都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

ダンスパーティー?!

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 20:30、S氏とウラジオ調査の最後の打ち合わせ。氏は調子がやや悪かったが、今日の調査報告及び、明日12日の調査分担について話をする。屋外でやれることは大体やったので、明日は記念碑の類を分担して探して撮影することになり、私は市役所前のジェルジンスキー像(KGBの創設者)の調査担当になる。

 21:30、寮で知り合った女子大生たちの部屋へM2の4人で訪ねる。我々はウラジオを明日出発してしまうので、彼女たちと交流する機会は今晩が最後になる。前回同様、入れ替わり立ち替わり何人かが部屋にやってきて話をする。今日の日中、彼女たちは北の方の山林で紅葉狩りをしてきたのだという。松林もあるらしく、彼女たちは松の実をビニール袋にどっさり持ってきて、それを僕等にくれた。帰国後、T氏とかは酒のつまみになると言って喜んでいたが、その時は酒があるわけでもなく、私たちはその場ではたくさんは食べられなかった。

 しばらくしてまた、テープレコーダーで音楽を聴くことになる。今日は、彼女たちが日頃聴いているロシアンポップスを聴かせてもらうことにする。お気に入りの曲らしくAnzhelaなどは曲にあわせて歌い始める。その内サビの部分になると今度は彼女たちがみんな声を合わせて掛け声のような部分を唄う。更にのってきて、彼女たちは部屋の中で踊り始めてしまった。こちらがとまどっていると、彼女たちは一緒に踊ろうと言い出し、結局こちらの4人も踊ることになってしまう。寮なので狭いワンルームなのだが、その中で7~8人が踊り騒ぐ、ダンスパーティー状態になってしまった。F氏は小柄なNatashaが気に入ったようで、「Natasha Good!!」を連発していた。

 23:00頃になって、踊りにも少し疲れて、飽きてきたところで、そろそろ引き揚げかと思っていたところ、彼女たちは展望台へ夜景を見に行こうと言い出した。まあウラジオの最後の夜だから遊んでまうかということで、連れだって寮を出る。出掛けに建物の出口で、管理人のおばさんが彼女たちを呼び止めて何事か叱っているような様子だったが、ロシア語なので僕等は全く判らず、なんとなく外へ出てしまう。

 さすがに夜は寒い。出掛けたのは総勢8人だった。皆で腕を組み、適当に歌を歌いながら丘を降りて展望台へ向かった。しかし、部屋を訪れたときの歓待ぶりといい、その時の彼女たちの服装といい、どうもあまり普段通りでないような印象なのが不思議だった。旅人が旅先ではめを外すのはよくあることだが、地元の人が旅人と仲良くなろうというのは、こちらとしては楽しいことだから良いのだが・・・。数日前にも展望台には来たが、今日は時間がかなり遅かったので街の灯りも少なく、寒いばかりでやや寂しかった。他にやることもないので、仕方なくまた歌を歌いながら寮に戻る。

 寮に帰り着いたのは24:00。ようやく帰り着いたのでありがとうを言いながら別れようとしたら、彼女たちの寮の扉が開かない。僕等はこの時になって、彼女たちが門限を破って外出して閉め出しを食ったということを知ったのだった。しばらくガタガタやっているうちに私たちの方の寮の扉が開き、あなたたちはとにかく早く入りなさいと言われる。もちろん言葉は分からないが、私たちだけ建物内に押し込まれた。しかし彼女たちの方が気になるので、何とかならないかと掛け合ってみたが、「ニエット!(NO!)」の一点張りでらちがあかない。結局、彼女たちは「私達は何とかするから、あなた達は入って(たぶんそんな意味だと解釈しただけ)」と言って、立ち去ってしまった。

 24:30頃になって、仕方なく私たちも部屋に戻る。結局彼女たちのその後は確認できないまま僕等は床に着く。ウラジオ滞在最後の夜に、そんなことが起こり、そしてそのままモスクワに向かうことになり、少し複雑な思いを抱えながら就寝する。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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Burachekの丘(сопки Бурачека)

