都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

ウラジオの女子大生

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 21:15 帰寮。時間外になってしまったので、バスの運転主氏に若干の追加料金を渡す。私たちも「スパシーバ(ありがとう)」を連発する。

 部屋に戻ろうとしてドミトリーの脇を歩いていると、上の方から「ハーイ」という声がかかった。女子学生5人が声を掛けてきたのだった。寮に住んでいる学生達で、よくわからん日本人がやってきてるという噂を聞きつけて声を掛けてきたらしい。S氏を中心にして、彼女たちとコミュニケーションを図りに行く。みんな19才くらいだという。

大学寮の女子学生たち

 ロビーでいろいろ話をする。S氏は早速ウラジオの地図を広げて街の見どころの話をする。

 なかなかいろいろな学生がいて、パラシュートをやっていたり、カヌーをしていたり、モスクワに留学していた女子学生もいた。出身地もさまざまで、ウスリースク、アルセーニエフ(共にウラジオから約100km、約250kmの町)、ヤクーツクなどロシア国内のあちこちだった。だから顔立ちもヨーロッパ系(白系ロシア)からシベリア系?、中国系、朝鮮系とさまざまだ。更にかなり混血もしている模様。夏にはダーチャという別荘に行ったりするのだという。ロビーはやや寒かったのだが、なんだか話が盛り上がってしまい、22:30頃まで話が続き、明日また交流することになった。

 24:30 日記をつけて就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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ウラジオの豪華サウナ

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 辛うじて水は出るが、本日もお湯は出ないとのこと。連日埃っぽい野外でフィールドワークをしているのに、ウラジオに来てからまだ一度も風呂に入っていない。未開の地や山岳、砂漠地帯とかならともかく、人口50万強の都市にいるのに風呂抜きである。だが、私たちが風呂に入りてぇ!と言っていたのを知ったのか、平和委員会(ビザ取得のための名目上の招待者)の人がサウナを予約してくれた。

 18:30 一同、勇躍サウナへ向かう。サウナは街からかなり離れた郊外にあるそうで、いつものマイクロバスは舗装の悪い道をかなりのスピードでぶっ飛ばして行く。でも馬力がないので上り坂になると十数人を乗せたバスはいきなりスピードが落ちてしまう。ここらへんなんだかこのバスは可愛い。

 ロシアでもいわゆる「ねずみ取り」をやっているようで、捕まっているのをところどころで見かける。そういえば駅前広場の片隅には交通事故の写真が数枚貼ってあった。事故直後の写真で死亡者の遺体かと思われるものがそのまま写っており、安全運転啓発のための写真とはいえ、そのあまりに直接的で、インパクトに訴えかけるやり方に非常に驚かされた。そんなものを見た後、不安定な感じでぶっ飛ばして行くバスに乗ったので、私は次第に目の前の把手をしっかり握ってしまった。とにかくサスペンションがあまり良くないのと、舗装が悪いため、体がピョンピョン跳ねてしまうのだ。

 ところでロシアの信号は青から青の点滅になり、それから赤になる。これは日本の歩行者信号のやり方と同じ。一方スタートの時は、赤から赤と黄色の両方の点灯に変わり(つまり赤に加えて更に黄色が点灯して)、その後で青になる。赤と黄色を同時に出すことによって「もうすぐ青になるぞー」と知らせるのだが、事実上この赤+黄でGo!になっていて、みんな走り出してしまう。そうなっている意味がなんだかよく理解できないパターンだ。

 19:00、サウナに到着。とても立派な建物でびっくりする。なんでもゴルバチョフやエリツィンが滞在したそうで、日本からは渡辺美智雄氏も来たというスゴイ所だった。

サウナの玄関ロビー(現地のパンフレットから)

 とにかく私は本格的なサウナというモノは初めてだった。いやみんなだって本場のサウナは初めてだった。サウナというものは、本当はまず暖室に入って汗をかくもので、そして水に浸した柏の葉で、軽く身体を擦ったり撫でたりしてよく汗をかき、次に冷水につかるのだ、とアレクサンドル氏が身ぶりで教えてくれた。そしてこれをくり返した後、最後にシャワーを浴びて出るものだという。

