都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

寮の女子大生と交流

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

 21:00、昨日会う予定だった技術大学の女子大生たちと彼女らの部屋で話すことにした。彼女たちが寄宿しているのは私たちが泊まっていたドミトリーの隣の棟で、建物の様子はほとんど同じだった。ただ、住んでいるのでそれなりに部屋は飾られている。床には敷物が敷かれ、本棚がつけられ壁にもクロスが掛けてある。また中国か韓国の女優のポスターも貼られていた。ちょっとした植物もある。部屋を訪ねると他の部屋からも次々に集まってきて、結局この日は Inna、Olya、Lena、Anzhelaの4人と話すことになった。とりあえず日露友好!ということで記念撮影をする。

 しかし話すといっても相手はロシア人でこちらは日本人。語学留学とかではないので互いの言葉は全く判らない。そこで互いに不自由な英語を使って会話したり、ノートに絵などを描いて筆談を試みるが、いつぞやのヒアリング同様、もどかしい状況に変わりはない。それでもいろいろコミュニケーションをし、一昨日の続きで彼女たちの行動パターンや趣味などについて聞いてみた。毎日、街中で調査していたが、その際にはあまり若い人に会わなかったので、彼女たちがどういう生活をしているか興味があった。私はたまたまLenaの隣に座ったので彼女に休日はどうしてるか聞いてみた。彼女は入学前はナホトカのそばの Port Vostochny に住んでいたという。夏休みには帰るとのこと、休日はアムール湾の方へ海を見に行ったり、Океап(映画館「Ocean」)で映画を見たり、Olimpiyで水泳をしたり、はたまた水族館へ行ったりするらしい。絵と単語レベルでの会話からそういうことが辛うじてわかった。

 昔、日本人の女性と知り合ったときに、その人から音楽テープを貰って日本の曲を少し知っているということも判った。そこでそのテープを聴かせて貰う。ラジカセが出てくるかと思ったら、LL用のモノラルレコーダーだった。ウームやはり日本は家電大国なのかもしれない。学生の所持品はそういうレベルなのだ。

 曲は女性演歌(歌手不明)だった。いかんせんその知り合いというのがおばちゃんなので、ロシアの若者が知りたがっている日本文化、カルチャーとは異なってしまうようだ。日本の音楽が全てこうだと思われると困るのだが・・・。そこで、たまたま自分が聞くために持参していた山下達郎のテープを彼女たちにプレゼントする。

 彼女たちは短波放送などで、海外(西側)の歌手は意外に知っているようだった。シンニード・オコナー、ジョージ・マイケルなど、多少は英米アーティストを知ってるようだった。しかし街中ではこれらのレコードはまず無い。ましてやCDなど全くない。Beatles等はあるようだが・・・。そこらへん相当時代のズレがある。

 驚いたことに彼女たちはケーキを焼いて待っていてくれた。欧米では普通なのかもしれないが、私たちはこのような体験があまりなかったので一同喜んだ。しかしおかげで今日は午後からケーキ漬けだ。今回のケーキはパウンドケーキのようなもので、クリーム状のチョコレートをつけて食べるものだった。チャイなどの飲み物がなかったので多くは食べられない。残すのも悪いので、ある程度食べてから後は包んでもらって持ち帰ることにする。

 24:00頃になってようやく自室に戻る。なんだかんだいって今日も一日フル稼働だった。24:50、日記を簡単に書いてようやく就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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平和委員会(フォンド・ミーラ)訪問

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

 15:00 平和委員会に到着。ところでこの日、G先生とA氏は日本へ帰国するためにウラジオを離れ、ハバロフスクへ向かうことになっていた。そこで二人のお別れ会も含めて、招聘元の平和委員会で午後の小パーティーが催された。実は昨日の宴会も、合わせ技とはいえ、お別れ会の一環だったらしい。
 また彼らは、日露友好交流の名の下、平和委員会(平和基金=フォンド・ミーラ)の活動を知って貰うために私達をオフィスに招いたのだった。そしてこれはVisaの発行時に決められていた受け入れ先及び渡航目的を満たす為でもあった。

 到着後、しばし基金側の挨拶があり、会の趣旨を伺い、G先生も挨拶をする。その後、ティータイムとなったが、大きなケーキが二つも出され、添乗員以外は男ばかりだった我々はやや閉口することとなった。チョコレート系のケーキは最初はおいしいが、いかんせん甘過ぎ、またかなりぼそぼそしていてたくさんは食べられない。しかしチャイやコーヒーはおいしい。ロシアではコーヒーは一般的ではなく、どこでも飲めるわけではない。この日の午後はお茶をして久々にくつろぐことができた。併せて出されたVodkaを勧められるままに呑んだF氏はまたしても酔眼になり、ウトウトして赤鬼化する。