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 再びバスに乗る。夕暮れが近づいてくる。二つの丘がらくだの背のように並んでいる、私たちが「らくだ山」と呼んでいた山へ向かう。後年、調べたところ、この山は現地ではBurachekの丘(сопки Бурачека)という名で呼ばれているようだった。ただBurachekは一般名詞ではないようで訳せない。人名だろうか。

 市街を一望できる場所なので、ウラジオの人々もこの丘に登っているのではないかと思っていたが、随行の人やバスの運転手も、丘への道をあまり知らないようだった。そんなわけで若干迷いつつ、バスはとある団地の中へ入っていき、岩山の真下に辿りついた。

 18:00、らくだ山(Burachekの丘)到着。遊んでいた子供たちが皆、何事かとこちらに注目し集まってくる。団地の中にバスがやって来たと思ったら、外国人が10数人下りてきて、いきなり丘を上り始めるのだから無理もないが、好奇の目で注目を集めてしまうことが多いため、こういう時はちょっと恥ずかしい。地元の子供も後から着いて山に登ってくる。

 岩山は礫で覆われていて、滑りやすく極めて上りにくい。まともな道はもちろんなく、山道的なものやけもの道もなく、普段、頂上に人が上っている気配がない小山だった。ウラジオには鷲の巣展望台という観光地的な眺望点があるが、他にも景色のよい高みがあるのに上らないというのは、ウラジオの人は眺望にさほど関心がないのだろうか。もちろん昔は軍関係の施設があちこちの山の頂を占拠していて登れなかっただろう。確かに今でも虎丘など頂上に到達できない山は多い。高い丘から街を見ることにタブー意識があったりするのだろうか。

Burachekの丘から中心市街地(西方から北方)  Google Map  Panoramio
市街地東部方面(上のパノラマの東側方向)

 山の頂上は強い風が吹いていた。山頂には三本の木を組んだ三角形のやぐらがあり、その直下に標識が埋められている。なんらかの測量点なのだろう。

中心市街地と西方のシコタ半島方面   Panoramio

 寒いので手早くパノラマ写真を撮る。因みにこのパノラマ写真撮影法は、後に仲間内で一点クルクルと呼ばれることになった。

Burachekの丘(らくだ山)から南方向

 夕暮れが近づく。砂利で滑りやすい丘の斜面を、子供たちと一緒に尻を着きそうになりながら慌ただしく下りる。しかし、カメラを落とさないようしっかり小脇に抱えているため、手の自由が利かずバランスがとりにくく、ヨタヨタとした足取りになる。

 ロシアには白っぽいコートを着てきたが、一週間であちこちが黒ずんでしまった。Tシャツの首筋も真っ黒になった。そこら中が埃っぽいのと、排気ガスと、体を洗えていないためだ。寒いためか汗臭くはないのだが、これ以上汚れたくない。だから足下に注意しながら下る。

 18:30頃、またバスに乗る。日が暮れて暗くなったのであと一ヶ所の眺望点には行かなかったが、徒歩では行きにくい中心部周辺の場所に行くことが出来たので、個人的には満足だった。

 19:00、ウラジオストクホテルにて夕食。I氏もここで合流。昼食を街中でとって午後はさんざん街中をぶらついた模様。彼は単独行動が好きな方なのでまぁ仕方ない。ともあれ無事でよかった。20:00過ぎに寮に戻る。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#パノラマ  #眺望  #住宅系
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墓地

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 17:00、金角湾東南にある高台に行く。実はここは日本人墓地もあるところで、10人の日本人が今も眠る場所だった。駐車場のそばには、博物館の名称にもなっているアルセーニエフの墓、また少し東へ行ったところには、80年代に潜水艦事故で亡くなったソ連兵の墓や、日露戦争の仁川沖海戦の際に、大日本帝国海軍との交戦で大破した巡洋艦「ヴァリャーグ」船員の記念碑などがある。その他にも日露戦争での戦死者の墓がある。私達は自らの国でこのような墓をあまり知らない。

