのでゴミ収集車と抜きつ抜かれつしながら清水駅まで歩いたが、東京の山のようなゴミの日を思うと、この町はゴミの量が少ない町だなぁと感心する。ゴミ減量化を維持しつつ、資源回収と消費増大の歯車をピニオンギアのように組み合わせて提供する活性化の工夫が商業者にあっても良いのに、と思ったりする。

写真は清水駅前銀座を行くゴミ収集車。間もなく清水駅ホームに上りワイドビュー東海2号が到着する。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

【清水の壁】

市内在住の外国人が急増しているらしい。数年後には 1 万人を超えるかもしれないという勢いなのに、「国際海洋都市」を標榜している割りに、外国語併記の案内板が少ないという指摘がある。東海大地震の発生も囁かれ、いざ避難となったら外国人は戸惑うに違いなく、言葉の壁は極力少なくしておいた方がいい。

巴川沿いを歩いていたら「ひなん地 Evacuation Area 」と二カ国語表記の看板が立っていた。二カ国語表記はよいのだけれど、どうして西が上になった地図なのだろう。どんな地図でも北が上であり、そういう地図を見て育つと西上の地図を見たりすると戸惑いを禁じ得ない。

いや巴川端に立っている地図なので川を背にしているのだと言われても、それなら角度が少し違うのであり、単に時計方向に90度回転させたに過ぎない。これは良くないと思う。インターネットの地図検索サイトで詳細表示にした途端、西上の地図が現れたら人は戸惑わないだろうか。

最近の行政マンはカーナビボケしているのかもしれず、ここに新たな「壁」が現れている。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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【ちちろ鳴く頃】

【ちちろ鳴く頃】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 17 日の日記再掲)

小学生の頃から難聴気味で、あまり微かな音は聞こえない。
そのせいか道端の小さなものが視覚的にひどく気になり、気になったのに忘れてしまうともっと気になって悔しいので、町歩きにデジカメが欠かせない。デジカメは咄嗟のメモ帳であり、後でゆっくり見る際の拡大鏡でもある。

清水港橋たもとに貼り紙があり、西宮神社大祭と書かれ、清水旧市街の大切なお祭り「おいべっさん」が近いことを告げている。

よく見ると「清水魚座」とあるのでその由来を、清水インチキ郷土史研究院御学友でもある美濃輪稲荷大鳥居前、射手座の魚屋に聞いてみた。その説明は次のとおり。

江戸時代の清水湊(みなと)といえば今のような海に面した外港ではなく巴川の河口付近を指したのだそうだ。港橋たもとから上流に向かって続く現在の本町や上町の川沿いには、大阪夏の陣に功あって駿河湾の独占権を得た廻船問屋が軒を連ね、美濃輪町に向かっては商人の町が急速に発展した。

西宮神社より100メートルほど巴川を遡ると「上総(かずさ)稲荷」という小さな祠があり、その場所はかつて武田信玄の重臣馬場美濃守(ばばみののかみ)が築城した袋城のあった場所だとされている。

最初、西宮神社のある辺りに魚座(魚市場)があったのだが、御神体である水蛭子大神を祭るようになって、魚座(市場)は上総稲荷の場所に移されたらしく、最初の魚座があった場所を本魚町(もといまち)、次の場所を新魚町、その先を袋町と称し、地元の者はあわせて魚座三町と呼んだのだという。

「おいべっさん」の頃になると急に肌寒さを感じるようになる。

港橋からさつき通りを歩いていたら、かつて好きだったけれど店をたたまれてしまった蕎麦屋の扉に、
「教会でゴスペルを聞いてみませんか」
とアクティブでハイカラなメッセージが書かれた貼り紙があってびっくりした。問い合わせは家人にとあるので、そうかこの蕎麦屋にはゴスペル好きがいたのかと嬉しくなる。

“Jubilee Mother Gospel Cholus Christmas in Church” と題して 2004 年 12 月 5 日(日)15:00 からカトリック清水教会でクリスマス・ゴスペルコンサートがあるのだという。

大澤酒店前にも貼り紙があって俳句が書かれていた。「健」の署名があるので大澤酒店には健さんという人がいて俳諧をたしなまれるのかもしれない。

句の中に「ちちろ」という聞き慣れない言葉があり、無知なので「(ひょっとして清水の方言かな)」などと喜んだのだが、「ちちろ‐むし【ちちろ虫】(その鳴き声から)コオロギの異称」と広辞苑第5版にしっかりと書かれていた。