 私たちもそれに倣ってまず汗をかく。そして柏の葉で身体を叩く。でもなんだか変な儀式をしている様で妙に可笑しい。その後冷水につかろうとして正方形をしたプールに入ろうとしたが、これが非常に冷たい。プールは二つあって水温が若干違うのだが、どちらも結構冷たい。そして立たないと溺れてしまうぐらい深い。皮膚に温度差で刺激を与えて、毛穴を開いたり閉じたりするのが目的らしいが、この刺激は結構過激だ。下手をすれば心筋梗塞になってしまうのではないかと思ってしまう。結局冷たい方のではなく、ぬるいプールに浸かっただけでまた暖室に駆け込んでしまった。冷たい方にはK氏以外は結局誰も入らず、入ったK氏も冷たさからキャーキャー叫んでいた。

 サウナを出てからおいしいお菓子を食べてチャイを飲む。泊まることもできるらしいが、当然やたら高いという。泊まれるものなら勿論泊まりたいものだとも思ったが、珍しい体験をしただけで満足。広々としたサウナはとても気持ちよく、それに他と違ってここはかなり清潔だった。というわけで私たちはとにかく豪華なサウナを満喫して帰途についたのだった。

 20:45、サウナを出発。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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Free Time

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 16:50 元の港に帰着。17:00からまたフィールド調査かと思ったが、17:30には集合して夕食だというので、本日の調査はここまでとなり、Free Timeになった。そこでO氏とグム百貨店に行く。しかしあまり物がない。手頃なお土産や小物がないのだ。だからといって大きなものを買うわけにもいかないので、30RB(約12円)でカップを買う。本当にそんな物しか買う物がない。まあ、これならシンプルなので、ロシアにいる間でもなんだかんだで使えそうだ。ホテルでもコップがあまりきれいではないのでちょうど良いかもしれない。何だかサバイバルか、キャンプのような旅でもある。のどが痛くていまひとつ体調が良くないため、あまり楽しく百貨店の店内を見る気になれず、早々に外に出てしまう。

グム百貨店にて、レコード・楽器売場

 F氏の話だとギターが棚の上に並べられていて、数人の男の人が欲しそうにして見ていたということだ。そして見ているそばからどんどん売れて行くらしい。つまり、入荷すると待っていた人達によってすぐに買われて行ってしまうらしいのだ。ここでもこの国の物のなさを実感する。そしてやっぱりどこの国の人でも欲しい物は欲しいんだよなぁ、などとあたり前のことを思う。

 映画館の前の国営商店で、絵葉書2セットを40RBと30RBで買った。日本に送る分と自分の手元に置いておく分のことを考えると、もう1セット買っておけば良かったとこれまた後になって思う。I氏は同じ絵葉書のセットをなんと200RB(約80円)で路上の子供から買っていた。多分、国営商店で絵葉書を買って、それを何も知らない外人(つまり私たち)に転売しているのだろう。いわゆるダフ屋的なことを、子供までがやっているというわけだ。だからこの国はよくわからない。商店では売り物がそもそもあまりない状態だが、ダフ屋にはいろんな物が売られている。困ったものだ。

 映画館の前では宝くじも売っていた。ナンバー式のくじのようで、そこら中にはずれ券が散らかっている。くじを買っても当選発表の時まで滞在できるわけではないし、大体くじのシステムそのものが良くわからないので、僕らは買ってもしょうがない。スピードくじなのかもしれないが、当たっても為替レート的にほぼ意味がない。ただ、ちょっと面白かったのではずれ券を記念に拾って来た。滞在記念にはずれ券など拾ってもどうにもならないのだが、面白いみやげ物というのがほとんど無いので、こんなものでも面白く感じてしまう。

 17:30 中央広場に集合。バスでドミトリーに帰る。
 18:00 夕食。ピロシキが出た。皆、喜んで大きなのを2個も食べてしまった。うまい!。

#デパート・百貨店  1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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湾内クルーズ?

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 15:00 バスで港へ行き、湾内クルーズに向かう。
 15:20 港で一時解散。港には戦艦や病院船が係留されていた。一昔前までは外国人はこの街には全く入れなかったという。ましてや軍艦が停泊しているのを間近に見るなどということは不可能な話だった。しかし時代は変わり、軍艦を近くで平気で見ることができ、写真さえ撮ることができる。実はこの軍艦は燃料不足であまり動けないらしい。それは軍艦じゃないよなーとか思うのだが・・・。ただ、後年、調べたところでは、この船は展示用のもので、ほんとの艦船は金角湾のもっと奥や少し離れた島の湾にいるらしい。