ウラジオ郊外の墓地   Google Map

 眺望が良いから来たつもりだったのだが、平和委員会の人々だからここを熱心に案内するのだろうか。それについてはよくわからない。しかし名もわからぬ日本人の遺体を一カ所に集めてしっかり葬っておいてくれたとは、言われているより良い人の多い国だと思う。ロシアのPRだという見方をすればまた話は別だが、とりあえずこちらで出会った人は思った以上に親切な人が多い。

 ロシアの墓の形式は特徴的で、どれにもレリーフもしくは顔写真入りの陶板が埋め込まれている。特に顔写真の方はなんだか生々しい。日本でも仏壇には遺影があるが、墓地で沢山の人の写真が並ぶ風景にはちょっと驚かされてしまう。また石碑でなく、鉄製の碑の場合がある。塗料でさび止めがされていることが多いが、中にはサビついているものもあったりする。鉄製といっても鉄板を折って作った箱状のもので、叩くとポコンポコンといって中が空洞であることが判る。こういうものが墓碑になるあたりもちょっと理解しにくい。

墓地のある丘から東方向の眺望

 寒い。添乗員のSさんと同行の留学生の女性と高みの方へ上っていく。道は最後には軍施設のゲートにぶつかってしまう。Sさんが入れるかと聞くとやはり、だめだと言われたが、逆に煙草はないかと言われる。無いというとそのまま引っ込んでしまった。煙草を持ってたら入れてくれたのかもしれない。もし本当にそうなら、結構軍の規律も乱れているようだ。墓地の中の別の小道を行くと、金角湾奥が最も良く見える開けた所に着いた。ここでO氏、F氏も加わって、写真を撮る。K氏とY君は、軍施設の鉄条網をかいくぐって中に侵入し、頂上からパシャパシャと数枚撮影してからすっ飛んで帰ってきたとのこと。撮るのは良いが捕まらないでくれよという感じだ。

Wikipedia > ヴァリャーグ(防護巡洋艦)
     > ウラディミール・アルセーニエフ
1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#眺望
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ロシア正教の教会

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 ようやくロシア正教の寺院にたどり着く。使っているようで、人影がある。

ロシア正教の寺院(聖ニコラス大聖堂)   Google Map

 屋根の上の金色の十字架が鈍い光を放っている。ロシア正教の十字架は意外に派手だ。十字が凝った作りになっていて、金色に塗られ、おまけに後光のようなものも射している。十字架が載っているドームも凄い。ネギ坊主が金色かモザイクで(ここでは銀色だった)、イスラムのモスクと見まごう。またそれも潰れていて妙な感じである。そのネギ坊主が屋根の上に沢山あってとにかく不思議な感じだ。ビザンティン様式で大ドームを中央にして、小ドームを周囲に配する集中ドーム式礼拝堂というやつなのだが、日本では多くないスタイルなので興味深い。

 ようやく比較写真の撮影地に到着かと思ったが、やや建物の形が違っていた。スケール感と背景は大体似ているが、ディテールがかなり違っており、撮影ポイントと思われる所にもうまく立てない。仕方ないのであきらめて適当に建物を写真に納めておく。

 外観を見た後、教会の内部に入る。信者が集まっており、お祈りが始まった。ロシア正教の堂内は極彩色に彩られている。キリスト像、マリア像等が病、死、その他様々な救済の様子と共に描かれている。K氏は、まるで多神教だねと言っていた。キリスト、マリア、12信徒といて、これらが個別に描かれ、それぞれを祈る姿はちょっと多神教的にも見えてしまう。カソリックのような荘厳さは感じられない代わり、やや古典的で、ともすると東洋的な神秘さ、怪しさが感じられる。ローソクが灯って独特の香のような香りが漂う。奥では多くの老婆たちが熱心に祈りを捧げている。席はなく、人々は立って礼拝している。さすがに私達も皆、黙って静かに見つめていた。