巴川沿いに祭囃子が響き、庭の片隅でちちろが鳴き、カトリック教会から港へと続く坂道にゴスペルが流れる頃、清水の町も慌ただしい年の瀬に入っていく。

  小庭掃く 妻の差し足 ちちろ鳴く
           (大澤酒店の「健」さん)

写真小上:港橋たもとに掲げられたおいべっさんの人相書き。実はご神体の水蛭子大神とは似ても似つかないという噂があるが神主以外は見たことがないという。魚屋はどうして知っているのだろう?
写真大上:大澤酒店店頭。このようなメッセージのある店頭が好きだ。
写真大下:巴川富士見橋より望む港橋。港橋右岸手前に西宮神社、その手前に上総神社があり、江戸時代の魚市場だった。
写真小下:クリスマス・ゴスペルコンサートへの招待状。“Jubilee Mother”は清水言葉で「おまつりかあさん」と訳して良いのだろうか?
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

【清美軒(せいびけん)】

誰でも自分の家のカレーライスが一番美味しいように、近所のパン屋が一番美味しかったりし、近所に近所ならではのパン屋があるというのは、とても豊かなことだと思う。

実は肉屋、魚屋、八百屋だって近所に“ならでは”の店があるのは豊かなことなのだと思う。

小学生時代は新富町の『大和ベーカリー』 が“ならでは”のパン屋であり、中学生以降は『清美軒』が“ならでは”のパン屋だった。

「生シュー」好きな母に頼まれて通い詰めたのは万世町の『清美軒』であり、この相生町の『清美軒』はあまり馴染みがないが、万世町店なき後「清」「美」「軒」の懐かしい三文字が見られる貴重な場所である。

実は近所ならではのスーパー、入江町『しみづ屋フードセンター』にも大手製パンメーカーに混じって『清美軒』のパンがあるのが嬉しく、ついつい『清美軒』のパンを手に取ってしまう。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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【皇紀二千六百年】

【皇紀二千六百年】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 14 日の日記再掲)

義父が通うデイサービスセンターが併設されている小学校は春風亭小朝の母校であり、NHK『課外授業ようこそ先輩』という番組の収録があった。

小学生がプロの噺家の指導で落語を覚え、校内に作った寄席の高座で演じるわけで、デイサービスセンターのお年寄りも招待されたという。

新潟で大きな地震があった関係で放映が延びていたのだけれど、ようやく日曜日の朝に放送があるというので、家族そろってラジオの玉音放送を聞くような姿勢で見入ったら、ちゃんと義父も映っていた。

それにしても小学生の記憶力の素晴らしさ、最近の子どもが物怖じせず自ら進んで高座に上りたいと手を挙げたりするのにも驚いた。子どもがもの凄い記憶力を発揮するのは昔も今も変わらず、小学生時代に覚えたことは身に染み着いてしまい今でも忘れられないことに僕も驚くことがある。

清水万生町、さつき通りに面した松坂屋配送センターの角の路上に「国威宣揚」の文字が刻まれた石柱がある。清水市立第二中学に通った3年間の通学路なので朝夕目にしていたわけだが、今も同じ場所に変わらぬ姿で建っていることに改めて驚く。

このところ母は全く食欲がなく、食べ物のことを考えただけで吐き気がして食べられないと言う。当然痩せていく一方であり、定期的な訪問看護で栄養点滴を受けたりしている。

食べ物のことを考えるから「吐き気」がするわけで、たとえ一人暮らしでも人は物を食べるとき、目の前にある食べ物のことだけを考えて食事をするわけではないのだから、気を紛らわせれば良いのだけれど、母は昔からそういうことが得意ではなく、虫刺されや吹き出物が気になって気になって血の出るほど掻いてしまう人なのであり、たとえ息子や母の友人が隣にいても、なかなか吐き気を紛らわすことのできない母である。お世話になっている医師も「病気になったからといって病気のことばかり考えていたら良くなりませんよ」とたびたび母に言っている。

