四十数年振りの現像

2017年2月9日
僕の寄り道――四十数年振りの現像

高校で写真部員だった頃は ASA(ISO)400 のモノクロフィルムを 6400 まで増感現像し、早いシャッターが切れるよう感度を高く設定して使っていた。高校生がカメラをぶら下げて町歩きするには、登校前か下校後の薄暗い時間帯しかなかったからだ。

ピント合わせはもちろん、露出もシャッタースピードと絞り操作による手動なので、露出に失敗したフレームがたびたび発生し、ネガフィルムを見ると露光オーバーだと真っ黒、露出不足だと真っ白になっている。それらのフィルムもすべてフィルムスキャナを使ってデジタル化してある。

高校時代、1970 年から 73 年までの写真を整理しながら、ふと思いついき Photoshop を使って露出失敗の写真が救済できるか試してみた。露光不足で真っ白(スキャンしたデータは反転しているので真っ黒)なフレームは難しいけれど、露出オーバーで真っ黒(スキャンしたデータは反転しているので真っ白)なフィルムを、明るさとコントラストを組み合わせてレベル調整すると、写っているものが判別できることを主眼とすれば、かなり救済できることがわかった。こんな真っ白なスキャンデータにも画像情報はちゃんと記録されている。

高校生にとって高価な印画紙を使っての救済は現実的でなかった。それゆえ思いつきもしなかったのだけれど、パソコン暗室なら簡単にできるとわかって感動した。これは静岡県清水市のさつき通り。左のペブシの看板に「さくら」とあるのは東映映画館のさくら劇場。左の道へ折れれば清水市役所、通りを渡った右側には花菱百貨店、道路には清水市街線の路面電車が走っていた。その歩道を外国人カップルが歩いている。

 

よくこんな写真を撮ったな、高校生なのに意外に度胸があったんだなと驚いた。なにしろ撮影して以来、昨日初めて見た写真なのだ。四十数年振りにコンビュータを使って現像し直したことになる。


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江尻より一本松遠望

2016年12月12日
僕の寄り道――江尻より一本松遠望

清水駅前から見た帆掛山(標高304m)山頂の一本松公園。コンパクトカメラの望遠でのぞいたら東屋の屋根もしっかり見えた。

「やぁ見えた見えた」
というだけの他愛ない写真だけれど、かつてはこういう山頂の木が海の人々の目印になったわけだ。

白黒写真は大正時代の帆掛山一本松。

駿州大内観音鷲峯山霊山寺
東海の絶佳地大内観音山上名木一本松並に富士の遠望

と写真注釈にある。



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夕焼けの見え方

2016年12月12日
僕の寄り道――夕焼けの見え方

静岡県清水駅前から見た 12 月 8 日の夕焼け。東京で見慣れた夕焼けとは違う、いかにも清水らしい、多感な時期に見慣れた故郷の夕暮れと感じたので何枚も写真に撮った。

そして帰京し、数日のあいだ思い出すたびに眺めているが、なにが東京で見慣れた夕暮れと違うように感じさせたのかがわからない。こういう遠景の夕暮れがあって、その手前に飛蚊症のように影となった前景の雲がある夕焼けが、いかにも清水らしいような気がするけれど違う気もする。

おそらく気分の問題にすぎなくて、とるにたらぬ気分が一直線に揃ってビンゴになっているのだろう。こうして気分の問題にひどく引っかかってしまうのがふるさとの魔法なのかもしれない。そんな甘ったるい夕暮れだったのでいちおう日記に付け加えておく。


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庵原の杉山青年夜学校

2016年9月29日
僕の寄り道――庵原の杉山青年夜学校

郷里静岡県清水庵原地区でいまも「しんめいさん」と呼ばれて語り継がれる殖産家がいて片平信明(かたひらのぶあき1830-1898)という。貧しい山村では油桐(あぶらぎり)別名毒荏(どくえ)と呼ばれる木を育て、実から油を絞って売ることでかろうじて生計を立てていたが、油の輸入で売り上げが減って村は困窮した。

名主であった片平は茶の栽培をすすめ、一方自宅納屋の二階で青年の夜学校を開いた。明治9年柴田順作の指導で杉山報徳社を設立、明治14年には柑橘栽培を導入して産業の振興につとめ、明治21年夜学校を建てて青年勉学の道場とした。山の人々が街場の人に搾取され続けないためには、勉学こそが生きるための武器であった。