聖ニコラス大聖堂内部

 2013年になって、改めてネットで諸情報を検索して分かった教会の概要は以下。

聖ニコラス大聖堂の概要
 日露戦争の後、戦死した兵士の記憶を残すため、学校と組み合わせた教会が建設されることになり、1907年に工事が開始され、1908年には学校が開校した。しかしソビエト連邦の成立後、宗教が弾圧され、教会併設の学校や図書館は、1923年に閉鎖された。一方、教会は1927年まで運営されていたが、建物の大修理が必要だという理由で閉鎖された。
 1972年に建物は信者に返還され、76年の宗教活動再開後、再建が始められた。この再建は1991年に完了し、教会堂は大聖堂となった。97年には学校も再開されている。

Свято-Никольский кафедральный собор. / Владивосток город, Махалина улица. / Русские Церкви

 K氏は「調査予定の眺望点、全部は行けないなぁ。」とやや残念そうだったが、その一方で「ロシア正教の実際の教会の中に入るのは滅多にないからいい経験になった。」とも言っていた。同感である。教会の中の写真を撮っても良いかとアレキサンドル氏に尋ねてみた。アレキサンドル氏が近くのおばさんに尋ねてみて、ダメだという返事だったので諦めたのだが、しばらくしたら一枚だけならOKということになった。感謝して一枚だけ撮影する。

 入口の階段わきには貧しい人が座り込んでいる。外国人として、円の強さにものを言わせて彼らに多額の施しをしたものかどうか逡巡した挙げ句、結局何もせずに出てきてしまったが、アレキサンドル氏的にはこれで良いという。旅行者は現地のルールを乱すべきではないということかもしれない。しかし以後、ヨーロッパや中国等に行く度に、この問題にしばしば直面することになった。

 16:30、寺院を出る。新旧比較写真の撮影はこれでだいたい終わり。後は眺望の調査だ。眺望点に行けるのは私も嬉しい。しかしここ一日二日はウラジオも少し寒くなっており、とりわけ高いところは風が吹き抜けて寒いようだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#教会
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カトリック教会と新興住宅地

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 バスでまた少し東へ行き、山側へ入っていく。さあ今度こそはロシア正教の教会か?と思うが、見えてきたのはカトリック教会。しかし何回か写真で見たような記憶もある教会だ。

古いカトリック教会   Google Map

 レンガで出来た赤い教会。それにしてもウラジオにはレンガ建築が多い。ほとんど全てといって良い。木造の住宅は街中に老朽化したものが数軒と、郊外の農家などだけだ。やはり寒いのと火事の心配からだろう。ただ石造は多くない。レンガに比べてコストが掛かるせいかもしれない。レンガ造で、表面をモルタル、ペンキで塗り固めたものが多く、明るいパステルカラーの建物が目立つ。ヨーロッパの石造建築に比べると安っぽくてちゃちな感じも否めない。極東のヨーロッパとして美しい様式建築を並べようとしたが、力及ばずという感じかもしれない。

 教会の中には入れなかったが。シックで感じの良い建物だった。ただこの教会には十字架は取り付けられていなかった。この街というかロシアでは、旧ソビエト時代の宗教排除により、まだ多くの教会建物のクロスは取り外されたままだ。今は宗教ブームで、ロシア正教も復活し人気を集めているといい、ウラジオでも教会再興の動きがあるようだ。しかしここはまだ人影もなくひっそりしていた。

 2013年になって改めてネットで情報を検索したところ、修復されて双塔が復活した教会の写真がPanoramioに掲載されていた。また、観光案内らしきページには教会の由来や近年の経緯が書かれていた。例によってロシア語がわからんので、ネット翻訳をした。およそ分かったのは以下のこと。

 20世紀初頭、ウラジオへの移住民には多くのポーランド人がいた。このため1912年にカトリック教会の建設が始められ、1921年に東ヨーロッパのゴシックスタイルの教会堂が完成した。しかし、ソビエト連邦の成立と共にロシア正教だけでなくカトリック教会も同様に弾圧され、1935年に教会は閉鎖。その後は完全に廃墟となっていた。
 しかしペレストロイカに伴い宗教弾圧が弱まり、90年代初頭に建物はカトリックに引き渡された。1992年にアメリカから牧師が着任して教会の活動が復活、その後、アメリカのカトリック教徒の支援によりステンドグラスや双塔が復活し、オルガンも設置されたという。