平和委員会にて

 別の部屋には壁一面に大小の絵が掛けられていた。基金捻出のため絵を売っているとのことだった。しかし私たちの小遣いでは足りないので、購入はせず拝見だけに留める。また絵画の海外への持ち出しは空港の税関で厳しくチェックされ、なかなか面倒だという。だいいち大きな絵を持つとかなりかさばりそうだ。

 18:00に帰寮、即夕食をとる。
 18:30 また寮を出て駅へ向かい、G先生とA氏を見送り。日本とは違って車内検札しかないので、構内には自由に入れる。そこで列車の発車間際までホームで時間をつぶす。列車が去った後、少し駅周辺を散策。日本のように売店があったりするわけではないので、することはあまりない。
 19:15に再集合、19:45に帰寮。その後はFree Timeになる。日本宛てに絵葉書を書く。

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中央広場 ~ 昼食

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

中央広場とスヴェトランスカヤ通り(ул. Светланская)
中央広場・銅像脇で演奏するバンド

 中央広場の方は先程の公園に比べればまだ人が多い。今日も天気が良く空は澄んで青い。真ん中の銅像の足下では数人の男たちがギターを抱えてフォークロックのようなものをやっていた。相変わらずここでも音はさえない。またそれほど人だかりができるような状況でもない。やはりそれほど人が多くないためだろうか?。後年、中国で、ちょっとした喧嘩でもたちまち人垣ができるのを見た。それに比べるとやはり人の絶対的な量が少ないと感じる。

 13:30 全員集合。送迎のバスで寮に戻る。

 14:00 寮に戻って昼食。本日はボルシチ。トマトベースの野菜シチューで。ややぬるかったがこれはなかなかおいしかった。ただ、日本で出されているものの方がたぶんずっと美味しい。

 14:40 またまた寮を出発して、今度は平和委員会へ向かう。相変わらず忙しいスケジュールだ。

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#広場  #高層ビル
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Field 調査 西通り

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

 コマロワ(Комарова)通りを戻り、海岸沿いの西通りの方へ行くことにする。

高圧線鉄塔の下は歩道

 10/6の記事にも記したが、コマロワ通りには歩道の上空に高圧線が通っている。歩道を跨ぐように鉄塔が立っていて、歩行者は鉄塔の直下をくぐり抜けていく。日本ではこのような場所の周りにはフェンスが張ってあるが、そんなことはない。

カササギ

 カササギが歩道上をピョンピョン跳ねていた。かなり近寄っても逃げないので写真を一枚撮っておく。I氏はロシアンガラスと呼んでいたが、確かにカラス系の鳥で、頭が良く人なつこい。カラスのように真っ黒ではなく、背中の一部が青く腹も白いせいか愛嬌があるように感じられる。

海洋水族館(Океанариум)

 アムール湾に面した公園まで行く。海の近くには水族館がある。円筒形の棟が二つ付いた近代的デザインの建物だ。公園には写真屋が出ていた。熊のミーシャ(モスクワオリンピックのマスコット)の絵があってその脇で一緒に写すのだが、平日の昼には誰も客がいない。遠くにはヨットハーバーも見える。公園にはなんだか馬鹿でかい鉄製のゴミ箱が二つ並んでいた。機械を使って回収しているんだろうか?。
 13時を過ぎたので中央広場に戻ることにする。

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#道 
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市立病院で休憩

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

市立病院  Google Map
建設年:1899年
構造・階数:煉瓦・2F

 ある程度北まで行ったところで建物調査が終了したので、コマロワ通り(Комарова)を東へ向かい、アレウツスカヤ通り(Алеутская・Aleutskaya)まで行く。アレウツスカヤ通りとの交差点のそばには市立病院がある。敷地が割合広く、静かそうだったので、交差点に面した門からちょっと入って中庭で休む。陽当たりの良い前庭はぽかぽかと暖かく、花壇には色とりどりの花が咲き、ベンチに座っているとホッとする。

市立病院内の花壇

 外国ではフィールド調査中に用を足したくなると問題が多い。必ずしも公共のトイレが近くにあるとは限らないからだ。立ち小便は目立つと問題も多いし注意を要する。今回は病院にちょうど立ち寄ったので、緊急事態にならないようちょっとトイレも拝借する。1899年に建設された煉瓦造建築なので、内部もかなり古い感じだったが、さすがに病院だけあって既に暖房が入っており、建物内は暖かかった。スチーム暖房なのか、加湿もしっかりしてあるのでムワァーツと暖かい。トイレ内も暖かくてこれまたホッとする。