何とか用意した食事を食べさせなくてはと思い、
「万生町、松坂屋配送センター角の石柱はまだあるね」
と言ってみたら案の定母は甲高い声で歌いだした。

子どもの頃、ナチスドイツを揶揄した映画で、今まさに死なんとする兵士が総統を見て突然跳び起き、
「ハイルヒットラーっ!」
と叫んで絶命するシーンがおかしくてたまらなかったし、日本の戦時中を描いた映画で町内の軍国オヤジが
「おそれおおくもっ!」
と怒鳴ると居並ぶ人々が直立不動になるシーンが滑稽でたまらなかった子ども時代がある。

電車通り沿いにあった『深沢マート』や『中央スーパー』への買い物の途中、母は、この石柱を見た途端何かに憑かれたように歌を唱っていた。「国威宣揚」と刻まれた石柱の裏には「皇紀二千六百年」と刻まれ、1940(昭和 15 )年まだ 9 歳だった母が、手に提灯を持ち新たなる東亜建設を祈念して奉祝の行列に加わった年に作られたものらしいのである。母は驚くほどその歌を覚えている。

「 ♪ 潮ゆきたけき海原に 桜と富士の影織りて 世紀の文化また新た 紀元は二千六百年 ああ燦爛のこの国威……」(作詞:増田好生、作曲:森義八郎)

母にとって皇紀二千六百年記念の歌『紀元二千六百年』は「ハイルヒットラーっ!」や「おそれおおくもっ!」に匹敵するような即効性特効薬なのであり、
「ああ、今日はよく食べた~」
と唱い終え食べ終えて笑う母を見ると、この世代が存命中は少なくとも清水から皇紀二千六百年記念の石柱は消えることなく、意外な効能を発揮し続けるのだろうなと思う。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

【焼き豚のふくだ】

ものを知らないということ、特に知らなくても別段恥ずかしくもないことを知らないということは楽しい。「あれっ?」と驚き、「ああ、そうか」と自分の無知に気付き、「あはは」と笑うのは楽しい作業である。

清水相生町。静岡の銘茶「やぶきた」の暖簾にしては派手だなと思ったら「やきぶた」と書いてあるのだった。

このお店、いったいいつからここにあったのかなぁとよく見たら、相生町店は支店であり、本店は次郎長通りにあるという。
「ええーーーっ!」
と驚いて母に
「『焼豚のふくだ 』って次郎長通りが本店らしいけど、どの店だっけ」
「ほら、あの店主が通りに斜めになって焼き鳥を焼いてる店じゃない?」
「あそこは鶏屋だから、焼豚は焼いてないでしょう」 
などという話になり、聞いてみたら次郎長通り入口角にある肉屋であり、毎週前を通るのだった。しかも、この写真を撮影する時、 『焼豚のふくだ 』本店で買った母の大好物、鶏のキンカンを煮たやつをお土産に買って持っていたのである。
「あはは」

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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【生産と再生】

【生産と再生】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 13 日の日記再掲)

昔は商品先渡しの月賦販売ではなく、毎月集金人に掛け金を渡し、規定額になると商品がやってきたりする、料金先払いの積み立て販売システムがあった。

母は、ミシンは『シンガー』、編み機は『ブラザー』と決めて掛け金をしており、「もうすぐ電動ミシンがやって来る」と嬉しそうに掛け金表を見せてくれたものだった。

ようやくコンパクトな卓上電動ミシンが届き、たとえコンパクトであっても物が一つ増えれば狭くなるアパート一間の暮らしだったので、当然のこととして大きな足踏みミシンが不要になった。今の時代なら、文京区の場合、粗大ゴミのチケットを購入して電話申し込みをし、有料で引き取って貰うシステムなのだが、東京オリンピック前の東京では、
「く~ずい~、お~はらい~」
と連呼しながら廃品回収のおじさんがリヤカーを引いて町を流しており、母はおじさんを呼び止めて嫁入り道具のミシンを売ったのである。

動く動かないの確認もせず、重さを量っていた記憶があるので、屑鉄として買われて行ったのだと思う。
「おまけして 1,000 円!」
とおじさんが千円札を出した記憶があり、感慨深げな母を横目に、僕は「(大したお金になった)」と驚いた記憶がある。

介護帰省中、ニュースを見ていたらフィリピンで列車の脱線転覆事故があり、多数の死傷者が出ていたが、原因は換金目当てに住民が線路を盗んだ可能性もあると報じられていた。日本人なら驚きつつ苦笑する珍犯罪も現地ではよくある話らしい。だが考えてみると、母がミシンを屑鉄として売った当時のような値が付くなら、レール泥棒も結構な実入りがあるのかもしれないと思ったりする。