 


 

 丘の上の土地は景色がよい。日本だったら人気の場所になるのだが、坂がきついのと水が不便であるという理由で、ウラジオではあまり裕福ではない階層の人々がひっそり住んでいるようだった。いつかTVで見た「黒いオルフェ」のように、貧しい人々の小屋が山の中腹に点々と並ぶ。このエリアは舗装もされていない。井戸までバケツで水を汲みに行く生活がここでは続いている。午後の日を浴びながら、老婆がゆっくりと坂を上っていく。哀しみの色彩を帯びた風景だ。

新興住宅地   Google Map
Panoramio掲載の写真:Photo of 3-я Рабочая

 バスはこの地区を更に山の方へ上る。狭い山道をガタガタと10km/h程度でようやく上りきると、次の谷へと抜ける。峠から谷間が見下ろしたとき、一瞬ロシア正教の教会が見える。しかし無情にもバスは山の裏側へ回ってしまう。後でわかったのだが、そのまま谷へ降りられないので裏へ回ったらしい。山の裏側からは沢山のアパート群が見える。生半可な数ではない、ものすごい量のアパートが建設中だった。元の山の姿がほとんどわからなくなってしまうのではないかという危惧を抱いてしまう。そしてこれも皆、RCパネルもしくはレンガ造であるから恐れ入る。こんなに一度に建設したら、また水や電気、熱供給が不足して生活に困るのではないかと心配になる。

 山を一回りして再度スヴェトランスカヤ通りに出て、とある坂道を上る。坂の入口では、花嫁が結婚式を終えて車に乗って、満面の笑顔で今まさにどこかに行かんとするところだった。問題の多い国だが、庶民の生活の端々には、幸せそうな表情も垣間見られるのだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#新しい建物 海外  #古い建物 海外  #教会  #住宅系 
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寺院と眺望点を巡るバスツアー

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 14:00~15:00、ホテルにて昼食。I氏は街中で食事をとると言ってホテルには現れなかった。このためアレキサンドル氏、大いに心配する。何しろ一人歩きはもってのほかであるとまで言うのだから・・・。

 K氏とY君も遅れる。鷲の巣山に登っていて時間が掛かったという。彼らは昨日から眺望の調査を始めていたが、眺望点への到達は意外に大変なようだった。ウラジオ市街を見下ろす高台の多くは、軍関係の施設用地で立ち入りができない。そこでその周辺で見晴らしの良いところを探して、クレームが付かないか気にしながら撮影しているそうだ。

 そのような中、昨日、二人は虎丘という丘へ登ったが、その際、ここのところの食事の加減で、二人同時に腹具合が悪くなったそうで、見晴らしのよい丘の斜面上の茂みの影で、仕方なく野グソをしたという。周囲の目が気になるので、一人は下を向いて上ってくる人に注意を払い、もう一人は頂上の施設の方に注意を払い、速攻で処理したという。嘘のようなホントの話で、状況が目に浮かぶようで一同大爆笑。

 寒さと風邪でみんなやや疲れたということで、午後はバスで少し遠いところの調査対象を巡ることにする。

 15:00、バスで出発。ホキン通りとスヴェトランスカヤ通りの間の花屋が並ぶ小道をシベリア鉄道沿いに徐行して進む。何故かと聞くと、「レストランに入っているI氏を捜している。君らも捜しなさい。」という。彼らの親切に感心すると共に、そんなに過保護にならなくてもいいのにとも思う。でもマフィアが最近出没するようになったから注意しなさいということで、仕方ないのかもとも思う。確かにだから街中では基本的に二人一組で行動しているのだ。しかしそんなに簡単に街なかでI氏を見つけられるはずもなく、結局そのままバスツアーに行くことになる。

