都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

ホテル チャイカ

1992-10-03 | ロシア  
 ホテルチャイカに21時過ぎに到着。そのときS氏が「あっ」と言って、慌てて乗って来た車に戻り、通訳と共にレストランへ戻って行った。何のことかと思っていたら、今回持ってきたフィルムが入っていたバッグを、先ほどのレストランに忘れてしまったとのことだった。
 ロシアでは日本のフィルムは購入できないと言われており、私達はフィルムを日本から全て持って行ったのだが、研究室持ちのフィルムは全てS氏が所持していたのだった。ここでフィルムが失われてしまうと、せっかくのロシア調査が全く出来なくなってしまうのだ。結局、S氏が1時間後にフィルムを持って戻ってきたので、一同ほっとしたのだった。

 F氏と212号室に泊まることになる。しかし窓がうまく閉まらない!。そのためすきま風が吹き込んでしまい、とても寒い。ヒーターは少し暖かいが、それでも15~16℃位にしかならない。F氏が、窓が割れそうなほどの強さで窓枠を蹴ったのだが、やはり閉まらない。カーテンを外して詰めてみたりもしたが、やはりすきま風は止められず、次第に寒くなる一方だった。

 だいたい部屋の前に来た時にまず扉が開かない。不思議なことに、キーを3回ぐるぐる回さないと鍵が開かない。しかも多少のこつを必要とする。他人が入れないのは良いが、下手すると自分まで入れないから困ったものだ。更に水もお湯もうまく出ない。トイレは冬期仕様でもないのに、水が常時チョロチョロ流れているという有様。お湯が出た部屋もあったが、そのお湯も錆びだらけで、バスタブにお湯を溜めたら、湯舟が真っ赤。なんだかすごい所に来ちゃったものだと思った。先が思いやられる。

 とりあえず部屋に落ち着いて、それから何故かお金の整理をする。空港での両替で、5,000円がおよそ12,000RBになったのだが、大きな金額のルーブル紙幣はあまり出回っておらず、小額紙幣が多いので、大量のお札になってしまい、札束というものを初めて持つことになった。そうなると、明日以降の身の安全を考えて、お金を小分けにする作業が必要になる。日本円にすれば5,000円でしかないのだが、ロシアではなかなかの大金なのだ。奇妙なことだが、みなほとんど同時にお金の整理をし、床一面にお札を並べてみたりしていた。
 一方、F氏は日記を書き始める。普段あまり片づけをしないと言っていたのに、まめに日記を付けたりするので、これはやや意外。ただ日記といっても絵日記みたいなものだったけど・・・。

 結局、やはり寒過ぎたため、F氏と私は他の部屋にお邪魔して寝ることにした。H君の部屋に、ベッドのクッションごと持ち込んで寝る。シャワーも使わせて貰ったが、やはり湯加減のコントロールは相当難しかった。もとの部屋よりは暖かかったが、やはり床付近は冷たい。寝ていてちょっと寒いなぁとも思ったが、疲れていたのでそのまま寝てしまった。
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韓国料理店「Seoul」

1992-10-03 | ロシア  
 ようやく空港の外に出る。手配した通り、現地の案内の人が来てくれているかどうか心配したが、そこは大丈夫だった。初めて話をすることになったロシアの人々に対しては、やっぱり最初はちょっと胡散臭さを感じてしまって、信用して良いものかどうか不安でもあった。日本語が妙に上手で、「じゃあ、ぼちぼち行きましょか。」などと関西弁もどきでやられると、詐欺師なんじゃないかなどと危惧してしまう。迎えの車3台(日本車だった)に分乗して食事に行くのも、何となく不安なのだった。

 現地の案内は「フォンド・ミーラ」という組織だという。「フォンド」は「基金」、「ミーラ」は「平和」なんだそうな。つまり「平和基金」。そういえばフォンドはファンドという英語に似ているし、ミール「平和」というロシアの宇宙船もある。極東には、第二次世界大戦時もしくは戦後に、ソビエト国内で戦死または抑留中に死亡した日本人兵士の墓が多く、墓参団が日本からしばしばやって来る。平和基金はどうやらそれに対応すべく創られた組織であるらしいというのが、こっちに来てようやくわかったのだった。こちらとしては、観光&調査旅行のつもりなのだが、現地の団体に招待されたという形を取らないと、旅行自体が難しいらしく、便宜的に墓参団体の関連団体という扱いになっているらしい。これが、あとあと、ツアーにちょいちょい影響を及ぼすことになるとは、最初は全然考えていなかった。

