リーフレットには、「日本唯一、自走可能な復元北前船」と、載っていた。スタッフは、ボランティアであるとは、片表・・副航海長の弁である。
二航海もすれば、船主が潤うだけでは無しに、船頭の家も蔵が建つと言われていた、日本海航路の北前船である。明治の中頃から、次第に汽船に地位を奪われたが、徳川時代の物流の大動脈でもあった。そして、徳川時代の終わり頃の19世紀初頭に、北太平洋の千島航路を高田屋嘉兵衛が開いたが、どちらの航路も、今で言う「ハイリスク、ハイリターン」と、「男のロマン」の世界でもあったのだろう。
その航海は、過酷なものであった想像に難くは無いが、それでも、何やらときめくのだ、、、
この後、みちのく丸は、小樽から一路南下して鳥取の境港に今月の末に到着予定であり、その後は北前船所縁の地に寄港しながら北上する回航となると、リーフレットにあった。
片表(かたおもて)に、北上する1スパンでも同乗することは可能か尋ねてみたが、適わなかった。残念!
船内見学のため待ち時間が、一時間半もあったが、ピーカーのお天気でも無くそれなりの風が吹いていたので、逆にのんびりと出来たのかも知れない。ただ、係留されていた「築港臨海公園」で、「潮の香」がしなかったのが??ではある、、、
追記
自走とは、帆走の意である。友人から、確認するメールがあったので、、、
二航海もすれば、船主が潤うだけでは無しに、船頭の家も蔵が建つと言われていた、日本海航路の北前船である。明治の中頃から、次第に汽船に地位を奪われたが、徳川時代の物流の大動脈でもあった。そして、徳川時代の終わり頃の19世紀初頭に、北太平洋の千島航路を高田屋嘉兵衛が開いたが、どちらの航路も、今で言う「ハイリスク、ハイリターン」と、「男のロマン」の世界でもあったのだろう。
その航海は、過酷なものであった想像に難くは無いが、それでも、何やらときめくのだ、、、
この後、みちのく丸は、小樽から一路南下して鳥取の境港に今月の末に到着予定であり、その後は北前船所縁の地に寄港しながら北上する回航となると、リーフレットにあった。
片表(かたおもて)に、北上する1スパンでも同乗することは可能か尋ねてみたが、適わなかった。残念!
船内見学のため待ち時間が、一時間半もあったが、ピーカーのお天気でも無くそれなりの風が吹いていたので、逆にのんびりと出来たのかも知れない。ただ、係留されていた「築港臨海公園」で、「潮の香」がしなかったのが??ではある、、、
追記
自走とは、帆走の意である。友人から、確認するメールがあったので、、、