 まず最初にロシア正教の教会に向かうことになった。この風景があるはずの場所へ行って欲しいと写真をアレキサンドル氏に見せると、わかったわかったと言いながら他の写真をめくっている。しばらくしてバスはアドミラル埠頭の東の方の路上で止まった。あれこんなところだったかな、と思っていると、「この建物は写真集のこの写真の建物です。だから撮ってきなさい。」と言う。あれ知らないなあ?、でもまあいいや。ついでだから写真を撮っておこうということで、外へ出て一枚パシャリ。全くエラク親切で、恐縮してしまう。帰国後、確認したところ、たしかにこれは写真集にあった建物で、Oschepkov Houseというものだった。

アドミラル埠頭東方の建物(Oschepkov house)  Google Map
アドミラル埠頭東方の建物(Oschepkov house)、後方左がロシア正教の教会
20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)

 改めて見ると、アールヌーヴォーの円形窓が多用された面白い建物だ。撮影時は建物の周囲が完全に藪で廃墟状態になっていて、近づくことが難しく、全景を見ることもできなかったが、Panoramio掲載の写真などで見ると、現在は周辺も整備されていて、中央部分も含めた全景が見ることができるようだ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外 
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市電(TRAM)

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 スヴェトランスカヤ通りまで出ると、市電(TRAM)の停留所があり、回数券を買って乗ることにする。10RB出すが、気を利かせてくれたのか5枚だけくれて、5RBは返してくれた。ウラジオの市電には2つのタイプの車輌が走っている。丸みを帯びて黄と茶のベースカラーに水色のラインのものと、角型で白と茶、もしくは白と赤のツートンカラーのものである。この時に乗ったのは角型で白と茶のものだった。

ウラジオ市内を走るトラム

 2輌編成の車内は日曜なので比較的空いている。柱に付けられたパンチに切符を挟み穴を開ける。単純な構造でバネによる戻りが全くない。揺れる車内で切符に穴を開け、パンチのレバーを戻して外すのは意外に大変だ。やっとの事でパンチを入れて透かしてみると、「233」と車両のNo.の形に穴が開いていた。乗ってくる地元の人はそんなことはあまりしておらず、実はこうやって使うべきかさえよくわからなかったのだが、まあ良い。

 中央広場で人が沢山降りたので椅子に座る。カーブでは何となく外側へ傾くし、結構揺れる。

トラムの車内

 ウラジオ駅前が終点。ここで下車する。集合までに時間があったので駅をホーム側から撮っておく。それから、1976年に作られた近代的建物である中央郵便局の写真も撮る。

 ところで、ハバロフスクでも市電やトロリーバスが走っていたが、どちらも女性運転手が多かった。帰国後、NHKの紀行番組で、ウラジオの女性運転手の話を取り上げていた。トロリーバスの場合、給電機のバーがカーブなどで架線から外れてしまうことがある。すると女性運転手は外へ出て、バーを再びセットしなければならない。だが、バーを架線に押しつけるためのバネの力が強いので、一端外れてしまうとこの作業にはかなりの体力が必要となる。女性には結構大変そうに見えるのだが、その点ロシアの女性はたくましく、さほど問題はないようだった。乗客は黙ってその作業を待っており、至って平静なのだが、慣れない私達はこういう光景を目にするとやや心穏やかには見ていられない。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#鉄道
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Field調査 新旧比較写真7

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 教会北側のプーシキン通りを西へ行く。

プーシキン劇場  Google Map
建設年:1908年
プーシキン劇場(ウラジオ古写真アルバムから)

 プーシキン劇場は1908年完成だそうで、1915(大正4)年12月には、日本から松井須磨子や島村抱月らの芸術座一行が渡航して、現地の俳優と合同演劇を行ったという話もある場所。

蔵書目録 - 「松井須磨子一行と露国俳優」 プーシキン座 (1915.12)

 ただ我々が訪れた頃は残念ながら使われていないようだった。また賑わいの中心も街の西の海沿いへ移動してしまっており、ただの静かな住宅街になっていた。街の東方にはサーカス場等の施設もあるが、概して静かだ。俗っぽい店が多くないと賑わいが形成しないのかもしれない。

 新旧比較写真なので、ほぼ同一の場所から写真を撮りたかったのだが、このあたりの建物は手掛かりに乏しいものも多く、同じように撮ることは短時間では難しいようだった。

フニクラの山下駅  Google Map

 劇場の近くにはケーブルカー(フニクラ)の山下駅がある。長さは150m程度らしいが、路線の下1/3ほどはレールがなく、1992年時点では修復中で休業だった。修復した後、少しは人が集まってくるようになるか知りたいところ。そしてまたいつか訪れたときに乗ってみたいものだ。後年、S氏はこれに乗ることができたという。うらやましい・・。

極東国立工科大学(旧東洋学院)の玄関部分  Google Map
建設年:1899年?