 何故か食事は韓国料理を食べに行くという。実は韓国料理を食べるのは結構なおもてなしなのだそうである。ちょっと前まではやはり食べられなかったらしいのだ。ロシアで韓国料理というのも、少し不思議な気がしたが、食べられる内に良いものを食っておこうと思う。とにかくとても寒いので暖かくなるのは歓迎である。ところがG先生とF氏、そして私の3人が乗った車は、途中から他の車とは違うコースをたどり、レストランに着いてしまい、私たちはとっとと席に座ることになってしまった。

 韓国料理店「Seoul」は、ハバロフスクの中心部ではなく、郊外の住宅街の真ん中にある。夜中に暗い住宅街の中へ入って行き、夕食をとるというのは、なんだか非常に不思議である。窓の明かりの感じが少し韓国色を漂わせていたが、ネオンサインや看板は何もない。建物の入口は薄暗く、木製の厚い扉を押し開けると、学校の階段室のような所になっている。人けのない中を更に奥へ進み、階段を4、5段上るとようやく食事の気配がした。

 建物の中はやや暖かく、もちろん韓国料理の匂いがした。テーブルはゆったりしていて、店内は予約のためかがらがら。だが、レストランの外では寒い中、地元の人々が並んで待っている。予約である私たちは、暖かいレストラン内にとっとと入ってしまったが、扉の外にはやや虚ろな表情で中を覗き込む人々がいて、それを見るとたちまち複雑な気分になってしまう。結局、みんな予約席だったらしく、後から朝鮮系の家族がどっと入ってきた。その向こうの入口では、相変わらず予約無しのお客さんが、おとなしく我慢強く待っていて、全く申し訳ない気持ちになってしまう。大体予約なしの場合、2時間以上並んで待たないと食べられないというシステム自体理解不能である。しかも何故そうまでして並ぶのかも、よく分からない。実は、行列のできる有名店だったのだろうか??

 しかしいくら待っても他のメンバーが現れない。いきなり3人だけになってしまい、何か非常に心細く感じてしまう。後に親しくなったアレキサンドル氏が、しきりに心配して席を離れ、他の車が来ないか見に行く。しかし私などは、彼が席をはずすと逆にまた不安になるのだった。初めての町で、夜しかも外が非常に寒く、言葉が全くわからないという状況で取り残されるのは極めて不安なものである。一刻も早く他の面々が現れないかと、落ち着かない思いを抑えながら、僕らはお預けを食った状態で待ち続けたのだった。

 他のメンバーは1時間近く経ってからようやく現われた。よく聞けば、今夜泊まる予定の「チャイカホテル」に先に行って、Check Inを済ませてからこちらに来たのだという。私たち3人の車と意思疎通が図れていなかったため、途中で別行動になってしまったのだった。安堵しながらも、前途多難だなぁと思いながら夕食にありつく。

 20時を過ぎるとステージにバンドが現われ、ロシア系の民謡や「枯れ葉」なんかを始めた。エレキギターは設備が不備なため、音がわれて聞くに堪えない。キーボード、ベース、サックスも入っていたが、ドラムは簡単なドラムマシンで代用されていた。そうそう「釜山港へ帰れ」もやっていた。朝鮮系の人はそれで踊ってたりしていた。ふーむ、ロシアも早くもアジアの一員化してたりするのねーと思ったりしたのでした。

 バンドの楽器をよく見ると、ベースは巨大な三角形の胴を持ったものだった。ロシアの民族楽器にはバラライカという三角形のギターがあるが、これはさしずめ、バラライカベースないしは、バラライカコントラバスとでも言うべきものだろうか。とにかく一辺が1m程度もあり、チェロかコントラバスのように、抱えるか立って弾かねばならない。持ち運びがエラク大変そうなバラライカのお化けである。S氏はやはり楽器には目がなく、後日ウラジオで、これを弾かせてもらっていたのだった。

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ロシア入国

1992-10-03 | ロシア  

 ハバロフスク、ウラジオストクと日本の時差は+1時間。飛行時間は2時間。日本時間で16:35、現地時間の17:35にハバロフスクに到着。こちらの空港も、タラップをおりてから空港ビルへ向かってトコトコ歩いて行かねばならない。

ハバロフスク空港

 空港ビル内で入国審査、荷物引き渡し、税関審査をする。入国審査の前にホールのような所に通されて、しばらく待たされた。本館の建物はかなり古い建物。ホールの天井もクラシックな感じだ。入国審査に近いゾーンはたいがい撮影禁止なのだが、審査待ちの間、同僚がホール天井の写真を撮っていた。しかし特にお咎めなし。帰国時には金属探知器のゲートのところでも図々しく写真を撮ってしまっていたが、これも何も言われなかった。ロシアは個人の行動に厳しい国なのかと思っていたのだが、なんだかこのへんは日本よりルーズかも。