S-56潜水艦  Google Map
Wikipedia - S型潜水艦

 I氏と周辺を散歩する。波止場には使われているのかわからない線路があった。港湾関係の引き込線らしい。
 近くの公園には第二次世界大戦当時も使われていた潜水艦が展示してあった。地元の子供たちと一緒になってF氏らは潜水艦内部を見学。公園の片隅に小さなバラックの箱のような建物があって、その中には西側のゲーム機があり、これで遊んでいる子供たちもいた。しかし日本人にはこの小さなボックスという物もよくわからない。コインを入れると自動的に遊べるシステムに恐らくなっていないのだろう。管理のおじさんにお金を払ってボックスに入るシステムである。時間が来ると店のおやじが「はい終わり」というのだが、子供が「もうちょっと!」とかいってボックスの中から叫んでいるようだった。日本では無人化されているような物事の全てが、やや前時代的なのがとにかく印象的だ。
 しばらくしてから波止場に戻り、レモンジュース(30RB)を買う。

 16:00、船に乗る。 さきほど船着き場でも見ていたロシア極東艦隊の駆逐艦?を前方から間近に見る。隣には白い病院船もいる。

係留されている艦船  Google Map

 ウラジオにはミンスクという有名な航空母艦があったのだが、この日は見ることができなかった。ミンスクは冷戦時代はしばしば日本近海で示威活動を行い、そのたびにニュースその他で大々的に報じられた航空母艦だ。街のそばに停泊している駆逐艦などとはけた違いに大きいはずなのだが、見ることができず残念だった。

 ところが帰国後しばらくして、ミンスクは既にお役後免になっていたことが報道された。なんでも最期は機関が壊れて動けない状態だったということ。最強とも呼ばれた艦船の最期としては哀れな感じ。スクラップとなるべくインドに曳航されてしまったという話だったが、更に解体費用をめぐって交渉が決裂し、しばらく海上のゴミ状態になってしまった。その後、今度は韓国企業にスクラップとして売却されたがそこでも解体されず、更に中国企業に転売され、なぜか中国の深センで軍事テーマパーク・ミンスクワールドとなったのだという(2011年現在も営業してるんだとか。)。

 またミンスクは、現在アメリカが保有するような超巨大航空母艦ではなく、基準排水量 36,000tの、キエフ級航空巡洋艦と呼ばれるものだったという。とはいえ、旧ソ連では最大級のいわゆる航空母艦だったようだ。

Wikipedia - ミンスク (空母)

 湾内には水中翼船も高速で走っていた。湾が非常に細長いので、街の中心と対岸の交通のために、結構、船が使われているようだ。乗るんだったらむしろこっちの方に乗りたかったかも。

渡し舟から港と中心市街地方面

 しかしどうも様子が変だった、というのは一般人も大勢その船に乗っていたのだ。湾内クルーズだと言っていたので、チャーターしてくれたのかと思っていたら、全然、そんなものではなかった。また観光船でも無いようで、地元の普通のおじさんやおばさんが、買い物のためか仕事のために乗船していた。当然、船は金角湾を周遊したりせず、そのまま湾を出てとなりの湾へと向かってしまった。要するにこの船は、湾内クルーズなどではなく、単なる渡し舟だったのだ。そんなわけで、金角湾の奥の方にいる潜水艦や軍艦の姿を見ることはできなかった。残念だったがまあ仕方ない。何日かするとこの程度ではさほど驚かなくなってくる。

古いタイプの荷揚げ用クレーン群

 船の甲板から港を見ていると、形がやや異なりきれいに塗られたクレーンが一部にあった。私がそれを指してあれは新しいタイプのクレーンだと言ったら、何だかみんなとても驚いていた。F氏が「メーニアック!」などと笑い叫ぶので参ってしまった。型が違うのぐらい大した知識ではないんだけど・・・。ウラジオ港では、コンテナが日本ほどは使われていないようだった。クレーンが巨大な網でざっくり農産物の袋を吊り上げていたり、一つずつ荷揚げしているような状態で、そのへんも、いつのまにか西側とかなりのズレができてしまっているのだなと感じられるのだった。

浮きドックでは船舶の修理中?