清水宮加三。介護帰省する度に頻繁に訪れるようになった地域だが、親戚の板金工場同様に、敷地のゆったりした大きめの町工場があって興味深く、○○工業などという看板を見ただけでは職種不鮮明な工場を覗くと、ピカピカの巨大タービンを作っていたりする。

鋼板を不思議な形に切り、カーブをつけ、組み合わせ溶接していくのであり、男らしいダイナミックで力強い職人芸である。完成した何の一部かわからない大型部品を積んで出て行くトラック、薄汚れた巨大部品を修理に持ち込むトラックがひっきりなしに行き交い、日立製作所の空調部門に隣接していることも関係してか、ここは重厚長大な特殊需要を支える町になっているらしい。

工場群の中には金属廃棄物のリサイクル工場などがあったりもし、生産と再生が同時に行われている町なのであり、それは元気な心臓のように健全な気もする。

清水は昔から缶詰製造が盛んな町で、そのため周辺に東洋製缶、大和製缶などの大手製缶会社がある。

柳宮通り沿いにも小さな製缶工場があるのを見つけ、どんな缶を作っているのかと覗いてみて驚いた。

僕が知っている最も大きな“缶”はせいぜいドラム缶であり、それより大きな“缶”は見たことがないのだが、ここではドラム缶数十杯の液体が入りそうな巨大缶を作っていた。パッと見たままを口にすれば「タンク!」と言ってしまいそうだが、缶だと言われれば確かに缶かもしれない。

そうか、こういう缶もあるんだなぁと感動し、小学生の頃の社会見学だったら、
「この缶にミカンやシーチキンや鯨の大和煮を入れてプレゼントされたらお母さんも僕も嬉しいだろうな、と思いました。」
などと、ウケ狙いでいじましい日記を書くところだが、もうオジサンなのでそういうことも書けず、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に行って、
「今日は、巨大な缶を作っている工場を見つけたぞ」
と自慢したら魚屋はとうに知っていた。魚屋は海岸方面のみならず、妙に内陸部にも詳しいので侮れない。

写真小上:清水宮加三あたりで消費される電力をまかなうためか、このあたりは高圧送電線の鉄塔と変電所が多い。
写真大上:圧縮されたステンレス缶。
写真大下:完成間近の巨大缶。
写真小上:望月製缶前にて。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-W1]

【タクシーの算術】

11 月 12 日午前 7 時 45 分、清水宮加三『清水製薬』脇にて。
雨なのでタクシーに乗り行き先を「清水製薬まで」と告げる。
「いや、今日はゆんべの雨で東海道線が止まってるもんで、うちのタクシーも清水駅から静岡駅まで、出勤する会社員を乗せて 10 台ばかし、走ってる最中だよ」
と運転手が言う。
「だけん俺なら 3,000 円もタクシー代を使うなら、会社休んで家で寝てるよ」
と話し続ける。
「だーって、おらっちが 3,000 円稼ぐには 1 日 10,000 円売りあげなくちゃなんないけーが、清水で 1 日 10,000 円客を乗せて走るのはたーーいへん。だったら会社休んで寝てぇーたほうがいいだよ」
運転手は売上の 30% が自分の懐に入るらしいが、会社を休んで寝ていた方がましという考えを導き出す算術が良く解らない。

「だけん、お客さんの会社『清水製薬』は、ばーかに景気いいみたいじゃん」
清水製薬の近くにある板金工場に行くので目印になる「清水製薬まで」と言ったのだけれど、清水製薬の社員と間違えているらしい。訂正するのも面倒なので社員に成りすまし、
「いや、うちも味の素の傘下に入ったからそう見えるだけで、内情は大変なんですよ」
などと適当に答えたら、 
「そーんなこたぁないらぁ、新しい工場も建ててるし、社員はこうしてタクシー通勤してぇるし」
などと切り返された。 
「領収書はいるかね?」
と聞くので
「もちろん」
と答え、清水製薬に入るフリをしてタクシーが走り去るのを待つ。

写真はタクシーを降りた清水製薬脇。向こうに白煙が上がっているので火事かと思ったが、毎朝上がる白煙らしい。
[Data:SONY Cyber-shot W1]