編集委員をしている戸田書店発行『季刊清水』の取材のため、9月29日(木)その杉山青年夜学校を見に出かけた。清水駅前9時30分発のしずてつジャストラインバス庵原線吉原行きに乗り杉山バス停で下車すると、老人憩いの家として活用されている校舎は川沿いの道路脇にあった。

杉山青年夜学校。左端、二宮金次郎像の後ろにあるのが油桐

バス停の時刻表を見ると吉原終点で引き返してくるバスは10時25分に杉山を通過し、それを逃すと14時20分まで清水行きバスはない。あわてて校舎周りの写真を撮り、清水駅売店で買った稲荷寿司で遅い朝食にした。いまだに報徳思想を忘れない庵原の人々のような二宮金次郎像があり、その見つめる道の先へと無人でやってきたバスに乗って引き返した。


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人をおこす

2016年9月7日
僕の寄り道――人をおこす

9月7日、郷里清水の友人からいわゆる「町おこし」系の人を紹介され、最近は「いわゆる町おこし系」の人たちが好きではないのだけれど、前もって資料のビデオを送ってもらったら、からだを張って「自分起こし」をしているので会ってみる気になった。午前8時1分駒込発の日帰り帰省である。

打ち合わせを終え、江尻船溜りで見上げた空

戦後すぐからある割烹料理店で、中高生の頃はお呼ばれで何度か行ったことがある店、その三代目にあたるという。
「町おこしとは人を助けることだ」「協力してくれる住民ひとりすら幸せにすることもできずに地域活性化だの町おこしだの、片腹痛い」などと西部邁が書いたことを改ざんしながら「いわゆる町起こし系」の人の悪口を散々言ったら、そうだそうだと気があうので、できるだけのことは手伝わせてもらうことにした。清水帰省の楽しみがまた一つ増えた。


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禅寺の先生

2016年8月20日
僕の寄り道――禅寺の先生

静岡市清水区横砂中町にある医王山東光寺で夏休み子供坐禅会を開いている副住職は若い。学生時代を過ごした神奈川の大学で知り合った女性と結婚し、夫婦で協力しながら子どもたちの世話をしている。副住職は学校で6年間理科を教えていたそうで、奥さんの描いたイラスト入り禅教材がたくさん置かれているのを見ても、二人の教育にかける熱意が伝わってくる。

猛暑なので子どもたちの給水と休憩タイムが何度かあり、その間にぶらぶら境内を歩いて眺めていたら、彫られた名前に見覚えがあるので、
「ひょっとしたら先代住職、おじいさんにあたる方は校長先生をされていませんでしたか?」
と聞いてみたらその通りだと言う。
「実は清水市立第二中学校在学中、三年間校長先生だったのがあなたのおじいさんです」
と言ったら驚かれていた。ご健在かと尋ねたら十数年前に他界されたという。

夏休み子供坐禅会に参加している少女でひときわ利発そうな子がおり、何をするにしても気が利いているので写真を何枚も撮った。あとで知って驚いたのだけれど、その子は副住職夫婦の子どもであり、あの校長先生の曾孫だった。校長先生がこの仲の良い孫夫婦と、闊達な曾孫の顔を見たらきっと喜ばれることだろう。


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息と観察

2016年8月20日
僕の寄り道――息と観察

郷土誌の編集委員を一緒にやっている友人が、静岡市清水区横砂中町にある医王山東光寺で開かれている夏休み子供坐禅会を取材するというので、カメラをぶら下げて出かけて行き興味本位のアシスタント役をした。

子どもたちに混じって正座をする機会が何度かあったが、正座など数年に一度するかしないかのことになってしまい、一分も経たないうちに筋肉が悲鳴をあげるので、写真を撮るふりをして立ち上がり、なんとか半日をやり過ごした。

正座はしないけれど、毎日未明に目をさますとじっとして目を閉じ、自分の呼吸に集中し、集中している自分の状態を観察するようにしている。病気のとき自然にそうしている自分から学んだ。人にとって最も大切なのは息と観察だとつねづね思っている。

息が整った状態を観察しているように座禅を組む子どもたちを、外側から観察しているだけでありがたくて、実はそういう観察にも座禅を組んでいるような効果があるかもしれない、などとと言い訳をするようにカメラのシャッターを切りながら本堂内を歩き回っていた。