 プーシキン劇場の向かい側は、この頃は極東国立工科大学だった場所。現在は極東連邦大学に統合され、キャンパスも移転してしまったようだが、そもそも1899~1920年に東洋学院という学校があったようだ。

 劇場の近くで、ばったりアレキサンドル氏と出会う。彼の家はこの近くだそうで、昼食前にちょっと帰る途中だった。この辺に昔、学校があったという彼のアドバイスでここで1枚撮影し、また後で会うことにして別れる。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外  #街並み 海外  #新旧比較写真・海外  #鉄道 
#19世紀  #20世紀
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Field調査 新旧比較写真6

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

スターリン様式の建物  Google Map

 スヴェトランスカヤ通りを東の方まで行くと、いわゆるスターリン様式の行政関係の建物(KGB沿海州オフィス?)や、柱頭に朝日や船の飾りのある建物を見つける。しかしこれらの詳細は判らないままだった。

柱頭に朝日や船の飾りのある建物  Google Map
朝日や船の飾りがある柱頭部分

 古写真に教会が写っていたので、教会を探すが似たようなデザインのものが見つからない。最初の頃にもいちど行った軍事博物館(旧ドイツ教会・ルーテル教会)へ再度行ってみたが、残念ながら異なるようだった。

軍事歴史博物館  Google Map
建設年:1909年
旧ドイツ教会、現在(2013年)はセントポールルーテル教会

 2013年になってGoogle Map上でPanoramioの写真などを検索したら、この建物に関してもロシア語の情報を得ることができた。ロシア語はさっぱり分からないので、Google Translateで翻訳。機械翻訳の妙な日本語を読み解いておよそ以下のことが判明。20年前に不明だったことが今頃になってようやくおよそ分かったのだった。

 しかし、教会を軍事博物館にしていたというのは、なかなかスゴイ。日本でお寺がそんなことになってる話は聞いたことがない。無宗教の共産主義ならではの話なのかも。


 セントポールルーテル教会は、ドイツ人信者らの資金により地元の起業家によって建設され、1909年に完成。ウラジオストクに現存する最古の教会建築で、ロシア極東では珍しい後期ゴシック様式で建てられている。

 教会は1934年まで活動していたが、1935年に建物が海軍に移管され、軍のクラブ建築となり、1951年からは約半世紀にわたりソビエト太平洋艦隊の軍事歴史博物館となっていた。

 ソビエト崩壊後の1997年に、建物はロシア太平洋艦隊司令部からルーテル教会の人々に引き渡された。博物館は新しい場所に移動し、教会の庭にあった大砲などは取り除かれ、建物は修復作業が行われた。さらにその後、ドイツで造られた鐘が取り付けられた。

TVIL(ウラジオの宿泊予約サイト) > ウラジオの観光スポット
  > セントポールルーテル教会(Лютеранская кирха Святого Павла)(ロシア語)
Otzovik(ロシアの口コミサイト)レビュー > 旅行・観光 > ホテルやツアー > ロシア > ウラジオストク
  > セントポールルーテル教会(Лютеранская кирха Святого Павла)(ロシア語)
1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外  #街並み 海外  #オフィス  #新旧比較写真・海外 
#教会  #ミュージアム  #20世紀  #スターリン様式 
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Field調査 新旧比較写真5

