Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-2

2024年05月10日 | 人物

Nutopiaの英語版wikipediaには、

The Nutopian Embassy was originally located at 1 White Street in the Tribeca neighborhood of Manhattan  which was the apartment address for some their friends and staff (Ken Dewey, Jon Hendricks, Patty Oldenburg and Helen Seaman) 」
(ヌートピア大使館はもともとマンハッタンのトライベッカ地区のホワイトストリート1番地にあり、そこは彼らの友人やスタッフ(ケン・デューイ、ジョン・ヘンドリックス、パティ・オルデンバーグ、ヘレン・シーマン)のアパートの住所)

と書いてあります。

この4名について調べてみると、ヘレン・シーマン以外は、アーティストのようです。

 

Ken Dewey - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ケネス・ソーヤー・グッドマン・デューイ (1934 年 - 1972 年) は、アメリカのパフォーマンス アーティスト、劇作家、演出家であり、1960 年代から 1970 年代初頭にかけて、アメリカおよびヨーロッパ全土でハプニング やアクション シアターの運動に積極的に参加しました。

(中略)

1966年、デューイはニューヨーク州芸術評議会の職員となった[7]。 NYSCA 在職中は、プログラム開発ディレクターおよび研究ディレクターを歴任しました。 1970年、彼はネルソン・ロックフェラー知事によって、文化施設の現在および長期的な財政需要を研究するためにロックフェラーによって設立された臨時州委員会であるニューヨーク州文化資源委員会の委員に任命された。 同年、彼は民主主義における芸術の役割に関するNYSCAの一部資金提供による1年間の研究プロジェクトであるPlanning Corporation of the Artsのディレクターも務めた。 デューイは1972年に飛行機事故で亡くなった。

 

ジョン・ヘンドリックスは黒人のジャズシンガー。

Jon Hendricks - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ジョン・カール・ヘンドリックス(John Carl Hendricks、1921年9月16日 - 2017年11月22日)は、専門的にはジョン・ヘンドリックスとして知られ、アメリカのジャズ作詞家および歌手でした。 彼は、デューク・エリントンやカウント・ベイシーのビッグバンドアレンジなど、既存のインストゥルメンタル曲に歌詞を追加したり、多くの楽器をボーカリストに置き換えたりするボーカレーズの創始者の一人です。


パティ・オーデンバーグ(Paty Mucha)の情報は少ししかありませんが、彼女の元夫がこちら。

クレス・オルデンバーグ - Wikipedia

抜粋:

クレス・オルデンバーグ(Claes Oldenburg, 1929年1月28日 - 2022年7月18日[1])は、スウェーデン生まれのアメリカ合衆国の彫刻家。

日常のありふれた物を超巨大に複製したパブリックアート・インスタレーションで知られる。他にも、日常の同様のソフト・スカルプチュアを制作している。ソフト・スカルプチェアは草間彌生の作品からアイデアを得たと言われている。

経歴

ウェーデンの外交官の子としてストックホルムに生まれる。1936年、子供の時、家族とともにアメリカ合衆国に移住し、最初はニューヨーク、その後シカゴに住む。ラテン・スクール・オブ・シカゴ(英語版)を卒業後、1946年から1950年にかけてイェール大学で学んだ。卒業後シカゴに戻りシカゴ美術館附属美術大学でポール・ウィーガルト(英語版)に師事し、1954年まで学ぶ。

就学中は技術を磨きながら、シカゴ市報道局(英語版)で記者として働きつつ、自身のスタジオを開所。1953年にはアメリカ合衆国に帰化する。

オルデンバーグの美術作品が最初に売れたのはシカゴのアートフェア「57th Street Art Fair(英語版)」であった。値段は5品で25ドルだった[2]。

1956年、ニューヨークに戻り、そこでジム・ダイン、レッド・グルームス(英語版)、アラン・カプローら多くの芸術家たちと知り合う。彼らの「ハプニング」は演劇的な面を取り入れて、美術界で優勢を誇っていた抽象表現主義に新たな選択肢を提供した。

Claes Oldenburg - Wikipedia

 

ヘレン・シーマンはおそらくレノンが殺害されるときに一緒にいたベビーシッター。

ジョン・レノンの殺害 - Wikipedia

抜粋:

チャップマンは、同日の午前中からダコタ・ハウスの外でレノンを待ち構えており、午後にはベビーシッターのヘレン・シーマン(Helen Seaman)と共に帰宅したレノンの息子のショーン(当時5歳)にも遭遇している。

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ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-1

2024年05月10日 | 人物

本日、ジョン・レノンとメイ・パンの『失われた週末』という(ドキュメンタリー)映画が公開されています。

映画『ジョン・レノン 失われた週末』公式サイト (mimosafilms.com)

ジョン・レノンとうまくいっていなかったオノ・ヨーコが彼に秘書をガールフレンドに擦ろことを提案した1973年からの18か月。

この映画では描かれていないと思いますが、その時ジョンとヨウコは「仮想国家ヌートピア誕生」。

 

Nutopia - Wikipedia

抜粋google翻訳:

 1973年4月2日、ジョン・レノンとオノはニューヨーク市での記者会見でヌートピアという概念的な国を紹介した。 レノンとオノは米国大使であると宣言し、ジョンとオノが米国に留まろうとしている現在進行中の移民問題を終わらせるために外交特権を求めた。 (オノは、前の夫であるトニー・コックスを通じてすでに永住外国人の「グリーンカード」を取得していた。レノンは永住権を拒否されていた。)レノンは、彼の曲「イマジン」と「マインド・ゲームズ」の理想を実現する架空の国について語った。 前日に署名した「公式」宣言でこう述べている。