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自動車人間

2016年8月18日
僕の寄り道――自動車人間

郷里静岡に帰省して人を訪ねるたびに「自動車で送りましょう」という申し出を辞退するのに苦労する。郷里の人々は歩かない傾向が強いのだと思う。たかだか 2 キロ程度の道のりを歩くと言っただけで驚かれ、歩きたいのだと言うと笑われる。

故郷に帰省するたびに乗り合いバスの運行ルートと本数が減っており、乗客もまばらなのでバス会社もそうせざるをえないのだと思う。歩く人がいない証拠に、歩く人を中心とした道路整備も、文化的な環境整備も沈滞しており、観光客らしい人たちから「旧東海道はこの道でいいんでしょうか」などと質問を受けるたびに恥ずかしい思いをする。

この町は人が暮らす場という役割が消失して、自動車が通行する機能しか残らないのではないかと思う。道路都市に暮らす自動車人間。「いつか年をとったら故郷へ戻られませんか」などと聞かれるたびに、「そうできたらいいなと思うようになりました」などと適当な返事をしているけれど、この中心市街地にはぜったいに帰りたくないと思う。人口も減り続けるわけだ。

仕事の取材を終え、午後 4 時からの会議まで時間があったので自動車から降ろしてもらい、芹沢銈介美術館で企画展「書物のよそおい」を観覧し、そのあと登呂遺跡内をぐるぐる歩いた。ここに来てこうして「農耕集落跡を歩きまわるのが好きなんです」などということは、笑われるの地元では言わない。

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それから先のことは

僕の寄り道――それから先のことは
(2016年8月1日)

昔の話をするのが面倒くさくなった。古い人間が古いことを知っているのは当たり前で、それをわざわざすすんで話すのは年寄りの説教くさいし、若者が間違った昔話をしていると訂正するのも余計なことである気がする。せいぜい、「若者が昔を懐かしがってばかりいるなんてもったいない」と心の中で意見するだけにしている。

最近は清水駅に降り立つと、市街地には足が向かなくて、死んでしまった人や病気で寝ている人たちばかりがいる、清水北部の北街道方面へ気持ちが誘われてしまう。サイモン & ガーファンクルの『マイリトルタウン』を口ずさんだりして、一時間に一本の北街道線バスに乗る。バス発車時刻に間がありすぎると、大好きな『八木春』でカツカレーを食べる。

能島の従弟に会ったので、「最近話題の桜ヶ丘病院移転先、最初に候補に挙がっていたのは能島と聞いたけど、どこだったの」と聞いたら、大内新田の旧北街道歴史の道が大内田んぼに抜けていった懐かしい場所だった。この先の田中の一軒家で祖父母に育てられたが、旧北街道とともに遊水池に没している。大内田んぼを抱くように帆掛山(扇山)がある低湿地で、先々のことを考えたらここでも旭町でもなく桜ヶ丘移転の方がいいよ、と心の中で言ってみる。

従弟が静岡駅前まで車で送ると言うので、「清水に帰省するときは歩くのが楽しみなんだから散歩がてら北街道を行く」と断った。今日はこれから夜勤があるというし、年下の者にはもっと他にやることがあるはずなのだ。時間がもったいない。いつも先のことを考えていろと心の中で説教を垂れ、加藤和彦『それから先のことは』を口ずさみながら炎天下を歩いたが、鳥坂で挫折して素直に静岡駅行きバスに乗った。


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金属製看板のある山沿いの道

2014年10月10日(金)
金属製看板のある山沿いの道

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編集会議で静岡帰省した(2014/10/08)。わが家の墓がある清水区大内の保蟹寺は、山裾の崩落危険地域にあるので、台風18号の被害がないか、ちょっと心配になって墓参りに寄ってみた。

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保蟹寺入口前の小道は何代も前の東海道とも言える古道で、山さえ崩れなければ水のつきにくい場所なので、かつて入口脇には高部村役場、その奥に高部小学校の前身があった。水害の模様が全国ニュースで報じられた大内地区だけれど、この古道と山側はやはりぎりぎりで冠水を免れていた。

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今でも当時の古い石積みが、ずっと高部ゴルフの方まで古道沿いに残っている。先ごろ、保蟹寺は駐車場を整備したが、このあたりは石積みの技能を持つ人が多くて、整備工事もすべて檀家の人たちがやってしまったと住職が話していた。

