Various Topics 2

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ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-4

2024年05月11日 | 人物

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-3 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介したウッドストック。

ウッドストック・フェスティバル - Wikipedia

 

ウッドストックと言えば、ボブ・ディラン。

ボブ・ディラン - Wikipedia

1941年5月24日、ミネソタ州ダルースに生まれる[18][19][20][21]。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(中略)ジスルはイスラエルの愛称。祖父母はロシア帝国のオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマン(1911 - 1968)と母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)(1915 - 2000)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。

(中略)


1961年冬、ミネソタ大学を中退してニューヨークに移住したディランは、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りを始めたが、やがてハリー・ベラフォンテのバンドで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや[51]、ニューヨーク・タイムズ紙で好意的に論評されたことを契機に、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され[54][53]、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかし同年の成績は5,000枚程にとどまり、これはコロムビアの期待していた売上の3分の1に過ぎなかった。

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの自作曲を書いた。

(中略)

アルバート・グロスマンがマネージャーに就任すると、幅広い活動が可能になり、他のアーティストへの楽曲提供が発案された。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。

(中略)

1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演し[70]、ロンドンのクラブで演奏した。

(中略)

この頃から、ディランの楽曲をカバーするアーティストが増加した。

(中略)

1964年頃から大麻などの薬物の影響が、コンサートやレコーディングでも見られ始めた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期である。ただしビートルズのメンバーはハンブルク滞在中から薬物[76]、セックス、ロックンロールを享受しており、ディランがビートルズに薬物を教えたというのは誤りである。中期以降のビートルズは薬物体験を題材にしたサイケデリックな曲を多く残したが、特に1960年代半ばのジョン・レノンはディランに傾倒し、作風から精神性などの面でディランに触発された。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。

(中略)

このような非難にもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を多く獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きな転換点として位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。

(中略)

こうして最初の絶頂期を迎えていた[79]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[80]交通事故を起こす[81]。重傷が報じられ[82][注釈 32]、すべてのスケジュールをキャンセルして[83]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[84]。しかし当時、ドラッグ[85]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[81]ディランにとってはかえってよい休養となった[86][83]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[81]の大きな転機である[86][85]。

翌1967年からはウッドストックに隠遁し、ザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。

 

1967年といえば、ビートルズを作り上げたブライアン・エプスティーン(エプスタイン)が薬物の過剰摂取で死亡した年でした。。

ブライアン・エプスタイン - Wikipedia

抜粋:

ブライアン・サミュエル・エプスタイン(Brian Samuel Epstein, 1934年9月19日 - 1967年8月27日)は、イギリスの実業家。

1962年6月26日、ビートルズをマネージメントする為の会社「NEMSエンタープライズ」を弟クライブを共同経営者に迎えて設立する。ビートルズのマネージャーとして最もよく知られ、彼らからはエピーという愛称で呼ばれていた。なお、彼自身は自分の苗字を常にエプスティーン(Epsteen)と発音した。

家族と生い立ち
父方の祖父アイザック・エプスタイン(1877〜1955)は、リトアニアからイギリスに移住したユダヤ人(ユダヤ系リトアニア人)。

 

オマケ:

なお、英語版Wikipediaには、

Brian Epstein - Wikipedia

In 1964, after having been introduced to cannabis by Bob Dylan in New York, Epstein was observed by McCartney standing in front of a mirror, pointing at himself and repeatedly saying "Jew!", while laughing loudly, which McCartney found hilarious and "very liberating".

(1964年、ニューヨークでボブ・ディランから大麻を紹介された後、エプスタインは鏡の前に立って自分を指差し、大声で笑いながら「ユダヤ人!」と繰り返し言うのをマッカートニーに目撃され、マッカートニーはそれが面白くて「とても面白かった」と感じたという。 [161] エプスタインはその後、1960年代の麻薬業界に深く関与するようになった。)

なぜポールは面白がったのでしょうか?

案外、「Hey Jude」の「Jude(ユダの意味あり)」は、ジョンの息子ジュリアンにむけたものでなく、エプスティーン(エプスタイン)に向けたもの?

ヘイ・ジュード - Wikipedia

The Beatles - Hey Jude - YouTube

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