ハバロフスク空港ホール

 入国審査は一人一人至極丁寧で時間がかかった。パスポートと顔を何度も見比べて、更に手元の要注意人物リストも何度も見て、ということをされるので、待っている私はそれだけで緊張してしまった。

 この後、荷物を受け取る。早くも日暮がやって来て、急速に外は暗くなる。薄暗い中、飛行機から荷物を下ろす様子が見える。日本のように大型フォークリフトでまとめて下ろすのではなく、飛行機の上から手作業で一つ一つ下ろしているのだが、それが何とも乱暴な降ろし方だった。麻袋は機上からトラックへポンポン投げ落とされている。スーツケースも似たり寄ったりで、がんがんトラックに積み上げられる。そりゃスーツケースはなかなか壊れないけど、中身がめちゃくちゃになりそうで一気に不安になってしまう。おまけに私たちの荷物は最後にされてしまい、なかなか出てこない。本当に大丈夫かどうか非常に不安になる。

 次は税関だが、こちらも非常にうるさい。とりあえず私はスーツケースを開けずに済んだが、カメラ、時計に関してはリストアップが要求された。ロシア国内に多数のブランド品を持ち込んで売りさばこうという事例があるためか、個人的なカメラまで、一台一台チェックしようとする。「カメラの会社名は?」などと妙な日本語で聞かれ、「PENTAX。」と緊張気味に答えると「Good。いいカメラですね。」とやられる。緊張をほぐしてあげようと言う配慮なんだろうか?、ここら辺がよく判らない。そんなやりとりはいいから、早く通してくれよー、という感じ。

 続いて両替である。日本国内ではルーブルは用意できない。もし仮にできたとしても短期間に目減りしてしまう可能性がある。円:ルーブルのレートは1円=2.5ルーブル(RB)だった。町中の大きな銀行では両替できるということ、またあまり使う機会もないということ、最近はドルや円が直接使えたりして、ありがたがられることもあること、帰国時に、ルーブルから円への両替ができない可能性が大であることなどは事前に聞かされていた。

 今回、宿泊先などは既にツアー予約してあり、食事も大半がツアー代の中に含まれていた。市内の移動もチャーターしたマイクロバスを使う予定が多く、本当にお金を使う場面は限られたものになることが予想された。自由時間にタクシーやバスに乗ったり、買い物をしたり、少々の飲食をしたり程度しかない。だいたい、外国人旅行者が少ないウラジオには、観光地とか土産物屋自体がほとんどない。お土産にしたいと思うようなブランド品なども無いのだから、いったい全体、何にお金を使えば良いのだ?という状況。

 そんなわけで、私たちのうち半数以上が、たった5,000円しかルーブルに両替しなかった。その中ではF氏が15,000円を両替したのが目立った。非常に少ないと思うかもしれないが、結局、私はこの5,000円だけで事たりてしまったのだった。

 万事作業がゆっくりで、全てが終わったのは19:30頃。飛行機が飛んでいたのは約2時間だったが、入国するのにも約2時間もかかってしまったのだった。ウーン、こういう超お役所的体質が、社会主義国の常なのだろうか。ロシアってそういう国なのねと、早速、気づいてしまったのだった。

Google Map ハバロフスク空港

#飛行機
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アエロフロートでハバロフスクへ

1992-10-03 | ロシア  

 14:15、搭乗開始。待合室から外へ出て、バスに乗って駐機場に停まっている飛行機の脇まで行き、タラップをトコトコ上って機内へ。羽田や成田にあるような、ブリッジで搭乗するタイプではなく、いたってのんびりした搭乗。そこでいきなり飛行機をバックに記念撮影。

新潟空港にて、アエロフロート・ツポレフ154と記念撮影

 新潟-ハバロフスク間に就航している飛行機は、アエロフロートの中型旅客機で、ツポレフ154(TU-154)だった。空港で手に入れた機内誌によると、3発のエンジンで、時速945km、飛行高度は11,000m、航続距離4,000km、約170人を乗せるという。ロシアにはイリューシン62(IL-62M)というタイプの旅客機もある。それに比べると航続距離では劣るものの、多少速度が速くしかも多くの人を乗せられるようだ。もちろんジャンボやエアバスにはかなわない。世界の大半で使用されているのは、ボーイングやエアバス、ダグラスなど、西側の国で造られた飛行機だが、アエロフロートを使うと、ロシア製の旅客機に乗ることにもなる。というわけで、私たちが乗った飛行機は、国内線の中、近距離用のものだった。