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そういう古い道なので、昭和の時代は人通りがそこそこあり、商店もあったことを覚えている。道沿いの建物には、古い金属製看板が残っていて、今はもうない掲載主が多く、清水市繁盛記の物言わぬ語り手となっている。

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まちの懐かしさ

2014年5月17日(土)
まちの懐かしさ

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「最近、清水は墓参りだけでスルーして旧静岡市に用事が多いのですが、東京の植民地的な中心市街地ではなく、ちょっとはずれた町並みを歩くと、昔の清水のような懐かしさが感じられて感動します。本当の東京下町より、第二、第三の東京山の手と言われた中央線や私鉄沿線にある古びた町並みの方が、昭和の東京下町情緒をいまも伝えているのと同じ現象です。」

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ブログへの書き込みに答えて返信ともつかないこんなコメントを書いたけれど、これは最近旧静岡市街を歩くたびに感じることだ。東京の住まいに近い谷中、根津、千駄木地区もそうだし、静岡駅北口に近い商店街もそうだけれど、街が活性化と呼ばれる現象で賑わっても、そこから得られた富をどこか遠くへ持ち去るための、道具として使われているだけのように見えて仕方がない。

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そういう現象から外れた地域では、経済の右肩下がりの坂道から滑り落ちないように、あえぎあえぎ暮らしているように見える。静清合併直後頃の清水がそうだったけれど、清水の町はもうすっかり桶の底まで抜けてしまい、今ではあっけらかんとした聖諦すら感じるし、ダウンシフトの果てに新たな幸せへの可能性を感じる段階へ進化を果たしつつあると感じることも多い。清水はしぶとい街なのだ。まだそこまで至らない旧静岡のやるせなさに、かつての清水を見ているような懐かしさを覚えるのかもしれない。

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東京山手線内で暮らしていると、自家用車に乗る必然性もあまり感じなくて、親たちとの暮らしが終わったことをきっかけに処分してしまったけれど、日用雑貨の買い物は郊外の大型店しか選択肢がないので、不便を感じることが多い。

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先日も東京から静岡に出たついでに、ジャンボエンチョー静岡店に寄って買い物をした。地図を見たら静鉄音羽町駅が近そうなので、下車して歩いたら、まるで昔の清水を見るような懐かしい町並みを歩いて胸がいっぱいになった。懐かしさというのは場所ではなく層をなした時の断面露出部にあるのかもしれない。

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熱血!清水みなと

2014年5月16日(金)
熱血!清水みなと

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編集委員をしている郷土誌の編集会議が始まり、静岡に出かける前に気になっていた村松友視著『熱血!清水みなと』PHP研究所を読み返してみた。この初版本は 1983 年 6 月 24 日発行となっている。

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日本の高度成長期は 1954(昭和29)年に始まって 1973(昭和48)年に終わったとされている。この本に書かれた、元気で威勢のよい村松節で語られる清水みなとの背景とは、いったいいつ頃なのかがあらためて気になったので読み返してみたのだ。村松友視は 1946(昭和22)年に清水に移り住んで岡小学校へ入学し、大学に入学するため 1958(昭和33)年に清水を離れている。

|飲み屋をやっていた母に貸したら客と回し読みしたらしく、常連からの伝言がはさまれていた|

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清水みなとを舞台にして自分史的なものを書き、地元だけでなく広く世間に受け入れられた人といえば村松友視とさくらももこである。そのさくらももこは1971(昭和46)年に入江小学校へ入学している。

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日本の高度成長期と清水の景気がよかった時代に微妙な齟齬があるのは、戦後間もない頃から「清水みなとに行けば何か仕事があるからなんとかなる」と言われて全国から人が押し寄せたように、清水の復興と経済成長は早い時期から始まっていたからだ。村松友視が岡小に入学した年に第一回清水みなと祭りが開催され、市民は復興の歓喜に湧いたのだ。

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そしてさくらももこが入江小学校に入学した年にニクソン・ショック、いわゆるドル・ショックが起こって日本経済は大打撃を受け、1973(昭和48)年、日本の高度経済成長期が終わるのである。

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しかしその時代の清水を新聞記事から追っていくと、ドル・ショックは影響なしということで様々な産業の好調が続いている。清水の経済はその後もほどほどに賑わいつつ緩やかに下降していく。それはさくらももこの代表作『ちびまる子ちゃん』に描かれているとおり。