 湾内にはいくつかの浮きドックも見られた。極東最大の港は同時に最大の造船所でもあるらしい。
 後で聞いた話だと、金角湾の奥には維持ができなくなり使えなくなった潜水艦が何隻も沈んでいるということだった。それって原子力潜水艦なの?。で、また後日、ウラジオ近郊の別の湾で、沈んでいた原潜から放射能が漏れていたとの新聞記事が出て、またまたビックリ。

 16:20 隣の湾の最奥部に到着。当たり前だが、ほとんどの人はここで下船してしまった。しかし僕らはここで降りてしまうと戻れないので、下船せずにまたもと来たルートを戻る。16:30に出発。わりあいきっちり30分おきに行き来しているようだ。渡し舟で湾の外まで出たことで、街の周辺の様子は何となくわかったが、皆、湾内クルーズだとばかり思っていたので、その落差は激しく、なんだか残念な船旅となってしまったのだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #船  #海・川・池 
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昼食

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 13:30 中央広場に集合。今日もドミトリーまで戻って昼食をとる。

 14:00 昼食。今日は赤カブのサラダ、タマネギと粟(アワ!)の炒め物と、ハンバーグ状!のもの(肉はほとんど入っていない。)。

 やはりあまり味がしない。しかしこれでもなお、庶民の食べ物より豪華なのだそうだ。アプリコットだかリンゴのジュースがとろっとしていておいしいのが救いで、これを飲んでは味のない食べ物を口に入れるということの繰り返し。

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Field 調査 アレウツスカヤ通り4

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

 セメノフスカヤ通りとの交差点に出る。ここで交差点のパノラマを撮影する。

セメノフスカヤ通り交差点のパノラマ1(東から南方向)  Google Map
左手の交差点角地はコルホーズ広場。写真右手の道を進むと駅。

 写真を撮っているとおばさんが近づいてきて、大きな声で何事かを私に問いかける。しかし当然私はその意味を理解できない。先日のカードを見せると更にいろいろ大声でまくし立てる。多少耳が遠いらしいので大声なのは仕方ないが、私が言葉が判らず、英語でわかんないよと言ってもなおも続けて話すのには閉口する。別のおばさんが通りかかり、こちらもロシア語で取りなしてくれるが、それもほとんど判らない。言葉ができないとやはりエラク不自由だ。言葉が通じないのが判ったら、諦めればよいのになぜかその後も長いこといろいろまくしたてていた。埒があかない。

 また連続写真を撮ろうとカメラを横にスライドさせて撮っていたら、これと丁度同じように画面を横切るおばさんがいて、後で写真が出来上がってみると、全ての写真におばさんが写り込んでいたので笑ってしまった。

セメノフスカヤ通り交差点のパノラマ2(西から北、東方向)
写真中央、交差点の直下を鉄道(シベリア鉄道)がくぐっている。

 ウラジオの公園・広場の多くはヨーロッパのそれとは違って、交差点に面した角地を広場や公園にするものなので、どうも収まりが悪い。近道をするために公園内を通り抜ける人は結構いるが、休息の場所にはあまりならないようだ。ソビエト時代に、従前の建物を取り壊して作られたものらしいが、どうも不思議な状態になっている。

 交差点付近の道路上空にはワイヤーが張ってあり、そこに星形の飾りつけがされている。電飾ではないかと思って、後で添乗員のS氏に尋ねてみると、年に数回の記念日にのみ点灯する物らしい。折角つけているのに何だかもったいないことのように思う。それならイベントの直前に設置すればいいじゃないかとも思うがそうではないらしい。また年中点けてればいいのにとも思うが、それもだめらしい。だいたい電気が不足気味で、そういう景気の良いことはあまりできないのかもしれない。ハレとケがはっきりしていること自体は良いことなのだが・・・。

建物壁面に固定された信号

 ウラジオでは今まで自動車が少なかったせいか、信号機は主要な交差点にしかない。日本のものとは違って、歩道上の人の背丈ほどの低い位置に設置されている物が多く、建築物の壁からアームを出して支持していることも多い。ぼんやり歩いていると背の高い人ならぶつかってしまいそうなものが壁から張り出している。また歩行者用信号などに並んで立てられていることもある。一方、市電やトロリーバスの架線は壁と壁を結ぶワイヤーによって中空に張られている。一部では街灯もワイヤーで吊されている。

旧日本軍の建物  Google Map

 その後、頑張ってアレウツスカヤ通りを更に2本上の道まで行ってみた。フォンタンナヤ通りとの交差点付近には、昔、日本軍司令部が置かれていた建物があった。ソビエト時代に大増築されたそうで、私たちの訪問時は警察関連の施設だったという、なかなか立派で大規模な建物である。(2011年時点では沿海地域総務事務所(Panoramio掲載の写真タイトルからの直訳))