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【オモチャの綿井(ワタイ)】

【オモチャの綿井(ワタイ)】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 12 日の日記再掲)

人間の情熱の源泉は多かれ少なかれ怨念(ルサンチマン)であるとも言えるのだろう。

少女時代を戦中戦後に過ごし、おばさんになってから金に糸目をつけずに高級玩具、例えばドールハウスなんかを買いあさってコレクションするのを「怨念の少女趣味」という。

まあ、喫煙も飲酒も暴力も、そして犯罪だって、その根底には幼い頃に満たされなかった物事への怨念があるとも言えるわけで、玩具で購(あがな)える少女趣味など可愛いものである。

子どもの頃、僕が満たされなさを感じていたものの一つにプラモデルがある。同年代の仲間はみな夢中になっていたのだけれど、わが母はプラモデルなど「くっだらない!」と言下に否定して理解を示さない人であり、それ以前に、母ひとりの収入に依存していたわが家では高価なプラモデルなどねだってはいけないという思いもあったので我慢していたのだ。

ある日、黄昏時の玩具店前を通りかかったら折悪しく同年配の少年がプラモデルを買って貰うところであり、予想もしなかった言葉が止めどない涙と一緒に噴き出した。
「僕だけ買って貰えない!」

いま思い出しても何といじましいガキだったのだろうと情けなくなるけれど、それが母には意外と効いてしまい、
「そんなことで男の子は泣くもんじゃない。何でも買ってやるから選べ」
などというのである。

僕は戦艦が好きで何としても戦艦『長門』が欲しかったのだけれど、母は始めから部品に金メッキが施されている戦艦『ミズーリ』がいいと言い、理由は作った後で置物になるからだという。少年時代から今に至るまで戦艦は日本のデザインが美しくアメリカのはどうしてダサイんだろうと思っているので戦艦『長門』に固執したかったのだけれど、母への申し訳なさもあって耐え難きを耐え忍び難きを忍んで『ミズーリ』で調印したのだった。奇しくも戦艦の運命を知る者にとっては究極の二者択一である。

小学生時代にもう一つ羨ましかったものに『ミニカー』というものがある。

ミニカーをたくさん持っている同級生がいて、お父さんと炬燵の上に並べては、車種名、会社名、排気量などの当てっこをしてよく遊んでいたりした。大きさが小さい分、『ミニカー』は『プラモデル』よりもっと割高な贅沢品であるような気がして、とても母にねだるわけにも行かないと我慢するうちに小学生時代を終えていた。

清水相生町、かつて東海銀行(現UFJ銀行)脇、花菱デパート(ヤオハン、セイフーを経て廃ビル)の向かいに『綿井(カタカナでワタイだったかも)』という玩具店があった。

多分中学生時代だと思うのだけれど、やはり黄昏時(多分英語塾の帰り)にぶらりと覗いたらカッコイイ外国製の『ミニカー』があり、急に満たされなかった幼い頃の怨念が噴き出しそうになり、母に参考書を買うと言って貰ったお金がポケットにあるのを思い出し、
「これちょうだい!」
という言葉が思わず口を突いて出て、衝動的に買ってしまったことがある。前からこの車のデザインが好きで憧れていたのであり、車種名を『ロータス・ヨーロッパ』という。

『プラモデル』も『ミニカー』も買ってしばらくいじったら飽きてしまい、金ビカの『ミズーリ』は母のこけしと並んで人形ケースに入り、イタリア製のミニカー『ロータス・ヨーロッパ』は母に見つからないよう引き出しの隅に放り込んだままになった。

母の介護帰省をするうちに、どこで見つけたのか母が『ロータス・ヨーロッパ』を扉付きの本棚に飾っているのを見つけ、手のひらにのせて懐かしさに胸が熱くなる。

『プラモデル』も『ミニカー』も、ちっとも怨念の少年趣味の埋め合わせにならなかったのは、『プラモデル』や『ミニカー』というモノを手にしたところで、友人たちがモノを通じて手に入れていたはずの父親との団らんが、そこにはなかったからなのだろうと、今にしてみれば思う。