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岡小学校に入学した村松友視は高度成長時代へ至る右肩上がりの清水を描き、入江小学校に入学したさくらももこは高度経済成長時代からの右肩下がりの清水を描いたのである。

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清水の高度経済成長時代というのは、寿司のようなドンシャリ型ではなく、なだらかな裾野を持つ富士山のような形をしていたのであり、それはこんなひどい時代になっても明るさを失わない清水っ子の気性に深い影響をあたえている…、かもしれないという話をしてきた。

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水の高さ

2014年3月27日(木)

水の高さ

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サイフォン構造などを持たない流れでは、水は必ず高い方から低い方へと流れる。遠く隔たった場所へと水を引こうと思ったら、長い斜面を維持したまま水路を引かなければならないわけで、それはたいへんな土木技術だと思う。高低差をちびちび倹約して引き延ばし引き延ばししながら使わなくてはならないからだ。

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多摩川から取水して武蔵野台地を東に流れ、四谷大木戸の水番所で江戸市中に配水された玉川上水の長さは43キロもある。どれくらいの高さを持つ場所から取水しているのだろうと羽村取水堰まで見に行ったことがあるが、電車で行ってもげんなりするほど遠いことにまず驚いた。

静岡県清水区大内の観音沢川。農地へ水を引く取水口のために、堰を設けて水位調節をしている。

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静岡市清水区にある日本軽金属蒲原製造所が今月31日をもってアルミ電解事業を終えるという。大量の電力を使うアルミ製錬だが、ここ蒲原製造所は富士川の水を使った自前の発電施設を有することで、電気代の高騰にもかかわらず1940年の操業開始以来、世界有数の工場であり続けたという。

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東海道線に乗ると富士川駅と新蒲原駅の間に、山の上から下りてくる太いパイプがあり、幼い頃から気になっていたそれが日本軽金属蒲原工場自慢の発電施設である。日本軽金属富士川第二発電所といい、運転開始は昭和18年で、富士川上流の富士川第一発電所で放水した水などをパイプでここまで引いているという。第一発電所は柿元ダムにより安定した発電用水量を確保しているからだ。

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この富士川第一発電所の放水地点と、富士川第二発電所が水を落とすポイントの高度差がどうなっているか知りたい。玉川上水は武蔵野台地の尾根筋を選ぶことで高さを節約しながら引かれているというが、富士川第一発電所は身延線十島駅と井出駅の間にあり、富士川第二発電所まで直線距離で16キロ以上ある。間に越さねばならない富士川の流れもあるわけで、ふたつの発電所を結ぶ地中の水路はどうなっているのだろうと、Googleの航空写真を眺めながら首を傾けている。

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山を見る

2014年3月26日(水)
山を見る

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竹の塊のようになってしまった帆掛山の竹林伐採が少しずつ進んでいる。この山の麓に我が家の墓があり、赤地原と字名にあるような崩れやすい土質なので、竹に山を覆われるのも崩落防止の観点からいたしかたないと思っていたけれど、あまり良いことでもないらしい。竹が根を張った山の斜面がまとまって広範囲にずれ落ちる危険性があるらしいのだ。

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幼い頃、この山の麓で暮らしたことがある。この季節になると祖父が山の頂きを指さし、
「ほう、山の上っ面(つら)の線が見えっつら、あそこへと桜ん植わさってるのが見えるか?」
と清水言葉でなまって言いながら指さし、梶原山から一本松へと連なる稜線に何本か桜があって、この季節になるとぽつりぽつりと花開いているのがさみしげに見えた。

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当時は大内観音霊山寺までの山道を除けば一面のみかん山で、みかん以外の木があると目立ってよく見えたので、稜線の形とひょろりとした樹影たちが、いまでも影絵のように記憶に焼き付いている。半世紀以上前のことだ。

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竹の伐採が進むなかで、竹以外の木は残してあるようで、竹に埋れて樹齢を重ねた樹々が現れて驚かされる。白い幹があちこちに見えるのは白樺だろうか。民俗に関する資料を読むと、白樺の樹皮は剥かれて商品とされ、お盆の迎え火送り火として燃やされたという。里山に白樺があってもおかしくはないとはいえ、ちょっと意外だった。

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しずてつジャストライン北街道線、静岡駅行きバスを待ちながら帆掛山を眺めていたら、電線の上で同じ方角を眺めている土鳩がいた。同じ方角を見ていても全く違うものを違う映像として見ているに違いないのだけれど、互いに違う映像から鬱蒼としたものを伐採して薙ぎ払ったら、視覚の山肌に共通な何かが残るだろうかとぼんやり思う。