ボロゴイ通り交差点付近から山手方向  Google Map
正面奥は極東総合大学(現在は極東連邦大学らしい)

 坂を上った最後のところは時間切れになったのと、地図が大幅に違っていたという事情で調査しきれなかった。仕方なしに中央広場に戻る。

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#階段・坂 海外  #古い建物 海外  #街並み 海外  #道  #パノラマ 
#大学  #オフィス 
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Field 調査 アレウツスカヤ通り3

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

スヴェトランスカヤ通り・アレウツスカヤ通り交差点北東角
旧ゾロトイローグホテル (2枚の写真を接合)
建設年:1906〜1907
Google Map

 アルセーニエフ歴史博物館付近はやはり賑やかだ。とりあえず人が多いので、どちらかといえば危険度は低いと考えて良く、駅周辺に比べてほっとする。今日はピロシキ売りのおばさんはいないようだった。

 交差点に面した建物は皆、角地を意識したデザインが施されており、ヨーロッパ風の街路を作り出している。しかしやはりここは極東の地、ミニヨーロッパを作ってもどうしても別の物ができているように思われる。自分自身がこの時点ではヨーロッパに行ったことがなかったので、どの部分が違うのかははっきりとはわからなかったのだけれど・・・。

アレウツスカヤ通り西側の廃墟

 旧ゾロトイローグホテルはこの時は廃墟状態だった。道の反対側(西側)の建物も同様に廃墟状態。しかしその後、資本主義化が進み外資の導入などもあって、街並みはきれいに改修され、この建物も保存され再度活用されるようになったと聞く。

旧ジェルジンスキークラブ (アレウツスカヤ通り側、2枚の写真を接合)
建設年:1908年
旧ジェルジンスキークラブ (フォキン通り側、2枚の写真を接合)
Google Map

 私たちの間での呼称「ARE10」の建物に入る。ARE10はS氏がウラジオの調査用マップを作成したときに、便宜上ふったナンバーで、アレウツスカヤ通りで10番目にチェックすべき建物ということ。ジェルジンスキークラブといい、昔キャバレーだった建物であることを帰国後に知った。この建物には地下がある。地下を少し見た後、1階、2階と上がる。変な迷路状になった建物で結構面白い。アパートの部屋がそのまま店になったような感じなのだが、とにかくどの部屋も狭くて薄暗く怪しい感じ。またどの部屋もきつい煙草の匂いと、ロシア人特有の体臭が充満していて、正直言ってあまり気持ちよいものではない。

 地下にいた可愛らしい小さな黒猫を撫でていたら、おばさんが何やら言って笑いかけて、そのまま去って行った。言葉はさっぱり分からなかったが、気分が通じていた感じでちょっと穏やかな心持ちになる。

混雑するバス停周辺
フォキン通り交差点からアレウツスカヤ通り南方向

 バスはみんな寿司詰め状態だ。トロリーバスや市電が道の中央で止まると、乗り降りの人々に遮られて後ろの車も脇の車も全て止まってしまい、すぐ渋滞が起きてしまう。また小さな交差点には信号が少ない。当然、そういう場所には歩行者用信号などなく、これまた決死の横断となってしまう。停止線もゼブラも消えてしまっていて見えない。でもバス停のあたりにだけは信号があったりする。よくわからん。

 しかし、いかんせんノドが痛い。おまけに頭痛までしてきた。熱っぽくて今日は参ってしまう。O氏もこれまた調子を崩してノドが痛いと言い、声が出なくなってしまっている。口の中がヒリヒリするのが最もつらい。1ブロック終了させたところで、東西方向のフォキン通りがキオスク状の店舗が立ち並ぶ地域だったため、少々の休憩も兼ねて入り込む。

フォキン通りには街路樹があり、キオスクが建ち並ぶ場所もある。
Google Map

 キオスクでチョコレートを買う。ノドが痛いので口の中に何か入れたくて仕方がない。チョコレートぐらいはロシア製かと思ったらドイツ製だったのでまたちょっと驚く。270RBと他の物の相場からするととびきり高いのにも頷けるものがある。でもってやっぱりおいしかった。喉を潤したかったが、この時は残念ながらジュースは買えなかった。O氏はタバコを買ったが、両切り煙草でまずかったと言っていた。