写真大上:この『ロータス・ヨーロッパ』はとても精巧に出来ているのだが、どうしてバックミラーがないのだろう。インターネットで検索するとマニアがいるようでたくさん実車の写真があるのだが、本物にはドアミラーやフェンダーミラーがついている。ミニカーメーカーが省略したり忘れたわけはないと思うのだが…。

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写真大下:ワタイがかつてあった場所。
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写真小:ワタイで買った『ロータス・ヨーロッパ』。
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【城山】

11 月 12 日午前10時、静岡県立がんセンター待ち合いより望む伊豆箱根方面。たなびくのは白煙ではなく雲。この日、静岡県は記録的豪雨。

原駅付近で東海道本線不通ということで、母が午前10時半の診察に間に合うかと心配だったのだが東名高速は順調に流れていた。

沼津インターを出て国道246をちょっとだけ進み、小高い丘へ登ったところに県立がんセンターがあるのだが、城山であることを示した石碑があり『長久保城』という。たしか司馬遼太郎『箱根の坂』で名前が出て来たような気がする。

今川、武田、後北条氏により駿南抑えの要として激しい争奪戦が行われた城であり、徳川家康が豊臣秀吉と小田原攻めの作戦を練ったのもこの長久保城だという。

伊豆には『清水氏』という豪族もおり、駿府方面から北条早雲に付き従った土豪だともいわれ、この長久保城主もつとめている。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』志みづ(しみず)道編】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』志みづ(しみず)道編】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 7 日の日記再掲)

『小さな恋のメロディ』というイギリス映画がかつてあり、原題を『 Melody 』といった。

1970 年に制作され、日本公開が 1971 年だった。清水で見た記憶があるので、上映館は万世町にあったオリオン座だろうか。甘酸っぱい少年少女の恋物語なのだけれど、まだ女性の手を握った事もない奥手の高校生だったのでひどく興奮しつつ感動した。

とりわけ最後のシーンでマーク・レスター扮するダニエルと、トレーシー・ハイド扮するメロディが手漕ぎトロッコをシーソーのように漕ぎながら線路の上を旅立っていくシーンは銀幕に飛び込んでダニエルと交代したいほど羨ましくてたまらなかった。

そもそも鉄道線路という公共的なものの上を自由意志で走っていくということ自体が羨ましく、手漕ぎトロッコも羨ましかったけれど、保線作業用のディーゼル駆動トロッコもまた憧れであり、あれなら一人でも走らせられるし、できれば好きな女の子と二人で乗って鉄道軌道を走ってみたいなどと、あり得ない夢を見た時代があった。そんな事を JR 東海道線草薙駅ホーム脇で思い出す。

自由な意志などと言ったところで、所詮は敷かれたレールの上を走っているに過ぎないことの虚しさ、それは人生にも似ていると感じるようになり、ダニエルとメロディの行く手にも決して自由な未来があったわけではなかろう、と思うような大人になっていた。

介護帰省をし、美濃輪稲荷大鳥居前で母と二人の夕食用に買い物をした帰り、魚屋の若大将が、
「矢通りの方から帰るなら、道が広くなる場所ですぐに右に折れて、その道をどこまでも真っ直ぐに帰ってみてください」
などと言う。いつの間にかオジサンになったら、帰り道を指定されたりしても目の前に敷かれたレールを走る事が楽しくワクワクできる心境に、もう一度戻っていた。

魚屋はこの道を歩かせて何を見せたかったのかな、などと考えながら、ダニエルとメロディが遠ざかって行く最後のシーンにオーバーラップして流れたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの『 Teach Your Children 』を口ずさみながらどこまでも歩く。

 

『山本履物店』さん。木を干し、削り、昔ながらの手作りで履き物を作っておられるらしい。高齢の家族のためか玄関先の陽の当たる場所に、大きな安楽椅子にムートンを敷き詰めたものが置かれており、見る者の心に温かい。
『現代料理 池元』さん。母と訪れた事のある料理屋さんだが、この店が入っているマンションが建つ前にはスーパーマーケットがあり、母と自転車を並べて走らせ買い物に訪れた少年時代があった。で、魚屋の若大将がご近所のお年寄りに聞いたら、なんとスーパーマーケットになる以前、この場所には『港館』という映画館があったのだという。僕の知らなかった清水の映画館である。