*写真は2014年3月22日(土)に撮影したもの。

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墓参り帰省と図書館通い

2014年3月22日
墓参り帰省と図書館通い

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「墓参りはついでにするもんじゃないよ」
というのが亡き母親の口癖だった。というわけで “墓参りのついで” に静岡県立中央図書館で調べ物をするのだと墓前で言い訳することにし、駒込駅午前 5 時発の山手線外回りに乗った。この時刻の山手線はすでに満席であり、東京駅に着き 5 時 20 分発普通電車沼津行きに乗る頃、これから始まる長い一日の夜が明けてきた。

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今年に入って静岡県立中央図書館に通っての調べ物を始めた。図書館に直行する日は草薙駅で下車し、駅近くのコンビニでおにぎりを買い、途中のひょうたん塚公園で朝ごはんにする。今日は先に墓参りするので清水駅下車になるわけで、どうしようかと考えていたら、改札脇の売店で江尻東にある末廣鮨の折詰が買えることを思い出した。グッドアイデアではあるけれど、ちょっと到着時刻が早すぎる気もする。

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清水駅に着いて Suica の精算を済ませ、改札を出て売店前に立ったら、店頭に置かれたワゴンに昔懐かしい富士製パンの「ようかんぱん」があった。さらに売店内に入ったら「昔ながらのしみずのパン」という手づくりポップもあってそちらにも興味をひかれたが、月・水・金限定ということで入荷がなかった。

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商売とはいえ鮨屋はそんなに早起きじゃないだろうという予感が的中してしまい、末廣鮨の折詰はまだ棚になく、仕方ないので「ようかんぱん」を一つ買うことにして、レジに持って行ったら、末廣寿司からできたての折詰を持った女性が配達に来ているところだった。やった!グッドタイミングと思い、レジの女性も清水弁でそう言っていた。

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「そのいなり寿司もらってもいいですか」
と聞いたら
「いなり寿司だけのと、いなり・玉子というのがあります」
とい言うので「いなり・玉子」にした。いなり寿司の数を減らして、かわりに厚焼き卵を入れてあるのだろうと思って買ったのだけれど、後ほど開けてみたらそうではなかった。

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駅前バスターミナルからしずてつジャストラインバス北街道線に乗るのだけれど、到着まで15分ほどあるし、日当たりのよいベンチがポカポカと春らしくて暖かいので、買ったばかりのいなり・玉子を開けて朝食にした。なんと菜の花色の玉子はにぎり寿司で、すし飯と卵焼きの間に赤い魚卵が挟んであるのが切り込みから見える。見た目もきれいだが味もすばらしく、いなり寿司も蓮根の歯ざわりと白胡麻の香りが効いていてたいへん品よく仕上がっている。これで420円というのは非常にお買い得で、買い込んで電車に乗るなら最強の駅弁かもしれない。

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バスが来たので乗り込み、清水の町並みを眺めながら富士製パンの「ようかんぱん」を食べてみた。中にあんこの入ったあんぱんの真ん中を凹ませてバタークリームをトッピングしたもので、そこまではありそうな取り合わせなのだけれど、上を覆うチョコレートのようなコーティングが、羊羹であるというのがユニークなネーミングの由来となっている。かつては静岡のパン屋でよく作られていた手間のかかるパンなのだという。

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このあと墓参りをして、静岡県立中央図書館にまわり、昼食も食べずひたすらマイクロフィルムリーダーで調べ物をした。午後三時になってそろそろ頭がしびれ集中力が切れて来たので、しずてつ電車で静岡に出て夕飯の買い物をし、鈍行列車に乗って帰ることにした。

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16 時 29 分発普通電車熱海行きが入線してきたがすでに満席で、座っているほとんどの客が降車せず、みんな静岡以西から乗車して来て、さらにその先まで行くらしい。熱海駅に着いたらみんな東京行きに乗り換えるので、この人たちは静岡以西から来て熱海以東まで普通電車を乗り継いで行く人たちなのだ。東京静岡間を普通電車で往復していると言うとよく呆れられるが、もっと遠距離を普通電車で移動する人たちもいるということだ。乗り継ぎは熱海始発なので辛うじて座ることができ、根府川あたりで長い一日が夕暮れとなった。

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