 機内は狭い。他の飛行機に全く乗ったことがないので何とも言えないが、これは予想以上に狭いものだった。私の座席は非常口のそばの窓際で、部分的に座席の配置が不規則になっている場所だった。非常口の扉の密閉が少しだけ不完全なのか、シュルシュルという音がしていた。

 14:35、離陸。初めての飛行機は、あっという間に上空に達した。日本海北部の上空では低気圧の中を通ったため、揺れが多くちょっといやだったが、後半に大陸上空にさしかかると、海と陸の境が地図を見るように良く見えて感動的だった。また、雪を頂いた山脈や、蛇行する川、はっきりとはわからないが、山間部の集落や、森林の中の道路なども見えて、初めて体験する飛行機からの景色は素晴らしかった。

 しかし機内がなんだかかなり寒い。飛行機ってこんなのを我慢してなくちゃいけないのかなぁ、と不思議だったが、他のメンバーによくよく聞いてみると、他の飛行機ではまずないことで、やっぱりロシア-社会主義だからなのだろうということだった。うーむ、早くも生活状態の違いを想像させるものがあるであるなぁ、とまたまた少し不安になる。大体、機内のじゅうたんがきちんと留まっていなくて、クチャクチャになっていたり、壁の部分も粗末な感じのボードが貼ってあるだけで、いかにも壁の厚さが薄そうだったりして、頼りないことこの上ない。そして非常口のガラスをよくよく見ると、この寒さのために機内の水分がガラス回りの金属部分で結露し、一部は氷になっているのだった。これにはさすがに驚いた。どうりで寒いわけだ。

#飛行機
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上野から新潟へ

1992-10-03 | ロシア  

 ロシアへの旅行前日、大学から帰宅後、一眠りして、ウラジオ行きの準備をする。もっと早く準備をすれば良かったのだが、ぐずぐずしていたため、前日になってようやくパッキングをした。準備に手間取り、結局徹夜になってしまう。初めての海外旅行がロシアでしかも極東のウラジオストクである。他のほとんどのメンバーも行ったことが無く、情報が不足気味の土地なので、何を持って行くべきか迷ってしまった。

 ヨーロッパやアメリカなら、食べ物の心配はまずない。しかしロシア極東の街では、食べ物がどうなることやら全く見当が付かなかった。数日前の段階から、何を持って行くかで、ひとしきりみんなで話していたのだが、こと食べ物に関しては、みそ汁のパックやら、カップラーメンを持って行くなどという話、小さな電気ポットを持って行く話など、予想される事態?に対して、どれほど準備したものか悩むのだった。

 朝8時半頃に自宅を出て、上野駅へ向かい、9:38発の新潟行き新幹線の自由席に、研究室の面々と4人で乗車。「しばらくは日本食には会えないねぇ」などと言いながら弁当を食べて寝てしまう。だがリラックスして列車の中で寝てしまえるのも今の内かもしれないとも思われた。

 モスクワなどへは成田からの飛行機路線があるが、今回の主たる目的地であるウラジオストクやハバロフスクへは、成田からの定期便はない。この極東ロシア地域へは、新潟からハバロフスクへ、アエロフロートの飛行機が飛んでいる。東京に住んでいるのに、海外に行くためにまず新幹線に乗って新潟へ行かねばならない。

 11:30頃に新潟着。所持金に多少心配があったので、銀行で少し現金を下ろし、持って行くことにした(しかし、この現金は現地では結局全く使うことはなかった。)。タクシーで空港に向かう。車中で聞いた地元のラジオでロシアの話が出てきて、やはり新潟はロシアと関係が深い場所なのかなと思う。

 12:30、新潟空港に全メンバーが集合。ここで日ソ旅行社の添乗員と会い、ビザを貰い、荷物を預ける。空港の喫茶店で昼食。13:15に再び集合した後、出国審査。待合室にて搭乗までの間時間をつぶす。

 O氏、K氏、Sさん等は、免税店で外国たばこを購入。現地の人々に対する挨拶代わりになるという。初めて外国へ行く私は知らないことだらけ。だが、外国たばこが挨拶代わりになる国というのは、旧共産圏の国か、かなり開発から取り残されている国のどちらかしかない。そういう国には私以外の面々も、あまり行ってはいなかった。

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