『エガワ歯科医院』さん敷地内の蔵。この辺りから細い道の脇に暗渠のコンクリート蓋が続き、かつては江川という川が流れていたのだという。左手に『やまぐち釣具店』さんが現れてびっくり。清水市立第二中学に通った中学生時代、二中と岡小学校のまわりはまだ田んぼだらけで、放課後友人たちと田んぼに入ってアメリカザリガニを獲ってバケツに一杯入れ、この釣具店に持ち込むと釣り用の餌として買い取ってくれた。そのお金で買い食いした思い出の店である。そうか、ここに出るのか、と『やまぐち釣具店』も古道沿いにあった事を改めて知る。

道はどんどん細くなり、やがて専念寺門前に出る。清水上一丁目 10 番地の掲示板には浜田地区まちづくり推進委員会による「旧しみず道」という道標があり、これも郷土を愛する人々の『 Teach Your Children 』である。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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【浄念川ポロロッカ】

【浄念川ポロロッカ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 6 日の日記再掲)

心のポケットにいつも小さな不思議が入っているのは楽しく、それは小さな飴玉、幼い頃駄菓子屋で買った舐めているうちに虹のように色の変わる変わり玉に似ている。

11 月 3 日文化の日、水曜=定休日である事を忘れて美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に行く途中、いつもと違う道を通ってみようと、次郎長通りと並行して丹波街道から直進する道を入ってみた。

道はほどなく浄念川を渡り、そこにかかる小さな橋を宮下橋という。宮下橋上から上流日本平方面を見ると、川のせせらぎが聞こえてくるようにさざ波が立ち、上流に向かって勾配が続く地形である事が改めて思い出される美しい黄昏間近である。

写真を撮影して後ろを振り向いたら、何と!河口方面では川面の様相が一変し、波が規則正しく押し寄せて来て、南米アマゾン川で見られるポロロッカの極小版のようである。宮下橋から 370 メートル下流には常念川が巴川に流れ込む水門があり、さらにその 400 メートル下流で巴川は清水港に注ぐ。その海の波がここまで伝わってきているのだ。

ただ不思議なのは、僕が立っている宮下橋のちょうど真下で「さざ波」と「ポロロッカ」が分かれているのであり、上流下流を交互に見て「なんでだろう?」と考え込んでしまっい、心の中の小さな不思議という飴玉がまた一つ増える。

自分が患者でない病院の付き添いは一種気楽であり、退屈でもある。

県立静岡がんセンターで定期検診を受ける母に付き添い、待ち時間の間、母が日向ぼっこをしたいというので外来待合室に隣接した陽だまりラウンジに腰掛けて休息し、心の中の小さな不思議という飴玉を取り出して時間潰しする。

宮下橋の真下で「さざ波」と「ポロロッカ」が分かれているということは、宮下橋の真下には川にコンクリートの段差でもあって、「さざ波」は下流に伝播しないし、「ポロロッカ」も上流に押し寄せられない構造になっているのだろうかと思うが、それは諫早湾水門や長良川河口堰のように意味のないものにも思える。

11 月 5 日金曜日、母の容態も落ち着いたので、帰京前に自転車を飛ばして宮下橋の下を覗きに行く。

なんと!宮下橋の橋下には何もないし、今度は「さざ波」と「ポロロッカ」が分かれている場所が宮下橋の上流数メートルに移動し、それぞれが打ち消し合う現場がしっかり見えるのである。

実家に戻ってインターネットに接続し、気象庁サイトにある「潮位表 清水港」を確認する。

宮下橋真下で「さざ波」と「ポロロッカ」が衝突していたのは、デジカメの記録によれば 11 月 3 日 15 時 53 分でありこの日の干潮時刻 14 時 26 分に近い。
 
一方宮下橋上流数メートルで「さざ波」と「ポロロッカ」が衝突していたのはデジカメの記録によれば 11 月 5 日 10 時 34 分でありこの日の満潮時刻 12 時 20 分に近い。

要するに清水港から伝わってきた波が、日本平から駆け下ってきた流れと衝突する場所が、宮下橋辺りで潮の干満により毎日微妙に橋の上流と下流に移動しているのである。

小さな不思議の飴玉もますます小さくなってしまったので、カリッと噛む仕上げに美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に立ち寄って若主人に話すと、大雨が降るたびに宮下橋辺りで流木などが川を堰き止め、清水幸町辺りが水浸しになって困るのだそうだ。やはり浄念川宮下橋辺りこそ、行政が着目すべき治水ポイントなのである。