1992-10-11 | ロシア  

1992.10.11(Sun) Vladivostok

 スヴェトランスカヤ通りを更に東へ歩き、元ソ連邦共産青年同盟、シュテインバフの家、元フランス領事館、国立銀行などを撮る。

元ソ連邦共産青年同盟(1909〜44)   Google Map
マウスオフ:1992
マウスオン:20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)
写真にマウスをあてがうと、古写真が表示されます。

 撮影場所はもう少し坂を下った場所だったようだ。2F分増築されて見え方が異なっていたのを現場であまり考慮に入れなかったため、パースの掛かり方がやや異なる。20世紀初頭の写真に写っている右端の建物は、現存するが、対象を重ねたらフレームアウトしてしまった。

シュテインバフの家   Google Map
マウスオフ:1992
マウスオン:20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)
建設年  :1901年

 シュテインバフの家の写真は、右端の建物も変化があまりなかったので、かなり良く一致させることができた。若干、カメラの高さが異なったようで、パースの掛かり方が異なる部分があるが、他はほぼ同一。80年前とほぼ同じ位置で撮影できるのは感慨深いものがある。

 シュテインバフの家は、軒を支える持ち送りの装飾がなくなってしまった他はほとんど変化していない。

シュテインバフの家(奥)と国際電話局(右)
マウスオフ:1992
マウスオン:20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)

 この写真も比較的良く一致させることができたが、やはりカメラの高さと位置が少し異なったようだ。20世紀初頭の写真は、三脚を用いて腰高程度の位置から撮られたらしい。位置も1992年よりもう一歩前だったらしい。写真を比較してよく見ると、そんなことも分かってくるが、それも建物が比較的良く残っているからで、日本で80年前と一致させるのは至難の業だ。

 国際電話局は昔は市庁だった建物で、1891年完成。1938年に増築されたという。確かに階高が低く装飾の少ない3Fが付き、軒が一つ上に上がっている。最初は現場でこの軒の変更に気づかず、以前通りのつもりで軒とシュテインバフの家の位置関係から撮影ポイントを探そうとしたため、大幅に位置を誤りそうになってしまった。

 
元フランス領事館   Google Map
マウスオフ:1992
マウスオン:20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)
建設年  :1909年

 撮影時には食料品店になっていた元フランス領事館だが、これも20世紀初頭とほとんど変わらない姿を見せていた。柱の頂部や窓廻りの装飾はやや劣化しているし、白黒写真と比較しても壁面が汚れているのは分かるが、全体の様子にはほとんど変化がない。

 奥に見える赤い壁の建物は上記の国際電話局。2階建ての頃には華やかな屋根だったが、3階建てに増築され装飾が失われたことが分かる。

 当時はあまり詳細な地図を持ち合わせていなかったので、この建物がどの辺にあったのかうろ覚えだったのだが、2012年になってGoogle Map上でPanoramioの写真を探し回って、当時の撮影場所がようやく判明。驚いたことにこのそばでは金角湾を横断する巨大な吊り橋が建設中だった。元フランス領事館は辛うじて残されているが、周辺の景観は激変しているらしい。20年の時間の経過はウラジオにも大きな変化を及ぼしているようだ。

国立銀行と旧スタルツェフの家   Google Map
マウスオフ:1992
マウスオン:20世紀初頭(ウラジオ古写真アルバムから)
建設年:国立銀行、1907年
   :旧スタルツェフの家(左奥)1897-99年
   :右手前側の建物、1959年

 更に東へ行くと国立銀行の建物がある。古写真を見ると両側に翼部があるものだったようにも見えるが、右側だけ改築されているところをみると、右側は別なのだろうか。

 国立銀行の建物は、玄関庇が少し変わり、ドーム屋根がややベタッとした感じになり頂部の装飾も失われているが、その他はほとんど変わっていない。最近修繕されたのか、やけにきれいだったのが印象的だ。また奥に見える旧スタルツェフの家は、西側も同じ規模に増築されている。

 国立銀行の右側の建物は後年、大幅に改築されているが、完全な新築ではないらしく、1F、2Fのアーチ型窓やバルコニーは全く変わっていない。3階以上を装飾なしで増築して、5階建てにしたもののようだ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

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コメント (1)
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