 線路が下の方を通っている路地で休憩していたら、F氏、I氏、K氏のチームに出会う。向こうのグループも結構疲れていた。少し話をした後、また別れ別れになって調査を続ける。

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#古い建物 海外  #街並み 海外 
#商業系  #道  #自動車
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Field 調査 アレウツスカヤ通り2

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok

極東海洋船舶局  Google Map

 更に行くと極東海洋船舶局の建物がある。屋上には組織のマークと、旗をデザインしたような看板があり、数本のアンテナが立っている。港湾内の船舶との通信に用いるのだろうか。実際にどのように使われているかどうかはわからないが、いかにもそれらしい風情だ。

17番の住居(東南側から)  建設年:1938年
"The 2nd Gray Horse" apartments building
右端空中にあるのは街路照明灯
17番の住居(北東側から)  Google Map

 更に少し北へ行くと、通りの西側の一段高くなった場所に、8階建てぐらいの共同住宅(17番と19番の住居)が2棟並んでいる。この2つの建物、シンメトリーで様式的なデザインをまとって、立派な佇まいを見せている。こういう建物を見ると、なんだか単純に格好いいなぁと思ってしまう。現在、現地の人がどう思っているかは知らないが、豆腐型のモダニズムオフィスや似たようなマンションだらけになった日本にいると、昔の様式的な建物を魅力的に感じることが時々ある。

 しかし共同住宅というにはやや不自然な立派さで、妙に気合いの入った装飾がなされているので少々驚いてしまう。屋上に人物像がついていたり、様式的なベランダやバルコニーがついているが、これはソビエト時代にプロパガンダ的に芸術的な姿の共同住宅が建設されたのだそうだ。また後に、これらはいわゆるレーニン様式で建てられたものだったということを知った。

19番の住居 (2枚の写真を接合)  Google Map
"The 1st Gray Horse" apartments building
建設年:1935〜1938年
屋上に掲げられた文字の意味は不明。

 19番の住居の方は、1Fが店舗になっているようだ。日本で言うところの、いわゆる下駄履きマンション。一方、住人がアパートメントに入るには、両者とも薄暗い裏側の入口からエレベーターで上がるようになっている。外観は立派な建物だが、住民用の入口がやけに地味な感じだったのは少々意外だった。

 ところで、当時、まだウラジオストクへの旅行者はほとんどおらず、いわゆる観光ガイドブック的なものはほとんどなかった。建築ガイドブックなどというものも当然無い。ただ、現地の人々が読む、旅行記風ガイドブックはあった。ロシア語で書かれたこの「こんにちはウラジオストク」という本を、案内通訳の方が和訳したものを見て、めぼしい建物をチェックしたりしていたわけだが、それに「次は17番の住居を見てみよう。」とか書いてあったのだった。でも17番の住居とか、19番の住居ってのは、建物名としてはどうも変な名前だ。後から良く考えてみると、どうやらこれはアレウツスカヤ通り17番地に建っている集合住宅という意味だったらしい。

 日本だと集合住宅には「中野ブロードウェイマンション」とか、「ヌーヴェル赤羽台」などという、固有名称が付けられていることが多い。場合によってはちょっと恥ずかしくなってしまうような名前だったりすることもあるが、「17番の住居」という呼び名しかないのだとしたら、逆にこれはちょっと素っ気なさ過ぎるんじゃないかと思う。ウラジオの中では装飾に力を入れて建てた建物なのに、番地だけかよ・・・。ただ、資料が旧ソ連時代の限られたものなので、或いは名前があったのに、私たちがよくわかっていなかっただけなのかもしれない。

 一方、地図の方はというと、旧ソビエト及び、その後しばらくの間のロシア渡航関係を一手に引き受けていた、インツーリスト社によるガイドマップは手に入れることができた。しかしウラジオは軍事都市であり、1990年頃までは外国人の立入ができなかった街だ。様々な施設の位置を示す地図は当然軍事機密で、結局、距離や街区規模が正確な地図は簡単には手に入らず、かなりアバウトなガイドマップを使うしかないのだった。

 後日、ネットで検索していたら、この二つの建物は、The 1st Gray Horseと、The 2nd Gray Horse という二つのアパートらしいことが判った。第一・第二灰色の馬(もしくは葦毛の馬)アパートっていう呼び名らしい。詳細な由来は知らず。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外  #街並み 海外  #住宅系  #集合住宅 
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Field 調査 アレウツスカヤ通り1