 交差点のそばにはバス停があり、その近くの歩道上にはキオスクがあった。疲れていたのと喉が多少痛かったのでジュースを買って飲む。ブドウを売ってるおばさんもいたが、沢山のハエが楽しそうにあたりを飛んでいたので、そちらは買うのを控える。

 ジュースはビン入りなので王冠を取らねばならないが、栓抜きなどは貸してくれない。途方に暮れていると、おばさんは2本のビンの頭同士を擦って、いとも簡単にフタを開けてしまった。なぜそんなに緩いのかいきなり不安になる。一方、同行のO氏は意地でもおばちゃんには開けて貰おうとせず、その辺のフェンスなどに引っかけて苦労してようやく開けていた。コツを知っていないとやはり簡単には開かないらしい。

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#病院 
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シベリア鉄道踏切

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

シベリア鉄道踏切  Google Map

 しばらく行くとシベリア鉄道の踏切がある。市中の丘の部分では、鉄道はトンネルで丘の下をくぐって駅につながっており、道路とは立体交差になっている。しかし丘の西側では鉄道がグリッド状の道路網を横切っている。世界的に有名なシベリア鉄道だが、街中の踏切でさえ、遮断機や警報器はない。だから人は左右を見てのんびりと渡っていく。またここの踏切では自動車は通行できない。そのため袋小路状になった両側の道端には沢山の車が路上駐車している。

シベリア鉄道

 しばらく待っていると長い貨車列を引いた2連のディーゼル機関車がやってきた。線路は複線で、自動車同様、右側通行。線路脇で見ていると、広軌なので日本のよりも車輌が一回り大きい。また社会主義だからか何かは知らないが、ごっつくて重量感があり迫力がある。後年知ったことだが、ロシアでは中国とは異なりあまり蒸気機関車は走ってないようだ。写真の貨物列車は電気機関車ではなかったが、シベリア鉄道はウラジオなど大都市近郊区間では電化されており、通勤電車も走っているそうだ。

 帰国してから撮った写真をよくよく見ると、機関車のフロントガラスには花柄のカーテンが日除けのためにつけられていることが判った。どうでも良いことだが、なんだか奇妙な取り合わせで可愛い。

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#鉄道
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Field 調査 ポグラニーチナヤ通り2

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

無線塔のある事務所

 フォキン通り(Фокина)との交差点に出ると、大きな無線アンテナを備えた事務所が目に入る。ポグラニーチナヤ通り(Пограничная 国境通り)は街の西北はずれの通りのため、建物の規模がやや小さく2階建てが多い。中心部のスヴェトランスカヤ通りの建物は、概して4F以上で華やかなファサードを持っているが、山側の通りの街並みは地味で、また中心部のように建物が連続していない。数街区離れているだけだが、人通りも少なくなる。

 窓がなかったり屋根のない建物があった。どうやら廃墟のようだ。日本では壁だけになったこのような「建物」にはほとんどお目に掛からない。壁さえ残っていれば、窓を入れて屋根を掛ければまた普通に使えるので、石造りの西洋では廃墟になってもすぐには更地にしないようだ。

レーニン記念スタジアム(ディナモ Стадион Динамо)  Google Map

 交差点の少し先の西側にはディナモと呼ばれるレーニン記念スタジアムがある。三連アーチのあるシンメトリーな入口はなかなか印象的だ。門の右手から場内に入ってみる。特にチェックもなくグラウンドまで入れてしまった。

レーニン記念スタジアム(西側から)
Photo 1992.10.10

 昼頃にもなり、暖かくて気持ちよい。芝生の上でしばらくくつろぐ。アンツーカーのトラック、芝生のグラウンド、大きなスタンド、電光掲示板、なかなか立派なスタジアムだ。思わずのんびりしてしまったが、あまり目立ってもなんなので外へ出る。

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#街並み 海外  #野外劇場・スタジアム 
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日本車

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

 ウラジオで街を歩いていて痛感するのは、ハバロフスクに比べてとにかく車が多いことだ。中でも日本の中古車が多い。セダンなどの乗用車の7割ぐらいは日本車だ。在来のロシア製自動車もまだ多いが、港町のせいかハバロフスクよりも外国車が一気に増えているようだ。ロシアは右側走行なので基本的に左ハンドルだが、ウラジオでは右ハンドルの日本車がたくさん走っている。そういえば通訳をしてくれているイーゴリさんも、貯金して Civicを買いたいと言っていた。ソビエト崩壊、資本主義化はこのような形で欲望を生み出し始めているとも言えよう。

Mazda ファミリア(赤)、Honda インテグラ(銀色)
Moskvich 2125(水色・1973~97まで製造されていたという)
オケアンスキー通りにて  Photo 1992.10.6