写真上段上:宮下橋上流。右隣にco-opがある。
写真上段上:宮下橋下流。この先、河口の手前に次郎長通りがある。
[Data:SONY Cyber-shot W1]
写真下段上:宮下橋下を遡上して行くポロロッカ。
写真下段下:宮下橋数メートル先で打ち消し合って消える「さざ波」と「ポロロッカ」。
写真小:宮下橋下流左手には清水小学校があって校庭では体育の授業中。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

【牛頭天王社】

母を県立がんセンターに送迎するため、帰省するたびに自動車を借りる清水宮加三の板金工場。遠い親戚の者が経営する。

牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と書かれたお札が貼られているので、
「あそこにあった牛頭天王社って何処にあるの?」
と聞いたら、
「そんなもん貼ってあったっけか?」
との答えで牛の頭も信心から、かと思ったけれど意外に無信心らしい。

10,000 分の 1 の地図というのは便利で、地図に定規を当てた時、100 メートルが 1 センチになる。で、その清水地図を探したけれど牛頭天王社は見つからず、心の中の小さな不思議という飴玉がまた一つ増える。

 

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【静鉄有情(うじょう)】

【静鉄有情(うじょう)】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 5 日の日記再掲)

何気なくターミナルケアという言葉を使っていたけれど、老いたり病んだりした者に接するとき、どこからがターミナルなのか定義するのは難しい。

静岡・東京間を結ぶ特急ワイドビュー東海号は朝夕 2 往復しかなく、朝の便を乗り過ごし到着が夜になっては遅すぎる場合新幹線を利用するしかなく、昼前後にもう一往復あればいいのになぁ、と思う。

仕方なしに新幹線を利用することが多くなってしまうのだけれど、それでもせめてもの楽しみは静岡鉄道に乗れることで、実家が入江岡駅に至近なので草薙駅まで必ず利用する。

いつ頃までだったか、静岡鉄道にも快速電車があり、チャイム音を鳴らして小さな駅をとばして新静岡と新清水両ターミナル間を短時間で結んでいた。

人であれ鉄道であれ、中途半端にターミナルに近い場所には哀愁があり、入江岡駅に立ち、チャイムを鳴らした列車が通過する度に、弱小駅の悲哀を感じたものである。

水曜日に帰省して週末まで母に付き添うと、いささか仕事に支障が出るので、母の元気が戻ったタイミングを見計らって東京に戻ることにする。

入江岡駅に立って上り電車を待ち、写真を撮ったりしていたら、新清水駅を発ち巴川の鉄橋を渡った車両が浜田踏切を通過し、ゆるゆるとホームに入る。

最後尾から乗車し、重いリュックを座席に下ろしたら、急に社内放送で、
「ただいまご乗車になったお客様…」
と名指しされて驚いた。入江岡から乗車したのは僕一人だったのである。

2 両編成の車両に乗り合わせたすべての乗客の視線がこちらを注視し、
「(ただいまご乗車になったお客様が何をしたのだろう、まさかテロリストじゃないよな)」
というような目つきで見る中、
「ただいまご乗車になったお客様、ホームに財布を落とされました」
と放送があってどっと笑いが漏れる。
慌ててホームに飛び降りて財布を拾い、車内に戻り、運転席からこちらを振り向いている運転手に深くお辞儀をしてお礼する。

そばにいたご婦人二人が、
「たいしたもんねぇ、あなたが乗ってくるのは私もちゃんと見てたけど、財布を落としたのには気づかなかったわ。運転手さんはよく見てるのねぇ」
と話しかけて来られ、どっと噴き出した汗を拭いながら深く頷く。

静鉄電車の乗客が減り、ワンマン運行化されて久しいけれど、駅に着く度に運転席を立ち、ホームに下りて乗降客の安全を指差し確認し、財布を落とすうっかり者がいれば運行を遅らせても知らせてくれる親切な運転手に感謝し、ホームからもう一度会釈しようと思ったら、草薙駅は乗降客が多くて叶わなかった。改札を出て踏切に立ち、去り行く静鉄電車の後ろ姿に改めて最敬礼する。

写真上:13:01、入江岡ホームに差し掛かる静鉄電車。
写真下:13:08、草薙駅を発車し県立美術館前駅に向かう静鉄電車。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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