1992-10-07 | ロシア  

1992.10.7(Wed) Vladivostok ウラジオストク第3日

 8:30 起床。のどが痛い。風邪をひいたか?。朝はやはり寒い。集中暖房なので、自分でコントロールすることはできない。暖房は入れないのかと尋ねたところ、10月はまだ暖房を使う季節ではないとのこと。そのへんの感覚は日本人とは全く異なる。お湯に関しても集中的な供給体制になっている。お湯が出ないのはウラジオ市の熱供給施設が本格的な冬を前にしてメンテナンスを行っているためだという。1ヶ月間お湯が出ないというのも結構すごいことだ。あ〜あ。

 9:00 朝食。だいぶんロシア食にも慣れてきた。風邪で鼻が馬鹿になると、やたら酸っぱいサラダなど、やや苦手な食べ物でもあまり気にせずに食べられるようになってくる。

ウラジオストク駅構内  Google Map

 10:00 フィールド調査へ向かう。20分後、中央広場でバスを降りて、各調査班はそれぞれ通りへ向かった。私もO氏とアレウツスカヤ通りを南の方から調査するべく行動を開始する。最初に駅へ行く。中央広場から見える長い跨線橋を渡って線路を越え、駅の表側へ出る。

郵便局  Google Map

 O氏は駅前の郵便局で絵葉書を出す。全部で4枚、これで60RB.=24円。全く安い。郵便局の内部は、一昔前の日本の郵便局の様に殺風景で、役所然としている。事務員の応対も何だかつっけんどんで、お世辞にも心地よいとは言えない。しかしこれからはこういうのも少しずつ変わるのかなと期待を持っておくことにする。

アレウツスカヤ(Алеутская・Aleutskaya)通りにて
Google Map
木造2階、下見板張りの古い建物(1920年代以前)。
通りには日本車も多い。

 駅近くの中心部にも木造下見板張りの2階建ての古い建物がある。レンガの煙突があるので、どうやら暖炉で暖房をするようだ。

 秋の日差しは日中だというのに何だかとても頼りない。駅から歴史博物館や美術館のあたりまでの間は、午前中は日陰ができ、また駅周辺なので、どうも溜った雰囲気がある。朝鮮系の人が声をかけて来る。どうやら取り引きらしいのだが、良くわからない。話が通じないとみると、「ニッポニア?」と訊いて来る。そうだとわかるとチェッと一言二言吐き捨てて立ち去っていく。なんだか極めて不愉快な場面だ。ロシア人も物陰に隠れてこそこそ何かやっている。様子がおかしい。ちょっと危ない空気を感じて僕らもそこを離れる。因みに後年、この近辺ではベトナム人が増加したとのことだ。外国人では、朝鮮系、中国系、ベトナム系と、やはり旧東側系の人々が多い。

 道を渡ろうとするが車が多くてなかなか渡れない。道路中央にある市電の軌道のあたりに立ち止まってしまうと、その内に電車がやって来てしまい、慌てて反対側まで無理矢理渡ってたどり着くことになる。O氏は歩幅×歩数で道幅を測ろうとしてやはり道路中央で立ち往生したが、歩みを変えることなく最後まで渡り切ることに成功した。しかしこのような行為をそうそう何ヶ所でもやれる訳ではないので、この測量はここ一ヶ所にとどめることにした。道のずっと先を見ても大して道幅が変わっていなさそうなので別に構わないだろう。

沿海地方美術館(1899〜1903に完成)
後方は沿海州共産党本部ビル

 沿海地方美術館の脇の路地の坂で、トラックが荷台からじゃがいもを落としてしまい、大量のじゃがいもが坂をごろごろ転がっていき、運転手が慌ててそれを追いかけていた。坂道に止まったトラックの荷台のストッパーが外れてしまったのだろうが、日本ではトラックの荷台に直接芋を積むこと自体がまずないので、こんな絵に描いたような珍事は起こらない。しかし今考えてみるとこのような場面こそがいわゆる「決定的瞬間」なのかもしれない。その時すかさず写真を撮っておけば、かなり印象深いものになっただろう。でもその時はただひたすらに「あーっ、落ちちゃった!」であって、またその次の瞬間には、拾ってあげたいのはやまやまだけど、言葉通じないからなぁ、であって、写真を撮るなんてことは全く考えなかったのだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #鉄道  #郵便局 
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