 この中古車、ほとんどは日本の東北または北海道から、寒冷地仕様のものが船で運ばれているらしい(92年当時)。日本国内で廃車になったものを3~5万程度で船員が買い、甲板からはみ出すように車を載せて、手回り荷物として持ち込むのだそうだ。今日、歩いていた道の途中の広場には中古車市場があり、沢山の人々が交渉をしていた。

 おもしろいのは、日本で商業用に使われていたバン・ワンボックスカー・トラックなどが、車体に当時の店の名などを付けたまま自家用で走り回っている点だ。彼らは日本語の広告の意味などまるで気にしてないか、判ってないかのようだ。だから○○花店とか、○○クリーニングなんていう車を彼らは使っている。お金のせいかどうかは知らないが、塗装をしなおしたりしていない。ガラスが割れたまま走っている車もときどき見かける。窓枠にビニールシートをガムテープで貼り、その一部に穴を開けて外を見ていたりするのだ。一応ロシアは先進国のはずだが、そのへんは発展途上国並みの光景だ。

TOYOTA タウンエース カタカナのロゴが見える。
オケアンスキー通りにて  Photo 1992.10.6

 日本で廃車といえば使い物にならない車だが、こちらでこれら「廃車」の評判はすこぶる良い。エンストしたりバッテリーが上がったり故障したりがほとんどなく、メンテナンスフリーに近く壊れないとかで、かなり好評なのだという。ロシアのガソリンは質が良くないので日本並みというわけにはいかないが、それなりに燃費も良い。それから馬力がある。ウラジオみたいに坂が多い街ではこれは助かる。エアコンその他の設備が良い。私たちも何度かセダンに乗る機会があったが、確かに古くても日本車の方が良い。走行性能が良いので安心して乗れる。日本ではあまり考えられないことだが、メーター(速度計)が全く動かないなんて事はこちらではざらなのだ。ただ先程のような持ち込み方が主なので、トラックやバスなどの大型車は相変わらず国産だ。こちらは黒い煙をもうもうと吐いて頑張っているが、いかんせん性能が悪く遅く、街中での渋滞と大気汚染の元凶となっている。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#階段・坂 海外  #自動車
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Field 調査 ポグラニーチナヤ通り1

1992-10-09 | ロシア  

1992.10.9(Fri) Vladivostok

 08:40、起床。09:00に朝食。次第に皆、無口になる。毎日、朝から晩まであちこち動いているとさすがに疲れがたまってくる。夜ゆっくり休めないと翌朝にまで疲れが残ってしまい、目覚めは良くない。

 09:45、集合。10:00、Field調査に出発。15分後にバスを降り、ポグラニーチナヤ通り(Пограничная Pogranichnaya St. 国境通り)の調査を始める。O氏の風邪が相当ひどく、声を出したくない状況のようだったので、調査はのんびりやることにする。私はちょっと熱っぽく妙な気分だがさほど不調ではない。

スヴェトランスカヤ通りとの交差点・南西側の建物  Google Map

 手始めにスヴェトランスカヤ通りとの交差点の写真を撮る。天気が良くコントラストが強い。しかし東南向きは逆光になりやや撮影が難しい。

改修中のヴェルサイユホテル
1912年建設、1993年改築
スヴェトランスカヤ通りとの交差点・東南側  

 角に立つ建物は改築工事中だった。後年、S氏が再訪した折、ヴェルサイユホテルとしてリニューアルされたことが判った。

ヴェルサイユホテル・改修工事現場

 改築中のこの建物の外壁には足場が組んであったが、それは日本とはかなり様子が異なっていた。基本構造は鉄パイプとジョイントで、その組み方は昔の日本で見られた木の足場と、素材こそ異なるが似ている。ただ、現在の日本の鉄パイプ足場はユニット状の組立式が多い。最大の違いは、そこに竹を編んでカゴ状の通路を造っていることだ。日本はビニールシートで覆ってしまうことが多いが、こちらでは建物は竹の網で覆われている。このやり方は中国とか香港のビル建築の方法と似ている。当時は行ったことがなかったので正確にわからなかったが、後年中国に行ってやっぱりと思った。現場で働く作業員は中国系の人々らしい。この工法はどうもそこら辺から来ているようだ。

スヴェトランスカヤ通りとの交差点・北東側
第3番の住居

 街中の南北方向の道はほとんどが北側の山へ向かって上っている。しかしこのポグラニーチナヤ通りは街の西側にある通りで、丘の西側であるため、北へ行くにつれ下っている。地形とは関係なくグリッド状に道路網を計画したため、平行する道路がねじれるような状況が生じている。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外  #街並み 海外 
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