「概念的国家「NUTOPIA」の誕生を発表します。 この国の市民権は、NUTOPIA への認識を宣言することで取得できます。 NUTOPIA には土地も境界線もパスポートもなく、あるのは人間だけです。 NUTOPIA には宇宙の法則以外の法則はありません。 NUTOPIAの人々は皆、この国の大使です。 NUTOPIAの2人の大使として、私たちは外交特権と、我が国とその国民の国連での承認を求めます。」

ヌートピア大使館はもともとマンハッタンのトライベッカ地区のホワイトストリート1番地にあり、そこは彼らの友人やスタッフ(ケン・デューイ、ジョン・ヘンドリックス、パティ・オルデンバーグ、ヘレン・シーマン)のアパートの住所であり、ジョンとヨーコのための全国委員会の本部で、彼らの移民訴訟を支援するために設立されました。レノンはすぐにこの大使館をダコタのアパートに移転し、キッチンの裏口に「NUTOPIAN EMBASSY」と刻まれた金色のプレートを貼り付けた。

(中略)

  ジョン・レノンのアルバム『マインド・ゲーム』(1973年)には、4秒間の沈黙からなる「ヌートピアン・インターナショナル賛歌」が収録されている[13]。 ヌートピアの手描きの大璽には、鼻の上で陰陽の球体とバランスをとっているアザラシの絵が描かれている [14] [15] 。

 

ヨーコの家系は「安田財閥」であることばかり注目され、父方の家系の方はあまりスポットをあびないようですが、初代国連大使もいます。

スイスのInstitute Le Rosey-3(オノ・ヨーコの家系・米国のフィリップス・アカデミー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

こちらはメイ・パンの日本語版Wikipediaより。

メイ・パン - Wikipedia

抜粋: 

レノンはパンと18か月の愛人関係にあった期間を、後に同タイトルの映画・小説から「失われた週末」と呼んだ[6]。

1973年半ば、パンはレノンのアルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングに取り組んでいた。当時レノンとオノは夫婦間の問題を抱えており、別居することにした。そしてオノはパンにレノンの同居人になる(交際する)よう提案した。

(中略)

メイとの交際を促されたジョンも戸惑っていたが、最終的にはメイを追いかけることになる。1973年10月、レノンとパンは『マインド・ゲームス』のプロモートのためニューヨークを離れてロサンゼルスに向かい、友人宅にしばらく滞在した[2]。

(中略)

1974年6月、レノンとパンはマンハッタンに戻った。レノンは飲酒をやめ、レコーディングに集中した[14]。レノンは以前リバプールのミミ伯母(英語版)の家に住んでいた時、猫を飼っていた。彼とパンはメジャーとマイナーと名付けた2匹の猫を飼った[15][16]。同年初夏、2人は東52番街434のペントハウスアパートメントに移り、レノンはアルバム『心の壁、愛の橋』に取り組んだ。

8月23日、レノンとパンは、クイーンズのパノラマビューを望むテラスからUFOを見たと語った。デッキに辿り着くため、2人は台所の窓から登らなければならなかった[17]。その夜、裸のレノンが興奮してパンを呼び寄せ、外のデッキで合流した。2人は共に100フィート以内の距離に静かに浮かぶ円形の物体を見た[15]。レノンは、彼の「公認の」写真家であるボブ・グルーエン(英語版)に電話し、起こっている事を話した。

グルーエンは警察を呼ぶべきだと提案したが、レノンは笑い飛ばし、新聞を呼んで「私はジョン・レノンです。昨夜空飛ぶ円盤を見ました」と言うつもりは無いと言った。グルーエンは地元の警察署に電話し、他に3人の目撃証言があることを確認した。デイリーニューズはレノンとパンが住むニューヨークの同じ地域で5人の目撃証言がある事を報じた[15]。

(中略)

ニューヨーク州モントーク(英語版)のアンディ・ウォーホルの屋敷にミック・ジャガーを訪ねた時、レノンとパンはモントーク・ポイント灯台(英語版)の近くで売りに出されているスコットランド風のコテージを見かけた。1975年2月、レノンは不動産ブローカーに買い取りを依頼した。同月、レノンとパンは、ウイングスがアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』をレコーディングしているニューオーリンズにポールとリンダ・マッカートニーを訪問する計画を立てていたが、オノがレノンの喫煙習慣に対する新しい治療法があると言った後、訪問予定の前日にレノンはオノに従った。

会合の後、レノンは家に帰ることもパンに電話することもできなかった。パンが翌日電話をかけた時、オノはレノンは催眠療法の施術後で疲れ果てているので面会はできないと言った。2日後、レノンは共通の歯科予約で姿を見せた。パンがレノンは洗脳されたに違いないと思う程、彼はぼうっとして混乱していた。レノンはパンにオノと和解したので、2人の関係は終りだと語った。その後の数年間、パンは内密にレノンと数回会ったが、彼らの関係が再燃する事は無かった。

 

参考:

Yin and yang - Wikipedia


仮置き:

MKウルトラ計画 - Wikipedia

永遠なる愛の共同体 - Wikipedia

カウンターカルチャー - Wikipedia

ティモシー・リアリー - Wikipedia

ジェフリー・エプスタインと伊藤穣一氏-ティモシー・リアリーネットワーク - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

映画『17歳の肖像』の原作とユダヤ系ギャング-3(ハワード・マークスと『Mr.Nice』) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

漂泊者ポランスキーの「呪われた映画」『ローズマリーの赤ちゃん』|洋画専門チャンネル ザ・シネマ (thecinema.jp)

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